第三十二話:聖女の嫉妬と黒い噂
甘く香ばしい匂いがオーブンから漂い始める頃には、『銀のしっぽ亭』の前にはいつものように人だかりができている。
その光景は、開店からひと月以上が過ぎた今、すっかりフローリアの日常に溶け込んでいた。
まるで丁寧に温度管理されたサブレ生地のように、焦げることもなく、ただひたすらに幸福な香りを放ちながら、穏やかな日々は続いていく。
「いらっしゃいませ! パティスリー『銀のしっぽ亭』へ、ようこそ!」
扉を開けると同時に飛び込んできたのは、やはり赤毛の冒険者さんたちだった。
「店主、おはようさん! 今日も『天使のくちどけ』を頼む! こいつがないと、どうにも力が出ねえ身体になっちまった」
「全くだ。もはや俺たちの回復薬だな」
狐目の男性が珍しく冗談めかして言うと、周りの客たちからどっと笑いが起きた。私の作るお菓子が、この町の活気の源になっている。その事実が、どんな高級な砂糖よりも甘く、私の心をじんわりと満たしていくのだ。
究極のスポンジケーキ、『天使のくちどけ』。その評判は衰えることを知らず、今ではフローリアの冒険者たちの間で「聖女様の奇跡より、このケーキ一切れの方がよっぽど幸せになれる」と囁かれるほどだった。
その言葉は冗談めかしていたけれど、どこか真実味を帯びていた。
シュシュは心得たように客の足元で尻尾を振り、ビスキュは私の指示を待つまでもなく包装の準備を始める。信頼できる家族に支えられ、店の経営は軌道に乗り、貯金袋はずっしりとした重みを増していた。この温かくて甘い日常が、遠い都から吹きつけてくる、冷たくて意地の悪い風によって、少しだけ揺さぶられることになるとは、まだ知らずに。
◇
その穏やかな日々が、ぴしり、と音を立ててひび割れたのは、それから数週間後の、よく晴れた昼下がりのことだった。
店の扉についたベルが、ちりん、と、今まで聞いたことがないくらい、けたたましい音を立てて鳴り響いた。まるで何かに追われるように、一人の男性が、店の中へと転がり込んできたのだ。
「はあ、はあ……! て、店主! いたか!」
息を切らし、旅の埃にまみれていたのは、あの、行商人の男性だった。彼の顔は、前回会った時の、あの自信と興奮に満ち溢れたつややかな色とは比べ物にならないほど、青ざめて、思い詰めたような表情をしていた。その目は、まるで大事な商品を全て盗まれてしまったみたいに、らんらんと、しかしどこか虚ろに揺れていた。
「まあ! あなた様、どうなさったのですか、そんなに慌てて。まるで、ゴブリンの群れにでも追いかけられてきたみたいですよ?」
私の冗談めかした言葉にも、彼は笑う余裕すらないらしい。カウンターに、どん、と両手をつくと、体を寄せて、絞り出すような声で話し始めた。
「どうしたもこうしたもねえよ! おい、店主!あんたの菓子! 王都で、とんでもねえことになってやがる!」
彼の話によれば、こうだった。
王都での『銀のしっぽ亭』の熱狂は、さらなるものに発展していた。もはや、彼の予想を遥かに超えて、もはや社会現象と呼んでもいいほどの規模になっていたらしい。下町の露店には、開店前から貴族の馬車が列をなし、用意したお菓子は毎日、瞬く間に売り切れてしまう。
そのあまりの熱狂ぶりに、ついに、王都の同業者たちが黙っていなかった。
「最初は、あんたの菓子のレシピを盗もうとする奴らが、うろちょろし始めただけだった。だがな、あんたの菓子は、そもそも材料が特別すぎる。森の木の実も、幻の蜜も、黄金の小麦も、王都の連中には、どうやったって手に入らねえ代物だ。真似しようにも、できっこねえのさ」
彼は、悔しそうに唇を噛んだ。
「だから、連中は、もっと汚え手を使ってきやがった」
彼の声のトーンが、ふっと低くなった。その目が、真剣な光をたたえている。
「店主、聞いてくれ。王都で、ひでえことになってるんだ。あんたの菓子で腹を壊したなんて、根も葉もない噂を流されてよ……」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中が、一瞬、真っ白になった。
お腹を壊した?
私のお菓子で?
「そ、そんなはずはないはずよ……!」
「ああ、もちろん、そんなはずはねえ! 俺が一番よく分かってる! だがな、噂ってのは、尾ひれがついて、あっという間に広がってくもんだ。『辺境の菓子は、どんな得体の知れない材料を使ってるか分かったもんじゃない』だの、『あの聖女様の評判を貶めるための、悪質な罠だ』だの……。今じゃ、俺の露店には、気味悪がって、誰も近づこうとしねえんだ」
彼は、カウンターの天板を拳で、どん、と強く叩いた。
「ちくしょう……! 誰だか知らねえが、なんて卑劣な真似をしやがるんだ……!」
誰が、何のために、そんな酷いことを。
心当たりのない、純粋な悪意。それは熱い鉄板の上に冷たい水を一滴落としたみたいに、じゅ、と音を立てて、私の心を焦がした。
私の作るお菓子は、人を幸せにするためのもの。誰かを傷つけたり、不幸にしたりするためのものじゃない。それなのに。
私の知らない場所で、私の作ったお菓子が、そんな風に誰かを不快にさせている。そう考えただけで、胃のあたりがずしりと重たくなるのを感じた。
おそらく、私の評判を快く思わない誰かがいるのだろう。王都での成功が、新たな波紋を呼んでしまったことを、私は静かに悟る。
私の表情の変化に、行商人の男性が、はっとしたように、慌てて付け加えた。
「わ、悪い、店主! あんたを責めてるわけじゃねえんだ! ただ、悔しくてよ……! あんたが、どんな想いで、この菓子を作ってるか、俺は、この目で見てきたからな……!」
彼の、心からの言葉。それが、逆に私の胸を、きゅうと締め付けた。
◇
行商人の男性が、力なく店を後にした後。
私は、しばらくの間、カウンターの内側で、じっと立ち尽くしていた。
ぴかぴかに磨き上げたショーケースの中では、黄金色に輝く『天使のくちどけ』が、何事もなかったかのように、静かに鎮座している。あまりにも無垢で美しい姿。
それを見ていると、たまらなく、悲しい気持ちになった。
どうして。
私はただ、美味しいお菓子を作りたかっただけなのに。
『……ご主人様』
ふと、背後からそんな気配がして、私はゆっくりと振り返った。
そこには、私の忠実な助手であるビスキュが、音もなく静かに立っていた。その素焼きのビスケットみたいな手には、湯気の立つカップが一つ。中からは私の大好きなカモミールの優しい香りがふわりと立ち上っている。
「……ありがとう、ビスキュ」
カップを受け取って一口含むと、優しい甘さが、ささくれていた私の心に、じんわりと染み渡っていくようだった。
「わふん」
私の足元で、シュシュが、私の足にこつんと頭をすり寄せてきた。その温かさが、たまらなく愛おしい。
二人は、何も言わない。でも、その静かな優しさが、どんな慰めの言葉よりも私の心を温めてくれた。
そうだ。私は、一人じゃない。
私のそばには、私の作るお菓子を、誰よりも愛してくれる、かけがえのない家族がいる。この子たちが、美味しいと幸せそうに食べてくれる。その事実だけで、十分じゃないか。
私の心の中に、オーブンの種火みたいに、小さくて、でも、決して消えない、熱い炎が、再び、ぽっと灯った。
偽りの噂。根も葉もない、悪意に満ちた言葉。
そんなもので、私の情熱の火を、消させてたまるものか。
「お菓子で人を不幸にするような嘘は、本物の美味しさには、絶対に敵わない」
ぽつりと、私の口から、自分でも驚くほど、静かで、でも、揺るぎない声がこぼれ落ちた。
私は、カップをことりとテーブルに置くと、椅子から勢いよく立ち上がった。ビスキュとシュシュが、驚いたように、ぱちくりと私を見上げている。
「二人とも、ありがとう。もう、大丈夫よ」
私は、二人の頭を優しく撫でると、にっこりと、満面の笑みを浮かべてみせた。そして、ショーケースの中に鎮座する、あの黄金色の奇跡、『天使のくちどけ』を、恭しく、両手でそっと取り出した。
「この騒動に対する、私なりの『回答』よ」
私は、その究極のスポンジケーキを、まだ真新しい、一番上等な木の箱へと、そっと収めていく。
きっと、このケーキに込めた、私の真実の味が、偽りの悪評を吹き飛ばしてくれる。
私は、そう固く信じていた。
私は、その特別な箱を抱えると、もう一度、店の外へと飛び出した。
行商人の男性が泊まっているはずの宿屋へと、まっすぐに向かった。
◇
「……店主? どうしたんだ、そんなに慌てて」
宿屋の一室で、一人、肩を落としていた行商人の男性は、私の突然の訪問に、驚いたように目を見開いた。
私は、彼の前に、その特別な木の箱を、どん、と置いた。
「これを王都へ」
私の、あまりにも真剣なその表情に、行商人の男性は、ごくりと喉を鳴らした。彼が、おずおずと箱の蓋を開ける。
その瞬間、ふわり、と、今まで嗅いだことのない、甘くてどこか神聖な香りが、部屋いっぱいに広がった。
箱の中に鎮座する、黄金色に輝く、非の打ちどころのないホールケーキ。
「こ、こいつは……『天使のくちどけ』……!? いや、それよりも、もっと……」
「ええ。あなた様のために、特別にご用意いたしました。このフローリアで採れる、最高の材料と私のありったけの想いを込めた、最高傑作です」
私は、きっぱりと言った。
「これを、王都で、一番、人の集まる場所で、皆様に振る舞ってください。もちろん、代金はいただきません」
「なっ……!? ただで振る舞うだぁ!? 正気か、店主!」
彼の剣幕に、私は、くすりと悪戯っぽく笑ってみせた。
「ええ、もちろん。これは、商売ではありません。私なりの決闘の申し込みです」
偽りの噂と、本物の味。
勝つのは、どちらか。
その答えを王都の人々に直接、問いかけるのだ。
私のどこか常軌を逸した提案に、行商人の男性は、しばらくの間、固まっていた。
やがて、彼は、はあ、と天を仰ぐような深いため息をつくと、心底降参した、という顔で、がしがしと自分の頭を乱暴に掻きむしった。
「……分かった、分かったよ! もう、あんたの菓子への執念には、誰も勝てねえよ! その喧嘩、買った! この俺が、あんたの最高の武器を、王都のど真ん中まで、届けてやるぜ!」
彼は、腹を括ったように、その特別な箱を宝物のように、恭しく抱え上げた。
その時だった。
「待ってくれ、兄ちゃん!」
宿屋の外から、野太い声がして、数人の屈強な男たちが、部屋の中へとなだれ込んできた。
赤毛の冒険者さんたちだった。
「あんたらの話、聞こえちまったぜ! なんだってんだ、王都の奴らは! 聖女様の菓子に、ケチつけやがったってのか!」
「そうだそうだ! 俺たちにとっちゃ、嬢ちゃんと大将は、腹ペコの冒険者を救ってくれる、正真正銘の聖女様と神官様だぜ!」
「行商の兄ちゃん! 次に王都へ行く時には、俺たちの声も、一緒に届けてくれ! 『フローリアの冒険者は、全員、聖女様の味方だ』ってな!」
彼の言葉に、宿屋の窓の外から、どっと、同意の声が上がった。
いつの間にか噂を聞きつけた、たくさんの常連客たちが心配して集まってきてくれていたのだ。
あまりにも温かくて、力強い声援。
私は、もう涙をこらえることができなかった。
ぽろぽろと、熱い雫が次から次へと頬を伝っていく。
行商人の男性は、その光景を満足そうに、でも、どこか優しく見守っていた。
彼は集まってくれた人々に向かって、高らかに宣言した。
「おう、任せとけ! この俺がフローリアの心意気ごと王都のど真ん中に叩きつけてきてやるぜ!」
こうして、私が申し込んだ決闘は、いつの間にか、このフローリアの町、全体の想いを背負った、大きな戦いへと姿を変えていた。
偽りの噂と本物の味。
勝つのは、どちらか。
その答えが、私には、はっきりと分かっていた。




