第三十一話:王都に届く二つの噂
太陽の光がようやく石畳を照らし始める頃、店の扉が勢いよく開け放たれた。真鍮のベルがけたたましいほど陽気な音を立てる。
「いらっしゃいませ! パティスリー『銀のしっぽ亭』へ、ようこそ!」
私が笑顔で迎えると、カウンターの前に陣取った赤毛の冒険者さんが、興奮冷めやらぬといった様子で身を乗り出してきた。
「店主! 昨日食ったあの黄金色のやつ! ありゃ一体なんなんだ!? 雲でも食ってるみてえだったぜ!」
「ふふっ、『天使のくちどけ』と申します。お口に合ったようで何よりですわ」
「当たり前だ! 仲間にも自慢したら、今日は朝からこの騒ぎさ!」
彼の後ろでは、他の冒険者たちがショーケースに張り付くようにして、黄金色に輝く奇跡のケーキに目を奪われていた。その熱気は、黄金の小麦を手に入れてからというもの、この店ではすっかりお馴染みになった光景だった。
そう名付けられた『天使のくちどけ』は、ショーケースに並べられた途端、この町で爆発的な評判を呼んでいた。銀貨三枚という高価な値段にもかかわらず、その雲のように軽く淡雪のように儚い一切れを求めて、開店前から店の前に長い列ができる。
朝一番に訪れる冒険者たちは、特別な依頼の前の景気づけや、自分へのご褒美としてそのケーキを買い求め、「聖女様の奇跡より、このケーキ一切れの方がよっぽど幸せになれるぜ!」と笑い合うのがお決まりになっていた。
昼過ぎには子供を連れたお母さんたちが、夕方には仕事を終えた商人たちが、それぞれのささやかな幸せを求めてこの店を訪れる。私の作るお菓子が、この町の人々の日常をほんの少しだけ特別なものに変えている。その事実が、私の心をじんわりと満たしていくのだ。
私の傍らでは、シュシュが看板息子としてお客様の足元で愛想を振りまき、ビスキュは無駄のない動きで注文をこなしていく。最高の助手と相棒に支えられ、日々の経営は順調そのもの。店の収益で貯金袋が重くなっていくたびに、私はこの穏やかで満ち足りた日常の確かさを実感していた。
◇
その日、お店に少しだけ雰囲気の違うお客様が訪れたのは、昼下がりの穏やかな時間帯のことだった。
店の扉についたベルが、からん、と今まで聞いたことがないくらい、高らかな音を立てて鳴り響いた。まるで凱旋将軍が故郷に錦を飾るかのように、一人の男性が、胸を張って店の中へと入ってきたのだ。
「よお、店主! 戻ったぜ!」
日に焼けた顔を、満面の笑みで輝かせていたのは、あの、行商人の男性だった。聖域への最初の交易を終え、王都へ旅立ってから、ひと月ぶりだろうか。彼の顔は、前回会った時とは比べ物にならないほど、自信と興奮でつややかに輝いている。その目はまるで、磨き上げた金貨のように、ギラギラとした光を放っていた。
「まあ、おかえりなさいませ。そのご機嫌な様子、王都での商売はまたうまくいったようですわね」
私が、お茶を差し出しながらにこやかに言うと、彼は「ああ、もちろんだとも」と請け合い、差し出されたお茶を満足げに一口すすった。
「うまくいったどころの話じゃねえ。店主、あんたの菓子は今や王都の新しい名物だ! 下町の熱狂はな、今じゃ貴族街にまで飛び火してやがるんだぜ!」
彼はカウンターにどんと両手をつき、ぐっと体を寄せてきた。
「だがな、店主。今日は菓子を仕入れに来ただけじゃねえ。あんたに、どうしても伝えておきてえ、新しい噂話があるんだ」
「噂話、ですって?」
「おう。それも、とびっきり面白いやつが二つもな」
彼はごくりと喉を鳴らすと、まるで吟遊詩人が英雄譚を語るかのように、王都での熱狂的な出来事を活き活きと語り始めた。
「まず一つ目。あんたの菓子は、今や王都の貴族どもの間でちょっとした社会現象だ! どこのお茶会でも『銀のしっぽ亭』の菓子が出てこねえと時代遅れだって笑われる始末だぜ!」
「まあ、それは大げさな」
私がくすりと笑うと、彼は大げさに首を横に振った。
「大げさじゃねえ! 俺はな、この目で見てきたんだ! あんたの菓子が王都の連中の舌も心も、完全に虜にしちまってるその瞬間をな!」
彼の話は、前回聞いた時よりも、さらに熱を帯びて現実離れしていた。
下町での人気は不動のものとなり、今では彼の露店は「銀のしっぽ亭・王都出張所」などと勝手に呼ばれ、一種の名所になっているらしい。そして、その話はついに、壁の向こう側の世界、つまり貴族たちの耳にもはっきりと届いてしまったのだという。
「最初は、屋敷に仕える料理人や侍女たちが、お忍びで買いに来るだけだった。だがな、そのうちの一人が、女主人のお茶会にこっそりあんたのクッキーを出したのが、全ての始まりだった」
舌の肥えた貴婦人たちが、その一口で虜になった。瞬く間に、貴族のサロンでは『銀のしっぽ亭』の菓子が供されるのが最先端の流行となり、彼の元には毎日、各家からの使いがひっきりなしに訪れるようになったという。
「今じゃ、俺の露店には貴族様ご用達の立派な馬車が横付けされるのが当たり前になっちまってよ。周りの商人仲間からは、嫉妬と羨望の目で見られちまってるってわけさ。はははっ!」
彼は心底愉快そうに、腹を抱えて笑った。
自分の作ったお菓子が、そんな風に評価されているなんて。それは嬉しいというよりも、もはや現実感がなくて、まるでどこか遠い国の、おとぎ話を聞いているみたいだった。
でも、彼の話は、それだけでは終わらなかった。
「……そして、二つ目の噂だ。こいつが、本題だぜ、店主」
彼の声のトーンが、ふっと低くなった。その目が、真剣な光をたたえている。
「王都じゃ今、もう一人の『聖女』様が、そりゃあもう、大変な持て囃されようだ。なんでも、怪我や病を癒やす、奇跡の力をお持ちだとかでな」
「聖女……」
その言葉を聞いた瞬間、私の心の一番奥深くにある、古びた引き出しが、ぎい、と鈍い音を立てて開いた。そこから、もう思い出したくもない、色褪せた記憶がほこりっぽく舞い上がる。
クロエ・モラン。
私から婚約者を奪い、私を悪役に仕立て上げた、あの可憐で計算高い少女。彼女の魔法は、確か、希少な治癒の力を持つ『聖魔法』だったはずだ。
「その聖女様、クロエって名前だったか? 王太子殿下に見初められて、今や王宮で大層なご身分らしい。貧しい者には施しを与え、病める者には癒やしの光を注ぐ。まさに、物語に出てくる聖女様そのものだって、もっぱらの評判だ」
そう。私には、もう関係のないこと。
あの夜会の日、私の貴族令嬢としての人生は、完全に終わったのだから。
私は、胸の中に広がりかけた、どんよりとした灰色の霧を、ふっと息を吐き出すようにして追い払った。
「それが、私と、何か関係が?」
私の、あまりにも冷静な問いに、行商人の男性は、少しだけ意外そうな顔をした。
「……ありまくりだぜ、店主。面白いことになってんだ。民衆の間でな、今、二人の『聖女』を比べる声が、熱っぽく囁かれてるんだよ」
彼は、少し体を乗り出すようにして、声をさらに潜めた。
「『聖女クロエ様の癒やしの光は、確かにありがたい。だが、触れてもらえるのは、ほんの一握りの幸運な者だけだ。それに比べて、辺境から来たもう一人の聖女様の焼き菓子は、銅貨一枚で、誰だってその奇跡を味わうことができる』ってな」
私は、言葉を失った。
「『聖女様の光を浴びるよりも、『銀のしっぽ亭』のクッキーを一枚食べた方が、よっぽど心も体も元気になる』。そんな声が、今や王都のあちこちで、公然と囁かれてるんだぜ。どうだ、面白い話だろう?」
彼は、悪戯っぽく、片方の目をつむってみせた。
面白い、ですって?
私にとっては、冗談じゃない。
どうして、今になって、また。あの女と比べられなくてはならないのか。
私の作ったお菓子が、そんな俗っぽい噂話の種にされている。そう考えただけで、胃のあたりがずしりと重たくなるのを感じた。
私が作りたいのは、人を幸せにするお菓子。誰かと比べて、優劣をつけるための道具じゃない。
私の表情の変化に、行商人の男性が、はっとしたように、慌てて付け加えた。
「あ、いや、もちろん、店主がそんなことに興味がねえのは分かってる! だがな、この噂は、あんたの菓子の価値を、さらに高めてるのも事実なんだ。今や王都じゃ、あんたは『お菓子の聖女』なんて呼ばれてるくらいだからな!」
お菓子の聖女。
フローリアで、冒険者さんたちが面白がってつけてくれた『パイの聖女』という愛称とは全く質の違う、どこか生々しくて、きな臭い響き。
「……そうですか」
私の唇からこぼれ落ちたのは、自分でも驚くほど冷たく、平坦な声だった。笑顔を貼り付けてはいるけれど、その下で私の心は固く絞った布巾のように、きゅうとねじくれていくのを感じていた。
「私には、関係のないことです」
私は、きっぱりと言った。
そう。関係ない。
今の私には、このフローリアの町がある。私の帰りを待ってくれる、温かいお客様たちがいる。そして何より、私のそばには、かけがえのない家族である、ビスキュとシュシュがいてくれる。
それだけで、十分すぎるくらい、幸せなのだから。
「私のお菓子は、王侯貴族のためでも、誰かと競うためでもありません。目の前で『美味しい』と笑ってくれる、そんな人たちのためにあるのですから」
私のその、揺るぎない言葉。
行商人の男性は、しばらくの間、ぽかんとした顔で私を見つめていた。やがて、彼は、はあ、と天を仰ぐような深いため息をつくと、心底降参した、という顔で、がしがしと自分の頭を乱暴に掻きむしった。
「……参ったな。本当に、あんたは、俺の想像をいつも超えてきやがる。そうか。そうだよな。だからこそ、あんたの菓子は、こんなにも美味いんだ」
彼は、自分の浅はかさを恥じるように、少しだけ照れくさそうに笑った。
「悪かった、店主。野暮な話をしちまったな。よし! そんなことより、今日も、美味い菓子を、ありったけ、仕入れさせてもらうぜ!」
彼は、わざと明るい声を張り上げた。その気遣いが、嬉しかった。
行商人の男性が、いっぱいの焼き菓子を背負って、店を後にした後。
私は、しばらくの間、カウンターの内側で、じっと立ち尽くしていた。
『ご主人様』
ふと、背後からそんな気配がして、私はゆっくりと振り返った。
そこには、私の忠実な助手であるビスキュが、音もなく静かに立っていた。その素焼きのビスケットみたいな手には、湯気の立つカップが一つ。中からは私の大好きなカモミールの優しい香りがふわりと立ち上っている。
「……ありがとう、ビスキュ」
カップを受け取って一口含むと、優しい甘さが、ささくれていた私の心に、じんわりと染み渡っていくようだった。
「わふん」
私の足元で、シュシュが、私の足にこつんと頭をすり寄せてきた。その温かさが、たまらなく愛おしい。
そうだ。私の世界は、ここにある。
王都での噂なんて、遠い嵐みたいなもの。私には関係ない。
私は、私の城で、私の信じるお菓子を、作り続けるだけ。
「さあ、ビスキュ、シュシュ!」
私は、ぱん、と景気付けに両手を叩く。
「王都の人たちを、もっと、もっと、驚かせてあげるような、最高のお菓子を作るわよ!」
私のパティシエとしての情熱は、どんな過去にも、どんな噂にも、決して囚われたりはしないのだから。




