第三十話:空からの帰還と黄金の奇跡
ごう、と。
今まで私の人生で聞いたことのない力強い風の音が、耳元で絶え間なく鳴り渡っていた。
それは嵐の日に森の木々がざわめく音とは全く違う。もっと、こう……空そのものが歌っているかのような、荘厳でどこまでも自由な音色。
私の体はふわりと心地よい浮遊感に満たされていた。まるで温かいお風呂にでも浸かっているみたいに、全ての重力から解放されたような不思議な感覚。
「……すごい」
ぽつりと私の口から、感嘆ともため息ともつかない声が漏れた。
私は今、空を飛んでいた。
伝説の聖獣グリフォンの広くて温かい背中の上にちょこんと座って。
私の前にはがっしりとした鷲の首があり、その向こうにはどこまでも続く突き抜けるような青い空が広がっている。
私の腰をグリフォンの背中から生えたふさふさとした黄金色のたてがみが、まるで安全ベルトみたいに優しく、しかししっかりと支えてくれていた。手綱も鞍もない。でも、不思議と少しも怖くはなかった。
グリフォンの力強い翼がばさりと一度大きく羽ばたくたびに、私たちの体はぐんとさらに高い空へと押し上げられていく。
「わ、わふぅ……!」
私の腕の中でぎゅっとしがみつくように丸くなっていたシュシュが、おそるおそるその琥珀色の瞳を開けて下界の景色を覗き込んだ。そして、信じられないというように小さな悲鳴のような声を上げた。
無理もない。
眼下に広がっているのは、まるで神様が広げた巨大な地図帳みたいな壮大な景色。
私たちが何日もかけて苦労して登ってきたごつごつとした灰色の山々が、今はまるで子供が作った粘土細工のジオラマみたいに小さく、可愛らしく見えた。
遠くには森の緑が絨毯のようにどこまでも続いている。その向こうにはきらきらと銀色に輝く大きな川の流れ。
なんて美しいんだろう。
なんて広いんだろう。
私が今まで知っていた世界は、なんてちっぽけだったんだろう。
追放された時、私は自由になったと思った。
自分のお店を持った時、私は自分の城を手に入れたと思った。
でも、それはまだ本当の自由じゃなかったのかもしれない。
このどこまでも続く青い空。
遮るものは何もない。
行きたい場所へ、どこへだって飛んでいける。
これこそが、本当の自由。
私の心はどこまでも高く膨らんでいくスフレみたいに、ふわふわとした幸福感で満たされていった。
『……人の子よ。もう少しでフローリアの森だ』
頭の中に穏やかで温かい声が届いた。
グリフォンの長の声だ。
私は彼の力強い首筋にそっと触れた。硬質で、でもどこか温かい羽毛の感触。
「……ありがとうございます。本当に、何から何まで」
『礼には礼を。それが我らの誇りだ』
彼はそう言うと、翼の角度をわずかに変えた。
私たちの体はゆっくりと、しかし確実に高度を下げていく。
やがて見慣れたフローリア近郊の森の木々の梢が、すぐそこまで迫ってきた。
グリフォンは森の中にぽっかりと空いた日当たりの良い開けた場所を見つけると、そこにまるで一枚の羽が舞い降りるみたいに、驚くほど静かに、そして優雅に着地した。
私はその背中からそっと滑り降りる。
久しぶりに足の裏に感じるふかふかとした大地の感触が、なんだかとても懐かしい。
私の腕の中からシュシュもぴょんと地面に飛び降りた。
彼はまだ夢見心地なのか、しばらくの間ふらふらとしていた。
私の背中にはグリフォンたちが感謝の印として分けてくれた、ずっしりと重い黄金の小麦の袋がしっかりと結わえ付けられていた。
この温かくてずっしりとした重み。
これこそが、私の新しい夢のかけら。
『では、我らは帰る』
グリフォンが翼を一度大きく広げた。
『約束のおかしとやら。楽しみに待っているぞ』
「はい! 必ず、あなた方が腰を抜かすような、最高の逸品をお届けしますわ!」
私が胸を張ってそう宣言すると、グリフォンは満足そうに一度大きく頷いた。
そして地面を強く蹴る。
その巨大な体がふわりと宙に浮き上がり、あっという間に青い空の彼方へと消えていった。
後に残されたのは、しんと静まり返った森と私たち二人、そして黄金色の小麦の袋だけ。
私はしばらくの間、グリフォンたちが消えていった空のその一点を、ただぼんやりと見つめていた。
まるで甘くて長い夢を見ていたかのようだ。
でも、背中に感じるこのずっしりとした重みだけが、あれが紛れもない現実だったのだと、はっきりと教えてくれていた。
「……帰りましょうか、シュシュ」
私は小さな相棒ににっこりと微笑みかけた。
「私たちの、お城へ」
「わふん!」
シュシュが元気いっぱいに一声鳴いた。
私たちは懐かしい我が家を目指して、再び歩き始めた。
その足取りは今まで感じたことのないくらい、軽やかで弾んでいた。
店に戻ってから、数日が過ぎた。
旅の疲れを癒し、ビスキュの焼いてくれた温かいパイを味わい、再び穏やかな日常へと戻っていく。
しかし、私の心の中は以前とは全く違っていた。
厨房の片隅に大切に置かれた、黄金の小麦の袋。
それを見るたびに、私の気持ちはオーブンに入れられたバターみたいに、じゅわと甘く熱くなるのだ。
早く、あの究極のスポンジケーキを作りたい。
その逸る気持ちをぐっと抑えながら、私はもう一つの大事な仕事に取り掛かっていた。
グリフォンたちとの約束。
交易のための最初の一歩。
その記念すべき最初の取引を、誰に託すか。
答えはもう決まっていた。
私のこの無謀な挑戦のきっかけを作ってくれた、あの抜け目のない、でもどこか憎めない商売人の彼しかいない。
きっと、もうすぐ王都から戻ってくる頃だ。
私はその日を今か今かと待ちわびていた。
そしてその日は、思ったよりもずっと早くやってきた。
ちりん、と。
店の扉についたベルが、からんといつもより少しだけ高らかな音を立てた。
「よお、店主! 戻ったぜ!」
威勢のいい声と共に、満面の笑みを浮かべて店に入ってきたのは、もちろんあの行商人の男性だった。
彼の顔は長い旅路の疲れなど微塵も感じさせず、むしろ大きな商いを成功させた商人特有の自信に満ちたつややかな色をしていた。その目はまるで磨き上げた金貨のように、きらきらとした輝きを放っている。
「まあ、おかえりなさいませ。そのご機嫌な様子、王都での商売はまたうまくいったようですわね」
私が、お茶を差し出しながらにこやかに言うと、彼は「ああ、もちろんだとも」と請け合い、差し出されたお茶を満足げに一口すすった。
「うまくいったどころの話じゃねえ。店主、あんたの菓子は今や王都の貴族どもの間でちょっとした社会現象だ! どこのお茶会でも『銀のしっぽ亭』の菓子が出てこねえと時代遅れだって笑われる始末だぜ!」
「まあ、それは大げさな」
私がくすりと笑うと、彼はカウンターにどんと両手をつき、ぐっと体を寄せてきた。
「大げさじゃねえ! 俺はな、この目で見てきたんだ! あんたの菓子が王都の連中の舌も心も、完全に虜にしちまってるその瞬間をな!」
彼はごくりと喉を鳴らすと、まるで吟遊詩人が英雄譚を語るかのように、王都での熱狂的な出来事を活き活きと語り始めた。
その話は前回聞いた時よりも、さらに熱を帯びて現実離れしていた。
「……それで、店主。例の件はどうなった? あの後、何か分かったのか?」
一通り自慢話を終えた後、彼はふと思い出したように声をひそめて、そう尋ねてきた。
例の件。
もちろん、黄金の小麦のことだ。
「ええ。あなた様がお帰りになるのを、お待ちしておりました」
私はにっこりと微笑んでみせた。
そして厨房の奥から、一つの小さな麻袋を持ってきて、彼の目の前のカウンターの上にことりと置いた。
袋の口をゆっくりと開く。
中から現れたのは、黄金色にきらきらと輝く、ふっくらとした小麦の粒だった。
「…………は?」
行商人の男性の饒舌だった口が、あんぐりと開かれたまま固まった。
その目が信じられないというように、大きく見開かれていく。
「な……な……」
彼はわずかに揺れる指先で袋の中の一粒をそっとつまみ上げた。
そしてそれを光にかざす。
まるで極上の宝石でも鑑定するかのように。
「こ、こいつは……まさか、本当に……」
「ええ。あなた様が教えてくださった伝説は、真実でした」
私のそのあまりにもあっさりとした一言に、行商人の男性はがくりと、その場に崩れ落ちそうになった。
「ば、馬鹿な……! あんなただの与太話だぞ!? それをあんた、本当に見つけちまったってのか!? あの魔物がうろつくっていう西の高峰で!?」
「ええ、まあ、色々とございましたけれど」
私はくすりと悪戯っぽく笑ってみせる。
グリフォンとの激しい戦闘。
傷ついた聖域の治療。
そして交わされた、甘い約束。
その数日間の壮大な冒険譚を、ここで語るつもりはなかった。
彼が知るべきは結果、ただ一つ。
「そして、私はこの聖域の守護者様と、特別な約束を交わしました」
「や、約束だと……?」
「ええ。これより先、この黄金の小麦は私、もしくは私が認めた者とのみ『交易』という形で分かち合ってくださる、と」
私がそのとんでもない事実を告げた瞬間、行商人の男性の商売人としての優れた頭脳が、瞬時にその言葉の本当の意味を理解した。
彼の顔から血の気がさっと引いていく。
そして次の瞬間。
その顔が今まで見たこともないくらい、真っ赤に興奮で上気した。
「……ど、独占契約……」
彼の唇からかすれた声が漏れた。
「この幻の小麦を、俺が独占的に扱えるってのか……?」
「ええ、もちろん、あなた様にそのお気持ちがあれば、ですけれど」
私のその悪魔のような甘い囁き。
行商人の男性はしばらくの間、わなわなとその体を小刻みに揺らしていた。
やがて彼は意を決したように、ばっと顔を上げた。
その目はもう、完全に据わっていた。
「……やらせてくれ」
彼の唇から絞り出すような声が漏れた。
「店主。いや、エステル様。この俺に! その大役を! どうか、どうか務めさせてはいただけねえでしょうか!」
彼はカウンターの前で深々と、まるで王に忠誠を誓う騎士のように頭を下げた。
そのあまりにも真剣な、そしてどこか滑稽な姿に、私は思わず吹き出してしまった。
「ふふっ、顔を上げてください。あなた様以外に、この大役を任せられる方などおりませんわ」
私はそう言うと、厨房の奥からもう一つ別の木の箱を持ってきた。
箱の中にはグリフォンたちのために特別に焼き上げた、日持ちのする栄養価の高い薬草入りのクッキーがぎっしりと詰め込まれている。
「これを聖域へのお礼としてお届けください。その見返りとして、守護者様から黄金の小麦を受け取ってくる。それがあなた様の、最初の仕事です」
「……ははっ! 承知いたしました!」
行商人の男性は今日一番の満面の笑顔を浮かべて、その木の箱を宝物のように恭しく受け取った。
そして最後に、私は彼に一つの小さな石を手渡した。
それは一見、何の変哲もないただの丸い石。
しかし、その中には私のマナがぎゅっと込められている。
「これは、私とあなた様を証明するための合い言葉のようなものです。守護者様は、この石を持つ者だけを聖域の友として迎え入れてくださるでしょう」
勘合符。
彼とグリフォンたちを繋ぐ、唯一の絆。
彼はその石を、まるで王家から授けられた勲章のように大切に懐へとしまい込んだ。
こうして私と王都と、そして天上の聖域を繋ぐ、壮大で最高に甘い交易の環が、今ここに完成したのだ。
行商人の男性が新たな、そしてとてつもなく重要な使命を胸に、意気揚々と店を後にして行った。
その力強い背中を見送りながら、私はふうと一つ満足のため息をついた。
これで全ての準備は整った。
私は厨房のテーブルの上に大切に広げられた一枚の清潔な布の上に、あの黄金の小麦をさらさらと流し込んだ。
きらきらと陽光を反射して輝く、黄金色の宝石の粒。
その一粒一粒が愛おしくてたまらない。
私は魔法で作った小さな石臼を用意した。
そしてその臼の中に、黄金の小麦をそっと流し込む。
ごり、ごり、ごり……。
ゆっくりと石臼を回していく。
すると臼の隙間から、まるで金色の粉雪みたいにきめ細かい粉がこぼれ落ちてきた。
ふわり、と。
今まで嗅いだことのない、甘くて香ばしくて、どこか太陽の匂いがする極上の香りが厨房全体に立ち上った。
その香りはあまりにも官能的だった。私のパティシエとしての魂が歓喜に揺さぶられる。
シュシュもビスキュも固唾を飲んで、その光景を見守っていた。
やがて全ての小麦が美しい黄金色の極上の粉へと姿を変えた。
その粉は私が前世で触れたどんな最高級の薄力粉よりも驚くほどきめが細かく、そして指先に吸い付くようにしっとりとしていた。
これなら作れる。
いや、これじゃないと作れない。
私がずっと夢見てきた、あの究極の逸品が。
「さあ、始めましょうか」
私はきりりとエプロンの紐を結び直した。
その声は自分でも驚くほど静かで、どこか神聖な調子を帯びていた。
これから行われるのは、ただのお菓子作りじゃない。
一つの儀式なのだから。
卵を割る。
新鮮な卵黄と卵白。
その卵白をぴかぴかに磨き上げた銅のボウルに入れて、一気に泡立てていく。
しゃか、しゃか、しゃか、しゃか!
私の愛用の泡立て器が、空気を切る小気味よい音を立てる。
あっという間に卵白は、絹のようにつややかでつんと角が立つ、非の打ちどころのないメレンゲへと姿を変えた。
そこに黄金の小麦粉を数回に分けて、さっくりと混ぜ合わせていく。
メレンゲの繊細な泡を潰さないように。
優しく、優しく、しかし手早く。
出来上がった生地は、まるで黄金色の雲。
それを型に流し込み、石窯の最適な温度でじっくりと焼き上げていく。
やがて。
厨房を満たす香りが変わった。
ただ甘いだけじゃない。
卵と小麦粉が焼ける、どこまでも優しくて気高い至福の香り。
その香りを胸いっぱいに吸い込んだだけで、全身の細胞が喜んでいるのが分かった。
焼き上がったスポンジケーキは、奇跡みたいに美しかった。
どこまでも均一な黄金色。
指でそっと押してみると、しゅわと優しい音を立てて雲みたいに軽やかに沈み込み、そしてふわりと元に戻る。
この弾力。
この軽やかさ。
間違いない。
これこそが私が追い求めていた、理想のスポンジ。
私は荒熱がとれたその黄金の奇跡を、三等分に切り分けた。
そしてその一切れを、自分とシュシュとビスキュの前に置く。
「……さあ、召し上がれ」
私の声は期待と感動で、わずかに上ずっていた。
私たちは顔を見合わせると、ごくりと一つ喉を鳴らした。
そしてその黄金のかけらを、フォークでそっと口の中へと運ぶ。
その、瞬間。
私の世界から音が消えた。
舌の上に乗せたスポンジ。
それは噛む必要すらなかった。
まるで淡雪のように儚く、すうっと音もなく形を失ってしまったのだ。
後に残されたのは、卵と小麦のどこまでも優しくて豊かな、甘い、甘い余韻だけ。
あまりの美味しさに。
あまりの幸福感に。
長年の夢が、今ようやく私の手の中で完成した。
隣を見るとシュシュが、その琥珀色の瞳をまんまるに見開いたまま、ぴしりと固まっていた。
ビスキュはといえば、その場で直立不動のまま、そののっぺらぼうの土の顔から、まるで涙のようにぽろりぽろりと小さな土の粒をこぼれ落としていた。
これこそが、私が求めていた最高傑作だった。




