第三話:何もない土地と理想のキッチン
どれくらい馬車に揺られていただろう。
王都を出てから十日ほどが過ぎた頃、ついにその旅路は終わりを迎えた。
がたん、と今までで一番大きな音を立てて馬車が止まる。
「おい、着いたぞ。ここだ」
御者の男性が、吐き捨てるように言った。その声には、ようやく厄介払いができるという安堵の気配がにじんでいる。
私がシュシュを抱えて馬車を降りると、彼は荷台から私のささやかな荷物を地面に放り投げ、一度もこちらを振り返ることなく、さっさと馬首を返して去っていった。土埃の向こうに小さくなっていく馬車の背中を、私はただぼんやりと見送る。
「……行っちゃったわね」
「くぅん……」
腕の中のシュシュが、心細そうな声を出した。私はその銀色の背中をぽんぽんと軽く叩いてやる。
「大丈夫よ、シュシュ。ここが、私たちの新しいおうちよ」
そう言って、私は改めて周囲を見回した。
目の前に広がっているのは、どこまでも続く、だだっ広い草原だった。
人の手が加えられた形跡はどこにもなく、腰の高さまである雑草が、風に吹かれてさわさわと緑の波を作っている。
遠くには鬱蒼とした森が見え、その向こうには険しい山々が連なっている。見上げれば、遮るもののない、突き抜けるような青い空が広がっていた。
与えられた土地。
それは、言葉通り、ただの土地だった。
家はおろか、井戸も畑もない。
本当に何もない。
追放された令嬢が暮らすには、あまりにも過酷な環境だ。
普通なら、絶望のあまり泣き崩れてしまうような場面なのかもしれない。
けれど。
私の心は、不思議なくらい、すっきりと晴れ渡っていた。
まるで、目の前の空と同じ色。
何もない。
それはつまり、これから何でも作れるということだ。
私の好きに、私の望むままに。
「いいじゃないの!」
思わず口から飛び出したのは、歓声だった。
腕の中からシュシュが「きゅん?」と不思議そうな顔で私を見上げる。
「見て、シュシュ! この広大な土地、全部私たちのものよ!ここに、私たちの夢のお城を建てるのよ!」
「わふん!」
私の弾んだ声が伝わったのか、シュシュも嬉しそうに一声鳴いて、ぴょんと地面に降り立った。
そして、ふさふさの尻尾をぶんぶんと振りながら、私の周りを楽しそうに駆け回り始める。
その姿に、私の胸は温かいもので満たされていく。
そうだ、まずは家を建てなくちゃ。
雨風をしのげる、安心して眠れる場所が何より先に必要だ。
私の魔法は『土』。
貴族社会では、攻撃魔法に比べて地味で、役に立たないとさえ言われていた魔法。
けれど、こういう時には、どんな華やかな炎の魔法よりも頼りになるはずだ。
「よし、やるわよ、シュシュ!」
「わふ!」
シュシュの元気な返事に見送られ、私は土地の中心あたりまで歩いていく。そして、両手でスカートの裾をたくし上げると、ぺたんとその場に座り込んだ。ひんやりとした土の感触と、青々とした草の匂いが、なんだか懐かしいような気持ちにさせてくれる。
私はゆっくりと目を閉じて、両方の手のひらを、地面にぴたりとつけた。
集中する。
私の体の中を流れる、温かい力。マナ。その流れを、意識して手のひらへと集めていく。
イメージするのは、家の設計図。
前世で、何度も夢に描いた理想の厨房。それを中心にした、小さくても温かい、私のためだけの家。
貴族の屋敷のような、無駄に広くて豪華なものである必要はない。
必要なのは、機能的で居心地が良い、そして何より、お菓子作りができる空間。
二階建てにしよう。
一階は、そのほとんどを厨房に。残りは、ささやかな玄関と、お客様が来た時に使える小さな応接スペース。
二階は、私とシュシュの寝室と、書斎兼物置。お風呂とトイレも忘れずに。
頭の中に、少しずつ家の形が出来上がっていく。
玄関を入ると、すぐに厨房へと続くドアがある。そのドアを開ければ、むせ返るようなバターと砂糖の甘い香りがお客様をお出迎えするのだ。
そして、メインとなる厨房。
作業台は、私が一番使いやすい高さに。広さは、大きなパイ生地を一度に伸ばせるくらいは欲しい。シンクは二つ。一つは洗い物用、もう一つは食材を洗ったり、シロップを冷やしたりする用。
そして、何よりも重要なのが、オーブンだ。
前世で使っていたのは、性能はいいけれど無機質な業務用のガスオーブンだった。
でも、私が本当に欲しかったのは、レンガで組んだ、薪で火をおこすタイプの大きな石窯だ。
薪の火は、温度管理がとても難しい。けれど、その遠赤外線効果で焼いたパンや焼き菓子は、表面はぱりっと香ばしく、中はしっとりと、比べ物にならないくらい美味しく仕上がるのだ。
その石窯を厨房の主役として、壁際にどんと設置する。
ああ、考えただけで、わくわくして指先がうずうずしてきた。
「キッチンが欲しい」
それは願いというよりも、もっと切実な、魂からの叫びだった。
お菓子を作るために、私は生まれ変わったのだ。そのための仕事場を手に入れるのは、当然の権利のはずだ。
その強い想いが、引き金になった。
手のひらから、体内のマナが、まるで川の流れのように、大地へと注ぎ込まれていく。
大地が私の想いに応えてくれる。
温かくて、大きくて、優しい何かに全身をそっと受け止められているような、不思議な感覚。
土魔法の本質は、きっと、何かを生み出し、育む力なのだ。
攻撃魔法のように派手ではないけれど、私たちの生活の土台となる、とても大切な力。
その力の奔流が、私の頭の中にある設計図を現実のものへと変えていく。
ごごごごご……。
足元から、地響きのような音が聞こえ始めた。
それは、決して暴力的な揺れではなく、巨大な生き物がゆっくりと身を起こすような、荘厳で、規則正しい振動だった。
私の目の前で、地面が、まるで生き物のように、ゆっくりと盛り上がっていく。
土が、石が、私の思い描いた通りの形に集まり、圧縮され、壁となっていく。めきめきと音を立てて家の土台が組み上がり、柱が伸び、床が張られていく。
それは、あまりにも現実離れした光景だった。
私は目を開けているのか閉じているのか、それすらも分からないくらい、魔法の行使に没頭していた。
窓になる部分の土は、より細かな砂の粒子となって集まり、熱を帯びて、透明なガラスへと姿を変えていく。
屋根には、粘土が瓦の形になって、一枚一枚、きれいに葺かれていく。
すごい。
私の土魔法は、こんなことまで出来たんだ。
ただ地面を揺らしたり、小さな壁を作ったりするだけの地味な魔法じゃなかった。
想いの強さが、魔法の限界を超える。
前世の知識、そして、お菓子作りへの情熱が、今、私の魔法を未知の領域へと押し上げてくれているのだ。
―――創造の魔法。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
体中からマナがごっそりと抜けていくのを感じながら、私は最後の仕上げに取り掛かった。
厨房の壁際に、思い描いた通りの、大きくて立派なレンガの石窯を。
そして、家の隣には、こんこんと清水が湧き出る、小さな井戸を。
全てのイメージが形になった、その瞬間。
ごう、と体の中を吹き抜けていった力の奔流が、ぴたりと止んだ。
地響きが静かに収まっていく。
私は、ゆっくりと目を開けた。
「…………できた」
目の前には、一軒の家が建っていた。
二階建ての家。
レンガ色の屋根に、温かみのある土色の壁。窓枠は濃い茶色で、素朴ながらも、どこか可愛らしい雰囲気。
それは、私の頭の中にあった設計図と、寸分違わぬ姿で、そこに存在していた。
「わ、わふ……?」
私の足元で、シュシュが呆然としたように、目の前の建物を見上げている。
その琥珀色の瞳は、まんまるに見開かれていた。
無理もない。ついさっきまで、ここには草原しかなかったのだから。
「さあ、シュシュ。入ってみましょう。私たちの新しいおうちよ」
私はふらつく足で立ち上がると、シュシュを促して、木の扉へと向かった。ぎ、と音を立てて扉を開ける。
中は、まだ新しい土の匂いで満ちていた。
一階は、私が思い描いた通り。
玄関のすぐ横に、小さな応接間。そして、その奥に厨房へと続くもう一つの扉。
私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
逸る心臓を抑えながら、その扉に、そっと手をかける。
この扉の向こうに、私の夢がある。
ゆっくりと扉を開いた。
その瞬間、私の視界いっぱいに、広々とした空間が飛び込んできた。
磨き上げられた石の床。私が動きやすいように計算された高さ、その広々とした木製の作業台。
壁際に二つ並んだ、大きなシンク。
そして、部屋の一番奥。
そこには、圧倒的な存在感を放って、赤茶色のレンガで組まれた、立派な石窯が鎮座していた。
それは、私が前世からこれまで、ずっと、ずっと焦がれ続けてきた、理想のオーブンそのものだった。
ぽろり、と。
私の頬を何かが伝っていく。
熱い雫が、次から次へと溢れ出して、止まらない。
悲しいわけじゃない。辛いわけでもない。
胸がいっぱいで、温かくて、どうしようもなくて。
「……ゆめ、みたい」
過労で死んだ、しがないパティシエだった私が、ついに手に入れた自分だけの城。
ここでなら作れる。
前世では、時間も体力も足りなくて、作れなかった、理想のお菓子。
食べた人みんなが、笑顔になるような、魔法のお菓子を。
「わふん!」
シュシュが、私の足に、こつん、と頭をすり寄せてきた。まるで、私を慰めるかのように。
「ありがとう、シュシュ。私、嬉しいの。すごく、すごく、嬉しいのよ」
私はその場にしゃがみこんで、シュシュの温かい体を、ぎゅっと抱きしめた。
銀色の毛並みに顔をうずめると、お日様のような、安心する匂いがした。
しばらくそうして、こみ上げてくる感情の波が過ぎ去るのを待った。
ようやく落ち着いて顔を上げると、シュシュがぺろりと私の涙を舐めてくれる。
「ふふ、ごめんなさいね。もう大丈夫よ」
私は立ち上がって、改めて厨房の中を見渡す。
マナをほとんど使い果たしてしまったせいで、体は綿のように重いけれど、心は驚くほど軽やかだった。
家という、一番大きな問題が片付いた。
これで、ようやく、私の新しい人生がスタートする。
私は、自分の手のひらを見つめた。
公爵令嬢だった頃は、刺繍や作法のために、傷一つない白魚のような手であることが求められた。
でも、今は違う。
この手は、小麦粉とバターにまみれて、生地をこねるための手だ。
この手で、これからたくさんのお菓子を生み出していくのだ。
◇
家の外に出ると、空はすっかり夕焼けの色に染まっていた。
オレンジと紫が混じり合った、美しいグラデーション。それは、極上のカシスのムースみたいに見えた。
私とシュシュは、出来たばかりの家の前に並んで座り、その美しい光景を、ただ黙って眺めていた。
これから、ここで生きていく。
この、何もない、けれど、無限の可能性を秘めた土地で。
追放された時は、正直、ほんの少しだけ、これからどうなるのだろうという不安がなかったわけではない。
けれど、今はもう、何の迷いもない。
私には、お菓子作りという、揺るぎない夢がある。
そして、隣には、かけがえのない相棒がいてくれる。
それだけで、十分だ。
いや、十分すぎるくらいだ。
公爵令嬢でも、王太子の婚約者でもなくなった私は、ただの私になった。
お菓子を愛する、一人のパティシエに。
ああ、なんて自由なんだろう。
「お腹、すいたわね」
私がぽつりと呟くと、シュシュが「くぅ~ん」と、お腹の音みたいな情けない声で応えた。
「そうよね。まずは、何か食べなくちゃ。……と言っても、まだ調理器具も、食材も、何もないんだったわ」
理想のキッチンは手に入れたけれど、それはまだ、ただの箱に過ぎない。
中身を揃えるのは、明日からのお楽しみだ。
幸い、荷物の中に、旅の途中で食べていた残りの保存食が少しだけあったはずだ。硬いパンと、干し肉。お世辞にも美味しいとは言えないけれど、今夜はそれで我慢するしかない。
「明日は、忙しくなるわよ、シュシュ」
私は、沈みゆく夕日を見ながら、これからの計画を組み立てる。
まずは、調理器具作りだ。
泡立て器にゴムベラ、麺棒。それから、オーブンで使うための天板も。
土魔法を応用すれば、きっと作れるはずだ。
それから、食材探し。
この辺りの森には、どんな木の実や果物があるんだろう。甘い樹液が採れる木もあるかもしれない。
自分の足で歩き、自分の目で見つけ、自分の手で採ってくる。
そうやって手に入れた材料で作るお菓子は、きっと、格別の味がするに違いない。