第二十九話:癒やしの魔法と交わした約束
キエエエエエエエエエエッ!
空気をびりびりと震わせる、金属を擦り合わせたみたいな甲高い咆哮。
巨大な翼が巻き起こす突風が、私の髪をめちゃくちゃに掻き乱していく。目の前に立ちはだかる伝説の聖獣、グリフォン。その黄金色の瞳は、燃え盛る溶鉱炉みたいに真っ赤な怒りの光をたたえて、まっすぐに私を捉えていた。
今にも、その鋭い鉤爪が私の体を紙みたいに引き裂こうとしている。
絶体絶命。
普通の冒険者なら、もう武器を放り出して命乞いをしているような場面。
「わふんっ!」
けれど、私と、その巨大な聖獣との間には、小さな、でも決して屈しない銀色の姿が立ちはだかっていた。
シュシュだ。
さっき、いとも簡単に弾き飛ばされたというのに、いつの間にか復活した彼は、私を守るように、グリフォンの前にどっしりと四本の足で踏ん張っている。
その小さな体は、グリフォンに比べればあまりにも頼りない。まるで、大きなケーキの前に置かれたちっぽけな砂糖菓子みたいだ。
でも、その琥珀色の瞳は、一歩たりとも引く気はないという鋼のように固い意志の光をたたえていた。
『……どけ、小犬。次は容赦せぬぞ』
頭の中に直接重たい岩をねじ込まれるような、そんな圧迫感のある声が届く。
グリフォンの燃えるような瞳が、シュシュを射抜く。
しかし、シュシュは動かない。
それどころか、喉の奥でぐるるるる……とさらに低い唸り声を上げて、その鋭い牙を剥き出しにした。
「……ありがとう、シュシュ。少しだけ、時間を稼いでちょうだい」
私は、小さな相棒のその頼もしい背中に全てを託すと、ゆっくりと目を閉じた。
もう迷いはない。
私が今この場所ですべきことは、たった一つ。
戦うんじゃない。
この傷ついた聖域を、癒やすことだ。
私は、乾いたひび割れた茶色の大地に、そっと両方の手のひらをぴたりとつけた。
ひんやりとして、どこか悲しいくらい生命の温もりが失われた土の感触。
ごめんね。
痛かったでしょう。苦しかったでしょう。
今、楽にしてあげるからね。
集中する。
私の体の中を流れる温かい力、マナ。
その流れを意識して手のひらへと集めていく。
そしてそのマナを、まるで乾いたスポンジにそっと水を染み込ませていくみたいに、優しく、優しく、大地の中へと流し込んでいくのだ。
私の感覚が植物が地中深くに根を張るように、この聖域の奥深くへとどこまでも広がっていく。
湿った土の匂い。ひんやりとした地下水の流れの感触。岩盤のごつごつとした硬さ。
その無数の情報の中で、私はこの土地の生命の源である地脈の流れを探し出す。
あった。
この巣の真下。
本来なら清らかな小川のように、さらさらと淀みなく流れているはずの生命のエネルギー。
それがまるで、無理やり結ばれて固くなってしまったリボンみたいに、ぎゅうと複雑にもつれてしまっている。
これだわ。
これが全ての元凶。
この結び目を、解きほぐしてあげなくては。
でも、乱暴に引っ張ってはだめ。
そんなことをしたら、リボンがもっと固く結ばれてしまったり、最悪の場合ぷつりと切れてしまうかもしれない。
ゆっくりと、丁寧に。
まるで最高級の生クリームを、泡立てすぎないように細心の注意を払って混ぜ合わせるみたいに。
あるいは、繊細な飴細工をほんの少しの温度変化で割ってしまわないように、そっと形作っていくみたいに。
私は私の意識の、その指先で絡まった地脈の、その一本一本をそっとつまみ上げた。
大丈夫。
きっと元に戻れるから。
私のパティシエとしてのありったけの集中力が、今この一点に注ぎ込まれていく。
それは気が遠くなるほど繊細で、根気のいる作業だった。
額にじわりと汗が滲む。
指先がぴりぴりと痺れてくる。
でも、止めるわけにはいかない。
この聖域と、そこに住む必死な親子を救うために。
キエエエッ!
私の背後でグリフォンの甲高い威嚇の声が上がる。
シュシュが「わふっ!」と負けじと吠え返す。
一触即発。
いつ戦闘が再開されてもおかしくない。
しかし、グリフォンたちはなぜか最後の一線を越えてこようとはしなかった。
おそらく戸惑っているのだ。
目の前の無防備な人間が、一体何をしているのか。
その真意を測りかねている。
そのほんのわずかな躊躇が、私に時間を与えてくれていた。
もう少し。
あと、もう少しだから。
私の意識の指先がついに、絡まった地脈の一番中心にある結び目にそっと触れた。
ここだ。
ここを解きほぐせば。
私は最後の力を振り絞って、その結び目を赤ちゃんの髪を梳かすみたいに、優しく、優しく解きほぐしていく。
するり、と。
まるで魔法みたいに。
固くこわばっていた地脈が、その結び目をほどいた。
その瞬間、私の体の中をどくんと温かい何かが駆け巡った。
今まで堰き止められていた生命のエネルギーが、一気に解放されたのだ。
大地が喜んでいる。
まるで長い間ずっと喉が渇いていた人が、ようやく一杯の冷たい水をごくごくと飲み干した時みたいに。
その歓喜の振動が、私の手のひらを通してびりびりと伝わってくる。
「……できた」
ぽつりと私の口から安堵のため息が漏れた。
私がゆっくりと目を開けた時、私の目の前で信じられない光景が広がっていた。
ざわざわざわ……。
乾いてひび割れていた茶色の地面から、一斉に青々とした柔らかな草の芽が顔を出し始めたのだ。
それはまるで早送りの映像を見ているみたいに、驚くべき速さでぐんぐん伸びていく。
あっという間に巣の周りの、あの不毛だったはずの大地はどこまでも続く緑の絨毯へと生まれ変わっていた。
それだけじゃない。
力なく垂れ下がっていた黄金の小麦の穂。
その一本一本が、まるで朝の光を浴びて目を覚ましたみたいに、ぴんと力強く背筋を伸ばし始めた。
やせ細っていた穂はみるみるうちにふっくらと丸みを帯び、その色をより一層まばゆい黄金色へと変えていく。
今まで沈黙していた色とりどりの花々も、まるで合唱を始めたみたいに一斉にその蕾をぱっとほころばせた。
甘い花の蜜の香りが、今までとは比べ物にならないくらい濃密になって聖域全体を優しく満たしていく。
ぴい! ぴい! ぴい!
巣の中から聞こえてくる雛たちの鳴き声。
その声はもう、か細くはなかった。
お腹が空いたよ、と元気いっぱいに親を呼ぶ、生命力に満ち溢れた力強い声。
聖域が本来の温かい生命力を取り戻したのだ。
そのあまりにも現実離れした奇跡のような光景。
私はただ呆然と、その場に座り込んだままそれを見つめていた。
そして、それは私だけではなかった。
『…………』
私の背後で、あれほど猛々しく威嚇を繰り返していた二体のグリフォン。
その気配がぴたりと、完全に消えている。
私はおそるおそる後ろを振り返った。
そこに立っていたのは、もう怒れる守護神ではなかった。
ただ、目の前で起きている信じられない出来事に、あんぐりとその鋭いくちばしを開けたまま固まっている、二羽の巨大な鳥。
その黄金色の瞳から燃えるような怒りの光はすっかり消え失せて、ただ純粋な子供のような驚きと戸惑いが浮かんでいるだけだった。
彼らは自分たちの住処がみるみるうちに癒やされていく様子と、巣の中で元気を取り戻していく我が子の姿を、交互に何度も見比べている。
やがて、一体のグリフォンが我に返ったように、はっとした顔になった。
そして、その黄金色の瞳をまっすぐに私に向けた。
その瞳にはもう敵意はひとかけらもなかった。
ただ深い、深い感謝と、そして畏敬の念が温かい光となってきらきらと輝いている。
彼はゆっくりと、本当にゆっくりと私の方へ一歩歩み寄ってきた。
シュシュが咄嗟に私の前に立ちはだかろうとする。
しかし、私はその小さな体を、手でそっと制した。
「もう、大丈夫よ、シュシュ」
グリフォンは私の目の前でぴたりと足を止めた。
そしてその巨大な鷲の頭を、深く、深く垂れたのだ。
それは王が自分を救ってくれた恩人に対して捧げる、最も丁重な感謝の礼のように見えた。
聖域には穏やかな沈黙が戻っていた。
聞こえるのは黄金の小麦の穂が風に揺れるさわさわという音と、巣の中で元気に動き回る雛たちの愛らしい鳴き声だけ。
私とシュシュはグリフォンのつがいと、不思議な、そしてどこか気まずいようなお見合い状態で向かい合っていた。
あれほどの激しい戦闘を繰り広げたのが、まるで遠い昔の出来事のようだ。
『……礼を言う、人の子よ』
やがて、つがいのうちひときわ体格の立派な、おそらくは長であろう一体が静かに口を開いた。その声はもう刃物のような鋭さはなく、古木の幹のようにどっしりと落ち着いていた。
『貴殿は我らが聖域を、そして我らが雛の命を救ってくれた大恩人だ。我らは貴殿に大きな借りを作ってしまった』
「いいえ、そんな。私は、私がすべきだと思ったことをしたまでです」
私が慌てて首を横に振ると、グリフォンは静かにその黄金の瞳を細めた。
『謙遜は不要だ。我らは誇り高き聖獣。受けた恩は必ず返さねばならぬ。……して、人の子よ。貴殿は我らに何を望む?』
そのあまりにもまっすぐな問い。
私は一瞬、言葉に詰まった。
彼らの聖域を救った見返り。
そんなこと、考えもしなかった。
でも。
私のこの旅の、そもそもの目的は何だった?
最高のスポンジケーキを作るため。
そのためにこの幻の小麦がどうしても必要だった。
ここで遠慮している場合じゃない。
私はパティシエだ。
最高の材料を前にして、尻込みするなんて私のプライドが許さない。
「……では、もしお聞き届けいただけるのでしたら」
私は心を固めて、顔を上げた。
そして目の前に広がる黄金色の海を、まっすぐに指さした。
「この黄金の小麦を、私に分けてはいただけませんでしょうか」
私のあまりにも大胆な願い。
その言葉を聞いた瞬間、グリフォンの穏やかだったはずの瞳に、再び鋭い光がかすかによぎった。
『……それは、ならぬ』
彼の声が再び地を這うような低いものに変わる。
『この黄金の恵みは、我らが雛を育むための命の糧。貴殿は確かに我らの恩人だ。だが、それとこれとは話が別だ。未来永劫、我らが子孫がこの地で生きていくための唯一無二の宝。それを、いくら貴殿とて易々とくれてやるわけには……』
「もちろん、タダで頂こう、などとは考えておりません」
私は彼の言葉を遮るように、きっぱりと言った。
そうだ。
これこそが私が本当にすべきこと。
私のパティシエとしての真価が問われる瞬間。
「私は、あなた方と『交易』をしたいのです」
『交易、だと……?』
グリフォンの黄金色の瞳に、純粋な戸惑いの色が浮かんだ。
無理もない。
彼らは今まで外界と一切の関わりを持たずに生きてきたのだから。
「ええ。あなた方がこの聖域で育んだ最高の小麦を、私に安定して供給していただく。その見返りとして、私はその小麦を使って、あなた方が今まで一度も口にしたことのないものを、ご提供することをお約束します」
『……我らが、口にしたことのない、もの?』
グリフォンは不思議そうに首を傾げた。
私はにっこりと花が咲くような笑顔を浮かべてみせた。
そして私の人生の全てを懸けた、最高のプレゼンテーションを始めた。
「それは甘くて香ばしくて、一口食べればどんな生き物も幸せな気持ちになってしまう、魔法の食べ物」
私は少しだけもったいぶるように、言葉を切った。
「その名を、『お菓子』といいます」
おかし?
その聞き慣れない言葉に、二体のグリフォンは不思議そうに顔を見合わせた。
私はポケットの中から、ビスキュがくれたお守りのクッキーをそっと取り出した。
「例えば、こういうものです」
シュシュの形をしたその愛らしい焼き菓子。
そのクッキーからふわりと、バターときな粉の香ばしい匂いが立ち上る。
二体のグリフォンの鋭い鼻先が、ぴくりと動いた。
「この小麦を使えば、もっともっと素晴らしいものが作れます。雲のように軽く、淡雪のように儚く、口の中ですうっと消えてなくなる奇跡のケーキ。あなた方のお子さんたちも、きっと大喜びするはずです」
ぴい、と巣の中から元気な雛の声が聞こえてくる。
その声に促されるように、グリフォンたちはごくりと一つ喉を鳴らした。
その黄金色の瞳に、明らかな好奇の光が浮かんでいる。
『……よかろう』
やがて、長のグリフォンが重々しく口を開いた。
『その、おかし、とやらを我らも味わってみたい。貴殿のその提案、受け入れよう』
やった!
私は心の中でガッツポーズをした。
こうして私とこの聖域の守護者との間に、神聖で、そして最高に甘い約束が交わされたのだ。
まずは私自身があの究極のスポンジケーキを作るため、先行して必要な分の小麦を分けてもらえないだろうかとお願いすると、グリフォンは二つ返事で快諾してくれた。
それどころか、彼はさらにとんでもないことを申し出てきたのだ。
『礼には礼を。貴殿らをフローリアの近くまで、我らが背に乗せ送り届けてやろう』
その言葉の意味を理解するのに、しばらくの時間が必要だった。
「……え?」
空を、飛ぶ?
この伝説の聖獣の背中に乗って?
私のあまりにも間の抜けた声に、シュシュが呆れたように「わふん」と一声鳴いた。




