第二十八話:空の守護者と痩せゆく聖域
そこは、黄金色の海だった。
見渡す限り、陽光をその身いっぱいに吸い込んだ小麦の穂が、まばゆいばかりに輝きながら風にさわさわと揺れている。一本一本の穂は普通の小麦よりもずっとふっくらとしており、その重みで深く、優雅に頭を垂れていた。まるで感謝のお辞儀でもしているかのようだ。
黄金色の絨毯が、カルデラの中心に向かってなだらかに、どこまでも続いている。
そして、その黄金の海からふわりと立ち上ってくるのは、焼き立てのパンをさらに凝縮して甘くしたかのような、濃厚で香ばしい香りだった。
それはただの植物の匂いではない。これ自体がもう、一つの完成されたお菓子のように、私の鼻腔を優しく、しかし抗いがたい力でくすぐってくる。
「……あった」
ぽつりと、私の口からかすれた声が漏れた。
夢でも幻でもない。
行商人の男性が語ってくれた与太話、王都の食通たちが噂していた伝説。それが今、現実のものとして私の目の前に広がっている。
幻の『黄金の小麦』
ああ、なんて美しいのだろう。
この小麦から採れる粉は、きっと私が前世で使っていたどんな最高級の薄力粉よりも、きめ細かくて甘い香りがするに違いない。
この小麦があれば作れる。
雲のように軽く、淡雪のように儚く、口の中ですうっと消えてなくなる、究極のスポンジケーキが。
私のパティシエとしての魂が、歓喜しているのが自分でも分かった。
旅の疲れも吹雪の恐怖も、全てがこの黄金色の光景の中に吸い込まれて消えていくようだった。
「わふん!」
私の足元で、シュシュが私の喜びが伝わったかのように嬉しそうな声を上げた。
私はその小さな頭をわしゃわしゃと掻き回してやる。
「見て、シュシュ! あれが、私たちの宝物よ! さあ、行きましょう!」
私はもう、じっとしていられなかった。
一刻も早く、あの黄金の穂をこの手で触れてみたかった。
私はシュシュと一緒に丘を駆け下り、黄金色の海へとその身を躍らせた。
小麦の穂が、私の腰のあたりをさわさわと心地よい音を立ててかすめていく。
どこまでも続く、黄金の迷路。
その甘い香りに満たされて、私は子供のように、ただ無邪気にその中心へと向かって駆け続けた。
この楽園の中心に、一体何があるというのだろう。
私の魔法の感覚が捉えた、あのひときわ強い生命のエネルギーの源。
きっと、この小麦たちがそこから養分を吸い上げているに違いない。
その中心を見極めれば、この奇跡の小麦をフローリアに持ち帰って栽培するヒントが得られるかもしれない。
期待に胸を膨らませながら、私はさらに奥へと足を進めていった。
やがて、小麦畑がぷっつりと途切れた、開けた場所に出た。
そこはカルデラの中でもひときわ日当たりの良い、小高い丘のようになっていた。
そして、その頂上にそれはあった。
巨大な鳥の巣。
枯れ枝や獣の骨、そしてこの黄金の小麦の茎を巧みに編み上げて作られた、直径数メートルはあろうかという巨大な巣。
そして、その巣の中心で何かがもぞもぞと動いているのが見えた。
ぴい、ぴい、と。
か細い産毛に覆われた、三羽の雛。
まだ飛ぶこともできないくらい小さな、鳥の赤ちゃんだ。
その愛らしい姿に、私の口元がふわりと綻んだ。
「まあ……。こんなところに、鳥の巣があったのね」
どうやら、この小麦畑はこの鳥さん一家の食料庫になっているらしい。
少しだけ分けてもらうだけだから、きっと許してくれるわよね。
私がそんな甘い考えを抱きながら、巣にもう一歩近づこうとした、まさにその瞬間だった。
キエエエエエエエエエエッ!
空気を引き裂くような甲高い叫び声が、カルデラの青い空に突き刺さるように鳴り渡った。
それは今まで聞いたどんな鳥の声とも違う、金属的で威嚇に満ちた耳障りな音。
はっと空を見上げると、二つの巨大な黒い姿が太陽を背にして、こちらに向かって急降下してくるところだった。
「ぐるるるるるっ!」
私の隣でシュシュが全身の銀色の毛を逆立てて、低い唸り声を上げる。
私も咄嗟に身構えた。
その姿はあっという間に私たちの目の前に現れ、小麦畑をばさりと力強く踏みしめて着地した。
鷲の頭に、獅子の体。
背中からは巨大な翼が生えている。
神話に出てくる、伝説の聖獣。
「……グリフォン」
ぽつりと、私の口から畏怖に満ちた声が漏れた。
二体のグリフォン。つがいだろうか。
その大きさは馬よりも一回りは大きい。
鷲の頭にある鋭い鉤爪のようなくちばし。獅子の体から伸びるしなやかで力強い四肢の先には、岩をも砕くという鋭い爪。
そして何よりも、その黄金色の瞳が燃えるような怒りの光をたたえて、まっすぐに私たちを射抜いていた。
『侵入者よ』
直接、鼓膜を揺らす声じゃない。
頭の中に直接鋭い刃物をねじ込まれるような、そんな圧迫感のある声が届いた。
『何人たりとも、我らが聖域を荒らすことは許さぬ』
キエエエッ、ともう一体が威嚇するように甲高い叫び声を上げる。
間違いない。
この小麦畑は彼らの縄張り。
そしてあの巣で眠る雛たちは、彼らの子供なのだ。
私たちは彼らの領域に土足で踏み込んでしまった、招かれざる客。
まずいわ。
完全に怒らせてしまっている。
「……戦う気は、ありません」
私は両手をそっと広げて、敵意がないことを示した。
「私たちは、ただ、この小麦を少しだけ分けていただきたいだけなのです。あなた方の、お子さんたちを傷つけるつもりは決して……」
私の必死の弁明は、しかし彼らの怒りの炎に油を注ぐだけだった。
『黙れ』
一体のグリフォンが地を這うような低い声で、そう言った。
『この黄金の恵みは、我らが雛を育むための命の糧。それを、矮小なる人間ごときに一粒たりともくれてやるものか』
そう言うと、グリフォンはその巨大な翼をばさりと一度大きく広げた。
巻き起こった突風が、黄金の小麦畑をざあっと大きく波立たせる。
そして次の瞬間、一体のグリフォンが地面を強く蹴って、弾丸のようにこちらへ突進してきた。
「シュシュ!」
「わふん!」
私の叫びと同時に、シュシュが銀色の矢となってグリフォンの側面へと回り込もうとする。
だが、グリフォンの動きはそれよりも遥かに速かった。
巨大な前足が薙ぎ払うように、シュシュの体をいとも簡単に弾き飛ばす。
「きゃんっ!」
シュシュが悲痛な声を上げて、小麦畑の中へと鞠のように転がっていった。
「シュシュ!」
私は咄嗟にシュシュが転がった方向へと駆け寄ろうとする。
しかし、その私の目の前に、もう一体のグリフォンが空から急降下してきた。
鋭い爪が私の頭上めがけて振り下ろされる。
「……くっ!」
私は咄嗟に地面に両方の手のひらを強く叩きつけた。
「―――守りなさい!」
私の号令に大地が応える。
私の目の前の地面がごごごごごと地響きを立てて、もりもりと瞬時にせり上がった。
そして分厚い土の壁となって、グリフォンの猛攻をぎりぎりのところで受け止める。
がんっ、と。
金属と岩が激しくぶつかり合うような甲高い音。
土の壁に、深い三本の爪痕が生々しく刻まれた。
壁がなかったら、今頃私の体は紙のように引き裂かれていただろう。
ぞわり、と全身が粟立つような嫌な感じがした。
彼らは本気だ。
私たちを完全に排除するつもりだ。
どうしよう。
私の魔法は直接的な攻撃には向いていない。
このまま防戦一方ではじり貧になるだけだ。
シュシュはまだ立ち上がってこない。
私一人で、この二体を相手にしなくては……。
いや。
落ち着きなさい、私。
戦うんじゃない。
私がやるべきことは、戦うことじゃない。
この状況をなんとかして打開する方法。
きっと、何かあるはずだ。
私は土の壁の向こう側で、再び攻撃の体勢に入るグリフォンの、その黄金色の瞳をじっと見つめた。
その瞳にあるのは純粋な怒り。
そして、その奥にほんのわずかだけ焦りのようなものが滲んでいるのが、私には分かった。
なぜ、彼らはこれほどまでに神経質になっているのだろう。
ただ縄張りを守るためというだけでは、説明がつかないくらいの切羽詰まったような必死さ。
その理由が分かれば……。
ぴい、ぴい……。
ふと、か細い鳴き声が私の耳に届いた。
巣に残された雛たちの声だ。
その声はどこか弱々しく、元気がないように聞こえた。
私ははっとした。
そうだ。あの巣だ。
あの巣に何かヒントがあるのかもしれない。
私は土の壁にそっと手のひらを触れた。
そして壁の一部を潜望鏡のように、するすると上空へと伸ばしていく。
土の潜望鏡を通して巣の様子をもう一度、注意深く観察する。
三羽の雛。
その体は確かに産毛に覆われていて愛らしい。
でも、よく見るとその産毛には艶がなくぱさぱさに乾いている。
動きもどこか緩慢だ。
健康な雛が持つべき生命力に満ち溢れていない。
明らかに、弱っている。
そして、私はもう一つの決定的な違和感に気がついた。
巣の周りの地面。
このカルデラはどこも青々とした草花で覆われているはずなのに。
なぜかこの巣の周辺だけが、まるで真冬の荒野みたいに土が乾いた茶色になって、ところどころひび割れてさえいるのだ。
そこに生えているはずの黄金の小麦も他の場所の半分くらいの高さしかなく、その穂もやせ細って力なく垂れ下がっていた。
おかしい。
この楽園の中心であるはずの場所だけが、なぜこんなにも生命力を失っているのだろう。
その瞬間、私の頭の中で今までばらばらだったパズルのピースが、かちりと音を立ててはまるような感覚があった。
雛たちが弱っている。
巣の周りの土地が痩せている。
食料であるはずの小麦の育ちが悪い。
そして、グリフォンたちのあの切羽詰まったような焦り。
全てが、一本の線で繋がった。
原因はこれだ。
彼らはただ私たちを侵入者として攻撃しているんじゃない。
必死なのだ。
ただでさえ育ちの悪い貴重な食料を、これ以上誰にも奪われたくない。
弱っていく自分たちの子供を守るために。
彼らはただ必死に戦っていたのだ。
その事実に思い至った瞬間、私の心の中に目の前のグリフォンたちに対する深い、深い同情の念がじんわりと広がっていった。
彼らはただの凶暴な魔物なんかじゃなかった。
愛する我が子を守ろうとする、必死な親だったのだ。
そして私は、もう一つの、もっと根本的な問題に思い至った。
なぜこの場所だけが、こんなにも生命力を失っているのか。
私の土魔法の感覚が、その答えをはっきりと告げていた。
この巣の真下。
大地の中を流れる生命のエネルギーの源、地脈。
その流れがほんの少しだけ乱れている。
まるで絡まった毛糸玉のように複雑にもつれてしまって、本来なら地上へと豊かに供給されるべき大地の恵みが、その場所だけうまく行き渡っていないのだ。
「……そうか」
ぽつりと、私の口から声が漏れた。
「戦うんじゃない。私がすべきことは……」
ごんっ、と。
土の壁が再び激しい衝撃に大きく揺れた。
もう時間は残されていない。
私は心を固めて土の壁をさらさらと砂のように崩れさせた。
そして目の前で再び攻撃の体勢に入る二体のグリフォンの前に、無防備な姿を晒したのだ。
私のあまりにも予想外の行動に、グリフォンたちが一瞬だけ戸惑ったように動きを止めた。
「もう、やめにしましょう」
私はできるだけ穏やかな声で語りかけた。
「私はあなた方の敵ではありません。むしろ、助けになれるかもしれません」
私の言葉が通じているのか、いないのか。
グリフォンたちは警戒を解かないまま、じっと私を見つめている。
私はその場でぺたんと座り込むと、両方の手のひらを乾いた茶色の地面にぴたりとつけた。
「今からこの土地の治療を始めます。少しだけ時間をください」
私がそう言うと、一体のグリフォンがキエエッと鋭い威嚇の声を上げた。
今にも飛びかかってきそうな、その気配。
「わふん!」
その私とグリフォンの間に、銀色の閃光が割って入った。
シュシュだ。
いつの間にか復活した彼は、私を守るようにグリフォンの前に立ちはだかっていた。
その小さな体はグリフォンに比べれば、あまりにも頼りない。
でも、その琥珀色の瞳には一歩も引かないという強い意志の光があった。
「……ありがとう、シュシュ。少しだけ時間を稼いでちょうだい」
私は小さな相棒に全てを託すと、ゆっくりと目を閉じた。




