第二十七話:西の高峰へ、吹雪の先の導き
「……というわけで、ビスキュ。そういうことなの」
厨房のテーブルに広げられた、一枚の羊皮紙。
そこには、行商人の男性が走り書きしてくれた、西の高峰へと至る、おおまかな地図が描かれていた。私の指先が、その終着点である山の頂を、そっとなぞる。
私の話を聞き終えるまで、ビスキュの普段は絶え間なく続く効率的な動きは、ぴたりと止まっていた。彼はただ静かに、そののっぺらぼうの顔を私に向けている。
彼の沈黙は雄弁だった。その深い憂慮が、どんな悲痛な叫びよりも私の心に伝わってきた。
「心配してくれるのね、ビスキュ。でも、行かなくてはならないの」
私は、彼の頑丈な土の肩に、ぽんと手を置いてそう言った。
「最高のスポンジケーキを作るため。そして、私たちが、もっと先へ進むために。それに、私にはシュシュがついてくれるわ。私の魔法があれば、どんな困難だってきっと乗り越えてみせるから」
私の言葉に、ビスキュはゆっくりとその大きくてごつごつとした手を持ち上げた。
そして、私の頭を、わしゃわしゃと、少しだけ乱暴に掻き回す。
その無骨な手つきは、これから無謀な旅へと向かう娘の身を案じる、不器用な父親のそれのように、どこまでも優しかった。その温かい仕草に、私の胸の奥がきゅっと甘く締め付けられる。
「……ありがとう。必ず無事に帰ってくるわ。そしたら、この世界で一番美味しいお菓子を、あなたに作ってあげるから」
私の誓いに、ビスキュはこくりと一つ、力強く頷いた。
そして彼は、おもむろに厨房の奥にある食料庫へと歩いていくと、戻ってきたその手には、一枚のクッキーが大切そうに握られていた。
それは、シュシュの形をした、愛らしい『森の動物クッキー』
その焼き菓子を、そっと、彼は私の手のひらの上に乗せた。
『どうか、ご無事で。これを、旅のお守りにしてください』
声にはならない、しかしあまりにもまっすぐな想いが、そのクッキーの素朴な温もりを通して、じんわりと私の心に伝わってきた。
私は、その小さな勇気のかけらを、ぎゅっと大切に握りしめた。
「ありがとう、ビスキュ。あなたの気持ち、確かに受け取ったわ。それじゃあ、行ってくるわね。お留守番、お願いするわね」
私とシュシュは、頼もしい助手に見送られ、朝日が昇り始めたばかりのひんやりとした空気の中へと、一歩踏み出した。
お店の扉の前で、ビスキュが、いつまでも見えなくなるまで、深々と、お辞儀を続けているのが、振り返らなくても分かった。
彼の想いを胸に、私は、まだ見ぬ黄金色の宝物を求めて、西へと向かう。
フローリアの町を抜け、西へと続く街道を、私とシュシュは並んで歩いていた。
最初は、見慣れたなだらかな草原が広がっていたけれど、丸一日も歩くと、景色はがらりとその表情を変えた。
緑の絨毯は次第に色を失い、ごつごつとした灰色の岩肌が剥き出しになった殺風景な大地がどこまでも続いている。空に向かって、ねじれた形の奇岩がいくつもいくつも突き出していて、まるで巨大な動物の骨が転がっているみたいだ。
吹き抜ける風はひゅうと乾いた音を立てて私の髪を揺らす。そこには土や草の匂いの代わりに、鉄錆と冷たい石の匂いがかすかに感じられた。生命の気配が希薄な土地。
そんな荒涼とした風景の中を、私たちは黙々と歩き続けた。
「わふっ!」
不意に、先を歩いていたシュシュが、鋭く一声鳴いて立ち止まった。彼の鼻先が、進行方向の先にある、巨大な崖を指している。
そこは、道がぷっつりと途切れていた。おそらく、少し前の長雨で、崖の一部が崩れ落ちてしまったのだろう。幅十メートルほどの巨大な亀裂が、まるで大地に刻まれた深い傷跡のように、私たちの行く手を阻んでいた。
「まあ……これは、困ったわね」
迂回しようにも、左右は切り立った崖が続いている。ここを越えなければ、先へは進めそうにない。普通の旅人なら、ここで引き返すしかないだろう。
「ふふっ、でも、私たちにとっては、なんてことないわね」
私は、シュシュに向かってにっこりと笑いかける。
私の魔法は、こういう時のためにあるのだから。
私は、崩れた崖の淵に立つと、その場にぺたんと座り込み、両方の手のひらをひんやりとした地面にぴたりとつけた。
「さあ、始めましょうか。ちょっとした、橋架け作業よ」
ゆっくりと目を閉じて意識を集中させる。
私のマナを、この崖全体へと、じっくりと隅々まで浸透させていく。
私の感覚が、この空間そのものと、完全に一つになった。
崩れ落ちた土砂の重み、崖の岩盤の硬さ、そして、向こう岸までの正確な距離。その全てが、私の頭の中に、まるで精密な設計図のように、はっきりと描き出されていく。
イメージするのは、頑丈で、びくともしない、石の橋。
「―――繋がりなさい」
心の中で、強く、はっきりと命じる。
ごごごごごごごごっ!
その瞬間、今まで経験したことのないような激しい地響きが、足元から這い上がってきた。
私の目の前で、崩れた崖の断面が、まるで生きているみたいにもりもりとせり上がり始めたのだ。土が、石が、私の思い描いた通りの形に集まり、圧縮され、向こう岸へと向かって、ぐんぐんと伸びていく。
それは、魔法というより、巨大な重機を使った建設作業そのものだった。
あっという間に、二つの崖は、美しいアーチを描く、立派な石の橋で、再び固く結ばれた。
「はい、完成よ」
私が、ぱん、とスカートの土を払って立ち上がると、シュシュは、あんぐりと口を開けて、目の前の光景を呆然と見つめていた。
「どう、シュシュ? なかなかの出来栄えでしょう? これなら、後から来る旅人さんたちも、きっと助かるはずよ」
「わ、わふん……!」
シュシュが、我に返ったように、尊敬の念のこもった声で鳴いた。
私たちは、出来たばかりの橋を渡り、再び、西へと歩き始めた。
山麓までの道のりは、その後も、決して平坦なものではなかった。
行く手を阻む巨大な岩を、魔法で砂のように崩して道を開き、ぬかるんだ湿地帯には、石畳の道を即席で作って渡る。
それは、旅というより、道を作る作業そのものだった。
そして、旅を始めて三日目の朝。
私たちの目の前に、ついに、目的の山がその雄大な姿を現した。
天を突き刺すかのように、鋭くそびえ立つ、灰色の岩山。
山頂付近は、万年雪だろうか、純白の衣をまとっていて、その姿は、どこか神々しく、人を寄せ付けないような、厳かな雰囲気を放っていた。
「……あれが、西の高峰」
私は、ごくりと唾を飲んだ。
行商人の男性が言っていた通り、ここから先は、もう道らしい道はない。
ただ、険しい岩肌が、どこまでも続いているだけ。
「ここからが、本番ね、シュシュ。気合を入れていきましょう」
「わふん!」
シュシュが、頼もしく一声鳴いた。
私たちは、顔を見合わせると、ごつごつとした岩肌に、最初の一歩を、力強く踏み出した。
登山は、私が想像していた以上に、過酷なものだった。
足場は悪く、一歩踏み外せば、真っ逆さまに滑り落ちてしまいそうだ。
吹き下ろしてくる風は、まるで氷の刃みたいに冷たくて、容赦なく、体温を奪っていく。
私の土魔法も、この広大な山の前では、あまりにも非力に感じられた。
それでも、私たちは、歯を食いしばって、一歩、また一歩と、上を目指し続けた。
そして、登山を始めて半日が過ぎた頃。
空の様子が、急におかしくなった。
さっきまで、青く澄み渡っていたはずの空が、いつの間にか、重たい鉛色の雲に、びっしりと覆われてしまっている。
ひゅう、と、今までとは比べ物にならないくらい、冷たくて、湿った風が、唸り声を上げて吹き荒れ始めた。
「……まずいわね」
ぽつりと、私の口から声が漏れた。
次の瞬間、空から、白いものが、ぱらぱらと舞い落ちてきた。
雪だ。
最初は、粉砂糖を振りかけたみたいに、可愛らしいものだった。
でも、その勢いは、あっという間に、猛烈なものへと変わっていく。
ごう、ごう、と。
風が、獣の咆哮のような音を立てて吹き荒れ、視界は、一瞬で、真っ白な吹雪に閉ざされてしまった。
数メートル先すら、見通すことができない。
体感温度が、急速に下がっていくのが、肌で分かった。このままでは、凍え死んでしまうかもしれない。
「ぐるるる……!」
私の足元で、シュシュが、鋭く唸り声を上げた。
彼の優れた聴覚と嗅覚が、この猛烈な吹雪の中に、何か、別の気配を捉えたのだ。
一つじゃない。いくつもの、敵意に満ちた気配が、じりじりと、私たちを取り囲むように、近づいてきている。
この吹雪に乗じて、襲うつもりだ。
この山の、主たち。
「……くっ」
最悪の状況。
この視界の悪い中で、戦闘になるのは、絶対に避けなくては。
「シュシュ、こっちよ!」
私は、シュシュを促すと、すぐ近くにあった、巨大な岩の陰へと、身を滑らせた。
そして、その岩壁に、そっと、両方の手のひらを触れる。
「―――私たちを、お守りなさい」
私の、祈るような声に応えて、岩が、まるで生きているみたいに、その形を変え始めた。
私たちの周りの岩壁が、もりもりと、内側へとせり出してきて、あっという間に、私たちを完全に覆い隠す、小さな、かまくらのような、岩のシェルターを作り上げたのだ。
これで、ひとまずは、猛烈な風雪と、敵の視線から、身を守ることができる。
シェルターの中は、外の喧騒が嘘のように、静かだった。
でも、安心はできない。
岩壁の向こう側から、がりがり、と、鋭い爪で、岩を引っ掻くような音が聞こえてくる。
敵は、私たちの居場所を、完全に見失ったわけではないらしい。
このまま、ここに籠城していても、いずれは、この岩の壁を突き破られてしまうだろう。
どうしようか。
私が、ぐっと唇を噛みしめていると、ふと、シュシュが、私の服の裾を、くい、と引っ張った。
そして、その鼻先で、シェルターの、床の一点を、とん、と叩いてみせる。
「……床?」
私が、不思議そうに首を傾げると、シュシュは、もう一度、「こっちだ!」とでも言うように、力強く、床を叩いた。
その瞬間、私は、はっとした。
そうだ。
どうして、今まで、こんな簡単なことに、気がつかなかったんだろう。
敵が、上と横から来るのなら。
私たちは、下へ行けばいい。
「ありがとう、シュシュ! あなたって、本当に、天才ね!」
私は、シュシュの頭をわしゃわしゃと撫でてやると、彼が指し示した、床のその一点に、そっと、手のひらを触れた。
イメージするのは、子供の頃に遊んだ、滑り台。
まっすぐ、下へ。この山の、懐の奥深くへと。
「―――道を開きなさい!」
私の号令に、大地が応える。
私たちの足元の岩盤が、音もなく、すうっと、斜め下へと続く、滑らかなトンネルへと、その姿を変えた。
私たちは、その生まれたばかりの暗闇の中へと、躊躇なく、その身を滑らせていった。
どれくらいの時間、その暗闇の中を滑り落ちていったのだろう。
体感では、ほんの数分。でも、それは、永遠のようにも感じられた。
やがて、その長いトンネルの先に、ぽつり、と、小さな光が見えてきた。
光は、どんどん、どんどん、大きくなっていく。
そして、私たちは、まるで母親の胎内から生まれ落ちる赤子のように、その温かい光の中へと、ふわりと、放り出された。
「……うわっ」
思わず、私は目を細めた。
あまりにも眩しい光。
しばらくして、目が慣れてくると、私は、自分の目の前で起きている、信じられない光景に言葉を失った。
そこは、洞窟の中ではなかった。
私たちは、山の外に出ていたのだ。
でも、そこは、さっきまでいた、猛吹雪の吹き荒れる、灰色の世界とは、全くの別世界だった。
空は、突き抜けるように、どこまでも青く澄み渡っている。
太陽の光が、まるで蜂蜜みたいに、優しく、温かく、降り注いでいた。
私たちの足元には、雪ではなく、青々とした、柔らかな草が、絨毯のように、どこまでも広がっている。
見渡す限り、色とりどりの、見たこともない花々が、咲き乱れていた。
甘い花の蜜の香りが、そよ風に乗って、ふわりと、鼻先をかすめる。
ここは、巨大な、すり鉢状の盆地。
おそらく、大昔の火山の噴火口、カルデラなのだろう。
高い外輪山が、壁となって、外界の猛烈な吹雪を、完全に遮断してくれているのだ。
まるで、この山の中にぽっかりと取り残された、奇跡のような場所。
「……すごい」
ぽつりと、私の口から、感嘆の声が漏れた。
シュシュも、あんぐりと口を開けたまま、目の前の光景を呆然と見つめている。
数日間にわたる、過酷な旅の疲れが、この温かい陽光と優しい花の香りに、すうっと、消えていくようだった。
「きっと、ここよ、シュシュ」
私の声は、期待にわずかに震えていた。
「この場所のどこかに、私たちが探し求めている、あの黄金の小麦が、眠っているはずだわ」
でも。
この、いくら美しいカルデラの中を歩き回っても、それらしきものは、どこにも見当たらなかった。
あるのは、ただ、青々とした草原と、色とりどりの花々だけ。
おかしい。
行商人の男性の話は、ただの言い伝えだったというのか。
私の心に、じわり、と、焦りの色が広がり始めた、その時だった。
「……諦めるのは、まだ早いわ」
私は、自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
そして、その場にぺたんと座り込むと、両方の手のひらを温かい草の絨毯の上にぴたりとつけた。
もう一度、大地と対話するのだ。
ゆっくりと目を閉じて、意識を集中させる。
私の感覚が、まるで植物が地中深くに根を張るように、このカルデラ全体へと、どこまでも広がっていく。
湿った土の匂い。ひんやりとした地下水の流れの感触。
花の根が力強く、大地を掴んでいるかのような生命の躍動。
その無数の情報の中で、私は、ある特定の感覚だけを探し出す。
この場所の中で、ひときわ強く、そして、気高い生命のエネルギーを放っている場所。
それは、そこら中に、満ち溢れている。
でも、その流れが、まるで、大きな川に、無数の小川が合流するように、たった一つの場所へと、集約されていくのが分かった。
見つけた。
私は、ゆっくりと、目を開けた。
「シュシュ、こっちよ。こっちに、何かがあるわ」
私は、立ち上がると、その、生命の流れに導かれるように、カルデラの、さらに中心部へと、歩を進めていった。
シュシュも何かを感じ取ったのか、私の隣で真剣な顔つきで前方をじっと見据えている。
私たちは、小さな丘を一つ、越えた。
そして、その向こう側に広がる光景に息を呑んだ。




