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お菓子作りのための追放スローライフ~婚約破棄された公爵令嬢は、規格外の土魔法でもふもふ聖獣やゴーレムと理想のパティスリーを開店します~  作者: 速水静香
第七章:小麦を求めて

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第二十六話:王都の噂と黄金の小麦

 店の扉につけた真鍮のベルが、昼下がりの穏やかな光の中で涼やかな音を立てた。

 その澄んだ音色は、すっかりこの町の日常の一部になっている。私はカウンターの内側で、焼き上がったばかりのクッキーを一枚一枚丁寧に袋に詰めながら、その音に顔を上げた。


「いらっしゃいませ! パティスリー『銀のしっぽ亭』へ、ようこそ!」


 私の明るい声と、隣でぴしりと直立不動の姿勢をとるビスキュの深々としたお辞儀。

 これもまた、お馴染みになった光景だ。

 おかげさまで『女王の蜂蜜パイ』は、店の看板商品として不動の地位を確立していた。銀貨一枚という、この町では破格の値段設定にもかかわらず、その黄金色に輝く一切れを求めて、毎日たくさんのお客様が足を運んでくれる。濃厚で気品のある甘さと、リンゴの爽やかな酸味の調和は、一度食べたら忘れられない味だと評判だった。


 店の経営は順調そのもの。店の収益も安定し、生活に困ることはもうない。お店の売り上げによって、貯金袋はずっしりとした重みを増していく。


 穏やかで、満ち足りた毎日。


 でも、私の心の中には、日に日に、小さな、でも無視できない一つの想いが、まるでオーブンの中でゆっくりと膨らむパン生地みたいに、その存在感を増していた。


「……うーん、やっぱり、だめね」


 その日の営業が終わった後、ぴかぴかに磨き上げた厨房で、私は一人、腕を組んで唸っていた。

 作業台の上には、一つの無残な塊が横たわっている。私が先ほど試作した、スポンジケーキの成れの果てだ。見た目はそれなりに膨らんでいるように見える。でも、指でそっと押してみると、期待したような、雲みたいに軽い弾力はなく、ずしりと重たい手応えが返ってくるだけ。ナイフで切ってみれば、その断面はきめが粗く、まるで目の詰まった蒸しパンみたいだった。


「くぅん……」


 私の足元で、シュシュが心配そうに私の顔を見上げている。その琥珀色の瞳が『また失敗しちゃったの?』と問いかけていた。私は、その小さな頭を優しくこすってやる。


「ええ、そうなのよ、シュシュ。何度やっても、理想の食感には程遠いわ。これじゃあ、ただの甘いパンよ」


 私がため息をつくと、厨房の隅で調理器具を片付けていたビスキュが、すうっと音もなく私の隣にやってきた。そして、その失敗作を、のっぺらぼうの顔でじっと見つめている。


『材料の配合を変えてみてはいかがでしょうか』


 声にはならない、しかしあまりにも的確な助言が、その健気な様子を通して、じんわりと私の心に伝わってくる。


「もちろん、それも何度も試したわ、ビスキュ。卵の泡立て方、オーブンの温度、焼き時間。考えられる全ての要素を、グラム単位、秒単位で調整した。でも、結果はいつも同じ。この、ぼそぼそして、口の中で重たく残る、残念な食感……」


 原因は分かっている。

 この町で手に入る、一番上等な小麦粉。それでも、私が前世で使っていた、絹のようにきめ細かく、どこまでも軽い薄力粉とは、比べ物にならないくらい、粒子が粗いのだ。

 この粉では、どんなに技術を尽くしても、あの淡雪のように儚い口溶けを生み出すことはできない。


 理想と現実の、大きな隔たり。


 私は、作業台の上に置かれた小麦粉の袋を、指先でそっと撫でた。ざらりとした、素朴な感触。これも美味しいお菓子になる。


 でも、私が作りたいのは、これじゃないんだ。


 前世の記憶が鮮明に蘇る。絹のようにどこまでもきめ細かい、純白の薄力粉。その粉をふわっと空中に舞わせた時の、甘い香り。その粉でなければ決して生まれない、あの食感。

 あの味を、この世界で、どうしても再現したい。

 そのためには、王都から輸入される、あの最高級の小麦粉が必要不可欠。


 でも、その値段は……。


 交易所で見た、あまりにも高価な値段を思い出した。


 『金貨十九枚』


 今の店の収益が安定した今でも、日常的に、気軽に手を出せるような価格ではない。

 やはり、別の何かを見つけなければならない。

 まるで、私は出口のない迷路を進んでいるかのような気持ちだった。


 そんな、私の心の中の灰色の雲を吹き飛ばすかのように、店の扉についたベルが、からん、と今まで聞いたことがないくらい、高らかな音を立てて鳴り響いたのは、それから数日後のことだった。

 まるで、凱旋将軍が故郷に錦を飾るかのように、一人の男性が、胸を張って店の中へと入ってきたのだ。


「よお、店主! 戻ったぜ!」


 日に焼けた顔を、満面の笑みで輝かせていたのは、あの、行商人の男性だった。

 王都へ旅立ってから、ひと月ぶりだろうか。彼の顔は、前回会った時とは比べ物にならないほど、自信と興奮で、つやつやと輝いている。その目は、まるで、採掘したての鉱石のように、ギラギラとした光を帯びていた。


「まあ、いつもご贔屓ありがとうございます。なるほど、その、ご機嫌な様子。商売はうまくいきましたか?」


 私が微笑みかけると、彼はカウンターに、どん、と両手をつき、体を寄せて、声を潜めて話し始めた。


「ああ、もちろんだ!店主、あんたの菓子は、今や王都の新しい名物だ!下町の熱狂はな、今じゃ貴族街にまで飛び火してやがるんだぜ!」


 彼は、ごくりと喉を鳴らすと、まるで吟遊詩人が英雄譚を語るかのように、王都でのその後の出来事を、活き活きと語り始めた。

 下町での人気は不動のものとなり、今では彼の露店は「銀のしっぽ亭・王都出張所」などと勝手に呼ばれ、一種の名所になっているらしい。そして、その話はついに、壁の向こう側の世界、つまり貴族たちの耳にもはっきりと届いてしまったのだという。


「最初は、屋敷に仕える料理人や侍女たちが、お忍びで買いに来るだけだった。だがな、そのうちの一人が、女主人のお茶会にこっそりあんたのクッキーを出したのが、全ての始まりだった」


 舌の肥えた貴婦人たちが、その一口で虜になった。瞬く間に、貴族のサロンでは「銀のしっぽ亭」の菓子が供されるのが最先端の流行となり、彼の元には毎日、各家からの使いがひっきりなしに訪れるようになったという。


「だがな、店主。連中はただ美味い美味いと食ってるだけじゃねえ。こうも言ってるんだ。『この焼き菓子の見事さは、まだ序章に過ぎない。この職人の真価は、もっと繊細な菓子でこそ発揮されるだろう』…てな」


 私は、言葉を失った。自分の作ったお菓子が、そんな風に評価されているなんて。それは、嬉しい、というよりも、もはや、現実感がなくて、まるで、どこか遠い国の、おとぎ話を聞いているみたいだった。


「だからよ、店主!」


 行商人の男性が、懇願するように頭を下げる。


「頼む! もっと、もっとだ! 前回よりも、ずっと多くの量を、俺に卸してくれ!俺も商人の端くれだ。この金のなる木を、枯らすわけにはいかねえ!」


 あまりにも熱のこもった言葉。

 私は、彼の商売人としての、純粋な情熱に、少しだけ、気圧されてしまった。


「……分かりました。できる限りの量を、ご用意いたしましょう」


 私のその言葉に、行商人の男性は、百人力の味方を得たかのように顔をほころばせた。

 彼は、前回よりも、ずっと大きな木の箱を、カウンターの上に、どん、と置くと、ふと、何かを思い出したように、ぽんと手を打った。


「ああ、そうだ。そういや、店主。王都の連中が面白いことを言ってたぜ」

「面白いこと、ですって?」

「おう。俺の店に来る、ちょっと金回りの良さそうな食通の連中が、口を揃えて言うんだ。『あれほど素晴らしい焼き菓子を作る職人ならば』ってな」


 彼は、少しだけもったいぶるように、言葉を切った。


「『幻の『黄金の小麦』を手に入れれば、歴史に残るような、極上のケーキが作れるだろうに』、とな」


 その言葉を聞いた瞬間。

 私の心の中の、何かが、ぴん、と張り詰めた。


 おうごんのこむぎ……?


「それは、一体、どういうものですか?」


 私の声が、自分でも驚くほど、わずかに上擦っていた。

 行商人の男性は、顎に手をやって、ふむ、と思い出すように言った。


「俺も、詳しいことは知らねえんだがよ。なんでも、その『黄金の小麦』ってのは、昔、この辺りの地方でだけ、栽培されてた、特別な小麦らしい。普通の小麦よりも、ずっと色が濃くて、まるで金色の穂が風に揺れるようだったって話だ」


 金色の穂……。


「その小麦から採れる粉は、驚くほどきめが細かくて、甘い香りがしたらしい。特に、焼き菓子、それも、あんたが今、悩んでるみてえな、ふわふわのケーキを作るのに、これ以上ねえ、最高の材料だったんだとさ」


 私の全身が、粟立つような、甘い予感に包まれた。

 最高の材料……。


「ですが、そんなに素晴らしいものが、どうして、今はないのですか?」

「そいつが、問題でな」


 彼は、肩をすくめてみせた。


「その小麦、育てるのが、とんでもなく、難しかったらしいんだ。土地を選ぶし、病気にも弱い。ほんの少し、天候が崩れただけで、すぐに枯れちまう。手間がかかるくせに、収穫量は少ない。だから、いつの間にか、誰も作らなくなって、もっと育てやすい、普通の小麦に取って代わられちまった。今じゃ、その存在すら知る者はほとんどいねえ、まさに『幻の小麦』ってわけさ」


 廃れてしまった、伝説の小麦。

 一度は灯った希望が、消えかけていた。


 だめか。


 やっぱり、そんな都合のいい話、あるわけが……。


「―――ただな」


 行商人の男性が、悪戯っぽく、片方の目をつむった。


「あくまで、言い伝えだがな。その『黄金の小麦』、栽培はされなくなったが、この世から消えちまったわけじゃねえ、って話があるんだ」

「……!」

「このフローリアから、さらに西。もっとずっと、人の寄り付かねえ、高い山のどこかに。その野生種が、今も、誰にも知られず、ひっそりと、群生してる場所がある、ってな。まあ、ただの与太話だろうがよ」


 彼の言葉が、私の耳に届いた、その瞬間。

 まるで、分厚い霧がさっと晴れて、目の前に、一本の道がすうっと現れたかのようだった。

 私をがんじがらめに縛り付けていた、『材料の壁』という名の、見えない檻が音もなく消え去っていく。

 今まで、私の心を覆っていた、灰色の雲が、一瞬で、吹き飛んでいく。


 これだわ……!


 答えは、もう一つしかない。

 自分の力で手に入れるのだ!


「……お客様」


 私の唇から、自分でも驚くほど、静かで、でも、揺るぎない声がこぼれ落ちた。


「その山の場所を詳しく教えてはいただけませんでしょうか」


 私の、あまりにも真剣なその表情に、行商人の男性は、ぎょっとしたように、目を見開いた。


「お、おい、店主。まさか、あんた、本気で探しに行く気じゃねえだろうな。ただの伝説だぜ?それに、そんな人里離れた高山、どんな魔物がうろついてるか、分かったもんじゃねえよ」

「ええ、もちろん、本気です」


 私は、にっこりと、花が咲くような笑顔を浮かべてみせた。


「私は、入手可能な材料を目の前にして、尻込みするような生き物ではありません。たとえ、それが、どんなに危険な場所にあったとしても」


 私のどこか常軌を逸した宣言に、行商人の男性は、しばらくの間、あんぐりと口を開けて、固まっていた。

 やがて、彼は、はあ、と天を仰ぐような深いため息をつくと、心底、降参した、という顔で、がしがしと自分の頭を乱暴に掻きむしった。


「……分かった、分かったよ!もう、あんたの菓子への執念には、誰も勝てねえよ!俺が知ってる限りのことは、全部、教えてやる!だから、絶対に、無茶だけはするんじゃねえぞ!」


 私は、彼から、その高山の場所が記された、大まかな地図を、羊皮紙に書き写してもらった。

 行商人の男性が、いっぱいの焼き菓子を背負って、店を後にした後。

 私は、厨房のテーブルで、その地図を食い入るように見つめていた。

 ビスキュとシュシュが、何も言わずに、私のそばに、そっと寄り添ってくれていた。


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