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お菓子作りのための追放スローライフ~婚約破棄された公爵令嬢は、規格外の土魔法でもふもふ聖獣やゴーレムと理想のパティスリーを開店します~  作者: 速水静香
第六章:新たな食材を求めて

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第二十五話:王都の噂と新たな取引

 店の扉につけた真鍮のベルが、昼下がりの穏やかな光の中で涼やかな音を立てた。その澄んだ音色は、すっかりこの町の日常の一部になっている。私はカウンターの内側で、焼き上がったばかりのクッキーを一枚一枚丁寧に袋に詰めながら、その音に顔を上げた。


「いらっしゃいませ! パティスリー『銀のしっぽ亭』へ、ようこそ!」


 私の明るい声と、隣でぴしりと直立不動の姿勢をとるビスキュの深々としたお辞儀も、またお馴染みになった光景だ。

 扉を開けて入ってきたのは、日に焼けた顔に大きな荷物を背負った、旅慣れた風体の男性だった。フローリアと他の町を行き来して生計を立てている、いわゆる行商人というやつだろう。

 彼はギルドで顔見知りになった冒険者たちとは少し違う、品定めをするような鋭い目で店の中をぐるりと見回した。


「ほう。ここが噂の……なるほど、こりゃあ確かに、ただの菓子屋じゃねえな」


 彼は独り言のようにそう呟くと、まず店中を満たす甘い香りを、くん、と鼻を鳴らして味わうように吸い込んだ。

 そして、ショーケースに並べられた色とりどりのお菓子を、値踏みするようにじっくりと眺め、最後に壁の棚に飾られた焼き菓子たちに、ふむ、と満足げに頷いてみせた。


「へえ。噂に聞く『女王の蜂蜜パイ』ってのは、あれかい。なるほど、確かにこりゃあ、ただもんじゃねえ輝きだ」


 彼の視線が、ショーケースの中でひときわ黄金色に輝くパイに注がれている。その目は、ただ美味しそうだと感動しているのとは少し違う。

 まるで、磨かれる前の原石に真の価値を見出した宝石商のような、そんな鋭さがあった。


「お客様、何かお探しでございますか?」


 私がにこやかに声をかけると、彼は私に視線を移し、にやりと人の良さそうな、それでいてどこか抜け目のない笑みを浮かべてみせた。


「ああ、嬢ちゃんがここの店主かい。噂通りの、可愛らしい聖女様だな。いやいや、失礼。俺はフローリアと王都を定期的に往復してる、ただの行商人さ。この町に来るたびに、あんたの店の話は耳にしてたんだが、これほどのものとは正直、思わなかったぜ」

「まあ、お褒めにあずかり光栄です」

「お世辞じゃねえよ。この匂いだけで分かる。あんた、とんでもねえ腕の持ち主だ」


 彼はそう言うと、一番人気の『女王の蜂蜜パイ』と、日持ちのしそうな『森の動物クッキー』、それから『森の恵みのフロランタン』をいくつか注文してくれた。そして、他のお客様と同じように、店の隅にあるイートインスペースのテーブルで、ハーブティーと一緒にゆっくりとそれを味わい始めた。


 ただ、その食べ方が、他のお客様とはまるで違っていた。

 彼は、まずパイのかけらをほんの少しだけ口に運び、目を閉じて、じっくりとその香りや風味を確かめている。次に、クッキーを一枚、かり、と音を立てて割り、その断面のきめ細かさを、真剣な顔つきで検分している。フロランタンに至っては、指先でキャラメルの粘り具合を確かめてから、ようやく口に運んでいた。


 それは、ただお菓子を味わっているのではない。明らかに、商品としての価値を、その五感の全てを使って分析している動きだった。


 私は彼のその真剣な様子が少しだけ気になりながらも、次々と訪れるお客様の対応に追われていた。やがて、彼が席を立ち、満足げな、それでいて何かを心に決めたような顔で、会計のためにカウンターへとやってくる。


「いや、参った。完敗だ」


 彼は開口一番、そう言って、はあ、と大きなため息をついた。


「なんだこりゃ。美味いなんて言葉じゃ、あまりにも安っぽすぎる。このパイの、複雑で気品のある甘さ。このクッキーの、口に入れた瞬間にほろりとなくなる軽やかさ。フロランタンの、木の実の香ばしさとキャラメルの完璧な調和。どれ一つとっても、俺が今まで食ってきたどんな菓子よりも、遥かに上等な代物だ」

「お口に合ったようで、何よりですわ」


 心からの称賛の言葉に、私の気持ちは温かくなる。

 すると、彼はカウンターにぐっと体を寄せて、声をひそめてこう言った。


「なあ、嬢ちゃん。単刀直入に聞く。この菓子、俺に卸してくれねえか」

「……卸す、ですって?」


 思わず、私は間の抜けた声で聞き返してしまった。

 彼の言葉の意味が、一瞬、理解できなかったのだ。


「ああ、そうだ。俺はな、フローリアで仕入れた珍しい毛皮や鉱石を、王都で高く売って儲けてる。そして、王都でしか手に入らねえ上等な布や香辛料を、今度はこっちで売る。その繰り返しさ。だがな、あんたの菓子は、俺が今まで扱ってきたどんな商品よりも、とんでもねえ『宝』になる匂いがするんだ」


 彼の目は、商売人のそれになっていた。きらきらとした、野心と確信の光を帯びて。


「この味は、絶対に王都でも通用する。いや、下町の連中だけじゃねえ。王都の、舌の肥えた貴族どもが食ってるどんな高級菓子よりも、間違いなくこっちの方が上等だ。俺が保証する」

「王都……」


 その言葉を聞いた瞬間、私の思考が凍りついた。


 王都。

 私が、全てを捨ててきた場所。

 もう二度と関わることはないと、そう思っていた、過去の世界。


 私の作ったお菓子が、あの場所へ行く。


 レオンや、クロエが、もしかしたら、それを口にするかもしれない。

 そう考えただけで、胃の腑のあたりが、ずしりと重たくなるのを感じた。


「どうした、嬢ちゃん? 何か、都合が悪いのか?」


 私の表情の変化に、行商人の男性が怪訝な顔をする。


 私は、はっと我に返った。

 だめだ。ここで、個人的な感情に流されては。

 私は、パティシエだ。

 私の夢は、何だった?


 『美味しいお菓子を、誰もが気軽に食べられるお店を開きたい』


 その『誰もが』という言葉の中に、王都の人々が含まれていないなんて、そんな道理はないはずだ。

 フローリアの人々だけじゃなく、もっとたくさんの人に、私のお菓子を食べて、笑顔になってほしい。

 それこそが、私の本当の願いじゃなかったのか。


 過去は、過去。

 今の私は、この『銀のしっぽ亭』の店主。


 私の作るお菓子が、私の知らない場所で、誰かを幸せにできるというのなら、それは、パティシエとして、これ以上ない喜びのはずだ。


「……いいえ。何も。ただ、少し、驚いただけですわ」


 私は、顔に貼り付けた笑顔が、不自然にこわばっていないか、気にしながら言った。


「ですが、お話はよく分かりました。あなた様の、その熱意、そして私のお菓子をそこまで高く評価してくださるお気持ちは、大変嬉しく思います」

「! じゃあ、話は決まりか!」

「まあ、お待ちになって。一つだけ、条件がございます」


 私は、人差し指を一本、ぴんと立ててみせた。


「このお店は、このフローリアの町の人々のために開いたお店です。ですから、いかなる時も、この町のお客様への供給を最優先とさせていただきます。あなた様にお渡しできるのは、あくまで、日々の営業で出た、余剰分のみ。それでも、よろしいでしょうか」


 それは、商売としては、あまりにも不安定で、不誠実な条件かもしれない。

 でも、これだけは、絶対に譲れなかった。

 行商人の男性は、私のその言葉に、一瞬、きょとんとした顔になった。


 そして、次の瞬間。


 彼は、腹を抱えて、がはははは、と豪快に笑い出した。


「はははっ! 面白い! 嬢ちゃん、あんた、本当に面白いやつだな! 普通なら、王都の大市場に繋がるって話に、飛びつくもんだぜ! それを、この辺境の町の客を一番に考えるたあ! 気に入った! ますます、あんたのことが気に入ったぜ!」


 彼は、大きく頷いた。


「ああ、いいとも! その条件、飲んだ! 俺はな、あんたのその心意気ごと、王都に運んでやるぜ! それじゃあ、早速だが、今日はこのクッキーとフロランタンを、ありったけもらっていこうか!」


 こうして、少し風変わりな形で、私と、王都を繋ぐ、最初の取引は成立した。

 ビスキュが、日持ちのする焼き菓子を、丁寧に、大きな木の箱に詰めていく。

 その横で、シュシュが、何が起きたのかよく分からない、といった顔で、不思議そうに首を傾げていた。

 行商人の男性は、ずっしりと重くなった木の箱を、軽々と背負うと、にっと、白い歯を見せて笑った。


「それじゃあな、店主! 次にここに来る時には、きっと、あんたが腰を抜かすような、土産話を持ってきてやるからよ! 楽しみに待ってな!」


 彼はそう言うと、威勢よく、店を後にして行った。

 その、力強い背中を見送りながら、私は、自分の決断が正しかったのかどうか、まだ少しだけ、自信が持てずにいた。

 私の知らない場所で、私の作ったお菓子が、どんな出来事を引き起こすのか。

 それは、楽しみなようで、少しだけ、怖いような、そんな不思議な気持ちだった。


 行商人の男性が、王都へ旅立ってから、数週間が過ぎた。


 『銀のしっぽ亭』の日常は、何も変わらない。


 毎朝、日の出と共に厨房に立ち、ビスキュとシュシュと共に、心を込めてお菓子を焼く。開店と同時に、お客様の笑顔と陽気な声で、店は満たされる。

 穏やかで、満ち足りた日々の心地よさに、私は、あの日の、一抹の不安を、すっかり忘れかけていた。


 そんな、ある日の午後のことだった。


 店の扉についたベルが、ちりん、と、今まで聞いたことがないくらい、けたたましい音を立てて鳴り響いた。

 まるで、何かに追われるように、一人の男性が、店の中へと転がり込んできたのだ。


「はあ、はあ……! て、店主! いたか!」


 息を切らし、汗だくになっていたのは、あの、行商人の男性だった。

 彼の顔は、前回会った時とは比べ物にならないほど、興奮で、真っ赤に上気している。

 その目は、まるで、巨大な金脈でも掘り当てたみたいに、らんらんと、熱っぽく輝いていた。


「まあ! あなた様、どうなさったのですか、そんなに慌てて」

「どうしたもこうしたもねえよ! おい、店主! 大変なことになっちまったぞ!」


 彼は、カウンターに、どん、と両手をつくと、体を寄せて、まくしたてるように、話し始めた。


「あんたの菓子! 王都で、とんでもねえことになってやがる!」


 彼の話によれば、こうだった。

 最初は、王都の活気はあるけれど、決して裕福とは言えない下町の市場。その隅っこの小さな露店で『辺境の珍しい焼き菓子』として、ささやかに売り始めたらしい。


 もちろん、看板も宣伝もない。


 道行く人たちも、最初は物珍しそうに、遠巻きに眺めているだけだったという。


「だがな、俺は、あんたの菓子の力を信じてた。だから、試食用のクッキーを、小さな欠片にして、配ってみたんだ」


 その、たった一つの欠片が、全ての始まりだった。

 何気なく、それを口に放り込んだ、一人の買い物帰りのお母さん。

 その目が、次の瞬間、まんまるに見開かれた。


「な、なんなの、このクッキーは!? 口に入れた瞬間に、ほろほろって、なくなっちゃったわ……! それに、この、優しい甘さと、香ばしい香り……! こんなの、生まれて初めて……!」


 その魂の叫びのような一言が、呼び水になった。

 おずおずと試食をした人々が、次から次へと、同じように目を丸くする。


「うわっ! なんだこりゃ! 美味すぎだろ!」

「こっちの、ナッツが乗ってるやつも、すげえぞ! 香ばしさが、尋常じゃねえ!」


 行商人の男性は、その時の光景を、まるで昨日のことのように、活き活きと身振り手振りを交えて、再現してみせる。


 口コミは、乾いたスポンジが水を吸い込むみたいに、あっという間に、市場中に広がっていった。

 人々は、我先にと、その未知の味を求めて、彼の小さな露店に殺到した。

 用意していたお菓子は、連日、お昼を過ぎる頃には、すっかり売り切れてしまう。


 今では、彼の露店には、開店前から、長い、長い、人の列ができるのが、当たり前の光景になっているという。


「話は、もう下町だけにとどまっちゃいねえ」


 彼は、ごくりと喉を鳴らして、声をひそめた。


「『最近、下町の市場で、とんでもなく美味い菓子が売られているらしい』ってな。その話が、じわじわと、だが、確実に、裕福な商人や、貴族のお屋敷に仕える、舌の肥えた料理人たちの耳にも、届き始めてるんだ」

「……!」


 私は、言葉を失った。

 自分の作ったお菓子が、自分の知らない場所で、そんな、熱狂を巻き起こしているなんて。

 それは、嬉しい、というよりも、もはや、現実感がなくて、まるで、どこか遠い国の、おとぎ話を聞いているみたいだった。


「だからよ、店主!」


 行商人の男性が、懇願するような目で、私の手を、がしり、と掴んだ。


「頼む! もっと、もっとだ! 前回よりも、ずっと多くの量を俺に卸してくれ! この商機を逃すわけにはいかねえんだ!」


 あまりにも熱のこもった言葉。

 私は、彼の、商売人としての、純粋な情熱に、少しだけ、気圧されてしまった。

 ふと、隣を見ると、ビスキュが、こくりと、一つ、力強く頷いていた。そののっぺらぼうの顔が、『ご主人様のお菓子が、もっとたくさんの人を幸せにできるのなら、私は、いくらでも働きます』と、そう、雄弁に語っていた。


 足元では、シュシュが、「わふん!」と、誇らしげに一声鳴いた。


 そうだ。

 私は、もう、ためらってはいられない。

 この小さな波を、ここで、止めてしまうわけにはいかない。


「……分かりました」


 私は、にっこりと微笑んでみせた。


「ただし、条件は前回と同じです。この町のお客様が、最優先です。その上で、できる限りの量をご用意いたしましょう」


 私のその言葉に、行商人の男性は顔を輝かせた。


「おお! 本当か、店主! 恩に着るぜ!」


 彼は、前回よりも、ずっと大きな木の箱を、カウンターの上に、どん、と置いた。

 その背中を見送りながら、私は、自分の作ったお菓子が、これからどんな運命を辿っていくのか、想像もつかずにいた。


 王都。


 レオン。

 クロエ。


 もう、私とは何の関係もない、遠い世界の出来事。


 そう思っていた。


 でも、このささやかな話が、いずれ大きな波となって、私の穏やかな日常に押し寄せてくるのかもしれない。

 そんな、甘くて、少しだけ、ほろ苦い予感を胸の奥にかすかに感じながらも、私は、目の前の愛しい厨房に意識を戻した。


「さあ、ビスキュ、シュシュ!」


 私は、ぱん、と景気付けに両手を叩く。


「王都の人たちを、もっと、もっと、驚かせてあげるような、最高のお菓子を作るわよ!」


 私のパティシエとしての情熱は、どんな過去にも、どんな不安にも、決して囚われたりはしないのだから。


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