第二十四話:女王の蜂蜜パイ
ただいま、と心のなかでそっと呟きながら、私は懐かしい我が家の扉をゆっくりと開いた。
数日ぶりに帰ってきた『銀のしっぽ亭』は、まるで私が帰ってくるのをずっと待っていたみたいに、しんと静まり返って、でもどこか温かい空気に満ちていた。バターの甘い残り香が、おかえりなさい、と私の鼻先を優しくくすぐる。
旅の埃にまみれたブーツを脱ぎ、店の中へと一歩足を踏み入れた、まさにその時だった。
『……! ご主人様!』
厨房の奥から、ばたばたと慌てたような、でも明らかに喜びにあふれた気配が、まっすぐにこちらへ飛んでくる。
声が聞こえたわけじゃない。でも、私にははっきりと聞こえた。
次の瞬間、厨房の入り口からひょっこりと顔を出したのは、私の忠実な助手、土のゴーレムであるビスキュだった。その素焼きのビスケットみたいな体は、いつも通り塵一つなくぴかぴかだ。
彼は私の姿を認めると、その場でぴしりと固まってしまった。そして、次の瞬間には、今まで見たこともないくらい深く、深く、まるで地面に頭がついてしまうのではないかと思うほど、丁寧にお辞儀をしたのだ。
「ただいま、ビスキュ。お留守番、ありがとう。大変なことはなかった?」
私が微笑みかけると、ビスキュはぶんぶんと勢いよくその土の頭を横に振ってみせた。そして、おもむろに私のそばに駆け寄ると、おずおずとその大きくてごつごつとした手を伸ばし、私の旅装の袖についた小さな木の葉を、そっと指先でつまんで取り除いてくれたのだ。
その、あまりにも不器用で、でもあまりにも優しい行動に、私の胸の奥が、温かいミルクで満たされたみたいに、じんわりと甘くなる。
「わふん!」
私の足元で、シュシュが「僕もいるぞ!」とでも言うように、頼もしく一声鳴いた。彼は長旅の疲れも見せず、ビスキュの足元に駆け寄ると、再会を喜ぶようにその体をくんくんと嗅ぎ回っている。ビスキュもまた、その大きな手でシュシュの銀色の背中を、ぽん、ぽんと、とても優しく叩いてあげていた。
ああ、帰ってきたんだ。
私のかけがえのない家族が待つ、この場所に。
その事実が、旅の疲れをすうっとバターのように軽くしていく。
「お店の方はどうだったかしら。お客様、困っていなかった?」
私が尋ねると、ビスキュは「ご心配には及びません」とでも言うように、ぴしりと胸を張ってみせた。そして、私を厨房へと案内する。
厨房の中は、出発前と何一つ変わらない、完璧な状態に保たれていた。ぴかぴかに磨き上げられた作業台、大きさ順に綺麗に並べられた調理器具。その完璧な仕事ぶりに、私は改めて感嘆のため息をついた。
ビスキュは、カウンターの片隅に置かれた帳簿らしきものを、私にそっと差し出した。ページをめくると、そこには彼が魔法で作った粘土板に、几帳面な線で日々の売り上げがびっしりと記録されている。私がいない間も、お店は連日大盛況だったようだ。
「すごいわ、ビスキュ。本当に、あなたに任せてよかった」
私が心からの称賛を送ると、ビスキュは少し照れくさそうに、その土の頭をぽりぽりと掻いてみせた。
その時、ふと、私の鼻先を、ある香りがかすめた。
厨房の隅にある、レンガの石窯。その扉の隙間から、まだほんのりと温かい熱気と一緒に、むせ返るような、甘い香りがしてきている。
私が不思議そうに首を傾げると、ビスキュは、まるで自慢の作品を見せる子供みたいに、ててて、と石窯の前まで駆け寄ると、大きな木のヘラを使って、中から何かを取り出してみせた。
それは、一枚の、こんがりときつね色に焼き上がった、見慣れたパイだった。
「まあ……! 『森の恵みのパイ』。私のために、焼いておいてくれたの?」
ビスキュは、こくりと一つ、力強く頷いた。
私が帰ってくる時間を見計らって、私の大好物を、一人で焼き上げて待っていてくれたのだ。
その、あまりにも健気で温かい心遣いに、私の目の奥がつんと熱くなる。
私は、まだ湯気の立つそのパイを一切れ、口に運んだ。ざくりとした力強い生地、甘酸っぱいベリーのジャム。いつもの、優しい味。
でも、今日のパイは、今まで食べたどんなパイよりも、ずっと、ずっと、美味しく感じられた。
そして、そのパイを食べ終え、旅の疲れがすっかり癒えた頃、ビスキュがふと、私を手招きした。
そして、厨房の裏口から、小さな裏庭へと私を案内された。
「どうしたの、ビスキュ?」
そこは、普段は洗濯物を干すくらいしか使わない、壁に囲まれた小さな空間だった。
ビスキュは、その壁の一角、通りからは決して見えない、建物の軒下を指さした。
「まあ……あれは……」
見上げると、そこには蜜蝋でできた、小さな黄金色の蜂の巣があった。ダンジョンで見たものと寸分違わない、美しい六角形の集合体。
ちょうどそこへ、ブゥン、という羽音と共に一匹のジャイアントビーが空から舞い降りてきた。働きバチは、留守を預かるビスキュに挨拶するように一度だけ周りをくるりと飛ぶと、巣穴に体内の蜜をとろりと注ぎ込み、再び空高く飛び去っていく。
「……私たちのために、ここまで。あなたが見守っていてくれたのね」
女王蜂の心遣いと、それを静かに受け入れ、蜂たちとの共存の場所を整えてくれていた忠実な助手の働きに、私の胸の奥が温かいもので満たされていく。
◇
旅の疲れを癒し、冒険の報告を終えた翌朝。
『銀のしっぽ亭』の厨房は、夜明け前から、今までにないほどの熱気と、期待に満ちた空気で満たされていた。
私の目の前の作業台の上には、一つの、神々しいほどに美しい壺が、静かに置かれている。
女王蜂から授かった、最高品質の蜜。
蓋を開けたわけでもないのに、その壺からは、まるで天国の花園から風が吹いてきたかのように、百の花々の香りを全て束ねたかのような、芳醇で、気品があって、そしてどこか神秘的な香りが、ふわり、ふわりとしてきていた。
「すごい……これが、幻の蜜……」
私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
ただ、そこに在るだけで、厨房の空気を、一瞬にして、甘く、そして神聖なものに変えてしまうほどの存在感。
私のパティシエとしての魂が、早くこの蜜を使って、最高のお菓子を作りたいと、強く訴えていた。
「くぅん……」
私の足元で、シュシュが、もう我慢できないとでも言うように、くんくん、ふんふん、と鼻を鳴らし続けている。彼の琥珀色の瞳は、蜜の壺に釘付けだ。
ビスキュも、私の隣で直立不動のまま、じっと壺を見つめている。そののっぺらぼうの顔が、心なしか、わくわくしているように見えた。
「ふふっ、二人とも、少し待っていてちょうだい。今から、この魔法の材料を使って、誰も食べたことのないような、究極のお菓子を生み出してあげるから」
私は、きりりとエプロンの紐を結び直すと、恭しく、その壺の蓋に、そっと手をかけた。
蓋を開けた瞬間、今までとは比べ物にならないほど、濃密で、むせ返るような甘い香りが、まるで黄金色の霧のように、厨房全体に、どっとあふれ出した。
あまりの香りの奔流に、一瞬、頭がくらくらするほどだ。
私は、小さなスプーンの先に、その蜜をほんの少しだけすくい上げる。
太陽の光をそのまま固めたみたいに、きらきらと輝く、黄金色の液体。とろりとしていて、粘性が高い。
意を決して、その一滴を、ぺろり、と舐めてみた。
その瞬間。
私の口の中に、今まで経験したことのない、味覚の爆発が巻き起こった。
まず、舌を包み込むのは、砂糖の何倍も、いや、何十倍も濃厚で、深く、こっくりとした甘さ。でも、それは決して、喉を焼くような、しつこい甘さじゃない。どこまでも上品で、後を引く、極上の甘み。
そして、その甘さの波が引いた後、鼻腔を駆け抜けていくのは、百の花々を一度に味わったかのような、複雑で、華やかで、そしてどこまでも気高い花の香り。バラのようでもあり、スミレのようでもあり、そして、私が知らない、天国の花々の香りが、次から次へと、万華鏡のように、その表情を変えていく。
あまりの美味しさに、言葉を失った。
これが、幻の蜜。
もはや、ただの甘味料ではない。これ自体が、一つの完成された、芸術品のようなデザートだ。
「……すごいわ」
ぽつりと、心の底からの声が漏れた。
この蜜の力を最大限に引き出すには、どんなお菓子がふさわしいだろう。
私の頭の中で、前世で培った、星の数ほどのレシピが、高速で回転を始めた。
クッキー? タルト? それとも、ケーキ?
いや、違う。
この蜜の圧倒的な個性と、複雑な風味を、生半可な生地で受け止めることはできない。
もっと、シンプルで、でも、この蜜と対等に渡り合えるだけの、力強いパートナーが必要だ。
私の頭の中に、ふと、ある果物の姿が浮かび上がった。
フローリア近郊の森で採れる、少し小ぶりで、酸味の強い、野生のリンゴ。
あの、きゅんとした爽やかな酸味と、しゃっきりとした歯ごたえ。
この、どこまでも濃厚な蜜の甘さと、華やかな香りを、あのリンゴの酸味が、きっと、見事に引き立ててくれるはずだ。
「決めたわ!」
私は、ぱん、と景気付けに両手を叩いた。
「この蜜を使って、『女王の蜂蜜パイ』を作るのよ!」
女王蜂への、敬意と感謝を込めて。
私のその宣言に、シュシュは「わふん!」と喜びの声を上げ、ビスキュはこくりと、力強く頷いた。
こうして、私の夢の厨房での、甘くて最高にエキサイティングな新作開発が、その幕を開けた。
◇
まず、取り掛かったのは、主役となるリンゴのフィリング作りだった。
ビスキュが、店の裏の貯蔵庫から、籠いっぱいの野生リンゴを運んできてくれる。その皮を、私が手際よく剥いていく。しゃく、しゃく、と、小気味よい音が、厨房に響いた。
芯を取り除き、八等分のくし切りにしたリンゴを、大きな銅鍋に入れる。
そして、いよいよ、あの幻の蜜を、黄金色の滝のように、鍋の中へと、たっぷりと注ぎ込んでいくのだ。
鍋を、ゆっくりと火にかける。
じゅう、と、リンゴの水分が、蜜と出会って、甘い音を立て始めた。
しばらくすると、厨房を満たす香りが、がらりと変わった。
ただ甘いだけじゃない。
リンゴの、爽やかで、甘酸っぱい香りが、蜜の、濃厚で華やかな香りと、鍋の中で、見事に溶け合っていく。
それは、まるで、最高のオーケストラが奏でる、第一楽章のようだった。
コトコト、コトコト。
焦げ付かないように、ビスキュが、大きな木のヘラで、ゆっくりと、丁寧に、鍋の中をかき混ぜてくれる。
リンゴが、徐々に、柔らかくなり、蜜の色が染み込んで、美しい琥珀色へと変わっていく。
やがて、リンゴが、透き通るような、べっこう飴色になったところで、火から下ろす。
仕上げに、ほんの少しだけ、バターと、香りづけのシナモンを。
これで、フィリングは完成だ。
その、熱々のフィリングを、少しだけ味見してみる。
「……ん!」
熱でとろとろになったリンゴが、舌の上で、ほろりと崩れた。
その瞬間、蜜の、暴力的なまでの甘さと、リンゴの、きゅんとした酸味が、口の中いっぱいで弾け飛ぶ。
シナモンの、スパイシーな香りが、その後から、ふわりと追いかけてきて、全体の味を、ぐっと、奥深いものにしていた。
あまりの美味しさに、思わず、天を仰いでしまった。
これだけで、もう、一つの完成されたデザートだ。
「次は、この最高のフィリングを受け止める、最高のパイ生地よ」
私は、にやり、と口の端を吊り上げた。
『森の恵みのパイ』の、力強い生地もいい。でも、この、女王の名を冠するパイには、もっと、リッチで、贅沢な生地がふさわしい。
たっぷりのバターを、冷たいまま、小麦粉と混ぜ合わせて、さっくりと、何層にも重なった、軽い食感の生地を作る。
ビスキュが、機械のように正確な動きで、生地を折りたたみ、伸ばしていく。
その手つきは、もはや、王都の一流店の、どんな職人よりも、熟練していた。
出来上がった生地を、パイ皿に敷き詰めて、蜜で煮詰めたリンゴのフィリングを、こぼれ落ちそうなくらい、たっぷりと、たっぷりと、乗せていく。
そして、最後の仕上げ。
格子模様も美しいけれど、このパイには、もっと、食感のアクセントが欲しい。
私は、ビスキュに、森で採れた香ばしい木の実を、粗く砕いて、たっぷりと用意してもらった。
その木の実と、バター、小麦粉、そして、ほんの少しの蜜を混ぜ合わせた、そぼろ状のクッキー生地、『クランブル』を作る。
その、黄金色のクランブルを、パイの上に、ざくざくと、惜しげもなく、振りかけていくのだ。
これで、準備は完了。
いよいよ、この厨房の主役の出番。
私は、レンガで組まれた、自慢の石窯の前に立った。
ビスキュが、薪をくべ、最適な温度に調整してくれる。
私は、完成したばかりのパイを、大きな木のヘラに乗せて、ゆっくりと窯の中へと入れていった。
あとは、焼き上がりを待つだけ。
じゅう、じゅう、と。
窯の中から、リンゴと蜜が、さらに煮詰まっていく、心地よい音が聞こえてくる。
そして。
どこからともなく、今までに、この厨房で、一度も嗅いだことのない、甘い香りが、ふわり、と漂い始めた。
最初は、ほのかな香りだった。
けれど、時間が経つにつれて、その香りは、どんどん、どんどん、濃くなっていく。
バターと小麦粉が焼ける、香ばしい香り。
リンゴと蜜が、キャラメルのようになった、甘くて、少しだけ焦げたような、たまらなく食欲をそそる香り。
そして、クランブルに使った木の実が、ぱちぱちと、油をはぜさせながら、焼ける、豊かな香り。
その三つの香りが、厨房の中で一つになって、むせ返るような、王者の風格すら感じさせる、幸福な匂いを作り出していた。
この匂いだ。
私が追い求めていた、理想の香り。
シュシュも、もう我慢できないとでも言うように、くんくん、ふんふん、と鼻を鳴らし続けている。
やがて、焼き色がついたのを確認して、私は、完成したパイを、窯から取り出した。
ぐつぐつ、ぐつぐつ。
表面の、黄金色のクランブルの隙間から、琥珀色のフィリングが、まるで火山のマグマみたいに、熱い泡を立てている。
こんがりと焼けたパイ生地は、きつね色に輝いていて、いかにも、さくさくとしていそうだ。
それは、貴族のティーパーティーに出てくるような、洗練されたお菓子ではなかった。
でも、そこには、私が追い求めた、全ての夢と、情熱が、ぎゅっと詰まっている。
最高傑作だった。
◇
荒熱がとれて、ようやく食べ頃になった『女王の蜂蜜パイ』
それは、ただのパイではなかった。まるで、太陽のかけらを、そのまま切り取ってきたかのような、まばゆい黄金色のオーラを放っている。
私は、魔法で作ったナイフを手に取り、そのこんがりと焼けたクランブルの上に、そっと刃を当てた。
ざくっ、と。
小気味よい、硬質な音が静かな厨房に響いた。
バターをたっぷり使った繊細な生地と、香ばしいクランブルが、心地よい手応えを返してくる。ナイフを入れるたびに、隙間から、とろりとした琥珀色のフィリングが、まるで溶岩みたいに、ゆっくりと顔を覗かせた。
私は一切れを自分のお皿に、そして、シュシュとビスキュのために、それぞれ切り分けた。
「さあ、二人とも。私たちの、新しい代表作よ。熱いから、気をつけて召し上がれ」
「わふん!」
シュシュは、もう待ちきれないとでも言うように、ぶんぶんと尻尾を振っている。ビスキュも、そののっぺらぼうの顔を、心なしか、そわそわさせていた。
私はまず、フォークで、その一切れを口に運んだ。
噛みしめた瞬間、ざくり、とした力強い歯ごたえと共に、クランブルに使ったナッツの香ばしい風味が、口の中いっぱいに広がった。
次に、熱でとろとろになったリンゴの、きゅんとした甘酸っぱさと、蜜の、どこまでも濃厚で華やかな甘さが、舌の上で、壮大なシンフォニーを奏で始めた。そして、最後に、さくさくとした、バターの風味豊かなパイ生地が、その全ての味を、優しく、でも、しっかりと、受け止めてくれる。
ざくざく、とろり、さくさく。
様々な食感と、味が、口の中で、次から次へと、現れては消えていく。
「…………美味しい」
ぽつりと、心の底からの声が漏れた。
これまでに作った、どんなお菓子とも違う。
素朴で、力強くて、でも、どこまでも気品がある。
これこそが私が作りたかった、理想の味。
隣を見ると、シュシュもビスキュも、夢中になって、パイを頬張っていた。
シュシュは、その琥珀色の瞳を、美味しいものを食べた時特有の、とろんとした幸福の色に染めている。
ビスキュは、あまりの美味しさに、感動のあまり、その場で、ぴしり、と固まってしまっていた。
完璧な新商品。
あとは店頭に出すだけだ。
そして、『銀のしっぽ亭』のショーケースには、新商品として、黄金色に輝くパイが誇らしげに並べられた。
『女王の蜂蜜パイ 一切れ 銀貨一枚』
私の拙い文字で、小さな木の札が、ちょこんと置かれている。
少し、強気な値段設定。
でも、私には、確信があった。
このパイは、それだけの価値がある、と。




