第二十三話:蜜蜂の女王
黄金色に輝く、静まり返った蜜の湖。
その中央に、まるで巨大な蓮の蕾のように静かに浮かぶ、女王の巣。そこから聞こえてくるのは、苦しげな羽音だけだった。その羽音は地響きのように重く、威厳に満ちていた。それでいて、どこかガラス細工のように脆い響きがあった。
私は、自分の土魔法で作り出した、蜜の湖を渡るための小さな石の橋の上で、ぴたりと足を止めた。
一歩先は、未知の領域。
生きて帰った者は誰もいないという、伝説のダンジョンの、まさに心臓部だ。
むせ返るような甘い香りが、今までよりもさらに純度を増して、私の鼻腔をくすぐる。ただ甘いだけじゃない。百の花々から集めた蜜を、さらに百年煮詰めたかのような、芳醇で、気品があって、そしてどこか物悲しい香り。
最高の材料が、すぐそこにある。
私のパティシエとしての本能が、早く前へと進めと、やかましく警鐘を鳴らしていた。
でも、私の足は動かなかった。
「……シュシュ」
私の隣で、小さな相棒が、全身の銀色の毛を逆立てて、低い唸り声を上げている。
彼の琥珀色の瞳は、まっすぐに、湖の中央に浮かぶ巨大な巣を睨みつけていた。その瞳には、今まで見たこともないような、強い警戒心が浮かんでいた。
無理もない。
あの巣から放たれる気配は、今まで出会ったどんな魔物とも、明らかに種類が違っていた。
ただ凶暴なだけじゃない。もっと、こう……巨大で、抗うことのできない、自然そのものみたいな、圧倒的な存在感。
そして、その巨大な存在が、今、明らかに弱っている。
苦しんでいる。
その事実が、私の足を鈍らせていた。
私は、戦いに来たわけじゃない。
私が欲しいのは、最高の蜜。ただ、それだけなのだから。
「大丈夫よ、シュシュ。私に、考えがあるわ」
私が、その銀色の背中をぽんと軽く叩いてやると、シュシュは、分かった、とでも言うように短く喉を鳴らした。
私は、もう一度、深く息を吸い込む。
ポケットの中で、ビスキュがくれたお守りのクッキーを、ぎゅっと握りしめた。
その素朴な温かさが、私の心に、小さな勇気の灯をともしてくれる。
私は、再び、その黄金の湖の上を、一歩、また一歩と、巣に向かって歩き始めた。
◇
巣に近づくにつれて、あの苦しげな羽音は、どんどん大きく、はっきりとしたものになっていく。
そして、巣の入り口らしき、蓮の花びらが少しだけ開いたような隙間の前にたどり着いた時、私は、はっと息を止めた。
甘い香りに混じって、何か、別の匂いがする。
酸っぱいような、どこか物が腐ったような、不快な匂い。それは、最高のケーキ生地に、一滴だけ古い油が落ちてしまった時のような、全体を台無しにしてしまう、決定的な違和感。
私の、パティシエとしての勘が、この巣の中で、何かが、とんでもなく悪い方向へ進んでいることを、はっきりと告げていた。
私は、シュシュと顔を見合わせると、ごくりと一つ、喉を鳴らした。
そして、その巣の隙間から、そっと、中の様子をうかがう。
中は、外から見た印象よりも、ずっと広々とした空間だった。
壁も床も、全てが滑らかな蜜蝋のような材質でできていて、全体が、柔らかな黄金色の光に、ぼんやりと満たされている。
そして、その広大な空間の中央。
玉座とでも呼ぶべき、ひときわ高く盛り上がった場所に、それはいた。
「……大きい」
ぽつりと、私の口から、感嘆とも、畏怖ともつかない声が漏れた。
女王蜂。
その体は、荷馬車ほどもあるだろうか。
ジャイアントビーたちと同じ、ごつごつとした黒い外殻。でも、その体のあちこちには、まるで王族の装飾品みたいに、純金でできたかのような、美しい黄金の縞模様が複雑な紋様を描いて走っていた。
背中からは、虹色に輝く、ステンドグラスみたいに美しい四枚の翅が、ゆっくりと、苦しげに動いている。
その頭部には、女王の証である、ルビーのように真っ赤な、巨大な複眼が、いくつも埋め込まれていた。
その姿は、ただの魔物というよりも、もはや神話に出てくる幻想的な生き物みたいに、荘厳で、圧倒的な美しさを放っていた。
でも。
その美しい女王が、今、明らかに苦しんでいた。
虹色の翅の動きは、力なく、時折、痙攣したように、びくりと震える。
黄金の縞模様も、その輝きを失い、どこかくすんで見えた。
そして、何よりも、彼女の周りの空気が、淀んでいる。
生命力に満ち溢れているはずの、この巣の中心が、まるで澱んだ水たまりみたいに、生気を失っているのだ。
ブゥゥゥゥン……。
私たちが入り口にいることに気がついたのだろう。
女王蜂は、その巨大な頭を、ゆっくりと、こちらに向けた。
ルビーのような複眼が、ぎらり、と敵意に満ちた光を放つ。
腹部の先端にある、巨大な毒針が、いつでも獲物を突き刺せるように、ぴんと張り詰められた。
戦闘態勢。
でも、その動きはどこか弱々しく見えた。
まるで、最後の力を振り絞って、自分の巣と誇りを守ろうとしている、手負いの獣みたいに。
「……戦う気は、ありません」
私は、両手をそっと広げて、敵意がないことを示した。
もちろん、言葉が通じるはずはない。
女王蜂は、私の言葉を、ただの挑発と受け取ったらしい。
ぎちちちちちっ、と。
怒りに満ちた、甲高い羽音を立てて、その巨体を、わずかに持ち上げようとする。
でも、その体が、すぐに、ぐらり、と大きく傾いで、力なく、玉座の上へと沈み込んでしまった。
やはり、まともに動くことすら、できない状態なのだ。
一体、何が、この女王を、ここまで苦しめているというのだろう。
私は、注意深く、巣の内部を観察した。
そして、すぐに、あの不快な匂いの元凶を見つけ出した。
女王蜂が横たわる、玉座のすぐ脇。
そこの壁の一部が、他の場所とは明らかに違う色をしていたのだ。
その表面は、ぬらりとした、粘菌のようなものに、びっしりと覆われていた。
本来なら、滑らかな黄金色であるはずの壁。しかし、そこだけはどす黒く、緑がかった色に変色している。
そこからは、ぷつぷつと不気味な泡が、その表面で生まれては弾けている。
あの酸っぱいような腐敗臭は、間違いなく、あそこから発せられている。
そして、よく見ると、その汚染された部分から、本来なら、巣の中心に蓄えられるべき、最高品質の蜜が、外へと漏れ出してしまっているのが分かった。
あれが原因だ。
この巣を蝕む病。
女王蜂は、得体の知れない病に、長い間、ずっと、一人で苦しみ続けていたのだ。
その事実に思い至った瞬間、私の心の中に、目の前の女王に対する、深い同情の念が私の中でじんわりと広がっていった。
彼女は、ただの凶暴な魔物なんかじゃなかった。
自分の巣と、仲間たちを守るために、病と戦い続けていた、孤独な女王だったのだ。
「……ひどい」
ぽつりと、私の口から声が漏れた。
このまま、放っておくことはできない。
私は、パティシエだ。
最高の作品を作るためには、まず、環境を整えなくては。
この病に蝕まれた巣は、まるでカビの生えた調理器具みたいだ。
そんな場所から、最高の蜜が生まれるはずがない。
私がやるべきことは、一つ。
この巣を、治療すること。
この女王を、助けることだ。
「シュシュ。少しだけ、待っていてちょうだい」
私は、隣で心配そうに私を見守っていたシュシュの頭を、ぽんと軽く叩くと、巣の中へと、一歩、足を踏み入れた。
あまりにも無防備な行動に、女王蜂が、驚いたように、そのルビーの複眼をわずかに見開いた。
ぎちち、と威嚇の音が、再び、巣の中に響く。
でも、私は足を止めなかった。
女王に向かって、まっすぐに、ゆっくりと、歩み寄っていく。
武器は、持っていない。
私の手の中にあるのは、たった一つ。
ポケットの中で、大切に握りしめていた、ビスキュがくれた、お守りのクッキーだけ。
私は、女王の数メートル手前で、ぴたりと足を止めた。
そして、そのクッキーを彼女の目の前の床に、ことり、と置いた。
「これは、戦いのための武器ではありません」
私は、できるだけ穏やかな声で語りかけた。
「私の、誠意です。私は、あなたを傷つけに来たのではありません。あなたを、助けに来たのです」
女王蜂は、じっと、床に置かれた、小さなクッキーを見つめている。
そのシュシュの形をした、愛らしい焼き菓子。
そのクッキーには、ある秘密が隠されていた。
森で採れた疲労回復に効果のある、数種類の薬草。
私が、ビスキュに作り方を教えていたのだ。
ビスキュは、私の留守を心配して、その特別な薬草を、このクッキーに、たっぷりと練り込んでくれていた。
その薬草とバターが焼ける、優しい香りが、ふわりと女王の鼻先をかすめた。
彼女のルビーの複眼から、ほんの少しだけ、敵意が薄れたような気がした。
しばらくの長い沈黙。
やがて、女王蜂は、意を決したように、その巨大な頭をゆっくりと下げてきた。
そして、その繊細な触覚の先で、床に置かれたクッキーに、そっと触れたのだ。
その瞬間、彼女の巨体が、びくり、とわずかに震えた。
クッキーに込められた、温かくて、優しい魔力。
ビスキュの私を想う、誠実な心。
それが、彼女に伝わったのかもしれない。
女王蜂は、そのクッキーを口元へと運び、小さな音を立てて食べた。
そして。
ぴんと張り詰めていた、女王の巨大な毒針が、ゆっくりと、力なく、床の上へと、だらりと垂れ下がった。
完全に、警戒を解いた証拠だった。
私は、ほっと胸をなでおろした。
どうやら、私の誠意は、無事に、彼女に届いたらしい。
「……ありがとう。信じてくれて」
私は、にっこりと花が咲くような笑顔を浮かべてみせる。
「さあ、始めましょうか。あなたのための治療を」
◇
女王蜂の暗黙の了解を得た私は、さっそく、巣の治療に取り掛かった。
まずは、全ての元凶である、汚染された部分を巣から切り離さなくては。
私は、どす黒く変色した壁の前に立つと、その場にぺたんと座り込み、両方の手のひらを、ひんやりとした床にぴたりとつけた。
「第一工程、生地の分割。悪い部分は、根こそぎ、取り除きます」
ゆっくりと目を閉じて、意識を集中させる。
私のマナを、この巣の壁全体へと、じっくりと、隅々まで浸透させていく。
私の感覚が、この空間そのものと、完全に一体になった。
汚染された部分と、健全な部分。その境目を、指先でなぞるように、正確に見極める。
乱暴に切り離してはだめだ。
この巣は生きているのだから。
できるだけ、痛みが少ないように、優しく、丁寧に。
「―――切れなさい」
心の中で、強く、はっきりと命じる。
ず、ずず、ずずず……。
その瞬間、汚染された壁の周りに、まるで熱したナイフでバターを切ったみたいに、滑らかで、綺麗な亀裂が、音もなく走り始めた。
そして、直径数メートルはあろうかという、どす黒い壁の塊が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、巣の本体から完全に分離したのだ。
私は、その巨大な病巣を、土魔法で作り出した、分厚い岩の壁で包み込んでしまう。
これで、これ以上、汚染が広がる心配はない。
「次に、浄化。悪いものを取り除いたら、綺麗なものだけを残さなくてはね」
岩の壁に閉じ込めた病巣に、私は、さらに、マナを注ぎ込んだ。
イメージするのは、遠心分離機。
悪い粘菌と、それに汚染された蜜。
そして、まだ汚染されていない、純粋な蜜。
その三つを、完全に分離させるのだ。
岩の壁の中で、見えない力が、高速で渦を巻き始めた。
やがて、岩の壁の、三つの違う場所から、ちょろちょろと、三種類の液体が流れ出してきた。
一つは、ヘドロのような、どす黒い液体。これが、粘菌の本体だ。
もう一つは、少し濁った、黄金色の液体。汚染された蜜。
そして、最後の一つ。
それは、今まで見た、どんな蜜よりも透き通っていて、きらきらと輝く、極上の蜜だった。
私は、どす黒い液体と濁った蜜を、土魔法で作り出した、地中深くの空洞へと完全に封じ込めてしまう。
そして、残った、極上の蜜だけを、魔法で作った、清潔な陶器の壺へと集めていった。
「ふう、これで、大掃除は終わりね」
私は、額ににじんだ汗を、手の甲でぬぐった。
巣の壁には、ぽっかりと、大きな穴が空いてしまっている。
このままでは、巣の強度が保てないだろう。
「最後の仕上げよ。この穴を丈夫な壁で塞いであげる」
私は、空いた穴の前に立つと、再び、地面に手を触れた。
今度は、このダンジョンの奥深く。
地中深くで眠っている、最も硬くて、純度の高い岩盤へと、意識を伸ばしていく。
そして、その岩盤の一部を、この場所へと呼び寄せた。
ごごごごご、と。
地響きと共に、巣の床から、きらきらと輝く、黒曜石のような美しい岩の壁がせり上がってきた。
その壁が、空いた穴に、ぴたりと、寸分の狂いもなく、はまり込んでいく。
「……できた」
私は、満足のため息をついた。
これで治療は完了だ。
私が、ゆっくりと立ち上がると、ずっと、私の作業を心配そうに見守っていた女王蜂が、その巨大な頭をゆっくりと持ち上げた。
その、ルビーの複眼には、もう、敵意はなかった。
ただ、深い、深い、感謝の気持ちが、温かい光となって、きらきらと輝いている。
ブゥン……。
彼女の、虹色の翅が、一度だけ力強く羽ばたいた。
その羽音は、もう苦しげではなかった。
静かで、穏やかで、どこまでも優しい音色だった。
長年の苦しみから解放された、安堵と喜びの音色。
その美しい音色に、私の心も温かいもので満たされていくようだった。
◇
女王蜂の体調は、瞬時に回復していく。
くすんでいた黄金の縞模様は、本来の輝きを取り戻し、力なく垂れ下がっていた触覚も、ぴんと、元気よく持ち上がっている。
彼女は、その巨体をゆっくりと起こすと、私に向かって、一度、深く、その頭を下げた。それは、王族の最も丁寧な感謝の礼のように見えた。
そして、彼女は玉座の背後にある巣の壁を、その繊細な前足で、そっと、叩いたのだ。
すると、それまで滑らかな一枚の壁だと思っていた部分が、まるで水面に広がる波紋のように、ゆっくりと内側へと開いていく。
その奥にあったのは、今まで見た、どんな蜜よりも、黄金色に、そして、太陽のように、まばゆく輝く、極上の蜜が、なみなみと満たされた、蜜蝋でできた巨大な貯蔵庫だった。
ふわり、と。
そこからは、百の花々の香りを、全て束ねたかのような、天国的な香りが、立ち上ってくる。
これが本当の宝。
女王だけが口にすることを許される、最高品質の蜜、『ロイヤルハニー』。
彼女は、その、何物にも代えがたい宝物を、私に、礼として、与えてくれようとしているのだ。
ブゥン……。
彼女の翅が、もう一度、優しく、穏やかに、羽ばたいた。その羽音は友好と許可を示す、優しい音色だった。
「……ありがとう。その、お気持ち、確かに受け取りました。大切に、使わせていただきます」
私は、その神々しい貯蔵庫を前に、恭しく、一礼した。
ずしり、とした、心地よい重み。これで、私の夢に、また一歩、近づくことができる。
その、あまりにも、寛大な申し出。私は、嬉しくて、胸がいっぱいになった。
でも。
一つ、大きな問題があった。
こんな、森の奥深くにあるダンジョンに、毎日、蜜を採りに来るわけにはいかない。
物流の問題。
最高の材料を手に入れても、それが、安定して、私の厨房に届かなければ、意味がないのだ。
どうしようか。
私が、うーん、と腕を組んで、考え込んでいると、その悩みが伝わったのだろうか。
女王蜂が、ブゥン、と短く羽音を立てた。
すると、巣の入り口から数匹のジャイアントビーが静かに入ってきて、女王の前に恭しく控える。
女王が再び羽音を立てると、その働きバチたちは一斉に私の方へ向き直った。
そして、私の周りをゆっくりと飛び回り、私の服や髪の匂いを覚えるかのような動きを見せる。
「……! もしかして、この子たちに運ばせてくれるというの?」
私の問いに、女王は肯定するように、優しく羽音を響かせた。
働きバチたちは、私の匂いを覚えると、まっすぐに黄金の貯蔵庫へと向かい、その小さな体に、一生懸命に蜜を吸い込み始めた。
やがて、お腹がはち切れそうなくらいぱんぱんになると、働きバチの一匹が、先導するように巣の入り口へと向かって飛んでいく。
私の家へ蜜を運ぶ、という最初のお仕事をしに。
健気で、頼もしい後ろ姿。
私は、その姿が見えなくなるまで、静かに見送っていた。
これで、全ての問題は、解決した。
最高の蜜が、これからは、毎日、私の厨房に届けられるのだ。
私は、女王蜂に、深く一礼した。
「ありがとう。あなたとの、この不思議な出会いを、私は、一生、忘れません」
私がそう言って別れを告げると、まだ巣に残っていた働きバチの一匹が、今度は私たちの前をくるくると飛び回り、入り口の方へと促すように羽音を立てた。
「まあ……! 私たちを、出口まで案内してくれるの?」
私の問いに、女王が再び肯定の羽音を優しく響かせる。最後の最後まで、至れり尽くせりのもてなしだった。
私はもう一度、女王蜂に心からの感謝を込めて一礼し、案内役の働きバチの後に続いて、シュシュと共に光の差す出口へと歩き出した。




