第二十二話:甘い香りの迷宮
ごくり、と。
自分の喉が鳴る音が、やけにはっきりと聞こえた。
目の前にぽっかりと口を開けているのは、巨大な岩に穿たれた、真っ暗な洞穴。その入り口からは、むわりとした、濃密な空気が絶え間なく流れ出してきている。
それは、ただの洞窟の匂いじゃなかった。
まるで、巨大な蜂蜜の壺をこの森のどこかで丸ごとひっくり返してしまったかのような、濃厚で、むせ返るほど甘い香り。
百の花々から集めた蜜を、さらに百年煮詰めたかのような、芳醇で、気品があって、そしてどこか、嗅ぐ者の理性を麻痺させるような、危険な匂い。
「……ここが」
ぽつりと、私の口からかすれた声が漏れた。
生きて帰った者は、誰もいないという、伝説のダンジョン。
『蜜蜂の揺り籠』
その、どこか美しい響きを持つ名前とは裏腹に、洞穴の入り口は、まるで巨大な獣が獲物を待ち構える顎のように、不気味に静まり返っていた。
「ぐるるるるるっ!」
私の隣で、小さな相棒が、全身の銀色の毛を逆立てて、低い唸り声を上げている。
シュシュだ。
彼の琥珀色の瞳は、まっすぐに、洞穴の奥の暗闇を睨みつけていた。その瞳には、今まで見たこともないような、強い警戒心が浮かんでいた。
彼の本能が、この甘い香りの奥に潜む、途方もない危険を、はっきりと感じ取っているのだ。
「大丈夫よ、シュシュ。分かっているわ」
私は、その銀色の背中をぽんと軽く叩いてやった。
私も、この甘い香りに浮かれているわけじゃない。
最高の材料というものは、いつだって、最高の危険と隣り合わせにある。それは、パティシエとしての、私の揺るぎない哲学の一つだった。
熱いカラメルは、一瞬で大火傷を負わせる凶器にもなる。鋭い包丁は、美しいフルーツを切り分ける道具にも、人の指を切り落とす刃物にもなる。
大事なのは、その危険性をきちんと理解して、敬意を払って、向き合うこと。
「私たちは、戦いに来たんじゃない。最高の蜜を、少しだけ、分けてもらいに来ただけ。喧嘩は、できるだけ避けましょう」
「わふん……」
シュシュは、私の言葉に、分かった、とでも言うように短く喉を鳴らした。でも、その全身から警戒の気配が消えることはない。
私は、もう一度、深く息を吸い込む。
ポケットの中で、ビスキュがくれたお守りのクッキーを、ぎゅっと握りしめた。
その、きな粉の香ばしい匂いと、素朴な温かさが、私の心に、小さな勇気の灯をともしてくれる。
私は、もう迷わなかった。
「さあ、行きましょうか」
私は、シュシュを促すと、一切の迷いなく、その甘くて危険な暗闇の中へと、最初の一歩を、静かに踏み出した。
◇
一歩、中に足を踏み入れた瞬間、ひやりとした、墓場のような冷気が肌をかすめた。
外の光は、入り口のすぐそばで、力なく掻き消されてしまう。
完全な闇。
私が、そっと指先に意識を集中させると、私の手のひらの上に、ふわりと、小さな光の玉が生まれた。土魔法のささやかな応用。土の中に含まれる微量な発光性の鉱物を集めて、明かりにするのだ。
そのぼんやりとした光が、周囲の光景を、おぼろげに照らし出す。
そして、私は、自分の目の前に広がる光景に、はっと息を止めた。
「まあ……!」
そこは、私が想像していたような、ごつごつとした岩肌の洞窟ではなかった。
壁も、床も、天井も、全てが、滑らかな、半透明の黄金色の物質でできている。
まるで、巨大な蜂の巣の内部に、そのまま入り込んでしまったかのようだ。
壁は、美しい六角形が、どこまでも規則正しく、びっしりと連なっている。
そして、その壁のあちこちから、どろり、と、蜂蜜よりもずっと粘度の高そうな、黄金色の液体が、ゆっくりと、ゆっくりと、染み出していた。
それは、私の魔法の灯りを受けて、まるで溶かした宝石みたいに、きらきらと美しく輝いている。
むせ返るような甘い香りは、この壁から発せられているのだ。
「くんくん……」
シュシュが、落ち着かない様子で、鼻を鳴らしている。
私も、その甘い誘惑に、ごくりと喉を鳴らした。
この壁そのものが、蜜でできているというのだろうか。
私は、好奇心に抗えず、そっと壁に指先で触れてみた。
ひんやりとして、どこか硬質。でも、表面は、少しだけ、べたつくような感触。蜜蝋、というものだろうか。
指先についた、黄金色の雫を、ほんの少しだけ、ぺろり、と舐めてみる。
その瞬間。
私の口の中に、こっくりとした、深く優しい甘さが、じゅわあっと広がった。
砂糖のように、直接的な甘さじゃない。
花の蜜のような、木の実のような、どこか複雑で豊かな風味のある、極上の甘さ。
森で初めて見つけた、あの樹液よりも、もっとずっと、洗練されていて、純度が高い。
「……美味しい」
思わず、声が漏れてしまった。
こんなものが、このダンジョンの、まだ入り口に過ぎない場所に、無尽蔵にあるなんて。
ギルドマスターが語ってくれた、あの冒険者の言葉。『黄金の川が流れていた』。
それは、決して、大げさな表現ではなかったのかもしれない。
でも、浮かれてはいられない。
このダンジョンは、巨大な迷路。
目の前には、同じような六角形の通路が、いくつも、不気味に口を開けていた。
下手に進めば、あっという間に、方向感覚を失ってしまうだろう。
「さて、と」
私は、その場にぺたんと座り込むと、両方の手のひらを、ひんやりとした蜜蝋の床に、ぴたりとつけた。
「まずは、ここの、全体の構造を、頭に入れなくちゃね」
ゆっくりと目を閉じて、意識を集中させる。
私の感覚が、まるで植物が地中深くに根を張るように、このダンジョン全体へと、どこまでも、どこまでも、広がっていく。
硬い蜜蝋の壁の感触。その奥にある、冷たい岩盤の気配。そして、このダンジョンのあちこちに張り巡らされた、蜜の流れ。
私の頭の中に、巨大な三次元の地図が、少しずつ、でも確実に、描き出されていった。
このダンジョンは、私が思っていた以上に、複雑で、巨大な構造をしている。
無数の通路が、まるで人間の血管みたいに、縦横無尽に走り、その先々で、巨大な空間、おそらくは蜜の貯蔵庫だろう、部屋のような場所へと繋がっている。
そして、その通路のあちこちに、いくつもの、生命の気配を示す、小さな光点が、点滅しているのが分かった。
魔物の巣。
このダンジョンの、住人たち。
その数は、ざっと数えただけでも、百や二百ではきかないだろう。
そして、その無数の光点の中でも、ひときわ大きく、そして、気高い光を放つ、巨大な一点が、このダンジョンの一番奥深くで、まるで巨大な心臓みたいに、どくどくと、不気味に明滅を繰り返していた。
あれがきっと、このダンジョンの、女王に違いない。
ギルドマスターが言っていた、『巨大な蜂の化け物』。
そして、私が探し求めている、最高品質の蜜も、きっと、あの女王のそばにあるはずだ。
「……なるほど。これは、確かに、普通の冒険者さんでは、手も足も出ないわけね」
あまりの物量差。
まともに戦おうとすれば、あっという間に、数の暴力に、飲み込まれてしまうだろう。
でも。
私は、戦いに来たわけじゃない。
私がやるのは、厨房での、下準備。
最高の作品を作るためには、まず、作業台の上を、綺麗に片付けなくてはならないのだから。
「シュシュ。道案内は、私に任せてちょうだい。最高の近道を、作ってあげる」
私は、ゆっくりと、目を開けた。
私の頭の中には、もう、ダンジョンの最深部へと至る、最短ルートの設計図が、完全に描き上がっていた。
それは、既存の通路を辿る道じゃない。
私が、今からこの場所に『創造』する、全く新しい道だ。
私は、立ち上がると、目の前に広がる、いくつもの通路の、そのどれでもない、ただの蜜蝋の壁に向かって、まっすぐに歩き出した。
そして、その硬い壁の前に立つと、そっと、その表面に、手のひらを触れた。
「第一工程、下準備。まずは、材料を、こねやすくするところから」
ぽつりと、誰にも聞こえないくらいの声で、呟く。
その瞬間、私の手のひらが触れた、硬い蜜蝋の壁が、ゆっくりと、その形を変え始めた。
硬質な黄金色の壁が、まるで、温められたバタークリームみたいに、ふにゃりとした質感に、変わっていく。
むにゅり、と。
壁の表面が、まるで沸騰したお粥みたいに、静かに、形を失っていく。
そして、次の瞬間、私の目の前の壁が、音もなく、すうっと、静かに、内側へと吸い込まれるように、消えていったのだ。
そこには、今まで存在しなかった、新しい、真っ暗な通路が、ぽっかりと、口を開けていた。
「わふ……」
私の隣で、シュシュが、信じられない、というように、小さな声を漏らした。
「さあ、行きましょう、シュシュ。ここが、私たちの、専用通路よ」
私は、シュシュを促して、その生まれたばかりの通路の中へと、足を踏み入れた。
中は、まだ、新しい蜜の香りで満ちている。
私が一歩、前に進むたびに、私の目の前の壁が、音もなく、内側へと消えていく。
そして、私が通り過ぎた後の壁は、何事もなかったかのように、すうっと、元の硬い蜜蝋の壁へと、戻っていくのだ。
まるで、巨大なモグラが、土の中を掘り進んでいるみたいに。
これなら、余計な戦闘をすることなく、目的の場所まで、たどり着けるはず。
そう思った、矢先のことだった。
ブゥゥゥゥゥン……。
不意に、地を這うような、低い羽音が、すぐ近くの壁の向こう側から、聞こえてきた。
まずい。
どうやら、私の魔法の、微細な振動を、近くにいた、このダンジョンの住人たちが、感じ取ってしまったらしい。
羽音は、一つじゃない。
いくつも、いくつも、重なり合って、どんどん、こちらに近づいてくる。
そして、その羽音は、普通の蜂のそれとは、明らかに、大きさが違っていた。
まるで、巨大な扇風機が、すぐ側で、高速回転しているかのような、圧迫感のある音。
ごん、ごん、と。
壁の向こう側から、何か硬いもので、壁を叩きつけるような、激しい音がし始めた。
私の即席の通路の壁が、ぱらぱらと、小さな蜜蝋の欠片を、こぼし始める。
このままでは、壁を突き破って、なだれ込んでくるかもしれない。
シュシュが、唸り声を上げて、いつでも戦えるように、低い姿勢で構えた。
「大丈夫よ、シュシュ。相手にするだけ、時間の無駄だわ」
私は、落ち着き払って、そう言った。
私の目的は、最高の蜜を手に入れること。巣の番人たちと、ここで無益な争いをするつもりは毛頭ない。お菓子作りにおいて、余計な工程は省くに限るのだ。
「第二工程、焼き固め。壁の強度を上げてもっと速く進むわよ!」
私は、さらに深く意識を集中させた。
私の魔法は、ただ壁を溶かして進むだけじゃない。
私が通り過ぎた後の通路。その壁を、オーブンでクッキーを焼き固めるみたいに、より硬く、より緻密に再構築するのだ。
ごん、ごん、と壁を叩く音が、くぐもった鈍い音に変わっていく。
それと同時に、私は前方の壁を溶かす速度をぐんと上げた。
まるで、熱いナイフがバターの中を滑るように。
私たちは、甘い香りのする黄金色の暗闇の中を、猛烈な勢いで突き進んでいく。
壁の向こう側で、戸惑ったような羽音が、どんどん遠ざかっていくのが分かった。
これでいい。
効率的で、無駄のない、厨房管理。
それは、ここも、私の厨房も同じことなのだから。
◇
その後も、私の魔法の感覚は、壁の向こう側に、いくつもの魔物の群れの気配を捉えていた。
彼らは、この巣の中を規則正しく巡回している警備隊なのだろう。
でも、私たちの進路が彼らと交わることは、二度となかった。
私は、ただひたすらに、私の頭の中にある最短ルートの設計図だけを頼りに、黄金色の迷宮の中を掘り進んでいく。
行く手を阻むものは何もない。
ただ、甘い蜜の香りが、進むにつれて、どんどん、どんどん、その純度を増していくだけ。
シュシュは、もう、戦う気も失せたのか、私の隣で、退屈そうに、ふぁ~、と、大きなあくびを一つした。
「ごめんなさいね、シュシュ。退屈させてしまって。でも、もう少しの、辛抱よ」
私は、彼の頭を優しくこすりながら、先へと進む。
私の魔法の感覚が、はっきりと、告げていた。
女王の、あのひときわ大きく、気高い気配が、もう、すぐそこまで、近づいている、と。
そして、ついに、私たちの目の前の壁が、すうっと、最後の幕を開けるように消え去った時。
私たちは、一つの、巨大な空間へと、たどり着いた。
そこは、今までの、狭い通路とは、比べ物にならないくらい、広々とした、ドーム状の大空洞だった。
天井は、はるか高く、まるで、夜空のように、きらきらと光る、蜜の結晶が、無数に埋め込まれている。
その幻想的な光が、洞窟全体を、ぼんやりと、黄金色に、照らし出していた。
そして、その空間の、床一面。
そこには、今まで見てきた、壁から染み出す蜜とは、比べ物にならないくらい、透き通っていて、まばゆい輝きを放つ、極上の蜜が、まるで、静かな湖のように、なみなみと、満たされていたのだ。
空気は、しんと、静まり返っている。
でも、その静寂の中には、何か、息苦しいほどの、甘い香りと、濃密な魔力の気配が、満ち満ちていた。
ここが最深部。
この広大な空間の一番奥。
そこに、きっと彼女はいる。
私が、出会うべき、このダンジョンの女王が。
「……すごい」
ぽつりと、私の口から、感嘆の声が漏れた。
黄金色に輝く、静まり返った、蜜の湖。
あまりにも幻想的で、神聖な光景に、私は、しばらくの間、言葉を失って、立ち尽くしていた。
そして、その静寂の中、私の魔法の感覚が、湖の中心から放たれる、ひときわ強く、そして気高い魔力の奔流を捉えた。
それは、今まで感じてきたどんな魔物の気配とも違っていた。ただ凶暴なだけではない、もっと荘厳で、抗うことのできない、まるで大地そのものが呼吸しているかのような、巨大な生命の律動。
その律動の中心を、私は、じっと見つめる。
湖の中央に、ぽつんと、まるで、巨大な蓮の蕾のように、静かに浮かぶ、黄金色の巨大な巣。
「……あそこに、いるのね」
私の声は、期待と、そして、ほんの少しの不安に、わずかに震えていた。
ここが、この迷宮の終着点。
そして、私の、新しい夢の始まりの場所。
私は、ごくりと唾を飲むと、その黄金の湖を渡りはじめた。




