第二十一話:幻の食材を求めて
お店を開いてから、もうひと月が過ぎようとしていた。
毎日、夜明けと共に厨房に立ち、ビスキュと共にお菓子を焼き、開店と同時にお客様の笑顔を迎える。その甘くて目まぐるしい日々は、驚くほど私の心を満たしてくれていた。だから、こうして冒険のための情報を探しにギルドの重たい木の扉の前に立つのは、なんだかとても久しぶりな気がする。
すっかり顔なじみになったフローリア冒険者ギルドの巨大な扉を、私は慣れた手つきで押し開けた。
ごう、と唸るような熱気が、いつものように私の肌を撫でた。汗と土、それから酒の少し酸っぱい匂い。屈強な男たちの野太い笑い声と、時折響き渡る金属のぶつかる音。
この場所の、猥雑で力強い活気は相変わらずだ。でも、以前とは明らかに何かが違っていた。この猛々しい男たちの仕事場の匂いの奥に、どこからか微かに、バターと木の実が焼けるような甘い香りがしている気がするのだ。きっと、朝一番にうちの店で焼き菓子を買っていった冒険者さんたちが、ここで広げているのだろう。
「お、聖女様のお成りだぜ!」
「よお、店主! 今日のタルトも最高だったな! あれを食わねえと、一日が始まらねえよ!」
「大将は店番かい? よろしく言っといてくれよな!」
私が一歩、中に足を踏み入れると、あちこちから温かい声が飛んでくる。初めてここに来た時の、あの値踏みするような視線はもうどこにもない。私はその一つ一つに、にっこりと会釈を返した。私の作るお菓子と、ビスキュの健気な働きが、この町の日常にすっかり馴染んでいる。その事実が、たまらなく嬉しくて、誇らしかった。
「あら、店主さん! 珍しいわね、この時間に。お店はビスキュさんにお任せ? 今日はどうしたの、依頼かしら?」
カウンターの向こう側で、いつもの受付嬢さんが、常連客を迎える親しげな笑顔で、私に手を振ってくれた。
「ええ、まあ、そんなところですわ。でも、依頼を探すというよりは、情報を探しに来た、と言った方が正しいかもしれません」
「情報?」
彼女が不思議そうに小首を傾げた、その時だった。
「―――騒がしいな。……なんだ、嬢ちゃんか。何の用だ」
凛とした、よく通る声が、ざわめきを制するように聞こえた。
カウンターの奥の扉から、腕を組んだいかつい顔のギルドマスターが、姿を現した。その鋭い眼光は相変わらずだけど、その奥に呆れと、ほんの少しの親しみが浮かんでいるのを、私は知っている。
「ギルドマスター。ちょうどよかった。あなたにお聞きしたいことがあったのです」
「ほう。俺にか」
彼は、面白そうに片方の眉を上げた。
「なんだ。言ってみろ。また何か、面倒なことじゃねえだろうな」
「はい。この辺りのどこかに、伝説の食材が眠っている、なんていうお話、聞いたことはありませんこと?」
「伝説の食材、だと?」
ギルドマスターの厳つい顔に、あからさまに『やっぱり面倒なことだった』という表情が浮かんだ。周りで聞き耳を立てていた冒険者さんたちも、ぽかんとしている。
「ええ。その、例えば……」
いざ、口にしようとすると、言葉に詰まってしまった。
伝説の食材、なんて、あまりにも漠然としすぎている。
私の頭にふと浮かんだのは、この辺境の地で初めて口にした、あの甘さの記憶だった。
森の大木から滴っていた、琥珀色の樹液。花の蜜のような、木の実のような、複雑で豊かな風味。あれをもっと、もっと凝縮して、洗練させたような……そんな究極の甘味料があったなら。
その甘い連想が、私の唇を動かした。
「ええ。例えば、そう……砂糖よりもずっと甘くて、花の香りがする、幻の蜜とか。あるいは、どんなパンも雲みたいにふっくらと焼き上がる、黄金の小麦、とか……」
私のその、あまりにも場違いな言葉に、ギルドの中が、一瞬、しんと静まり返った。
そして、次の瞬間。
「ぶはははははっ!」
誰かが吹き出したのをきっかけに、ギルド中が、割れんばかりの爆笑に変わった。
「おいおい、聞いたかよ! 幻の蜜に、黄金の小麦だってよ!」
「聖女様は、お菓子作りのことになると、途端に夢見がちな乙女になっちまうんだな!」
「ははっ、そいつが見つかったら、俺にも一口食わせてくれよな!」
悪気のない笑い声。
でも、私の心は少しも揺れなかった。
私は、まっすぐにギルドマスターを見つめ続ける。彼は、呆れたように、はあ、と一つ深いため息をついた。
「嬢ちゃん。お前さんが、とんでもねえ菓子職人だってことは、この町の誰もが知ってる。だがな、ここは冒険者ギルドだ。おとぎ話を聞かせる場所じゃねえ。そんな都合のいいもんが、存在するわけねえだろうが」
「いいえ、あります」
私は、きっぱりと断言した。
「この世界は、私の知らないことで満ち溢れている。常識で考えたら、ありえないようなことが、そこら中に転がっている。私は、この目でそれを何度も見てきました。だから、きっとあるはずなんです。最高の味を生み出すために必要な食材が」
私のその、揺るぎない瞳。
ギルドマスターは、しばらくの間、じっと、探るような目で私の顔を見つめていた。
やがて、彼は、ふい、と顔をそむけると、カウンターの奥にある、埃をかぶった書棚へと、ずかずかと歩いていった。
「……ちっ。面倒な嬢ちゃんだぜ、全く」
悪態をつきながらも、彼の目は、真剣そのものだった。
彼は、古い羊皮紙の束や、革の装丁がぼろぼろになった分厚い本を、次から次へとめくっていく。
「そんなもんは、ねえ。……と言いてえところだがな」
彼は、一冊のひときわ古びた本を、ばさりとカウンターの上に広げた。
「お前さんが言った『蜜』、という言葉で、ふと思い出した。昔、聞いたことがある。ただの与太話だがな。このフローリアの奥深く。そこにある大森林地帯に、『蜜蜂の揺り籠』と呼ばれる、場所がある、と」
「蜜蜂の、揺り籠……?」
その、どこか美しい響きのある言葉を、私は口の中で繰り返した。
「ああ。そこは、巨大な蜂の化け物が巣食うダンジョンでな。生きて帰ってきた者は、一人もいねえ。だが、たった一人だけ、その入り口から命からがら逃げ帰ってきたっていう、半死半生の冒険者が、こんなことを口走ったらしい」
ギルドマスターは、本の、黄ばんでシミだらけになったページの一節を、指でなぞった。
「『あそこには、黄金の川が流れていた。砂糖よりも濃厚で、百の花の香りがする、幻の蜜の川が……』とな」
「……!」
その言葉を聞いた瞬間、私の背中を、ぞくりとした、甘い戦慄が駆け上がった。
間違いない。それだわ。
私が、探し求めていたもの。
「まあ、どうせ適当な話にちげぇねぇ。それ以来、そのダンジョンに近づこうとする命知らずは、誰もいやしねえ。お前さん、まさか、本当に行く気じゃねえだろうな」
ギルドマスターが、釘を刺すように、じろりと私を睨みつける。
周りの冒険者さんたちも、さっきまでの陽気な雰囲気はどこへやら、心配そうな顔で、私を見守っていた。
「嬢ちゃん、そりゃ、いくらなんでも無茶だ!」
「生きて帰った者がいない、なんて場所に、お前さん一人で行くなんて!」
その、心からの心配が、嬉しくて、胸の奥が温かくなった。
でも、私の心は、もうとっくに決まっていた。
「皆様、ご心配いただき、ありがとうございます」
私は、皆に向かって、にっこりと、花が咲くような笑顔を浮かべてみせる。
「ですが、パティシエは、最高の材料を目の前にして、尻込みするような生き物ではありません。たとえ、それが、どんなに危険な場所にあったとしても」
私のその、どこか常軌を逸した宣言に、ギルドの中が、再び、しんと静まり返った。
ギルドマスターは、はあ、と今日一番、深いため息をつくと、がしがしと、自分の頭を乱暴に掻きむしった。
「……分かった、分かったよ! もう、お前さんの菓子への執念は、よく分かった!好きにしやがれ!ただし、死ぬなよ!お前さんがいなくなったら、あのゴーレムの大将が、悲しむだろうからな!」
「ええ、もちろんです」
私は、ギルドマスターに深く一礼すると、彼が広げた古い本から、『蜜蜂の揺り籠』の場所が記された地図のページを、目に焼き付けた。
「それでは、行ってまいります」
呆然と立ち尽くす冒険者たちを背中に、私はシュシュを伴って、ギルドを後にした。
◇
「というわけで、ビスキュ。そういうことなの」
店に戻った私は、厨房のテーブルで、ビスキュに事の次第を説明していた。
私の話を聞き終えると、ビスキュの普段は絶え間なく続く効率的な動きが、ぴたりと止まった。彼はただ静かに、そののっぺらぼうの顔を私に向けている。
彼の沈黙は雄弁だった。その深い憂慮が、どんな悲痛な叫びよりも私に伝わってきた。
「心配してくれるのね、ビスキュ。でも、行かなくてはならないの。それに、私にはシュシュがついてくれるわ。私の魔法があれば、どんな困難だってきっと乗り越えてみせるから」
私が彼の頑丈な土の肩に、ぽんと手を置いてそう言うと、ビスキュはゆっくりとその大きくてごつごつとした手を持ち上げた。
そして、私の頭を、わしゃわしゃと撫でる。
その無骨な手つきは、これから旅立つ娘の身を案じる、不器用な父親のそれのように、どこまでも優しかった。その温かい仕草に、私の胸の奥がきゅっと甘く締め付けられる。
「……ありがとう。必ず無事に帰ってくるわ。そしたら、この世界で一番美味しいお菓子を、あなたに作ってあげるから」
私の誓いに、ビスキュはこくりと一つ、力強く頷いた。
そして彼は、おもむろに厨房の奥にある食料庫へと歩いていく。やがて戻ってきたその手には、一枚のクッキーが大切そうに握られていた。
それは、『森の動物クッキー』だった。
シュシュの形をした、その愛らしい焼き菓子を、そっと、彼は私の手のひらの上に乗せた。
『どうか、ご無事で。これを、旅のお守りにしてください』
声にはならない、しかしあまりにもまっすぐな想いが、そのクッキーの素朴な温もりを通して、じんわりと私の心に伝わってきた。
私は、その小さな勇気のかけらを、ぎゅっと大切に握りしめた。
「ありがとう、ビスキュ。あなたの気持ち、確かに受け取ったわ。それじゃあ、行ってくるわね。お留守番、お願いするわね」
「わふん!」
私とシュシュは、頼もしい助手に見送られ、朝日が昇り始めたばかりのひんやりとした空気の中へと、一歩踏み出した。
お店の扉の前で、ビスキュが、いつまでも見えなくなるまで、深々と、お辞儀を続けているのが、振り返らなくても分かった。
◇
フローリアの町を抜け、東へと続く街道を、私とシュシュは並んで歩いていた。
目指す場所は、大森林地帯。
ギルドから頂いた地図によれば、ここから歩いて、丸二日はかかる道のりだという。
最初はなだらかな草原が広がっていたけれど、半日も歩くと、景色はがらりとその表情を変えた。
背の高い木々が、空を覆い尽くし、昼間だというのに、辺りは薄暗い。
湿った土と、苔の匂い。むわりとした、濃密な生命の気配。
ざあざあと風が木々の葉を揺らす音と、遠くで聞こえる、未知の鳥の声が、耳に心地よい。
「すごいところね、シュシュ。ここが、大森林……」
「くんくん……」
シュシュも、初めて訪れる場所に、少しだけ興奮しているのか、落ち着かない様子で、地面の匂いを嗅ぎ続けている。
私は、ビスキュがくれたお守りのクッキーを、ポケットの中で、そっと握りしめた。
その温かさが、私の心に、小さな勇気の灯をともしてくれる。
私たちは、黙々と、森の奥深くへと、歩を進めていった。
一日が過ぎ、二日目の昼下がりになった頃。
不意に、私の鼻先を、ある匂いがかすめた。
「……ん?」
それは、今まで感じていた、森の土や草の匂いとは、明らかに種類の違う匂いだった。
むせ返るような、甘い香り。
まるで、巨大な蜂蜜の壺を、この森のどこかでひっくり返してしまったかのような、濃厚で、どこか危険な匂い。
「シュシュ、この匂い……」
「わふん!」
シュシュも、とっくに気がついていたらしい。
彼は、くんくんと鼻を鳴らしながら、匂いのする方角を、じっと見つめている。
間違いない。
この先に、私たちが目指す場所がある。
私たちは、顔を見合わせると、ごくりと一つ、喉を鳴らした。
そして、その甘い香りに誘われるように、森の、さらに奥深くへと、足を踏み入れていく。
進むにつれて、甘い香りは、どんどん、どんどん、濃くなっていく。
やがて、森の木々が、ぷっつりと途切れた、開けた場所に出た。
そして、私たちの目の前に、信じられない光景が広がっていた。
「……あれが」
ぽつりと、私の口から、感嘆とも、畏怖ともつかない声が漏れた。
そこにあったのは、あまりにも巨大な岩の塊だった。
でも、ただの岩じゃない。
その表面は、ごつごつとしていて、無数の六角形の穴が、蜂の巣みたいに、びっしりと空いている。
そして、その穴のいくつかからは、どろりとした、黄金色に輝く液体が、ゆっくりと溢れ出していたのだ。
あの、むせ返るような甘い香りは、この巨大な蜂の巣岩から発せられている。
岩の麓には、人が一人、ようやく通れるくらいの、真っ暗な洞穴が、ぽっかりと口を開けていた。
ここが入り口だろう。
生きて帰った者は、誰もいないという、伝説のダンジョン。
『蜜蜂の揺り籠』
私は、ごくりと唾を飲んだ。




