第二話:辺境への旅路と銀色の出会い
ごとり、ごとん。
無骨な車輪が石ころを弾くたびに、安物の馬車は律儀に体を揺らした。
固い座席が直接お尻に響いて、少し痛い。
窓の外を流れていくのは、見慣れた王都の洗練された街並みではなく、どこまでも続く緑の風景だった。
あの断罪劇から、三日。
私は公爵家から正式に勘当され、最低限の荷物と共に、王都のはずれから出る一台の馬車に乗せられていた。
行き先は、辺境の地。
そこにあるという、父が所有する名ばかりの土地で、余生を過ごせというのが、公爵家の最終判断だった。
実質的には追放、というわけだ。
御者台に座る男の人は、時折忌々しげにこちらを振り返っては、舌打ちをする。
まるで、汚いものでも運んでいるかのような態度だ。
まあ、仕方がないのだろう。
追放される大罪人の護送役を押し付けられた彼の不満も、分からないではない。
けれど、私の心は不思議なほど穏やかだった。
むしろ、浮き足立っている、と言ってもいい。
この揺れる馬車の中ですら、私の頭の中は、これから始まる新しい生活のことでいっぱいだった。
まずは、住む場所を確保しなくては。
辺境の土地は、ほとんど人の手が入っていない未開の地だと聞いている。
家を建てる必要があるだろう。
私の魔法は『土』属性。
貴族社会では、攻撃魔法と比べて地味で価値が低いとされていたけれど、家を建てるのには、もってこいじゃないだろうか。
そして、何よりも大切なのは、キッチンだ。
前世の記憶が蘇ってからというもの、私の頭の中には、理想の厨房の設計図が、隅々まで鮮明に描かれていた。
作業台の高さ、シンクの位置、そしてオーブンの性能。
効率よく、最高のパフォーマンスを発揮できる動線。
ああ、考えただけで、胸が躍る。
この土魔法を使えば、もしかしたら、レンガ造りの本格的なオーブンだって、自分で作れるかもしれない。
温度管理が難しいけれど、薪の火で焼いたパンやパイは、格別の美味しさなのだ。
「……ふふっ」
思わず、小さな笑い声が漏れた。
御者の男性が、ぎょっとしたようにこちらを振り返る。
きっと、気が触れたとでも思ったのだろう。
慌てて口元を引き締め、私は窓の外に視線を戻した。
延々と続く草原を眺めながら、私はこれからの計画を頭の中で組み立てていく。
キッチンが完成したら、次は調理器具だ。
泡立て器、ゴムベラ、麺棒。大小さまざまなボウルに、パイ皿、ケーキの焼き型。
それから、材料を正確に計るための秤も必要だ。
辺境で、そういったものがすぐに手に入るとは思えない。
でも、大丈夫。
私の土魔法は、土や石を操る魔法だ。
ならば、鉱石から金属を取り出し、加工することだってできるはず。
自分の手に一番しっくりくる、オーダーメイドの調理器具一式。なんて素敵な響きだろう。
問題は、食材だ。
砂糖、小麦粉、卵、バター。
お菓子作りの基本となるこれらの材料が、辺境でどの程度手に入るのか。
特に、精製された真っ白な砂糖や、きめの細かい薄力粉は、この世界では高級品だと聞く。
王都ですら、私のような貴族でなければそうそう口にできない代物だ。
でも、きっと何か代わりになるものがあるはずだ。
甘い樹液を煮詰めれば、メープルシロップのようなものが作れるかもしれない。
木の実を砕いて粉にすれば、風味豊かなクッキーが焼けるだろう。
そう。ないのなら、探せばいい。作ればいいのだ。
私には、前世で培ったパティシエとしての知識と経験がある。
そして、この世界には、魔法がある。この二つを組み合わせれば、きっと、前世では作れなかったような、新しいお菓子だって生み出せるに違いない。
そう考えると、辺境での生活は、困難どころか、むしろ宝の山のように思えてきた。
◇
王都を出発してから、五日が過ぎた。
馬車は鬱蒼とした森の中を進んでいた。木々の隙間から差し込む日の光が、地面にまだら模様を描いている。
不意に、馬車ががくん、と大きく揺れて止まった。
「おい。しばらくここで休憩する。あんたも、外の空気でも吸ってきたらどうだ」
御者の男性が、ぶっきらぼうにそう告げる。私はこくりと頷いて、慎重に馬車を降りた。
ひんやりとした、濃い緑の匂いが肺を満たした。
土と、湿った落ち葉と、名も知らない花の微かな甘い香りがする。
ざあっと風が木々の葉を揺らす音と、遠くで聞こえる鳥の声が、耳に心地よい。
ずっと馬車に揺られ続けていた体は、思った以上に凝り固まっていた。
私はその場で大きく伸びをして、固まった筋肉をほぐす。
御者の男性は、馬に水を与えながら、ちらりともこちらを見ようとしない。
私は彼から少し離れた場所まで歩いて、森の中へと足を踏み入れた。ふかふかとした腐葉土の感触が、薄い靴底を通して伝わってくる。
なんて、静かな場所だろう。
王都の喧騒が、まるで遠い昔のことのように感じられた。
しばらく森の中を歩いていると、不意に、ある音が私の耳に届いた。
―――クゥン、クゥン……。
か細い、鳴き声。
それは、まるで助けを求めているかのような、悲痛な響きをしていた。
私は足を止め、耳を澄ます。
声は、そう遠くない場所から聞こえてくるようだった。
何だろう。森の動物だろうか。
私は、音のする方へと、ゆっくりと歩を進めた。
木の根や下草に足を取られないよう、慎重に。
声は、だんだんと近くなってくる。
そして、茂みの向こうに、何かが動くのが見えた。
私はそっと茂みをかき分けて、その先をのぞき込む。
そこにいたのは、一匹の獣だった。
犬のようでもあり、狼のようでもある、しなやかな体つき。
何よりも目を引いたのは、その毛並みの色だった。
月光をそのまま固めたかのような、美しい銀色。陽の光を受けて、きらきらと輝いている。
けれど、その美しい獣は、苦しそうに身をよじっていた。
その後ろ足が、無慈悲な鉄の罠に、がっちりと挟まれていたのだ。
罠の周りの土は赤黒く染まり、彼がどれほど長くここで苦しんでいたのかを物語っていた。
「……ひどい」
思わず、声が漏れた。
獣がはっと顔を上げた。
琥珀色の瞳が、鋭い警戒の色を浮かべて、まっすぐに私を捉える。
喉の奥で低く唸るような音がした。
近づくな。さもなくば、ただではおかない。
その瞳は雄弁にそう語っていた。
私はその場に立ち尽くした。
下手に近づけば、彼をさらに興奮させてしまうかもしれない。
そうなれば、傷がもっとひどくなる可能性もある。
どうしよう。
何か、彼を落ち着かせる方法は……。
その時、ふと、自分の荷物の中に、あるものを入れていたことを思い出した。
公爵邸を出る前夜、私はこっそりと厨房を借りて、簡単なクッキーを焼いていたのだ。
旅の途中で、小腹が空いた時のために。それは、ありあわせの材料で作った、素朴なバタークッキーだった。
私はゆっくりとした動作で、肩にかけていた布製の鞄から、そのクッキーを一枚、取り出した。
バターと、砂糖が焼ける、甘くて優しい香り。
銀色の獣が、ぴくりと鼻を動かした。
琥珀色の瞳から、ほんの少しだけ、警戒の色が薄れたような気がした。
「大丈夫よ。何もしないわ」
私は、できるだけ穏やかな声で、そう語りかけた。
「お腹が空いているでしょう? これを、どうぞ」
私はそのクッキーを、彼の足元に、ことり、と置いた。
彼は、じっとクッキーを見つめている。
その鼻先が、くんくんと匂いを嗅ぐように動いた。甘い香りに誘われているのだろうか。
しばらくの逡巡の後、彼は意を決したように、ぺろり、と舌を伸ばし、クッキーを舐めた。
その瞬間、彼の琥珀色の瞳が、わずかに見開かれた。
美味しい。
そう言っているかのように。
彼は、ゆっくりとクッキーを口に含み、かり、こり、と小さな音を立てて食べた。
よほどお腹が空いていたのだろう。あっという間に、一枚のクッキーは彼の口の中に消えてしまった。
そして、もっと欲しい、とでも言うように、期待のこもった目で、じっと私を見つめてくる。
私は微笑んで、もう一枚、クッキーを取り出した。
「ええ、まだあるわ。たくさん、召し上がれ」
今度は、もう少しだけ、彼に近い場所にクッキーを置く。
彼は、先ほどよりもためらうことなく、それを食べた。
一枚、また一枚と、クッキーを分け与えていくうちに、彼の体から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。喉を鳴らす唸り声も、いつの間にか止んでいる。琥珀色の瞳には、もう敵意の色はなかった。
これなら大丈夫かもしれない。
私は、最後のクッキーを差し出しながら、ゆっくりと彼のそばに膝をついた。
彼はもう、私を威嚇しようとはしなかった。
問題は、この鉄の罠だ。
がっちりと食い込んだ鉄の歯は、人の力でこじ開けるのは難しそうだった。
何か道具があれば……。
いや。
私には、魔法がある。
土魔法は、土や石を操る魔法。
けれど、その本質は、『大地に属するもの』を操作する力だ。
鉄は、大地から採れる鉱物。ならば、私の魔法の対象になるはずだ。
私は、そっと罠に手を伸ばした。ひんやりとした無機質な鉄の感触。
目を閉じて、意識を集中させる。
私の体の中にある、温かい力の源。マナ。それを手の先へと集めていく。
イメージするのは、硬い鉄が、まるで粘土のように柔らかくなる様子。
―――動け。
心の中で強く念じる。
すると、私の両手で持っている鉄が、ほんの少しだけ温かくなったような気がした。
ぎ、ぎぎ……。
金属のきしむ音がする。
ゆっくりと鉄の歯が開いていく。
銀色の獣が驚いたように目を見開いている。
大丈夫、もうすぐだからね。
そして。
―――カコン。
軽い音を立てて、罠が完全に開いた。
彼の足が自由になった。
私は、ほっと息をついた。
思った以上に、集中力を使ったようだ。
額に、じわりと汗がにじむ。
銀色の獣は、解放された自分の足と、私の顔を交互に見比べている。
その琥珀色の瞳には、信じられない、というような、驚きと戸惑いが浮かんでいた。
やがて、彼はゆっくりと立ち上がった。
傷ついた足を少し引きずってはいるけれど、幸い、骨は折れていないようだ。
彼は、私の足元まで、とてとて、と歩み寄ってきた。
そして。
ぺろり、と。
私の手を、その温かくて、ざらりとした舌で舐めた。
それは感謝のしるしのように思えた。
「……よかった」
私は、彼の頭をそっと撫でた。絹のように滑らかな、銀色の毛並み。その感触は、今まで触れたどんな布地よりも心地よかった。
彼は気持ちよさそうに目を細めて、私の手に頭をすり寄せてくる。
もう、すっかり私に心を許してくれたようだった。
「あなた、お名前はなんて言うの?」
問いかけても、もちろん返事はない。
私は、彼のふさふさとした、立派なしっぽに目をやった。
「……シュシュ、というのはどうかしら」
私がそう言うと、彼は「わふん!」と、短く一声鳴いた。
気に入ってくれた、ということだろうか。
「よろしくね、シュシュ」
私がそう言って微笑むと、彼もまた、尻尾をぱたぱたと振って、応えてくれた。
◇
私がシュシュを連れて馬車に戻ると、御者の男性は、あんぐりと口を開けて固まっていた。
「な……なんだ、その獣は!ま、まさか、森で手懐けてきたって言うのか!?」
「ええ。この子は、シュシュと名付けました」
「シュシュって……あんた、正気か!?そいつは、銀狼じゃないか! 凶暴で人を襲うって話だぞ!」
銀狼。
このあたりでは、そう呼ばれているのかもしれない。
シュシュは、男性の剣幕に、私の背後にさっと隠れた。
そして、唸り声を上げて、鋭い牙を剥き出しにする。
私を守ろうとしてくれているのだ。
「大丈夫よ、シュシュ。この方は、悪い人じゃないわ」
私がそう言って背中を撫でてやると、シュシュはしぶしぶといった様子で牙をしまった。
男性は、信じられないものを見るような目で、私とシュシュを交互に見ている。
「……ったく。とんでもないお嬢様だぜ。まあいい、さっさと乗れ。出発するぞ」
彼は、それ以上何も言わなかった。
私はシュシュと一緒に、馬車の荷台に乗り込む。座席は狭いけれど、シュシュの温かい体が隣にあるだけで、不思議と心が安らいだ。
馬車が、再びゆっくりと動き出す。
ごとり、ごとん。
相変わらず、無骨な揺れは続いている。
けれど、もう、それは不快なものではなかった。
これから始まる新しい生活への、心地よい序曲のように。
私は、腕の中で丸くなるシュシュの銀色の毛並みを撫でながら、窓の外の景色を眺めた。