第十九話:お菓子の秘密と広がる評判
嵐のような開店初日が過ぎ去った翌朝。
私は、まだ夜の青さが残る厨房で、一人静かに椅子に腰かけていた。昨日あれだけ鳴り響いていたお客様の喧騒と陽気な笑い声はもうどこにもない。
しんと静まり返った店内には、オーブンに残った薪がぱち、と小さくはぜる音と、甘い香りの残り香だけが、幸福な夢の続きみたいに優しく漂っていた。
全身が水を含んだスポンジのようにずっしりと重い。
昨日一日ほとんど立ちっぱなしだった足は、棒のように固まってしまっている。
でも、その疲労感は不思議なくらい心地よかった。最高のケーキを焼き上げた後の、甘くて満ち足りた脱力感に似ている。
空っぽになったショーケース。
一枚も残らなかった壁の棚。
その光景を思い出すだけで、胸の奥が温かいキャラメルで満たされていくようだった。
私の作ったお菓子がこの町の人たちに受け入れられた。それどころか、心の底から喜んでもらえたのだ。その事実が、どんな高級な砂糖よりも甘く、私の心をじんわりと満たしていく。
『……ご主人様』
ふと、背後からそんな気配がして、私はゆっくりと振り返った。
そこにはいつの間にか、私の忠実な助手であるビスキュが、音もなく静かに立っていた。その素焼きのビスケットみたいな手には湯気の立つカップが一つ。中からは私の大好きなカモミールの優しい香りがふわりと立ち上っている。
「おはよう、ビスキュ。ありがとう。気が利くのね」
カップを受け取って一口含むと、優しい甘さが体中にじんわりと広がっていく。ビスキュは何も言わずに私の隣にすっと立つと、昨日の戦場と化した厨房を、歴戦の将軍が戦跡を眺めるようにじっと見つめていた。その表情のない顔が、ほんの少しだけ誇らしげに見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
「わふん!」
私の足元で小さな鳴き声がした。見下ろすと、いつの間にか目を覚ましたシュシュが、私の足にこつんと頭をすり寄せてきている。その琥珀色の瞳は『僕たち、やったね!』と、そう得意げに語っていた。
「ええ、本当に。あなたとビスキュがいてくれたおかげよ」
私はその銀色の頭を優しくこする。
一人と一匹と一体。
このかけがえのない家族がいなければ、昨日という奇跡のような一日は決して訪れなかっただろう。
「さあ、いつまでも感傷に浸ってはいられないわ」
私はカップをことりとテーブルに置くと、椅子から勢いよく立ち上がった。
「今日もたくさんのお客様が、私たちのお菓子を待ってくれているはず。昨日以上の、最高の笑顔でお迎えしなくちゃ!」
私のその声に、ビスキュはこくりと力強く頷き、シュシュは「わふん!」と一声高らかに鳴いた。
こうして『銀のしっぽ亭』の、甘くて幸せな二日目の朝が、静かにその幕を開けた。
◇
開店準備は、昨日以上にスムーズに進んだ。
ビスキュの仕事ぶりはもはや神業の域に達している。
私が指示を出す前に、彼はもう次に必要な材料を正確な分量で用意し、調理器具を最適な場所に配置してくれるのだ。
そのおかげで私はお菓子作りの一番楽しい部分、つまり、生地をこねたりクリームを泡立てたり、美しい形に飾り付けたりという創造的な作業に全ての意識を集中させることができた。
厨房はバターと木の実が焼ける香ばしい匂いと、果実が煮詰まる甘酸っぱい香りで、あっという間に満たされていく。
開店時間になる頃には、ショーケースの中も壁の棚も、昨日と同じように焼きたての温かいお菓子で、すっかり埋め尽くされていた。
「よし、準備万端ね!」
私がきりりとエプロンの紐を結び直した、まさにその時だった。
ちりん、と。
店の入り口の扉にかけたベルが軽やかな音を立てて鳴り響いた。
昨日の一番乗りのお客様。
赤毛の冒険者さんたちが、開店と同時に待ってましたとばかりに飛び込んできたのだ。
「よお、店主! 今日も来たぜ!」
「昨日は美味いもんをサンキューな!おかげで、昨夜はぐっすり眠れたぜ!」
赤毛の冒険者さんが人の良い笑顔を浮かべて、カウンターに肘をつく。その後ろから狐目の男性と、無口な大盾使いの男性もひょっこりと顔を出した。
「いらっしゃいませ。皆様、本日の一番乗り、ありがとうございます」
私がにっこりと微笑みかけると、赤毛さんは何かを思い出したようにぽんと手を打った。
「そういや店主! あんたの菓子、美味いだけじゃねえみたいだな!」
「と、おっしゃいますと?」
私が不思議そうに首を傾げると、彼は自分のたくましい腕をばんばんと叩いてみせた。
「いやあ、昨日ダンジョンの帰りにあんたのタルトを食って帰ったんだがよ。今朝起きたら、いつもみてえな体の軋みがすっかり消えてやがるんだ!なんだか、力がみなぎってるみてえでよ!」
「俺もだ」
隣にいた狐目の男性が珍しく自分から口を開いた。
「昨日は少し飲みすぎちまってな。今朝はひでえ二日酔いを覚悟してたんだが、なぜだか頭がすっきりしてる。……あんたのクッキーを、つまみにしたせいかもしれねえな」
「……俺も、調子がいい」
無口な大盾使いの男性もこくりと一つ、力強く頷いている。
私は三人のその言葉にぽかんとしてしまった。
「まあ……。それはようございました。きっと皆様、昨日のお仕事でお疲れだったのが、甘いものを召し上がってよく眠れたからではございませんか?」
私がそう言うと、三人は「そうかもしれねえな!」「ははっ、違いない!」と豪快に笑い飛ばした。
「ま、どっちにしろあんたの菓子がすげえってことだ! 今日もタルトを三つ、それからクッキーももらおうか! ダンジョンに行く前の景気づけだ!」
私は三人のその陽気な言葉を、その時はただの嬉しいお世辞として、にこやかに受け取っていた。
◇
お店はあの日以来、連日開店と同時に長い列ができるほどの大盛況が続いていた。
その大盛況とともに、私のお菓子を買ってくれる人たちは、買うついでに口々に、不思議な体験談を私に語っていくようになった。
「店主! 聞いてくれよ! あんたのフロランタンを懐に入れてダンジョンに潜ったらよ、いつもは見つからねえ珍しい鉱石をごっそり見つけちまったんだ! こいつは、幸運のお守りかもしれねえぜ!」
そう言って、目をきらきらさせて報告してくれたのは、ドワーフの屈強な戦士さんだった。
「このクッキー、うちの子が大好きでねえ。昨日少し風邪気味だったから、これを食べさせて寝かせたら、今朝はすっかり元気になって庭を走り回ってるのよ。不思議なこともあるものねえ」
そう言って、優しく微笑んでくれたのは、近所に住むお母さんだった。
他にも「頑固な肩こりがタルトを食べたら軽くなった気がする」「難しい依頼がクッキーを食べた後だとなぜか上手くいく」など、その内容は多岐にわたっていた。
最初は気のせい、偶然、と私もにこやかに聞き流していた。
でも、あまりにも多くの人があまりにも真剣な顔で、同じようなことを口にするものだから、私の心の中にも次第に、小さな、でも無視できない疑問の種がぽつりと芽生え始めていた。
そして、その種がはっきりと芽吹くきっかけとなったのは、ある日の午後のことだった。
「―――というわけで、ギルドで今、大変な噂になっているのです」
そう言って、少しだけ困ったような、でもどこか楽しそうな顔で私に教えてくれたのは、休憩時間にお茶を飲みに立ち寄ってくれたギルドの受付のお姉さんだった。
「噂、ですの?」
「ええ。『銀のしっぽ亭』のお菓子は、下手な回復薬より効果がある、って」
彼女はカップをそっとソーサーに置くと、声をひそめて続けた。
「最初はみんな半信半疑だったの。でも、あまりにもそういう報告が多いものだから、好事家の冒険者がギルドの魔法使いにあなたのクッキーを調査してもらったらしいのよ」
「まあ! そんなことを……」
私は少しだけむっとしてしまう。私のお菓子を薬のように分析するなんて、少し失礼ではないだろうか。
「もちろん結果は、ただの美味しいクッキーだったけれど。毒も薬効成分も何も検出されなかった。でもね、その魔法使いが首を傾げながらこう言ったんですって」
受付のお姉さんはごくりと喉を鳴らして言った。
「『成分は普通だ。だが、この菓子全体から微かだが非常に温かく、純度の高い魔力の反応が感じられる。これは、一体……?』って」
魔力、ですって?
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で今までばらばらだったパズルのピースが、かちりと音を立ててはまるような感覚があった。
そうだ。
私はお菓子を作る時いつだって無意識のうちに、自分の体の中にある温かい力、つまりマナを注ぎ込んでいた。
生地をこねる、その指先に。
クリームを泡立てる、その泡立て器に。
オーブンの火加減を調整する、その炎の中に。
最高の味になれ、と。
食べた人が幸せな気持ちになりますように、と。
その強い想いと祈りが私のマナと一緒に、お菓子の中にぎゅっと詰め込まれていたのだとしたら。
私のマナは癒やしの力を持つ聖魔法とは違う。ごくありふれた『土』の魔法だ。
でも、土の魔法の本質は何かを生み出し育む力。
生命の土台となる温かくて優しい力。
その力が食べた人の心と体に、ほんの少しだけ良い影響を与えているのだとしても不思議ではないのかもしれない。
「……つまり、私の愛情という、隠し味のせいかしら」
私がぽつりと冗談めかしてそう呟くと、受付のお姉さんはきょとんとした顔で私を見つめた。
そして、次の瞬間。
彼女はぱあっと花が咲くような笑顔になって言った。
「まあ!素敵!きっとそうだわ!あなたの作るお菓子は、愛情でできているのね!」
その、あまりにも純粋でまっすぐな言葉。
なんだか少しだけ気恥ずかしくて、でも心の底から嬉しくて。
私の頬がぽっと、焼きたてのスポンジケーキのように熱くなるのが分かった。
◇
いつの間にか、私のお店『銀のしっぽ亭』は、ただの美味しいお菓子屋さんではなく、少しだけ特別な意味を持つ場所としてフローリアの町に定着していくことになっていた。
「店主!これからちと厄介な依頼でな。幸運のクッキーを、ありったけもらおうか!こいつがあればどんな化け物だって怖くねえ!」
そう言って出がけに立ち寄っていくのは、冒険者さんたちの朝の日課。
「ただいま、店主!いやあ、今日の依頼はきつかったぜ……。癒やしのタルトを一つ。こいつを食わねえと一日が終わらねえ」
そう言って疲れ切った顔で、でもどこか嬉しそうに立ち寄っていくのは、冒険者さんたちの夜の日課。
私の作るお菓子は彼らにとって、冒険の始まりと終わりを告げる大切な儀式の一部になっていた。
それは冒険者さんたちだけじゃない。
きっと、町の一般の人たちにとっても『銀のしっぽ亭』は、いつしかなくてはならない場所になっていると私は信じていた。
「うちの主人が最近仕事で元気がないみたいで。ここのお菓子を食べさせたら、少しは元気が出るかしら」
「明日大事な商談があるんです。どうか、私に幸運を……!」
「恋人への贈り物を探しにまいりました。あの子が笑顔になってくれるような、甘い魔法をいただけますでしょうか」
お客様たちは私の作るお菓子に、それぞれの願いや祈りを託して買っていく。
その一つ一つの想いが、あまりにも温かくて愛おしくて。
私はただひたすらに、心を込めてお菓子を作り続けた。
私のマナとありったけの愛情を、ぎゅっと詰め込んで。
「ふう、今日も全部売り切れね」
閉店後、空っぽになったショーケースを磨きながら、私は満足のため息をついた。
隣ではビスキュが黙々と調理器具をぴかぴかに洗い上げている。
足元ではシュシュが今日の残りのクッキー生地を、幸せそうにぺろぺろと舐めていた。
忙しくて目が回りそうな毎日。
でも、その全てが充実感と幸福感に満ち溢れている。
追放されて始まった私の第二の人生。
それはいつの間にかこのフローリアという町で、たくさんの人々の笑顔と幸せな時間に、深く関わるものとなっていた。
「さあ、ビスキュ、シュシュ」
私はきれいに磨き上げたショーケースをうっとりと眺めながら、二人の家族ににっこりと微笑みかけた。
「明日も頑張りましょうか。私たちの作るお菓子を待ってくれている人たちが、たくさんいるのだから」
私のその声は甘い香りの余韻が残る、静かな店内に温かく満ちていった。
 




