第十八話:開店の日、鳴り響く鐘
あのささやかな試食会から一夜が明けると、フローリアの町はまるで煮詰めたシロップみたいに、甘くて熱っぽい噂話で満たされていた。
発信源は、もちろんあの四人。
ギルドの受付のお姉さんはカウンターを訪れる冒険者一人ひとりに、頬を上気させながら夢見るような表情で語ったらしい。
「あのですね、昨日、とんでもないものをいただいてしまったんです。口に入れた瞬間にほろりと溶けてなくなる、雲みたいなクッキーを……!」と。
赤毛の冒険者さんに至ってはもっと豪快だった。彼はギルドの酒場で、仲間たちに昨日食べたお菓子の皿を両手で大きく再現しながら、身振り手振りを交えて熱弁を振るったという。
「いいか、お前ら!あれはパイじゃねえ!タルトだ!ざくざくの生地の上に、とろとろのクリームと甘酸っぱいジャムが乗ってやがるんだ!一口食ったらな、脳天をハンマーでぶん殴られたみてえな衝撃が走るんだぜ!」と。
そんな、あまりにも具体的で熱のこもった口コミは、乾いたスポンジが水を吸い込むみたいに、あっという間に町中の人々の心に染み渡っていった。
呪われた廃墟が、一夜にしておとぎ話みたいなお店に変わったという都市伝説。
そこに住むのは、銀色の聖獣を連れた、謎多き『土塊の聖女』。
そして彼女が作るお菓子は、一度食べたら忘れられない、魔法のような味がするという。
三つの噂が、人々の口から口へと伝わるうちに、まるで泡立てたメレンゲみたいに、どんどん、どんどん大きく膨らんでいく。私が開店準備のために町へ買い物に出かけると、道行く人々がこちらをちらちらと遠巻きに見ては、ひそひそと囁き合っているのが分かった。その視線にはもう侮りや嘲笑の色はなく、ただ純粋な好奇心と、未知の味への期待がきらきらと輝いていた。
「すごいことになっちゃったわね」
厨房に戻った私は、思わず苦笑いしながらそう呟いた。
足元でシュシュが「わふん!」と得意げに胸を張っている。その琥珀色の瞳は『ご主人様のお菓子は、それくらいすごいんだ!』と、そう言っているみたいだった。
私の隣では、ビスキュが黙々と、しかしどこか楽しげに、木の実の殻を剥いている。彼の勤勉な働きぶりを見ていると、私の心の中に渦巻いていたプレッシャーが、すうっとバターみたいに溶けていくようだった。
「そうね。期待には、最高の仕事で応えなくちゃ」
私はきりりとエプロンの紐を結び直す。
開店まで、あと二日。
私たちの、甘くて最高に忙しい戦争が始まった。
◇
それからの二日間、『銀のしっぽ亭』の厨房は、まさにお菓子の工場そのものだった。
日が昇る前から石窯には火が入れられ、日が沈んでからも、ランプの灯りの下で私たちの作業は続いた。厨房の中は常に、バターと木の実が焼ける香ばしい匂いと、果実が煮詰まる甘酸っぱい香りが、湯気となって満ち満ちていた。
私はまるでオーケストラの指揮者みたいに、厨房全体に指示を飛ばしていく。
「ビスキュ、タルト生地の仕込みはあとどれくらい? それが終わったら、クッキー生地の冷却をお願い!温度管理に気を付けてね!」
ビスキュは「お任せください」とでも言うように、こくりと一つ頷くと、機械のように正確な動きで、次から次へと作業をこなしていく。その姿はあまりにも頼もしくて、私は彼を生み出せたことを、心の底から誇りに思った。
シュシュも、ただ遊んでいるわけじゃない。彼は私たちの最高の味見役であり、そして何よりのムードメーカーだった。
「シュシュ、ちょっとこれ、味見してみてくれる? フロランタンのキャラメルの煮詰め具合、これでいいかしら」
私が小さなスプーンを差し出すと、彼はぺろりと一口舐めて、至福の表情で「わふん!」と一声鳴いた。合格、ということらしい。
一人、一匹、一体。
私たちは、最高のチームだった。
前世の厨房は、いつも孤独な戦場だった。時間に追われ、上司に怒鳴られ、同僚とはライバル。自分の理想を、誰とも分かち合うことはできなかった。
でも、今は違う。
隣には、私の夢を共有してくれる、かけがえのない家族がいる。
その事実が、私の心に、どんな高級な砂糖よりも甘くて温かいエネルギーを、次から次へと注ぎ込んでくれるのだ。
タルト、クッキー、フロランタン。
三種類の焼き菓子を、来るお客様全員に行き渡るように、私たちは文字通り寝る間も惜しんで作り続けた。
そして、あっという間に、運命の日の朝がやってきた。
◇
その日、私は夜明けよりもずっと早くに目を覚ました。
どきどきして、まるで遠足の前の日の子供みたいに、少しもじっとしていられない。
私はそっとベッドを抜け出すと、まだ薄暗い一階の店へと降りていった。
しんと静まり返った店内。
でもそこは、もうがらんどうの箱じゃない。
ショーケースの中も、壁の飾り棚も、私たちが三日間かけて作り上げた、たくさんの焼き菓子で、すっかり埋め尽くされている。
宝石みたいに輝くタルト。
可愛らしい動物の形をしたクッキー。
黄金色に輝くフロランタン。
その一つ一つが、私の愛情の結晶だ。
私は、ショーケースのガラスを、きゅっきゅと綺麗な布で磨き上げた。
お客様を、最高の状態でお迎えしなくては。
全ての準備が整った頃、東の空が、まるで極上のイチゴのムースみたいに、ほんのりと白み始めてきた。
私は、ふと、何気なく、お店の大きなガラス窓から、外の様子を覗き込んだ。
そして。
私は、自分の目を疑った。
「…………え?」
お店の前。
まだ、開店の時間まで、二時間以上もあるというのに。
そこには、信じられないくらい長い、人の列ができていたのだ。
先頭にいるのは、もちろん、あの赤毛の冒険者さんたちだった。
彼らはまるで一番乗りの手柄を立てた子供みたいに、誇らしげな顔で腕を組んでいる。
その後ろには、ギルドで顔見知りになった冒険者さんたちがずらりと並び、さらにその後ろには、噂を聞きつけた商人らしき人たちや、子供の手を引いたお母さん、寄り添って立つ老夫婦の姿まであった。
その列は、目抜き通りを曲がって、もうどこまで続いているのか、見えなくなってしまっている。
まるで、王都で開かれる、王様主催の祝祭の日のような光景だった。
「……うそでしょう?」
ぽろりと、私の口から、間の抜けた声がこぼれ落ちた。
嬉しい、というよりも、あまりの光景に、頭が真っ白になってしまった。
私の、たった一人で始めた、ささやかなお店。
それを、こんなにもたくさんの人が、待ち望んでくれていたなんて。
胸の奥から、ふつふつと、熱くて、くすぐったいような感情が、こみ上げてくる。
涙で視界が滲みそうになるのを、ぐっと奥歯を噛みしめて、こらえた。
泣いている場合じゃない。
この温かい期待に、私は最高の笑顔で応えなくてはならないのだから。
「シュシュ、ビスキュ! 起きて! お客様が、もういらっしゃっているわ! 最後の準備よ!」
私のその声に、店の奥から、慌てたような、でもどこか嬉しそうな気配が、ばたばたと駆け寄ってくるのが分かった。
◇
ちりん、と。
約束の開店時間。
店の入り口の扉にかけた、小さな真鍮のベルが、澄んだ音を立てて鳴り響いた。
私がゆっくりと扉を開けると、待ってましたとばかりに、外の喧騒と活気が、甘い香りに満ちた店内へと、どっと流れ込んでくる。
「いらっしゃいませ! パティスリー『銀のしっぽ亭』へ、ようこそ!」
私と、私の隣に直立不動で立つビスキュは、お客様に向かって、深く、深く、お辞儀をした。
一番乗りのお客様である赤毛の冒険者さんが、にっと人の良い笑顔を浮かべて、店の中へと入ってくる。
「よお、店主! 待ってたぜ! 約束通り、一番乗りだ!」
「まあ! 本当にありがとうございます。さあ、どうぞ、ごゆっくりご覧になってくださいませ」
彼に続いて、たくさんの人々が、期待に満ちた顔で、次から次へと店の中へとなだれ込んできた。
あっという間に、あれほど広々としていたはずの店内が、お客様でいっぱいになる。
そして、誰もが、店内に足を踏み入れた瞬間、同じ反応を示した。
まず、宝石箱みたいに輝くショーケースを見て、わあ、と感嘆の声を上げる。
次に、店中を満たす、むせ返るような甘い香りに、うっとりと目を細める。
そして、壁の棚に並べられた可愛らしい焼き菓子たちに、目をきらきらと輝かせるのだ。
「すげえ……本当に、お菓子の城みてえだ……」
「見て、あなた! あの狼のクッキー、可愛いわ!」
「どれもこれも、美味しそう……困ったわ、全部食べたくなってしまう……!」
そんな、嬉しそうな声が、あちこちから聞こえてくる。
その声を聞いているだけで、私の胸は、オーブンの中で膨らむパン生地みたいに、ふわふわとした幸福感で満たされていった。
これが、私が作りたかった光景。
これが、私が夢見ていた場所。
すぐに、カウンターの前にも、長い列ができた。
私は、最高の笑顔で、お客様一人ひとりに対応していく。
「はい、いらっしゃいませ! タルトがお一つですね。ありがとうございます!」
「こちらのクッキーは、十枚で袋詰めにもできますよ」
「フロランタンは、少し固いので、お茶と一緒に召し上がっていただくのがおすすめですわ」
私の隣では、ビスキュがサポートをしてくれる。
私が注文を聞くと同時に、彼はもうショーケースからお菓子を取り出し、寸分の狂いもない正確さで、綺麗な箱に詰めていく。その流れるような連携プレーは、もはや芸術の域に達していた。
イートインスペースも、すぐに満席になった。
小さなテーブルでは、冒険者さんたちが、大きな口でタルトを頬張りながら、目を丸くしている。
「うめえ! なんだこりゃ! パイも美味かったが、こいつは別格だ!」
「ざくざくの生地と、中のしっとりしたクリームの組み合わせが、たまらないわね……」
別のテーブルでは、子供たちが、動物クッキーを手に持って、大はしゃぎしていた。
「見て見て、お母さん! リスさんよ!」
「ふふ、よかったわね。落とさないように、ちゃんと食べるのよ」
その光景の、なんと温かくて、愛おしいことか。
私の作るお菓子が、この町の人々のささやかな日常を特別なものに変えている。
その事実が、たまらなく嬉しくて、誇らしかった。
お店は、お昼を過ぎても、途切れることのないお客様で、ずっと賑わい続けていた。
用意していたお菓子は、私の予想を遥かに超える速さで、どんどん売れていく。
タルトが売り切れ、フロランタンが売り切れ、そしてついに、最後のクッキーが、小さな女の子の手に渡っていった。
ショーケースの中も、壁の棚も、すっかり空っぽになってしまった。
「……申し訳ありません! 本日、ご用意していたお菓子は、全て売り切れとなってしまいました!」
私が店の前で、まだ並んでくれていたお客様に向かって、深く頭を下げると、意外にも、誰一人として、文句を言う人はいなかった。
それどころか、あちこちから、温かい声が飛んでくる。
「いいってことよ、嬢ちゃん! これだけ繁盛してりゃ、仕方ねえさ!」
「明日、また来ますわ! 明日は、もっとたくさん焼いておいてくださいね!」
「開店おめでとう! この町に、こんな素敵なお店ができて、俺たちは嬉しいぜ!」
その言葉の一つ一つが、私の疲れた体に、温かいシロップみたいに、じんわりと染み渡っていく。
私は、もう一度、深く、深く、頭を下げた。
「……ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」
お客様が、みんな、満足そうな笑顔で帰っていく。
その背中を見送りながら、私は、この町に来て、本当によかったと、心の底から思った。
◇
ちりん、と。
最後のお客様が帰り、私がお店の扉に『本日は閉店いたしました』という札をかけると、店の中は、まるで嵐が過ぎ去ったかのように、静まり返った。
でも、その静寂は、寂しいものじゃなかった。
お客様たちが残していった、温かい幸福感と、甘い香りの余韻が、店内の隅々まで、優しく満たしていた。
私と、シュシュと、ビスキュは、へとへとになって、イートインスペースの椅子に、どさりと座り込んだ。
三人とも、口をきく元気も残っていない。
でも、その顔は、三者三様に、この上ない達成感で輝いていた。
私は、テーブルの上に一つだけ残しておいた、試作品のタルトを、三等分に切り分けた。
今日一日、一番頑張ってくれた、私たち自身への、ささやかなご褒美だ。
三人は、無言で、そのタルトを頬張った。
疲れた体に、優しい甘さが、じんわりと染み渡っていく。
世界で一番、美味しい味がした。
私は、空っぽになったショーケースと、壁の棚を見渡す。
そして、隣に座る、かけがえのない家族の顔を見た。
「……ありがとう、二人とも」
ぽつりと漏れた声は、少しだけ、震えていた。
「今日という日を、私、一生忘れないわ」
追放された、あの絶望の夜会。
あの時は、私の人生は、もう終わってしまったのだと思っていた。
でも違った。
あれは終わりじゃなかった。始まりの日だったんだ。
私は、窓の外に広がる、夕焼けに染まったフローリアの町並みを眺めた。




