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第十六話:夢の城の名前は


 ざわざわ、ざわざわ。


 まるで巨大な蜂の巣箱をひっくり返したみたいな人の声が、まだ夜の気配がうっすらと残るフローリアの町を、朝靄みたいに満たしていた。

 私は出来たばかりの我が家の二階、まだ真新しい木の香りがする窓枠にそっと肘をついて、その光景をぼんやりと眺めていた。

 眼下に広がる中央区画の目抜き通りは、日の出前だというのに、普段の昼間よりもずっと多くの人々でごった返している。誰もが皆、信じられないものを見るような顔で、一つの場所を指さし、あんぐりと口を開けて立ち尽くしていた。


 その視線の先に何があるのか。


 もちろん、よく知っている。


 私の新しいお城であり、お店だ。


「ふふっ、すごい騒ぎね」


 思わず、くすくすという笑い声がこぼれた。

 私の足元で、シュシュが「わふん!」と得意げに一声鳴いて、ふさふさの銀色の尻尾をぱたぱたと機嫌よく振っている。その琥珀色の瞳は『僕たち、すごいことをやっちゃったね!』と、そう言っているみたいだった。


「ええ、本当に。あなたとビスキュがいてくれたおかげよ」


 私はその小さな頭を優しくこすってやる。

 無理もない。昨日までこの場所にあったのは、蔦に覆われ、壁は崩れ落ち、見るからにおどろおどろしい呪われた廃墟だったのだ。それがたった一夜にして、まるでおとぎ話の中から飛び出してきたみたいに、温かみのあるレンガと木でできた可愛らしいお店に生まれ変わってしまったのだから。町の人たちが幽霊でも見たかのような顔になるのも、当然のことだろう。


『おはようございます、ご主人様』


 ふと、背後からそんな声が聞こえたような気がした。


 もちろん、声がしたわけじゃない。


 私の忠実な助手、土のゴーレムであるビスキュは言葉を話せない。

 でも、彼が私のそばにすうっと音もなく寄り添うだけで、その健気な気配が、まるで温かいハーブティーみたいに私の心にじんわりと染み渡ってくるのだ。

 振り返ると、彼はその素焼きのビスケットみたいな体で、深々と丁寧にお辞儀をしていた。その手にはいつの間にか、湯気の立つカップが一つ。中からは、私の大好きなカモミールの優しい香りがふわりと立ち上っていた。


「おはよう、ビスキュ。ありがとう。気が利くのね」


 カップを受け取って一口含むと、優しい甘さが体中に広がっていく。

 外の喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。

 私はもう一度、窓の外に目をやる。人々はまだ、呆然と立ち尽くしたままだった。


「さあ、いつまでもこうしてはいられない!」


 私はカップをことりと窓枠に置くと、ぱん、と景気付けに両手を叩いた。


「外側はできたけれど、中はまだがらんどうのまま。お客様をお迎えするには、まだやることが山のようにあるわ。私たちの城の、最後の仕上げを始めましょう!」

「わふん!」


 ビスキュはこくりと、力強くその土の頭を縦に振った。

 朝日が昇り始める。

 フローリアの町が本当の朝を迎える頃、この場所はもっともっと、素敵な場所に生まれ変わっているはずだ。



 一階に降りると、そこはまだがらんとした、ただ広いだけの空間だった。

 壁も床も、私が魔法で生み出した温かみのある木目調の石材で綺麗に整えられているけれど、それだけ。まるで、これからデコレーションされるのを今か今かと待ちわびている、大きなスポンジケーキみたいだ。


「さて、と。まずは何から始めようかしら」


 私は腕を組んで、広々とした空間をぐるりと見渡す。

 頭の中にはもう、完成形の設計図が寸分の狂いもなく描き上がっていた。


 お店の顔となる、大きなショーケース。


 焼きたてのクッキーやタルトを並べるための、温かみのある棚。

 そして、お客様がゆっくりとお茶を楽しめる、数席だけの小さなイートインスペース。

 そのどれもが、私の夢を形にするための、大事な大事なパーツなのだ。


「ビスキュ。まずは、お店の一番の主役、ショーケースから作りましょう。あなたは土台になる部分の土を、あちらの隅でこねて準備しておいてくれる?粒子が均一になるように、丁寧にお願いするわよ?」


 私がそう指示すると、ビスキュは「お任せください」とでも言うように、ぺこりと一つお辞儀をして、さっそく作業に取り掛かった。

 その動きには一切の無駄がなく、見ているだけで気持ちがいい。

 シュシュは、これから何が始まるのかと、期待に満ちた目で私の周りをぴょんぴょんと楽しそうに跳ね回っている。


「見ていてね、シュシュ。今からこの何もない場所に、魔法をかけてあげるから」


 私はお店の入り口から入ってすぐ、一番目立つ場所に立つと、すう、と深く息を吸い込んだ。

 両手をそっと、目の前の空間にかざす。


 集中する。


 イメージするのは、前世で何度も雑誌の片隅で見つけては、ため息をついていた、パリの老舗パティスリーに置かれているような、アンティークで美しいショーケース。

 ただお菓子を並べるための箱じゃない。


 お菓子たちが、一番きらきらと輝いて見えるための最適な環境。


 私のマナが、指先から金色の細かい粒子となって、空間へと流れ出していく。

 ビスキュが用意してくれた極上の粘土が、私の意思に応えて、まるで生きているみたいにむにむにと形を変え始めた。

 ショーケースの土台が、優雅な猫足を持った美しい曲線を描いて組み上がっていく。


 でも、一番大事なのは、お菓子を覆うガラスの部分だ。


 私は、土魔法のさらに奥深くにある、創造の領域へと意識を沈めていった。

 イメージするのは、どこまでも透き通った、一点の曇りもない水晶。


「―――輝きなさい」


 ぽつりと呟いた言葉が、引き金になった。

 私の目の前の地面から、ざらざらとした無数の砂の粒子が、まるで噴水みたいにふわりと舞い上がった。そしてその砂の粒子が、空中で渦を巻きながら、一箇所へとぎゅっと凝縮していく。


 ぼうっ、と。


 砂の塊が、まるで小さな太陽みたいに、まばゆいほどの熱と光を放ち始めた。

 厨房の温度が、ぐっと上がったのが肌で分かる。

 シュシュが、驚きと少しの怯えが混じったような声で「くぅん」と鳴いた。


「大丈夫よ、シュシュ。熱いのは一瞬だけだから」


 私は優しく声をかけながら、最後の仕上げに入る。

 光の塊が、私の頭の中にある設計図通りに、ゆっくりとその形を変えていく。薄く、なめらかに引き伸ばされ、美しいカーブを描いていく。

 やがて、まばゆい光がすうっと静かに収まっていった時。

 そこには、もう熱を感じさせない、ひんやりとして、どこまでも透き通った巨大なガラスの塊が、静かに浮かんでいた。


 それは、ただのガラスじゃなかった。


 縁の部分には、まるでレース編みみたいに繊細な模様が彫り込まれていて、光が当たるたびに、虹色のきらめきをはっと放つ。

 そのガラスが、ゆっくりと、本当にゆっくりと降下していき、先に作り上げておいた土台の上に、ことり、と一片の音もなく、完璧に収まった。

 それは、ショーケースというよりも、もはや芸術品と呼ぶにふさわしいものだった。


「……できた」


 思わず、ほう、と感嘆のため息が漏れた。

 この中に、私の作った色とりどりのケーキが並ぶ光景を想像しただけで、胸の奥が、オーブンで温められたバターみたいに、じんわりと温かくなっていく。

 きっと、宝石箱をひっくり返したみたいに、夢のように美しい光景になるに違いない。

 ビスキュが、いつの間にか私の隣にやってきて、完成したショーケースをじっと見つめていた。そののっぺらぼうの顔が、ほんの少しだけ、誇らしげに見えたのは、気のせいだろうか。


「さあ、次よ、ビスキュ! 休んでいる暇はないわ。今度は、あちらの壁際に、焼き菓子を並べるための棚を作りましょう!」


 一度コツを掴んでしまえば、あとはもう、勢いに乗るだけだった。

 私は、次から次へと、お店に必要な家具を生み出していく。

 焼き菓子を並べる棚は、ショーケースとは対照的に、温かみのある、素朴な雰囲気にしたい。


 私は、再び土魔法を発動させた。


 今度は、地面から石を呼び出す。ごつごつとした、ありふれた灰色の花崗岩。それを、私の魔法で、ゆっくりと、丁寧に、その性質そのものを書き換えていくのだ。

 イメージするのは、何十年も使い込まれた、古びた木材の質感。

 硬質な石の表面が、私のマナに触れることで、まるで柔らかなパン生地みたいにその組成を変えていく。表面には、温かみのある木目が浮かび上がり、色は、落ち着いた深い茶色へと変わっていった。手で触れてみると、ひんやりとした石の感触ではなく、確かに、木の温もりが感じられる。


「すごい……本当に、石が木みたいに……」


 自分の魔法ながら、その万能っぷりには、我ながら驚かされる。

 その木目調の石材を、丁寧に組み上げて、壁一面に大きな飾り棚を作り付けた。棚の高さや奥行きは、色々な種類の焼き菓子が置けるように、あえて不ぞろいにして、遊び心を出してみる。

 ここに、さくさくのクッキーや、香ばしいナッツのタルト、それから可愛らしいマドレーヌがずらりと並ぶのだ。考えただけで、口の中に、焼きたてのダックワーズの香りがふわりと広がるようだった。



「ふう、だいぶお店らしくなってきたわね」


 ショーケースと飾り棚ができただけで、がらんとしていた空間が、一気に命を吹き込まれたみたいに生き生きとして見えた。

 私は、額ににじんだ汗を手の甲でぬぐう。

 かなりのマナを使ったけれど、不思議と疲労感はなかった。それ以上に、自分の夢が少しずつ形になっていく喜びが、体の中から次々とエネルギーを湧き上がらせてくれるのだ。


「さて、最後は、お客様がくつろぐための、イートインスペースよ」


 私は、大きなガラス窓のすぐそば、一番日当たりの良い場所を指さした。


「ここに、小さなテーブルを二つと、椅子を四脚だけ置きましょう。お店は小さいけれど、せっかく来てくれたお客様には、ゆっくりと、お菓子を楽しんでいってほしいもの」


 ビスキュがこくりと頷く。

 今度のテーブルと椅子は、本物の木材ではなく、私の土魔法の応用で作る。もっと、手作りの温かみが感じられるような、それでいて、このお店にしかない特別なものにしたいから。


 私はビスキュが見守る中、店の床、その基礎となっている大地にそっと手を触れた。呼び出したのは、ごつごつとした、ありふれた灰色の石材。それを、私の魔法で、ゆっくりと、丁寧に、その性質そのものを書き換えていく。


 イメージするのは、何十年も使い込まれた、古びた木材の質感。


硬質な石の表面が、私のマナに触れることで、まるで柔らかなパン生地みたいにその組成を変え、温かみのある木目が浮かび上がり、色は落ち着いた深い茶色へと変わっていく。手で触れてみると、ひんやりとした石の感触ではなく、確かに、木の温もりが感じられた。


 自分の魔法ながら、その万能っぷりには、我ながら驚かされる。


 そして、そこから先は、魔法と手作業の共同作業だった。

 私が魔法で、石から生まれた木材をテーブルの天板や、椅子の座面といった大まかなパーツに切り出し、ビスキュが、それをやすりで丁寧に、つるつるになるまで磨き上げていく。


 しゅり、しゅり、と。


 店内に、心地よい木工作業の音が響く。

 最後に、私が魔法でそれぞれのパーツを、釘や接着剤を一切使わずに、ぴたりと寸分の狂いもなく組み上げた。

 そうして出来上がったのは、シンプルだけど、どこか温かみのある、可愛らしいテーブルと椅子のセットだった。


「うん、いい感じね!」


 試しに椅子に腰かけてみると、驚くほど体に馴染んだ。これなら、お客様もきっと、リラックスしてお茶の時間を楽しんでくれるはずだ。


 これで、お店の内装は、ほぼ完成と言っていいだろう。


 私は、完成したばかりの店内を、満足のため息と共に見渡した。


 入り口の扉を開けると、正面にはきらきらと輝くショーケース。

 右手の壁には、温かみのある棚が、これから並べられる焼き菓子たちを待っている。

 そして左手の窓際には、優しい日差しが降り注ぐ、小さなイートインスペース。


 私の頭の中にあった設計図が、現実のものとして、そこに存在していた。


「……夢、みたい」


 ぽろり、と。

 私の頬を何かが伝っていく。

 熱い雫が、次から次へと溢れ出して、止まらない。

 悲しいわけじゃない。辛いわけでもない。


 胸がいっぱいで、温かくて、どうしようもなくて。


 追放されて、全てを失ったと思っていた。


 でも、それは違った。


 私は手に入れたんだ。

 自らのお店を。


「わふん!」


 シュシュが、私の足に、こつん、と頭をすり寄せてきた。まるで、私を慰めるかのように。

 ビスキュも、私のそばにやってきて、その大きな土の手で、私の頭をぽん、ぽんと、優しく叩いてくれる。


 ありがとう、二人とも。


 私、嬉しいの。すごく、すごく、嬉しいのよ。

 私は、かけがえのない二人の家族に囲まれて、しばらくの間、こみ上げてくる感情の波に、ただ身を任せていた。



 ようやく落ち着いて顔を上げた頃には、太陽はもう空の真上まで昇っていた。

 私は、ごしごしと涙を拭うと、二人ににっこりと微笑みかけた。


「ごめんなさいね。もう大丈夫よ。さあ、最後の仕上げが残っているわ」


 お店はできた。


 でも、まだ名前がない。

 どんな名前にしようか。


 色々な素敵な名前が、頭の中に浮かんでは消えていく。


 お菓子の名前、お花の名前、宝石の名前……。


 でも、どれも、なんだかしっくりこない。


 もっと、このお店にふさわしい、私だけの特別な名前。


 私がうーん、と腕を組んで悩んでいると、ふと、足元で丸くなっていたシュシュの、ふさふさとした、立派な尻尾が目に入った。


 陽の光を受けて、きらきらと輝く、美しい銀色の毛並み。

 私がこの世界に来て、一番最初に出会った、かけがえのない相棒。


 ―――そうだ。


 その瞬間、私の心の中に、これ以上ないくらい、ぴったりの名前が、まるでオーブンの中で綺麗に焼き上がったスポンジケーキみたいに、ふわりと浮かび上がった。


「決めた!」


 私は、シュシュをぎゅっと抱きしめた。


「このお店の名前は、『銀のしっぽ亭』よ」


 私がそう言うと、シュシュは「きゅん!」と、嬉しそうな、甘えたような声を上げて、私の頬をぺろりと舐めた。

 気に入ってくれた、ということだろうか。

 ビスキュも、その名前を聞いて、こくり、こくりと、何度も深く頷いていた。


 満場一致。


 こうして、私の夢の城の名前は、正式に決定した。

 私は、お店の外に出ると、まだ何もない、のっぺりとした正面の壁を見上げた。

 そして、そこに、最後の魔法をかける。

 イメージするのは、温かみのある木彫りの看板。

 壁から、むくむくと、一枚の木の板がせり出してくる。

 そして、その表面に、私の指先の動きに合わせて、文字がひとりでに彫り込まれていった。

 私の拙いけれど、心を込めた文字で。


―――パティスリー『銀のしっぽ亭』。


 文字の周りには、シュシュの尻尾をモチーフにした、可愛らしい飾りの模様も添えておく。


 フローリアの町の青い空の下。

 生まれたばかりの私の城が、生まれ落ちた瞬間だった。



 ざわざわ、という人の声で、私は感傷からふと我に返った。

 いつの間にか、店の前の通りには黒山の人だかりができていた。誰もが、私の新しいお店を指さしている。


「おい、見ろよ! 本当に、あの呪いの屋敷が消えちまった……!」

「一夜にして、まるでお菓子の家みてえなもんに……一体、どんな魔法を使ったんだ?」

「なあ、ここは何の店なんだ? ただの家にしては、窓が大きすぎやしねえか?」


 そんな戸惑いの声に交じって、期待に満ちた声が聞こえてくる。


「ありゃ、広場にいたパイの嬢ちゃんの店じゃねえか?」

「ってことは……何か美味いもんが食える店になるに違いねえ!」

「間違いない! あのパイよりすげえもんが出てくるかもしれねえぞ!」


 人々の熱っぽい視線が、私に突き刺さる。

 私は、彼らの期待を肌で感じながら、そっと微笑んだ。


 まだ、このお店が本当は何のお店なのか、誰も本当のことは知らない。

 このがらんどうの箱を、世界で一番甘くて幸せな香りで満たさなければ。


 私の本当の戦いは、ここから始まるのだ。


 私は振り返り、静かにそばに控えるビスキュと、足元で誇らしげに胸を張るシュシュの顔を見た。


「さあ、始めましょうか。私たちのお仕事を、ね」


 私のその声は、朝の澄んだ空気の中に、力強く響き渡った。


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