第十五話:鉱山の主
鉱山の最深部に広がる、巨大なドーム状の空間。
天井に埋め込まれた無数の鉱石が、まるで満点の星空みたいにきらきらと青白い光を放っている。その幻想的な光景とは裏腹に、その空気は息苦しいほどの熱気と濃密な魔力の気配で満ち満ちていた。
しんと静まり返った広大な空間。
聞こえるのは私の手のひらの上で淡く光る魔法の灯りが、ぱちと小さくはぜる音と、隣に立つシュシュのごくりと喉を鳴らす音だけ。
「……いたわね」
ぽつりと誰に言うでもなく呟く。
私の視線はこの大空洞の一番奥、まるで玉座のようにどっしりと構える巨大な岩塊の上に釘付けになっていた。
そこにそれはいた。
この鉱山の主。ギルドの冒険者たちが精鋭部隊ですら歯が立たなかったと恐れる、災厄の化身。
その姿は私が想像していたどんな竜や悪魔よりも、もっと異様でそしてある意味で美しいものだった。
それは巨大な、あまりにも巨大な岩の塊だった。
でもただの岩じゃない。その体はこの鉱山で採れるありとあらゆる種類の鉱石が、まるで美しいモザイク画みたいに複雑に組み合わさって形成されている。
黒曜石のぬらりとした光沢。水晶の透き通るような輝き。そしてその体のあちこちには心臓の血管みたいに、純度の高い金や銀の鉱脈が美しい幾何学模様を描いて走っていた。
それはまるで大地そのものが自らの意志を持って、ゆっくりと身を起こしたかのような荘厳で圧倒的な存在感。
生きている巨大な宝石。
その宝石の塊の中心あたりに、ぼうっと溶岩みたいに真っ赤な光が、どくどくと不気味に明滅を繰り返している。あれがきっとこの魔物の核なのだろう。
「ぐるるる……」
私の隣でシュシュが全身の銀色の毛を逆立てて、低い唸り声を上げている。彼の本能が目の前の存在が、今まで出会ったどんな魔物とも格が違うことをはっきりと告げているのだ。
その巨大な岩の塊がゆっくりと、本当にゆっくりと動き始めた。
ごごごごご、と。
地響きと共にその体が形を変えていく。
二本の太い腕が生え、ずんぐりとした足が形成され、やがてそれは巨大な岩の人形のような姿になった。
顔のないのっぺらぼうの頭が、こちらを向く。
そしてその体の中心にある真っ赤な核がひときわ強く、閃光のように明滅した。
『……何人たりとも、我が眠りを妨げることは許さぬ』
直接鼓膜を揺らす声じゃない。
頭の中に直接重たい岩をねじ込まれるような、そんな圧迫感のある声が直接響いた。
「眠りを妨げるつもりは、ありませんわ」
私はその圧倒的な威圧感にも臆することなく、静かにでもはっきりと答えた。
「ただ少しだけ、あなたにこの場所を明け渡していただきたいだけ。私の夢のために」
『夢だと?矮小なる人間ごときが、この我に戯言を』
巨大な岩の魔物は心底不愉快だとでも言うように、その巨体をずしんと大きく揺らした。
その振動だけで天井からぱらぱらと、小さな石ころがこぼれ落ちてくる。
これがS級の魔物。
まともに戦えば私なんて、一瞬でバターみたいにすり潰されてしまうだろう。
でも。
私の心の中には不思議と、恐怖はひとかけらもなかった。
私の目は今や目の前の巨大な魔物ではなく、その体中にきらめく美しい鉱石たちにすっかり心を奪われていたのだ。
なんて素晴らしい材料。
この純度の高い金や銀を使えば、どんなに美しい食べられる装飾が作れるだろう。
あのきらきら光る水晶は細かく砕いて、砂糖菓子に混ぜ込んだらきっと星空みたいに綺麗なキャンディーになるに違いない。
私の頭の中はもう、新しいお菓子のレシピのことでいっぱいだった。
目の前の魔物はもはや恐ろしい敵ではなく、作品を作るための極上の、しかし非常に扱いの難しい巨大な材料の塊にしか見えなくなっていた。
「さあ、始めましょうか、シュシュ」
私はきりりとスカートの裾をたくし上げた。
「私たちの城のため、最後の仕上げを」
「わふん!」
私のいつもと変わらない弾んだ声。
それにシュシュもすっかり調子を取り戻したのか、力強い一声で応えてくれた。
◇
「第三工程、焼き上げ。まずはオーブンの予熱から始めましょうか」
私が楽しげにそう呟くと、巨大な岩の魔物は心底不愉快そうにその巨体を再び大きく揺らした。
『……我を前にして、なお戯言を続けるか。その不遜な魂ごと、圧し潰してくれる』
ずうんと地響きと共に、魔物はその巨大な岩の腕をゆっくりと、しかし抗うことのできない力で振り上げた。
あの腕が振り下ろされれば、私なんてひとたまりもないだろう。
でも私は少しも動かなかった。
ただその場にぺたんと座り込むと、両方の手のひらをひんやりとした地面にぴたりとつけただけ。
そしてにっこりと、微笑んでみせる。
「いいえ。圧し潰されるのは、あなたの方です」
ゆっくりと目を閉じて意識を集中させる。
私のマナをこの大空洞全体へと、じっくりと隅々まで浸透させていく。
私の感覚がこの空間そのものと、完全に一つになった。
岩の魔物がその巨大な腕を振り下ろそうとした、まさにその瞬間。
―――動け。
心の中で強くはっきりと、命じる。
ごごごごごごごごっ!
その瞬間、今まで経験したことのないような激しい地響きが、洞窟全体を根底から揺るがした。
岩の魔物の足元、その硬い硬い岩盤が何の前触れもなく、まるで熱したナイフで切られたバターみたいに音もなく綺麗に裂けたのだ。
『なっ!?』
初めて岩の魔物の思念に、驚愕の色合いが浮かんだ。
突然足元の支えを失った、その巨大な体。
ずぶずぶずぶと、まるで底なしの沼にでもはまったみたいにその巨体が、ゆっくりとしかし確実に地面の中へと沈み込んでいく。
「次に、しっかりと固定しなくてはね」
私の冷静な声が、静まり返った洞窟に響く。
岩の魔物は必死にその腕で地面を掴み、這い上がろうともがく。
でもその彼が掴んだ地面そのものが、まるで柔らかなメレンゲみたいにふわふわとその形を失い、彼の体を支えることを拒否するのだ。
『おのれ……!小賢しい真似を……!』
魔物の怒りに満ちた思念が、びりびりと空気を揺るがす。
次の瞬間、彼の背中から無数の鋭く尖った水晶の槍が、まるでハリネズミの針みたいにばっと一斉に生えてきた。
そしてその槍が私に向かって、嵐のような勢いで射出される。
ひゅん、ひゅんと空気を切り裂く鋭い音。
一発でも当たれば私の体なんて、簡単に串刺しになってしまうだろう。
でも私は少しも動じなかった。
がしゅんがしゅん……!!!
まるで機械が動くかのような音。
瞬時に、重厚な黒曜石の壁が瞬時にせり上がってきた。
私を守るかのように。
がん、がん、がん、がん!
水晶の槍が、黒曜石の壁に次々と突き刺さり、甲高い音を立てて砕け散っていく。
そのあまりにも現実離れした光景に、魔物の思念が一瞬だけ沈黙した。
自分の絶対的な力が全く通用しない。
その信じがたい事実に、彼がようやく気がついたのだ。
『……貴様、一体何者だ』
「私は、ただのしがないパティシエですわ」
黒曜石の壁の向こう側から、私はくすりと楽しげに笑ってみせる。
「そして今からあなたを、最高のお菓子へと仕上げて差し上げます」
もうこれ以上遊んでいる時間はない。
反撃の時間だ。
私はすうと深く息を吸い込んだ。
そして私のありったけのマナを、この大空洞全体に解き放った。
「―――最終工程、焼成」
私のその静かな号令が引き金になった。
ぎ、ぎぎ、ぎぎぎぎぎぎぎ……っ!
洞窟全体がまるで巨大な生き物が断末魔の叫びを上げているかのように、嫌な音を立ててきしみ始めた。
天井が下がる。
床が上がる。
左右の壁が内側へと迫ってくる。
この広大だったはずの大空洞そのものが、まるで巨大な岩のプレス機みたいにその中心にいる岩の魔物を、じわじわとしかし抗うことのできない絶対的な力で圧迫し始めたのだ。
『ぐ……おおおおおおおおっ!?』
初めて岩の魔物が苦痛に満ちた、絶叫を上げた。
彼の自慢の硬い硬い鉱石の体が、みしりみしりと嫌な音を立ててひび割れていく。
私の手によってこの空間そのものが、一つの巨大なオーブンへと作り変えられたのだ。
そしてその中で魔物は、ただゆっくりと焼き固められていくだけの生地でしかなかった。
「さようなら。あなたのことは忘れません」
私は静かにそう告げた。
「あなたは、私がこれから開くお店のための礎となるのですから」
次の瞬間、ばきんと何かがガラスみたいに砕け散るような、乾いた音が一度だけ響いた。
そしてそれきり、あれほど洞窟全体を揺るがしていた巨大な魔力の気配が、まるでろうそくの火をふっと吹き消したみたいに完全に消え失せてしまった。
しんと、洞窟に完全な静寂が戻ってくる。
私がぱちんと指を鳴らすと、私を隔てていた黒曜石の壁がさらさらと砂のように崩れ落ちた。
そして私の目の前に、信じられない光景が広がっていた。
あれほど広大だったはずの大空洞は、もうどこにもなかった。
そこにはただ全ての壁が完全に一つに融合してしまった、ただの岩の塊があるだけ。
そしてその中心に、まるで巨大なケーキの上に飾られた美しい宝石のオブジェみたいに、直径一メートルほどの真っ赤な美しい球体が静かに宙に浮かんでいた。
あれが魔物の魔力の核。
私はふうと一つ、満足のため息をついた。
「……さて、と。これで大掃除はおしまいね」
私がそう言うと、ずっと隣で固唾を飲んで私を見守っていたシュシュが、わふん!と喜びの声を上げた。
依頼は完了。
私はその真っ赤な球体を魔法で丁寧に布の袋に包むと、何事もなかったかのようにきびすを返した。
もうこの鉱山に用はない。
私の夢の城が私を待っているのだから。
◇
フローリアの町は私たちが鉱山へ向かった日と、何も変わらない活気に満ち溢れた空気に満ちていた。
冒険者ギルドの巨大な木の扉を、私は今度こそ凱旋将軍のような晴れやかな気持ちで押し開けた。
ぎいと重たい音がして、むわりとした熱気が私の肌を覆う。
私が一歩中に足を踏み入れた瞬間、いつものようにギルドの中がしんと静まり返った。
誰もが固唾を飲んで私を見守っている。
その視線の中を私は胸を張って、まっすぐにカウンターへと向かった。
カウンターの向こう側ではいつもの受付嬢さんと、そして腕を組んだいかつい顔のギルドマスターが、まるで判決を待つ罪人のような緊張した面持ちで私を待っていた。
私はカウンターの前でぴたりと足を止めると、にっこりと花が咲くような笑顔を浮かべてみせる。
そして依頼完了の証拠である、あの真っ赤な球体が入った袋をカウンターの上にことりと置いた。
「ただいま戻りました。依頼の報告にまいりました」
私のそのあまりにもあっさりとした一言に、ギルドの中がまるで時が止まってしまったかのように完全に沈黙した。
誰もが信じられないという顔で、私とカウンターの上の袋を交互に見比べている。
やがて一番最初に我に返ったのはギルドマスターだった。
彼はためらうような手つきで袋の紐を解くと、中を覗き込んだ。
そして次の瞬間、彼の普段はポーカーフェイスを崩さないその厳つい顔が、今まで見たこともないくらい驚愕の色に染まった。
「こ……これは……!」
彼の絞り出すような声が、静まり返ったギルドの中に響いた。
「本当にやり遂げたというのか……たった一人で……!」
「いいえ。一人ではありませんわ」
私は隣に立つ小さな相棒の頭を、優しく撫でた。
「この最高のパートナーと一緒でしたから」
「わふん!」
シュシュが誇らしげに一声鳴く。
そのあまりにも緊張感のない光景に、ギルドの中に張り詰めていた空気がぷつんと、まるで張り詰めていた糸が切れたみたいに緩んだ。
そして次の瞬間。
「「「うおおおおおおおおおおおおっ!!」」」
地鳴りのような割れんばかりの大歓声が、ギルド全体を揺るがした。
冒険者さんたちが自分のことのように喜び、叫び、拳を突き上げている。
「すげえ!本当にやりやがった!」
「S級依頼を単独でクリアだと!?」
「化け物だ!いや、まさに聖女様だぜ!」
その熱狂の渦の中でギルドマスターがふらふらとカウンターから出てくると、私の前に深く深く頭を下げた。
「……参った。俺の完敗だ。嬢ちゃん、いや……エステル様。あんたはこのフローリアの英雄だ」
「そんな、やめてください」
私はくすりと笑う。
「私はただのしがないパティシエ。英雄だなんて柄ではないのですよ」
そして私は彼に向かって、そっと手を差し出した。
「それよりも約束のものを、いただけますでしょうか」
私のその言葉にギルドマスターは、はっとした顔で頷いた。
「……ああ、そうだったな。約束は約束だ」
彼は懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出すと、それを恭しく私の手に手渡した。
中央区画一番地。
廃墟物件の権利証。
私の夢の城への、たった一枚の切符。
これでようやく私の本当の物語が始まるのだ。
◇
その日の夜。
フローリアの町の人々が深い眠りについている、静かな静かな夜。
私は一人、あの呪われた廃墟の前に立っていた。
蔦に覆われ壁は崩れ落ち、まるで巨大な骸骨みたいに不気味な姿を闇の中に晒している。
でももう私には、この場所が少しも怖くはなかった。
私の目にはもう、この場所の未来の姿がはっきりと見えているのだから。
私はその場にそっと、両方の手のひらを地面につけた。
そして心の中で、強くはっきりと命じる。
―――おやすみなさい。そして、おはよう。
私のその静かな号令が引き金になった。
ごごごごごごごごごごっ!
今まで鉱山で起こしてきたどんな地響きよりも、もっとずっと巨大な地面の揺れがフローリアの町を根底から揺るがした。
私の目の前であのおぞましい廃墟が、まるで砂の城が波に洗われていくみたいに音もなくさらさらと静かに土の中へと還っていく。
完全な更地。
そしてその新しく生まれ変わった清らかな大地の上から、何かがまるで春の若芽がぐんぐんと芽吹いていくみたいに、めきめきと音を立ててせり上がってきた。
温かみのあるレンガの壁。
優しい木の色をした屋根。
道行く人々の顔がはっきりと見える、大きな大きなガラスの窓。
私の頭の中にあった設計図が、現実のものとしてこの場所に組み上げられていく。
それはもはや魔法というよりも、奇跡と呼ぶにふさわしい光景だった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
東の空がまるでイチゴのムースみたいに、ほんのりと白み始めてきた頃。
私の目の前にはもう、あのおぞましい廃墟の姿はどこにもなかった。
そこに立っていたのは、まるでおとぎ話の中からそのまま飛び出してきたかのような、可愛らしくて温かみのある一軒のお店だった。