第十四話:戦闘よりも、工事です
冒険者ギルドから受け取った、あの黒ずんだ羊皮紙。
それは私の手の中でずしりとした運命の重みをもって、静かに横たわっていた。『緊急特別依頼』と書かれたその文字は、まるでこれから始まる冒険の不穏な序曲のように私の目に映った。
でも、私の心は不思議なくらいすっきりと晴れ渡っていた。
目の前にそびえる壁が高ければ高いほど、それを乗り越えた時の達成感が極上のご褒美になることを私は知っている。
「というわけで、ビスキュ」
翌朝、私は厨房にビスキュとシュシュを集めて作戦会議を開いていた。
私の前に直立不動で立つビスキュは、不思議そうに首を傾げている。
その素焼きのビスケットみたいな頭には、私が遊び心で描いているチョコレートペンもどきの泥のアイシングで描いたにっこりマークが、まだうっすらと残っていた。
「今日からしばらくの間、私はこの家を留守にします。シュシュと一緒に少しだけ、大きなお仕事に出かけてくるの」
私の言葉にビスキュはぴしりとその場に固まった。表情のないのっぺらぼうの顔。
でもその全身から『それは大変です!』という驚きと心配の気配が、ありありと伝わってくる。
「大丈夫よ。必ず無事に帰ってくるわ。だからその間、この家と広場のお客さんたちのことをあなたにお願いしたいのです」
「わふん!」
私の隣でシュシュが「僕もいるぞ!」とでも言うように、頼もしく一声鳴いた。
「ありがとう、シュシュ。あなたは私と一緒よ。今度の冒険はあなたの力が必要不可欠だもの」
私がそう言ってその銀色の頭を撫でてやると、彼は嬉しそうに尻尾をぶんぶんと振った。
私はビスキュに向き直る。
「いいこと、ビスキュ。私がいない間パイ作りは一日三十個まで。それ以上は絶対に作ってはだめよ。あなたの体に負担がかかってしまうかもしれないから」
ビスキュはこくりと力強く頷いた。
「それから戸締りはくれぐれも厳重に。夜になったら私が魔法で作ったこの特別な閂を、必ず下ろすこと。いいね?」
私は魔法で作り出した複雑な仕掛けのついた木の閂を、ビスキュに手渡した。彼はその重たい閂を両手で、まるで宝物みたいに恭しく受け取った。
そして最後に一番大事なこと。
「もし万が一、なにか困ったことがあったら……」
私は一枚の小さな粘土板を彼に差し出した。その表面には私と彼だけが感応できる、特別な魔法回路が刻まれている。
「これを強く握りしめて、私のことを心の中で呼ぶの。そうすればどこにいてもあなたの声が私に届くから」
ビスキュはその粘土板をそっと、自分の胸のあたりに大切そうにしまい込んだ。そしてもう一度深く深く、私にお辞儀をした。
その姿はまるで、これから戦場へと向かう主人を見送る忠実な騎士そのものだった。
「それじゃあ、行ってくるわね。お留守番をお願いするわね、ビスキュ」
「わふん!」
私とシュシュは頼もしい助手に見送られ、朝日が昇り始めたばかりのひんやりとした空気の中へと一歩踏み出した。
目指す場所はフローリアの西。
岩石地帯の奥深くに眠るという廃鉱山。
私の夢の城を手に入れるための最初で最大の試練が、今始まろうとしていた。
◇
フローリアの町を抜け、西へと続く街道を私とシュシュは並んで歩いていた。
最初はなだらかな草原が広がっていたけれど、半日も歩くと景色はがらりとその表情を変えた。
緑の絨毯は次第に色を失い、ごつごつとした灰色の岩肌が剥き出しになった殺風景な大地がどこまでも続いている。
また、空に向かって、ねじれた形の岩がいくつもいくつも突き出していた。
吹き抜ける風はひゅうと乾いた音を立てて私の髪を揺らす。そこには土や草の匂いの代わりに、鉄錆と冷たい石の匂いがかすかに感じられた。
生命の気配が希薄な土地。
そんな荒涼とした風景の中を、私たちは黙々と歩き続けた。
やがて太陽が空の一番高いところから、少しだけ西に傾き始めた頃、私たちの目の前にひときわ巨大な岩の山がその姿を現した。
そしてその山の麓にぽっかりと、まるで巨大な獣が口を開けているかのように真っ黒な穴が不気味に空いていた。
あれが廃鉱山の入り口に違いない。
近づくにつれてその穴からもわりと淀んだ空気が流れ出してくるのが分かった。
湿った土と苔の匂い。長い間人の手が入っていない閉ざされた場所特有のかび臭い匂い。そしてその奥からかすかに、獣が放つ独特のむわりとした臭気がしてきた。
「……ここが、入り口ね」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
穴の周りには腐りかけた木の支柱や、錆びついたトロッコの残骸がまるで墓標みたいに物悲しく転がっている。
ここがギルドの冒険者たちが『冒険者の墓場』と呼んで恐れる場所。
私の隣でシュシュが喉の奥で、低くぐるると唸り声を上げた。全身の銀色の毛がかすかに逆立っている。彼はこの場所が放つ不穏な気配を、敏感に感じ取っているのだ。
「大丈夫よ、シュシュ。私たちがやることはいつもと同じ。最高の作品を作るために、最高の仕事場を自分で作り出すだけよ」
私がそう言ってその背中をぽんと軽く叩いてやると、シュシュは分かったとでも言うように短く喉を鳴らした。
私は一度深く息を吸い込む。
そして一切の迷いなく、その闇へと続く穴の中へと一歩足を踏み入れた。
◇
一歩中に足を踏み入れた瞬間、ひやりとした墓場のような冷気が肌をかすめた。
外の光は入り口のすぐそばで、力なく掻き消されてしまう。
完全な闇。
私がそっと指先に意識を集中させると、私の手のひらの上にふわりと小さな光の玉が生まれた。土魔法のささやかな応用。土の中に含まれる微量な発光性の鉱物を集めて、明かりにするのだ。
そのぼんやりとした光が、周囲の光景をおぼろげに照らし出す。
そこは私が想像していたよりも、ずっと広々とした空間だった。
天井は高く、壁はつるはしで削られたごつごつとした岩肌が剥き出しになっている。
そして目の前にはいくつもの坑道が、まるで巨大な蟻の巣みたいに四方八方へと真っ暗な口を開けていた。
入り組んだ迷路。
依頼書にあった通りだ。何の地図もなしにやみくもに進めば、あっという間に方向感覚を失い迷子になってしまうだろう。
「さて、と」
私はその場にぺたんと座り込むと、両方の手のひらをひんやりとした地面にぴたりとつけた。
「まずはここの、全体の全体図を頭に入れなくちゃね」
ゆっくりと目を閉じて意識を集中させる。
私の感覚がまるで植物が地中深くに根を張るように、この鉱山全体へとどこまでもどこまでも広がっていく。
硬い岩盤の感触。ひんやりとした地下水の流れ。空洞になっている場所のかすかな空気の振動。
私の頭の中に巨大な三次元の地図が、少しずつでも確実に描き出されていった。
この鉱山は私が思っていた以上に、複雑で巨大な構造をしている。
無数の坑道が縦横無尽に走り、落盤で塞がれた場所もいくつかあるようだ。
そしてその坑道のあちこちに、いくつもの生命の気配を示す小さな光点が点滅しているのが分かった。
魔物の巣。
その数はざっと数えただけでも、百や二百ではきかないだろう。
そしてその無数の光点の中でもひときわ大きく、禍々しい光を放つ巨大な一点がこの鉱山の一番奥深くで、まるで巨大な心臓みたいにどくどくと不気味に明滅を繰り返していた。
あれがきっと、この鉱山の主に違いない。
「……なるほど。これはたしかに、普通の冒険者さんでは手も足も出ないわけね」
あまりの物量差。
まともに戦おうとすれば、あっという間に数の暴力に飲み込まれてしまうだろう。
でも。
私は戦いに来たわけじゃない。
私がやりに来たのは、厨房の大掃除、そしてリフォームだ。
最高の作品を作るためにはまず、作業台の上を綺麗に片付けなくてはならないのだから。
「シュシュ。道案内は私に任せてちょうだい。最高の近道を作ってあげる」
私はゆっくりと目を開けた。
私の頭の中にはもう、鉱山の最深部へと至る最短ルートの設計図が完全に描き上がっていた。
それは既存の坑道を辿る道じゃない。
私が今からこの場所に『創造』する、全く新しい道だ。
私は立ち上がると目の前に広がるいくつもの坑道の、そのどれでもないただの岩壁に向かってまっすぐに歩き出した。
そしてその硬い壁の前に立つと、そっとその表面に手のひらを触れた。
「第一工程、下準備。まずは材料をこねやすくするところから」
ぽつりと誰にも聞こえないくらいの声で呟く。
その瞬間、私の手のひらが触れた厚い岩の壁が、ゆっくりと変え始めた。
硬質な灰色の岩肌が、まるで柔らかな粘土みたいにふにゃりとした質感に変わっていく。
ごぽり、ごぽり、と。
壁の表面がまるで沸騰したお粥みたいに、不気味な泡を立て始めた。
そして次の瞬間、私の目の前の壁が音もなく、すうっと静かに内側へと吸い込まれるように消えていったのだ。
そこには今まで存在しなかった、新しい真っ暗な通路がぽっかりと口を開けていた。
「わふ……」
私の隣でシュシュが信じられないというように、小さな声を漏らした。
「さあ、行きましょう、シュシュ。ここが私たちの専用通路よ」
私はシュシュを促して、その生まれたばかりの通路の中へと足を踏み入れた。
中はまだ新しい土の匂いで満ちている。
私が一歩前に進むたびに、私の目の前の壁が音もなく内側へと消えていく。
そして私が通り過ぎた後の壁は、何事もなかったかのようにすうっと元の硬い岩壁へと戻っていくのだ。
まるで巨大なモグラが土の中を掘り進んでいるみたいに。
これなら余計な戦闘をすることなく、目的の場所までたどり着けるはず。
そう思った矢先のことだった。
「……ぎぎっ」
不意に甲高い鳴き声が、すぐ近くの壁の向こう側から聞こえてきた。
まずい。
どうやら私の魔法の振動を、近くにいた魔物たちが感じ取ってしまったらしい。
がん、がんと。
壁の向こう側から何か硬いもので、壁を叩きつけるような激しい音がし始めた。
私の即席の通路の壁が、ぱらぱらと小さな石ころをこぼし始める。
このままでは壁を突き破って、なだれ込んでくるかもしれない。
シュシュが唸り声を上げて、いつでも戦えるように低い姿勢で構えた。
「大丈夫よ、シュシュ。あなたの出番はまだ、もう少しだけ後だから」
私は落ち着き払ってそう言った。
そして魔物が壁を叩いているその一点に向かって、そっと手のひらをかざす。
「第二工程、生地の分割。ちょっとうるさいお客様は、こちらでご案内しましょうね」
私の意思に応えて鉱山の壁が、再びその姿を変え始めた。
魔物たちが叩いている壁が、まるで柔らかいスポンジみたいに内側へとごっそりとへこんでいく。
そしてそのへこみは魔物たちに抗う暇も与えず、壁の中へとずるずると引きずり込んでいった。
「ぎぎゃっ!?」
壁の中から間の抜けた悲鳴が聞こえてくる。
そして私がぱちんと指を鳴らすと同時に、へこんでいた壁は何事もなかったかのように元の平らな岩壁へと戻ってしまった。
壁の中に完全に閉じ込めてしまったのだ。
これでもう出てくることはできないだろう。
まさに生き埋め。
少し残酷なやり方だったかもしれない。
もはや戦闘じゃない。
でもこれが私の戦い方なのだ。
効率的で無駄のない管理。
それは厨房もここも同じことなのだ。
◇
その後も私の進路上に何度か魔物の群れが立ち塞がった。
でもその度に私は地形そのものを、私の意のままに作り変えることでその全てを難なくいなしていった。
大群で押し寄せてくるネズミのような魔物たちの足元を、突然底なしの沼地へと変えてその動きを封じたり。
コウモリのような魔物が飛び交う巨大な空洞では、天井から無数の鍾乳石の槍を雨のように降らせて、彼らの逃げ場を奪ったり。
私の手にかかればこの危険なダンジョンも、まるで粘土細工のジオラマみたいに自由自在にその姿を変える。
それはもはや戦闘と呼ぶには、あまりにも一方的で静かすぎた。
血も刃も、交えることはない。
ただ大地が私の意思のままに、静かにその役割を果たすだけ。
まさに『工事』。
私の夢の城を建てるための、大規模な基礎工事なのだ。
シュシュはもう戦う気も失せたのか、私の隣で退屈そうにふぁ~と大きなあくびを一つした。
「ごめんなさいね、シュシュ。退屈させてしまって。でももう少しの辛抱よ」
私は彼の頭を優しくこすりながら先へと進む。
私の魔法の感覚がはっきりと、告げていた。
鉱山の主の巨大な気配がもう、すぐそこまで近づいている、と。
そしてついに私たちは一つの巨大な空間へとたどり着いた。
そこは今までの狭い坑道とは比べ物にならないくらい広々とした、ドーム状の大空洞だった。
天井ははるか高く、まるで夜空のようにきらきらと光る鉱石の結晶が無数に埋め込まれている。その幻想的な光が洞窟全体をぼんやりと青白く照らし出していた。
空気はしんと静まり返っている。
でもその静寂の中には、何か息苦しいほどの気配に満ち満ちていた。
ここが最深部。
この広大な空間の一番奥。
そこにそれはいた。
私が倒すべき、この鉱山の最後。
期待に高揚感が一気に高まった。
いよいよだ。
これから私の本当の腕の見せ所。
最後の仕上げが始まろうとしていた。