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第十三話:パイの聖女

 久しぶりに、私はその場所に立っていた。


 フローリア冒険者ギルド。


 巨大な木の扉を押し開けると、むわりとした熱気が、いつものように私の肌を撫でた。

 汗と土、それから酒の少し酸っぱい匂い。屈強な男たちの野太い笑い声と、時折響き渡る金属のぶつかる音。

 ここ、フローリアの冒険者ギルドは、今日も相変わらず、ごった煮のスープみたいに猥雑で、力強い活気に満ち溢れていた。


 私が一歩、中に足を踏み入れた瞬間。


 以前のように、ぴたりと静まり返ることは、もうなかった。

 その代わり、あちこちから、温かい声が飛んでくる。


「よお、嬢ちゃん! 今日は大将はどうしたんだ?」

「あんたのパイがないと一日が始まらねえ! 大将にもよろしく言っといてくれよな!」

「また美味い新作、期待してるからな!」


 私がにっこりと会釈を返すと、冒険者さんたちは、にっと人の良い笑顔を浮かべて、自分の席へと戻っていく。

 その光景に、私の胸の中は、オーブンで温められたバターみたいに、じんわりと温かくなっていく。

 私が初めてこの場所を訪れた時、ここに満ちていたのは、侮りと嘲笑の視線だけだった。


 でも、今は違う。


 私の作るお菓子と、ビスキュの健気な働きが、少しずつ、この町の人たちの心を、解きほぐしてくれている。

 その事実が、たまらなく嬉しくて、誇らしかった。


「あら、いらっしゃい。今日も依頼かしら?」


 カウンターの向こう側で、いつもの受付嬢さんが、ぱっと花が咲くような笑顔で、私を迎えてくれた。


「ええ、そのつもりですわ。何か、私にもできそうなものはありますでしょうか」

「そうねえ……あ、これなんてどうかしら? 薬草の納品依頼。この前の『月光草』、あまりにも品質が良かったから、同じものをもう一度って、薬師さんから指名依頼が来てるのよ」

「まあ、それは光栄ですわね」


 私が受付のお姉さんと、にこやかに言葉を交わしていると、不意に、背後から、がしり、と大きな手で肩を掴まれた。


「よお、嬢ちゃん!来てたのか!」


 振り返ると、そこには、熊みたいに大柄な、赤毛の冒険者さんが立っていた。


「いつもありがとうございます」

「おう!そりゃ、当たり前だろ!だがよぉ、最近はもっぱら、あの大将から買ってるけどな!」


 彼は、からかうようににやりと笑う。

 その後ろから、狐目の男性と、無口な大盾使いの男性も、ひょっこりと顔を出した。


「ったく、お頭は単純なんだから。それより嬢ちゃん、聞いたか?」

「噂、ですの?」

「おう。なんでも、ギルドマスターのやつが、お前のことを『土塊の聖女』なんて、大げさな二つ名で呼んでるらしいじゃねえか」

「つちくれのせいじょ……?」


 思わず、間の抜けた声が出た。

 なんだろう、その、全然ありがたみのない、むしろ、泥団子みたいで美味しそうにも聞こえない響きは。


「まあ、ギルドマスターらしい、ひねくれた呼び方だよな。あいつは、お前の土魔法が、よっぽど気に入ったらしいぜ。戦場を、自分の庭みてえにいじくり回すなんざ、前代未聞だからな」

「だから、俺たちが言ってやったんだ。嬢ちゃんに、そんな可愛げのねえ名前は似合わねえってな」


 狐目の男性が、にやりと意地の悪い笑みを浮かべて、言葉を続ける。


「嬢ちゃんは、あの無口な大将と一緒にパイを売る、『パイの聖女』様だ、ってな!」


 その言葉に、周りで聞き耳を立てていた他の冒険者たちが、どっと笑いながら、同意の声を上げた。


「そうだそうだ!」

「俺たちにとっちゃ、嬢ちゃんと大将は、腹ペコの冒険者を救ってくれる、正真正銘の聖女様と神官様だぜ!」

「土塊だなんて、とんでもねえや!」


 その、あまりにも気恥ずかしくて、でも、温かいニックネーム。

 私の頬が、ぽっと、焼きたてのスポンジケーキみたいに、熱くなるのが分かった。


「まあ……。その、皆様、そんなに私をからかわないでください」


 私が、はにかみながらそう言うと、ギルドの中は、さらに明るい笑い声に包まれた。



 そんな、和やかな空気が、ぴりり、とした緊張に変わったのは、ほんの数瞬後のことだった。

 きっかけは、ギルドの入り口の扉が、ぎい、と重たい音を立てて開かれ、一人のギルド職員が、慌てた様子で駆け込んできたことだった。

 彼は、カウンターに駆け寄ると、息を切らしながら、一枚の黒ずんだ羊皮紙を、受付のお姉さんに手渡した。


「緊急の特別依頼だ! 今すぐ、依頼ボードに張り出してくれ!」


 ただならぬ雰囲気。今まで騒がしかった冒険者たちが、ぴたりと口を閉ざした。

 受付のお姉さんが、緊張した面持ちで、その羊皮紙を受け取り、一番目立つ場所にある、高難度依頼専用のボードへと、それを貼り付けた。

 途端に、ボードの周りに、冒険者たちが、わらわらと集まっていく。


「おい、なんだなんだ?」

「緊急特別依頼だって? 穏やかじゃねえな」


 私も、赤毛の冒険者さんたちと一緒に、その人垣の輪に加わった。

 人々の隙間から、ボードに貼り付けられた羊皮紙の文字が、目に飛び込んでくる。


『依頼内容:フローリア西地区 旧グラコル鉱山に巣食う魔物の掃討』


 その文字を見た瞬間、周りの冒険者さんたちの顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。


「……旧グラコル鉱山だと?」

「おいおい、冗談じゃねえぞ。あそこは、『冒険者の墓場』って呼ばれてる場所じゃねえか!」

「去年、Aランクのパーティが、まるごと飲み込まれたっていう、あの……?」

「ああ。内部は、入り組んだ迷路になってて、一度入ったら、二度と出られない。それに、最深部には、とんでもねえ化け物が巣食ってるって話だ」


 ひそひそと交わされる会話。


 そのどれもが、恐怖と絶望の色を、濃く滲ませていた。


 ああ、なんて、物騒な依頼だろう。

 私には、縁のない世界。

 そう思って、私は、その依頼から、そっと視線を外そうとした。


 けれど。


 その下に書かれていた、もう一つの項目に、私の目は、釘付けになった。


『特別報酬:中央区画一番地 廃墟物件の所有権』


 ……え?


 ちゅうおうくかく、いちばんち……?


 私の頭の中で、その言葉が、何度も何度も、こだました。


 中央区画の一番地。


 それは、フローリアの町の中で、最も人通りが多い、まさに一等地。

 もし、自分のお店を開くとしたら、最適な…。夢にまで見た場所。

 廃墟という点に目をつぶれば、破格だった。


「……なんで、あの廃墟が、依頼の報酬になってるんだ?」


 誰かが、私の心の声を、代弁するように呟いた。

 すると、人垣の後ろの方から、凛とした、よく通る声が響いた。


「町長からの依頼だ」


 声のした方を見ると、そこには、ギルドマスターが、腕を組んで立っていた。

 その厳つい顔は、いつにも増して、険しい。


「あの廃墟は、町の景観を損ねる、厄介者だ。だが、呪われているという噂のせいで、誰も解体すらしようとしない。そこで、町長が、冒険者ギルドに一任したのだ。鉱山の脅威を取り除いた者に、褒美として、あの土地の全てを与えよう、と。解体するもよし、住むもよし。町長からすれば、厄介な物件を押し付けて、この依頼も解決と一石二鳥の提案なんだろう」


 そのギルドマスターの説明に、冒険者たちは、ごくりと喉を鳴らす。


 町の一等地。

 それは、あまりにも魅力的だ。

 でも、それと、命を天秤にかけるほどの価値があるだろうか。


 誰もが、顔を見合わせ、尻込みしている。


 その、重たい沈黙の中で。


 ただ一人。


 私の心の中だけには、オーブンの種火みたいに、小さくて、でも、決して消えない、熱い炎が、ごう、と音を立てて燃え上がっていた。


 お店。


 私の、お店。


 あの場所に、私の夢の城を建てられる。


 大きなガラス窓があって、道行く人が、思わず足を止めてしまうような、可愛らしいショーケース。

 焼きたてのクッキーの甘い香りが、通りまで漂っていく。

 子供たちが、目をきらきらさせながら、お菓子を選ぶ。

 その光景が、あまりにも鮮明に、私の頭の中に広がった。


 鉱山の化け物?

 冒険者の墓場?

 

 そんなもの、私の夢の前では、ほんの些細な障害物に過ぎなかった。

 私が理想とするケーキを作るためには、最高の厨房が、絶対に必要なのだから。


 もはや私の心は、決まっていた。


 私は、すっ、と人垣をかき分けて、前へと出た。

 そして、何の迷いもなく、依頼ボードに手を伸ばし、あの黒ずんだ羊皮紙を、ぴりり、と音を立てて、剥がしたのだ。

 その、あまりにも大胆な行動に、今までざわついていたギルドの中が、水を打ったように、しんと静まり返った。

 全ての視線が、私の手に握られた羊皮紙に、突き刺さるように集まっているのが分かった。


「……お、おい、嬢ちゃん!?」


 一番最初に、我に返ったのは、赤毛の冒険者さんだった。

 彼は、血相を変えて、私の腕を掴もうとする。


「てめえ、何考えてやがる! それは、お前みてえなのが、受けていい依頼じゃねえんだぞ! 死ぬ気か!」

「そうだぜ、嬢ちゃん! あんたには、あのゴーレムの大将とパイを焼く方が、よっぽどお似合いだ!」

「……危険すぎる」


 みんなが必死の形相で、私を止めようとする。

 その、心からの心配が、嬉しくて、胸の奥が、きゅん、と甘く痛んだ。

 でも、私は首を横に振った。


「ありがとうございます。皆様のお気持ちはとても嬉しいのですが」


 私は、彼らに向かって、にっこりと、花が咲くような笑顔を浮かべてみせる。


「しかし、私には、どうしても、この依頼を受けなくてはならない理由があるのです」


 私の揺るぎない瞳を見て、彼らは、ぐっと言葉に詰まった。

 私がいつも、ただの冗談や、気まぐれで、行動しているのではないことを知っているのだろう。

 私は、彼らに一礼すると、くるりときびすを返し、まっすぐに、カウンターへと向かった。


 カウンターの向こう側では、ギルドマスターが、相変わらず、厳しい顔で、私を待ち構えていた。


「……本気か、嬢ちゃん」


 その低い声は、地響きのように、私の足元から這い上がってくるようだった。


「あの鉱山が、どれほど危険な場所か、分かって言っているのか。お前の魔法が、規格外なのは認める。だがな、あれは、小手先の技が通用する相手じゃねえ」

「存じております」


 私は、彼の鋭い視線を、まっすぐに受け止めて、はっきりと答えた。


「ですが、私には、あの土地が、どうしても必要なのです。私の夢のために」

「夢、だと……?」


 ギルドマスターの片方の眉が、ぴくりと動いた。


「ええ。この町一番の、いいえ、この世界で一番のパティスリーを開く、という、私の夢です」


 そのどこか、あまりにも場違いな言葉に、ギルドマスターは、一瞬、ぽかんとした顔になった。

 そして、次の瞬間。

 彼の厳つい顔に、まるで固い岩の表面に亀裂が入るみたいに、ほんのかすかな、笑みの形が浮かんだ。


「……はっ。パティスリー、だあ? 面白い。気に入ったぜ、嬢ちゃん。お前は、どこまでいっても、俺の想像を超えてきやがる」


 彼は、楽しそうに、喉の奥で、くつくつと笑った。


「……いいだろう。その依頼、確かに受理した。だが、死ぬなよ。お前の焼くパイが食えなくなると、ここの連中が、暴動を起こしかねんからな。それに、あのゴーレムの大将も、悲しむだろうぜ」

「肝に銘じておきますわ」


 依頼の羊皮紙を、ぎゅっと握りしめた。


 私は、ギルドマスターに深く一礼すると、呆然と立ち尽くす冒険者たちを背中に、シュシュを伴って、ギルドを後にした。


「さあ、行きましょうか、シュシュ」


 私は、隣を歩く、小さな相棒に、静かに声をかけた。


「私たちのお城を手に入れに行きましょう!」

「わふん!」


 シュシュが、頼もしく一声鳴いた。

 その琥珀色の瞳は、どんな困難な冒険も、あなたと一緒なら乗り越えてみせる、と、そう、雄弁に語っていた。


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