第十一話:最高の助手
昨夜、工房の椅子に座り込んで、私は一つの大きな決断をした。
一人ですべてをこなすことの限界。
そのあまりにも単純で、根本的な問題にぶち当たってしまったのだ。
冒険者として依頼をこなして店の開業資金を稼ぎたい。でも、私が家を空けている間、この愛しい厨房はただの箱になってしまう。
広場で私のパイを待ってくれている人たちに、お菓子を届けることもできなくなる。
私の持つ、土魔法。
それは、ただ形を作るだけじゃない。
その形に、役割と、そして、疑似的な魂を宿らせる。
それは、まるで神の領域に足を踏み入れるような、途方もない挑戦だった。
◇
翌朝。
昇り始めたばかりの太陽が、厨房の大きな窓から蜂蜜色の光を惜しみなく降り注いでいた。
私は椅子から勢いよく立ち上がると、ぱん、と景気付けに両手を高らかに打ち鳴らした。
「よし、やるわよ、シュシュ!」
足元でうとうとしていたシュシュが、ぱちりとその琥珀色の瞳を開けて、何が始まるのかと期待に満ちた顔で私を見上げている。
「今から、私の最高の助手を作ります。そしてね、あなたにとっても、新しい家族ができるのよ」
「わふん!」
シュシュが、全てを理解したとでも言うように、嬉しそうに一声高らかに鳴いた。
さあ、始めましょうか。
最高の作品を作るためには、まず、最高の材料を準備しなくては。
私はまず、材料の選定から始めることにした。
作業台の隅に置いてあった、陶器のボウルを作った時の余りの粘土だけでは、とてもじゃないけれど足りない。
私は家の外に出て、この辺りで一番質が良さそうな土を、魔法の感覚を研ぎ澄ませて、丁寧に選別していく。
まるで、最高級のチョコレートを作るために、世界中からカカオ豆を取り寄せるショコラティエみたいに。
見つけ出したのは、しっとりとして、きめ細かい、赤みを帯びた粘土質の土だった。これを、さらに磨き上げていく。
両手を土の山にかざし、マナを流し込む。
イメージするのは、最高級の薄力粉を、何度も何度も、目の細かいふるいにかける作業。
土の中に含まれる、微細な小石や、植物の根といった不純物を、一つ残らず丁寧に取り除いていく。さらに、土の粒子そのものを、もっともっと細かく、均一にしていくのだ。
ざらざらとした土の塊が、私の魔法に触れることで、まるで絹のようになめらかな、極上の粘土へとその姿を変えていった。
やがて私の目の前には、うっとりするほど滑らかな、チョコレートムースみたいな粘土の山が出来上がっていた。
私はその極上の粘土を、大きな樽の中へといっぱいになるまで詰め込むと、よいしょ、と掛け声をかけて厨房の中央へと運び込んだ。
ふう、と一つ息をつく。
ここからが、本番だ。
私は、ごくりと唾を飲み込むと、樽の中に、そっと両手を深く差し込んだ。
ひんやりとして、どこか甘い匂いのする、生命の気配のない土の感触。
ゆっくりと目を閉じて、意識を集中させる。
イメージするのは、これから私の新しい相棒となる、その姿。
どんな姿がいいだろうか。
ギルドでたまに見かける、岩石でできた、いかつい戦闘用のゴーレム?
いえいえ、そんなのが厨房にいたら、お客様がびっくりして逃げてしまうわ。
私が欲しいのは、一緒に楽しくお菓子を作ってくれる、優しくて、温かみのある助手。
私の頭の中にふと、前世で大好きだった、素朴な焼き菓子の姿が浮かび上がった。
クリスマスの時期になると、お店に並ぶ、人型のジンジャークッキー。
スパイスの効いた、あの素朴で可愛らしい姿。
そうだわ、あんな風に、どこか愛らしくて、見ているだけで心が和むような姿がいい。
私のマナが、樽の中の粘土へと、静かに、でも力強い川の流れのように、注ぎ込まれていく。
樽の中の粘土が、私の意思に応えて、まるで生きているみたいに、むにむにとゆっくりと形を変え始めた。
それは、巨大な家を建てた時のような、ダイナミックで力任せの魔法じゃない。
もっとずっと繊細な、指先の感覚に全ての意識を傾けるような、緻密なコントロールが求められる。
粘土が少しずつ、少しずつ、人型になっていく。
二本の足が生え、二本の腕が伸び、丸い頭が形作られていく。
身長は、私よりも少し低いくらい。
これなら、作業台で仕事をするのに、ちょうどいい高さのはずだ。
表面を、どこまでも滑らかに、つるりとなるように整えていく。
そして、何よりも大事なのは、その指先。
繊細な卵を優しく割ったり、デコレーションケーキの上に、美しいクリームを絞ったり、チョコレートで細い線を描いたり。
パティシエの仕事は、そのほとんどが、指先の細やかな感覚にかかっているのだから。
私は、魂を込めて、その十本の指を丁寧に作り上げていった。
これで、見た目はできた。
でも、これだけでは、ただの精巧にできた、土の像に過ぎない。
一番大事な工程が、まだ残っている。
この、ただの土の塊に、命を吹き込むこと。
疑似的な命を。
私は、すう、と深く息を吸い込むと、自分の体の中を流れるマナの中心にある、温かくて純粋な力の源へと、意識を沈めていった。
私の魂の一部。
それを、マナの『核』として、この像の胸の中に、そっと埋め込むのだ。
ごう、と。
体の中から、今まで感じたことのないくらい、膨大なエネルギーが、まるで巨大な掃除機に吸い込まれるみたいに、ごっそりと抜き取られていくのが分かった。
目の前が、ちかちかと、ショートした電球みたいに、激しく火花のように明滅する。
頭が、熱した鉄板の上で焼かれるパンケーキみたいに、じゅうじゅうと音を立てて、くらくらする。
でも、ここで止めるわけには、いかない。
私は、ぐっと奥歯を食いしばり、最後の力を振り絞った。
イメージするのは、前世の記憶。
オートメーション化された、最新式の巨大な製菓工場。
レシピのデータを打ち込めば、寸分の狂いもなく、同じ製品を、何千、何万と作り出す、無機質な機械たち。
でも、私が作りたいのは、そんな、ただの便利な機械じゃない。
私の想いを、言葉にしなくても理解してくれる。
私の夢を、自分のことのように、一緒に追いかけてくれる。
そんな、温かい心を持った、かけがえのないパートナー。
私のお菓子作りへの、ありったけの愛情と、誰にも負けないという情熱。
その全てを、マナの核にぎゅっと詰め込んで、私は粘土の像へと、一気に注ぎ込んだ。
その瞬間、ぶつん、と。
まるでテレビの電源が切れたみたいに、私の体から、全ての力がすうっと抜け落ちていった。
私は、ふらりと大きくよろめき、その場に、ぺたんと力なく座り込んでしまう。
はあ、はあ、と。
自分のものとは思えないくらい、か細い息が、肩を大きく揺らした。
もう、指の一本だって、動かせそうにない。
私の目の前には、先ほどまでと何も変わらない、一体の土の像が、しんと静まり返って、ただ立っているだけだった。
「……失敗、かしら」
ぽつりと呟いた声は、自分でも驚くほど、ぱさぱさに乾いて、かすれていた。
シュシュが、私の異変に気がついたのか、心配そうに駆け寄ってきて、ぺろりと私の頬を舐めてくれる。
そのざらりとした舌の感触が、やけに現実味を帯びて感じられた。
やっぱり、神様の真似事なんて、そんなに簡単なことじゃなかったのね。
私が、諦めの混じった、深いため息をつこうとした、まさにその時だった。
―――ぴく。
土の像の、右手の指先が、ほんの、ほんのわずかだけ、動いたような気がした。
え……?
今の気のせい?
疲労で見えた、幻覚……?
私は、瞬きも忘れて、食い入るように、その像を見つめる。
すると、今度は、はっきりと分かった。
像が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、生まれたての赤ん坊が初めて手を伸ばすみたいに、その腕を持ち上げ始めたのだ。
まだ動きに慣れていない、ぎこちない動き。
やがて、その像は周囲を見回す。
それはまるで、目の前の世界が不思議でたまらない、とでも言うように、自分の頭を、小さく、可愛らしく動かしている。
あまりにも無垢で、愛らしい仕草。
私は、自分の疲労も、マナの枯渇も、全て忘れて、思わず、感嘆の声を上げていた。
「……動いた」
成功したんだ。
初めてのゴーレム。
私の新しい家族。
私は、ふらつく足で、なんとか壁に手をついて立ち上がると、そのゴーレムの前まで、一歩、一歩、歩み寄った。
改めて、間近で見てみると、その体は、こんがりと焼き上がった、素焼きのビスケットみたいな、温かみのある優しい土色をしていた。
そうだわ、あなたの名前は、今日から―――。
「『ビスキュ』よ」
私が、そう、はっきりと名付けると、ゴーレム―――ビスキュは、首を傾げた。
表情を読み取ることのできない、のっぺらぼうの顔。
でも、その仕草だけで、彼が、私の言葉の意味を、一生懸命に理解しようとしているのが、不思議なくらい、はっきりと伝わってきた。
「よろしくね、ビスキュ。私が、あなたのご主人様よ」
私が、にっこりと、花が咲くような笑顔を浮かべてみせる。
ビスキュは、しばらくの間、じっと私を見つめていた。
そして、おもむろに、その土でできた、大きくて、ごつごつとした手を、私の頭の上へと、ゆっくりと伸ばしてきた。
え?
私が、ぽかん、としていると。
ビスキュは、その大きな手で、私の頭を、ぽん、ぽん、と。
まるで、私がいつもシュシュにしてあげるみたいに、とても、とても、優しく撫でたのだ。
その、あまりにも予想外の、そして、あまりにも温かい行動。
私は、しばらくの間、何が起きたのか分からず、呆然としていた。
そして、次の瞬間。
ぷっ、と。
こらえきれずに、思わず、吹き出してしまった。
なんだか、私がご主人様というよりも、彼の方が、私を優しく見守る、大きなお父さんみたいじゃない。
私の明るい笑い声を聞いて、ずっと心配そうに私の足元に寄り添っていたシュシュも、ようやく安心したように、「わふん!」と一声、嬉しそうに鳴いた。
こうして、私の辺境の小さな家に、二人目の新しい家族が誕生したのだ。