第十話:最初の報酬と新たな課題
森からフローリアの町へと続く一本道を、私とシュシュは並んで歩いていた。
先ほどまでの血生臭い騒乱が嘘のように、森はすっかり元の穏やかな表情を取り戻している。木々の隙間からこぼれる午後の日差しが、地面に落ちた木の葉をきらきらと金色に照らしていた。ざわざわと風が木々を揺らす音と、遠くで聞こえる鳥の声が、まるで優しい子守唄のように心地よい。
私の手には布の袋が一つ。中には、申し分のない状態で採取された十本の『月光草』が大切にしまわれている。そして心の中には、銅貨三十枚というささやかだけれど、ずしりと重い達成感が満ちていた。
私の冒険者としての初仕事は、大成功に終わったのだ。
「ふふっ」
思わず小さな笑い声が漏れた。
隣を歩いていたシュシュが「わふ?」と不思議そうに私の顔を見上げてくる。
「なんでもないのよ、シュシュ。ただ、少し嬉しくなってしまっただけ」
私はしゃがみこんで、彼の銀色の頭をわしゃわしゃと撫でてやる。
「あなたのおかげよ。本当にありがとう」
「わふん!」
シュシュは得意げに胸を張ってみせた。その愛らしい姿に、私の心は温かいミルクティーを味わった後のように、じんわりと甘く満たされていく。
ゴブリンの群れに襲われた時は正直少し肝が冷えた。
でも結果として、私の土魔法の新しい可能性をはっきりと確認することができた。
私の魔法は炎や氷のように、直接敵を焼き払ったり切り刻んだりする派手な力じゃない。
でも使い方次第で、戦うための『場』そのものを私の望むままに作り変えることができるのだ。
最高のケーキを作るためには最高の厨房が必要なように、最高の戦果を上げるためには最高の戦場が必要。
その二つはきっと、根本のところで同じことなのだ。
そう考えると、今まで地味で役に立たないとさえ思っていた自分の魔法が、急にとても頼もしくて愛おしいもののように思えてきた。
「これからもっともっと、色々なことができるようになるかもしれないわね」
夢がまた一つ、大きく膨らんでいく。
そんなことを考えているうちに、フローリアの町の高い木の柵が見えてきた。
さあ、胸を張って報告に行きましょう。
私がただのか弱いお嬢様ではないということを、あのギルドの人たちにしっかりと見せてあげなくては。
◇
冒険者ギルドの、あの巨大な木の扉を私は今度もためらうことなく押し開けた。
ぎい、と重たい音がして、むわりとした熱気が再び私の肌を覆う。
中は相変わらずの喧騒だった。
酒を酌み交わす冒険者たちの野太い笑い声、依頼を巡って口論する声。汗と土とお酒の匂い。
けれど私が一歩中に足を踏み入れた瞬間、あの時と同じように建物全体を揺るがしていた騒音が嘘のようにぴたりと静まり返った。
全ての視線が入り口に立つ私に突き刺さるように集まってくるのが分かった。
でもその視線に含まれる感情は、朝とは明らかに異なっていた。
嘲笑や侮りじゃない。
純粋な好奇心と、信じられないものを見るような驚愕と。
そして、ほんの少しの……畏怖。
どうやら私が森へ向かった後、ギルドの中では私のことで色々な噂が飛び交っていたらしい。
私はそんな視線を気にも留めず、背筋をしゃんと伸ばしまっすぐにカウンターへと向かって歩き出した。
まるでモーゼが海を割るように、私の進む道の左右から冒険者たちがさっと道を開けていく。
その光景が少しだけ可笑しかった。
カウンターの向こう側では朝と同じ受付嬢さんが、目をまんまるに見開いてあんぐりと口を開けたまま固まっていた。
「ただいま戻りました。依頼の報告にまいりました」
私がにっこりと微笑みかけながら、カウンターの上に薬草の入った袋をことりと置いた。
その音に彼女ははっと我に返ったようだった。
「……は、はいっ!お、お帰りなさいませ!って、ええっ!?もうお戻りに……!?」
彼女は信じられないという顔で、私とカウンターの上の袋を交互に見比べている。
「ま、まさか、もう依頼を……?」
「ええ。こちらが依頼の品ですわ。ご確認をお願いいたします」
受付のお姉さんは、ためらうような手つきで袋の紐を解くと中を覗き込んだ。
そして次の瞬間、彼女の目がさらに大きく見開かれた。
「こ、これは……!?」
無理もない。
袋の中には根の一本一本まで土がついたままの、完全な状態で保存された『月光草』が、まるで今しがた摘んできたばかりのような瑞々しい姿で並んでいるのだから。
普通の冒険者がナイフで雑に刈り取ってくるものとは、見た目からして全くの別物のはずだ。
「たしかにこれは……!これほど見事な採取品は、私ギルドに入ってから一度も見たことがありません……!」
彼女は興奮したように、少しだけ上擦った声で言った。
その声に、周りで遠巻きに見ていた冒険者さんたちがざわざわと色めき立つ。
「おい、聞いたか?見事な採取品だってよ」
「薬草採りなんて、ただ引っこ抜いてくるだけじゃねえのか?」
「どうやら本当に、ただのお嬢様じゃなかったらしいぜ……」
ひそひそと交わされる会話が私の耳にも届いてくる。
気分がいい。
私の仕事がきちんと評価される。
それはパティシエとして最高の褒め言葉をもらった時と同じくらい、嬉しいことだった。
「―――騒がしいな。何事だ」
その時、凛としたよく通る声が、ざわめきを制するように響いた。
カウンターの奥の扉から、あのギルドマスターが腕を組んで姿を現したところだった。
その鋭い眼光がまっすぐに私を捉える。
彼は私がこんなに早く戻ってくるとは全く予想していなかったのだろう。その表情には隠しきれない驚きがあった。
「……あんたか。戻ったのか」
「はい。ご命令通り、依頼を完了いたしました」
私は彼に向かって優雅に一礼してみせる。
ギルドマスターは無言のままカウンターへと歩み寄ると、受付嬢さんから薬草の袋を受け取った。そして自分の目で中身を検分し始める。
その鋭い目が月光草の一本一本を、まるで獲物を品定めするかのようにじろりと舐めるように見ていく。
やがて彼は、ふう、と一つ短く息を吐いた。
「……見事なもんだ」
ぽつりと、絞り出すようにそう言った。
それは紛れもない称賛の言葉だった。
「これほど質の良いものをこれほどの速さで集めてくるとはな。……森で、何か変わったことはなかったか」
彼の質問は核心を突いていた。
きっと彼は、私がゴブリンの群れに遭遇するであろうことまで計算に入れていたのだろう。
私を試すために。
「ええ、少しばかり」
私はあくまでも何でもないことのように、あっさりと答える。
「緑色をした小柄な方たちが、歓迎の挨拶に来てくださったようですけれど」
「……歓迎の挨拶だと?」
ギルドマスターの片方の眉がぴくりと動いた。
「ええ。ですが少しばかり手荒な歓迎でしたので、丁重にお引き取り願いました」
私のその言葉に、周りで聞き耳を立てていた冒険者さんたちがごくりと息を飲むのが聞こえた。
ゴブリンの群れを『手荒な歓迎』。
それをたった一人で『丁重にお引き取り願った』。
誰もが信じられないという顔で私を見ている。
ギルドマスターはしばらくの間じっと、探るような目で私の顔を見つめていた。
そして不意に、彼の厳つい顔に、まるで固い岩の表面に亀裂が入るみたいにほんのかすかな笑みの形が浮かんだ。
「……はっ。面白い。気に入ったぜ、嬢ちゃん」
彼は楽しそうに喉の奥でくつくつと笑った。
「あんた、名前はなんて言うんだ」
「……別に、お教えする義務はないでしょう?」
私が少しだけ意地悪くそう返すと、彼はさらに面白そうに目を細めた。
「そうか。まあいい。いずれ嫌でも聞くことになるだろうからな。……受付!依頼完了の手続きをしてやれ!報酬を支払え!」
「は、はいっ!ただいま!」
受付のお姉さんが慌てて羊皮紙に何事かを書き込み始める。
ギルドマスターは私に背を向けると奥の部屋へと戻ろうとした。
けれど扉の前でぴたりと足を止めると、一度だけこちらを振り返って言った。
「……嬢ちゃん。いや、新人。お前の実力は認めてやる。だがな、勘違いするなよ。この世界はそれだけじゃ生き残れねえ。いつか足元をすくわれるぞ」
それは忠告のようでもあり、あるいは激励のようでもあった。
「ご忠告、感謝いたします」
私がそう言って再び深く頭を下げると、彼は今度こそ満足したように扉の向こうへと姿を消した。
◇
「お、お待たせいたしました!こちらが今回の報酬になります!」
受付のお姉さんが小さな革の袋をカウンターの上へと差し出した。
ちゃりん、と。
心地よい金属の音がする。
私はその袋をそっと手に取った。
ずしり、とした重み。
中には銅貨が三十枚入っている。
私がこの世界に来て、初めて自分の力だけで稼いだお金。
その一枚一枚が私の努力とほんの少しの勇気の結晶のように思えて、じんわりと温かい気持ちになった。
「ありがとうございました」
私は受付のお姉さんににっこりと微笑みかけると、くるりときびすを返した。
もう誰も私に嘲笑を浴びせたりはしない。
誰もが畏怖と尊敬の入り混じったような目で私に道を開けていく。
その視線の中を私は胸を張ってまっすぐに歩いていった。
ギルドの扉を開け外の光を浴びた瞬間、私の心はすっきりと晴れ渡っていた。
証明できた。
私は私の力で、この厳しい世界で生きていける。
お店を開くという途方もなく高い壁。
でも今日、その壁にほんの小さな、でも確かな取っ掛かりを見つけることができたような気がした。
◇
意気揚々とギルドを後にして、私とシュシュは我が家へと続く道を歩いていた。
太陽はもうすっかり西の空に傾いて、辺りの風景を温かいオレンジ色に染め上げている。
私の手の中には、あの革袋がしっかりと握りしめられていた。
稼いだお金で何を買おうか。
まずは当面の生活に必要な塩と油。
それからシュシュのために、とびきり美味しいお肉も買ってあげなくちゃ。
残ったお金は大切に、お店の開業資金として貯めておくのだ。
そんなことを考えながら歩いていると、足取りは自然と軽やかになっていく。
でも。
家に近づくにつれて、私の心の中にふと小さな、でも無視できない懸念がぽつりと生まれた。
懸念は少しずつ、じわじわと黒い染みのように広がっていく。
……あれ?
私は今日の朝早くに家を出た。
そして今、日が暮れようとしている。
つまり丸一日近く、私の家は留守だったということだ。
誰もいない、がらんどうの家。
この辺りは幸い人の気配はほとんどないけれど、もし悪意を持った誰かが、あの家を見つけたら?
鍵は一応魔法で作ったけれど、そんなものがどれほどの防犯になるというのだろう。
それに、防犯だけじゃない。
私が留守の間、あの理想の厨房はただの物置になってしまっている。
誰も火を入れない石窯。誰も使わない調理器具。
なんだかとてももったいないことをしているような気がしてきた。
今日の依頼はたった一日で終わったからよかった。
でもこれからもっと難易度の高い依頼を受けたら?
数日間家を空けることだって、きっとあるだろう。
その間、私の大切な城はどうなってしまうのだろう。
それに何より、冒険者として依頼を受けている間は当たり前だけど、お菓子作りが全くできない。
広場で待ってくれているあのお客さんたちに、パイを届けることもできなくなってしまう。
それはだめだ。
絶対にだめ。
私にとってお菓子作りは、何よりも優先されるべき人生そのものなのだから。
お金を稼ぐことはあくまでそのための手段であって、目的じゃない。
どうしよう。
冒険者としてお金を稼ぎながら家を守り、さらにはお菓子作りも続ける。
そんな都合のいい方法があるのだろうか。
一人ですべてをこなすことの限界。
そのあまりにも単純で根本的な問題に、私は今さらながら気がついたのだ。
◇
すっかり日が暮れて真っ暗になった道を、ランプの灯りを頼りにとぼとぼと歩く。
ようやく我が家の温かみのある外観が見えてきた。
幸い誰かに侵入されたような形跡はなく、家は朝に出た時と全く同じ姿で静かに私とシュシュの帰りを待っていてくれた。
ほっと安堵のため息をつく。
でも扉を開けて中に入った瞬間、ひやりとした寂しい空気が私の肌をかすめた。
火の気のない家は、思った以上に冷え切っている。
ランプに火を灯し、暖炉に薪をくべてようやく部屋の中に温かみが戻ってきた。
シュシュにご飯をあげて、自分のためにも簡単なスープを作る。
疲労で体はひどく重かった。
ようやく一息ついて、私は厨房の椅子にどさりと腰を下ろした。
目の前には私が魂を込めて作り上げた、理想の厨房が広がっている。
でもそこはしんと静まり返っていて、まるで生命が宿っていない美しい模型のようにも見えた。
私がいないとこの場所は、ただの箱になってしまう。
「……だめね」
ぽつりと呟く。
「これではだめだわ」
もっと効率よく。もっと合理的に。
まるで最高のレシピを考案する時みたいに、私の頭が高速で回転を始めた。
問題点は分かっている。
私の体が一つしかないこと。
だったら答えは簡単だ。
増やせばいい。
私の代わりにこの家と厨房を守り、そしてお菓子作りを手伝ってくれる、もう一人の私を。
もちろん分身の術が使えるわけじゃない。
でも私には魔法がある。
この家を、この調理器具を、ゼロから生み出した創造の魔法が。
私の視線がふと、作業台の隅に置いてあった使い残しの粘土の塊へと吸い寄せられた。
陶器のボウルを作った時の余りの土。
私はまるで何かに引き寄せられるように、その粘土の塊をそっと手に取った。
ひんやりとして柔らかい感触。
私の魔法は土や石に、形を与えることができる。
家という複雑な構造物さえも作り出せる。
だとしたら。
ただ形を作るだけじゃなくて。
その形に『役割』を与えることはできないだろうか。
私の命令に従って動いてくれる存在を。
お菓子作りの助手となってくれる存在を。
それは神の領域に踏み込むような、あまりにも途方もない考えかもしれない。
でも私の心の中には、不思議と何の迷いもなかった。