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第一話:悪役令嬢の役割、謹んでお断りいたします

 シャンデリアから光の粒が、きらきらと音を立てて弾けるかのように降り注いでいた。

 磨き上げられた大理石の床を、着飾った人々が履いた靴がこつこつと叩く。その小気味よい踵の音が、ホールに流れる軽やかな音楽と楽しげに手を取り合っている。

 鼻先をかすめる香水の甘い匂い、そこかしこで交わされる華やかな談笑、シルクのドレスがすれ合う微かな衣擦れの音。


 そのすべてが合わさって、この空間を祝祭の鮮やかな雰囲気で満たしていた。


 王立学園の卒業を祝う夜会。


 誰もが輝かしい未来への希望に胸を膨らませ、その表情をきらめかせている。


 私、ただ一人を除いては。


 手にしたグラスの中で、黄金色の液体がゆらゆらと揺れている。

 一口もつけていないそれは、とうにぬるくなってしまっていることだろう。その繊細な泡もすっかり抜けて、きっと、ただの甘ったるい水に変わっているに違いない。


 それでも私は、背筋をしゃんと伸ばし、口角をかすかに引き上げ、淑女の微笑みを顔に貼り付ける。

 ヴァロワ公爵令嬢として、そして、レオン王太子殿下の婚約者として、周囲から求められる役割をただひたすらに演じ続ける。


 それが、私の人生そのものだった。爪の先から髪の一筋まで、寸分の狂いもなく作り上げられた、美しいけれど中身のない砂糖菓子。それが、今の私という存在だ。


 いつからだったろうか。この世界が、こんなにも色褪せて見え始めたのは。目に映るものすべてに現実感がない。ここにある喜びも、悲しみも、怒りも、心の奥深くにある何かに触れることなく、通り過ぎていく。それはまるで、味のしない食べ物を、来る日も来る日も延々と噛み続けているような、そんな退屈で、無気力な毎日。


「エステル様、本日も大変お美しいですわね」

「本当に。その純白のドレス、まるで雪の妖精のようですわ」

「レオン王太子殿下の隣に立つにふさわしい、まさに王国の華ですわね」


 聞こえてくるお世辞の言葉に、私はただ曖昧に微笑んでみせる。彼女たちの声も、遠くで鳴っている音楽と同じで、ただ音として聞こえているだけ。心が少しも動かない。何を言われても、何も感じない。空っぽの心に、意味のない言葉の雨が、しとしとと降り注ぐような、そんな感覚。彼女たちの顔も、精巧に作られた能面のようで、その下にどんな本心が隠されているのかなんて、私には分からないし、知りたいとも思わなかった。

 きっと、彼女たちにとっても、私はただの『公爵令嬢』という記号でしかないのだろう。私の内面になど、誰も興味はない。そう思うと、不思議と寂しさは感じなかった。ただ、深い諦めだけが、心の底へと溜まっていくだけだった。



 その静寂を破るように、それまで陽気に流れていた音楽が、ぴたりと止んだ。

 さざ波のように広がっていた人々のざわめきが、まるで時が止まったかのように、ぴたりと凪ぐ。すべての視線が、まるで強力な磁石に引き寄せられる砂鉄のように、ホールの中央、その一点へと吸い寄せられていく。

 そこに立っているのは、私の婚約者であるレオン・ド・クレルモン王太子殿下。その隣には、か弱い小動物のように寄り添う、男爵令嬢のクロエ・モランの姿があった。

 レオン殿下の顔は、私が今まで一度も見たことのないような、不思議な熱っぽさで赤くなっていた。それは興奮のようでもあり、あるいは、強い怒りのようでもあった。彼の空色の瞳が、まっすぐに私を射抜く。その瞳には、自分が絶対的な正義だと信じて疑わない者だけが持つ、危ういほどに純粋な光があった。


「エステル・ド・ヴァロワ! 君に言いたいことがある!」


 朗々と、しかしどこか上擦った声が、静まり返ったホールに広がる。周囲の貴族たちが、何事かと戸惑ったように顔を見合わせるのが見えた。何が始まるというのだろう。


 こんな、大勢の人の前で。


 私の心は、風のない日の湖面のようだった。何の波紋も立たない。ただ、目の前で起きている出来事を、まるで他人事のように、ぼんやりと眺めていた。

 レオン殿下は、小刻みに体を揺らすクロエの肩をぐっと抱き寄せ、庇護者のように振る舞いながら、糾弾の言葉を紡ぎ始めた。その姿は、まるで古い物語に出てくる、正義の騎士そのものだった。


「君という女は、なんて嫉妬深く、残酷な人間なのだ! この心優しく、か弱いクロエに対し、陰湿ないじめを繰り返していただろう!」


 いじめ?


 初めて、私の静かな心に、小さなさざ波が立った。全く聞き覚えのない言葉だった。まるで、どこか遠い異国の言葉を聞いているかのようだ。


「私がクロエと親しく話すたびに、君は彼女を物陰に呼び出し、その家柄の低さを罵ったそうだな! あろうことか、教科書を隠したり、ドレスを汚したりと、その嫌がらせは日増しにエスカレートするばかりだったと聞いている! そうだろう、クロエ!」


 レオン殿下の言葉に合わせて、クロエの肩がびくりと大きく揺れる。彼女は彼の腕の中でさらに身を縮こませ、今にも泣き出しそうな潤んだ大きな瞳を、ちらりと私に向けた。


「そ、そんな……レオン様、おやめくださいまし……!」

「わたくしが至らないばかりに、エステル様にご不快な思いをさせてしまったのです。すべて、わたくしの責任でございますから……どうか、エステル様をお責めにならないで……!」


 か細く、消え入りそうな声。その健気な言葉が、逆に彼女への同情を強く誘う。ああ、なんて悲劇的なヒロインだろう。周囲から聞こえてくる囁き声が、じわじわと大きくなっていく。最初は戸惑いという雰囲気が濃かったその声は、次第に私への非難をはっきりと帯びていった。


『まあ、あのエステル様が、そんなことを……』

『いつも無表情で、何を考えているかわからない方だとは思っていたけれど、まさか……』

『クロエ様は、あんなに愛らしくて、心優しい方なのに、あまりにもお可哀想に』


 非難の視線が、ちくちくと鋭い針のように肌を刺す。どんよりとした灰色の空気が、私の周りを濃くしていく。どうして。私は、何もしていない。そう言葉にしようとしても、喉がうまく動かない。昔から、自分の感情や考えを言葉にして誰かに伝えるのは、ひどく苦手だった。言いたいことは胸の中にたくさんあるのに、いざ口を開くと、ありきたりで、無味乾燥な言葉しか出てこない。

 それは、感情を抑制し、常に冷静でいることが美徳とされる、厳しい公爵令嬢としての教育の賜物だったのかもしれない。


「……そのようなことは、決してしておりません」


 やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく、平坦に聞こえた。

 それは、何の感情も伴わない、ただの事実の羅列。これでは、弁明ではなく、ただの反抗にしか聞こえないだろう。


 暖かみのない、ぱさぱさに乾いたビスケットのような言葉。


 案の定、レオン殿下は私の言葉を鼻で笑った。


「まだしらを切るつもりか! 見苦しいぞ! これほど多くの証言があるというのに!」


 証言?


 一体、誰の?


 私の疑問は、彼の次の言葉によって、絶望的な形で打ち砕かれた。


「これ以上、君のような性根の腐った女を、未来の国母として玉座に座らせるわけにはいかない!」


 彼は高らかに、まるで芝居のクライマックスを演じる役者のように、その宣告を口にした。


「よって、今この時をもって、エステル・ド・ヴァロワ! 君との婚約を破棄する!」


 その言葉が、私の耳に届いた瞬間。


 パリン、と。


 世界で、何かが砕ける音がした。

 目の前の光景がぐにゃりと形を失い、キーンという激しい耳鳴りが頭の中をめちゃくちゃにかき回す。


 足元が崩れ落ちていくような、不快な浮遊感。


 そして、私の頭の中に、全く別の光景が、まるで決壊したダムの水のように、濁流となって流れ込んできた。


 ごうごうと低い音を立てる業務用のオーブン。バターと小麦粉が焼ける、むせ返るほど甘くて香ばしい香り。カシャカシャと大きなステンレスのボウルの中で卵をかき混ぜる、金属の泡立て器の音。深夜の厨房を煌々と照らす、無機質な蛍光灯の白い光。


『まだ終わらないのか! ぐずぐずするな、この役立たず!』


 シェフの怒声が飛ぶ。疲労で鉛のように重くなった体を叱咤し、必死に泡立て器を動かす。肩も、腰も、足も、自分のものとは思えないほどに痛い。でも、止められない。止めるわけには、いかない。


 だって、私には、夢があったから。


 誰も食べたことのないような、お菓子を作る。食べた人が、その一瞬だけ、すべての悩みや悲しみを忘れてしまうような、そんな魔法のお菓子を。その一心で、私は身を粉にして働いていた。


 日本と呼ばれた国。そこにある、とある町の洋菓子店で働く、しがないパティシエだったのだ。


 睡眠時間を削り、休憩もろくにとらず、来る日も来る日もお菓子を作り続けた。

 新作のアイデアが浮かべば、仕事が終わった後も一人で厨房に残り、夜が明けるまで試作を繰り返した。


 楽しかった。


 つらくて、苦しくて、何度も辞めたいと思ったけれど、それ以上に、お菓子作りに没頭している時間が、何よりも幸せだった。

 生地の柔らかな感触、オーブンから漂ってくる甘い香り、真っ白なクリームで美しく飾り付けられていくケーキ。


 そのすべてが、私の生きる喜びそのものだった。


 そして、最後の記憶。


 積み重なった過労で意識が遠のく中、私が最後に見たのは、真っ白な天井。そして、ふわりと鼻をついた、焦げ付いたカラメルの匂い。ああ、鍋を火にかけたままだった。あれは、プリンになるはずだったのに。


 無念だ。


 まだ、私の理想のお菓子には、程遠いというのに。


 …………そうだ。


 私は死んだんだ。

 お菓子作りの夢、その半ばで。


 洪水のように押し寄せてきた記憶の濁流が、すうっと静かに引いていく。


 目の前の光景が、再びゆっくりと焦点を結んだ。


 心配そうに、しかしその瞳の奥には好奇を隠しきれない貴族たちの顔。

 正義の鉄槌を下したとでも言わんばかりに、得意げな表情で私を見下ろすレオン殿下。

 彼の腕の中で、勝ち誇ったような、微かな笑みを唇に浮かべているクロエ・モラン。


 ああ、なるほど。


 これは、なんというか……ひどく陳腐でありきたりな光景だ。


 正義感だけが空回りしている王子様。

 か弱く美しい、聖女のようなヒロイン。

 そして、彼女をいじめる、家柄だけが取り柄の意地悪な婚約者。


 大勢の人の前で行われる、劇的な婚約破棄と断罪劇。


 そんな出来の悪い芝居か、あるいは、前世で流行っていた乙女ゲームのイベントシーンを見ているかのようだ。

 ああそうか、私はこんな安っぽい物語の『悪役令嬢』という、都合のいい役に、無理やり押し込められていたのか。


 どうりで息苦しいはずだ。


 私の心を満たしていた、ここが別世界にいるかのような無関心は、跡形もなく消え去っていた。

 灰色だった世界に、鮮やかな色彩が戻ってくる。バターの温かい黄色、チョコレートの深い茶色、イチゴの鮮烈な赤。


 そんな温かくて美味しそうな色が、私の世界をどんどん塗り替えていく。


 胸の奥から、ふつふつと、熱い何かがマグマのように湧き上がってくる。それは、怒りでも、悲しみでも、絶望でもなかった。


 それは―――歓喜だった。


 公爵令嬢としての、息の詰まるような毎日。意味も見出せない、退屈な授業。

 義務と体面だけで繋がっていた、心を通わせることのない婚約者との関係。厳しい淑女教育。そのすべてが、私という人間をがんじがらめに縛り付けていた、重たい鎖。


 その鎖が、今、高らかに断ち切られたのだ。


 この愚かな王子様の手によって。


 公爵令嬢でいなくてもいい。

 もう、私は感情を殺して、王太子の婚約者を演じなくてもいい。

 そして、私は誰かの期待に応えるために、自分を殺して生きなくてもいい。


 これからの私は。


 ―――自由にお菓子が作れるのだから!


 その考えが頭に浮かんだ瞬間、私の唇から、くすくす、と小さな笑い声が漏れた。


 静まり返ったホールに、その場違いな音は妙に大きく響き渡った。


 レオン殿下の顔から、得意げな表情が消え、純粋な困惑が浮かぶ。クロエという、あからさますぎる慈悲の表情にも、明らかな動揺が走る。


 どうしたのだろう、この女は。

 とうとう頭がおかしくなったのか。

 そんな声が、周りから聞こえてくるようだった。


 私はゆっくりと顔を上げた。

 そして、満面の笑みを浮かべてみせた。

 それは、公爵令嬢エステル・ド・ヴァロワが、これまで誰にも見せたことのない、心からの笑顔だった。


 純粋で、一点の曇りもない喜びから生まれた笑顔。


「ご親切に、どうもありがとうございます、レオン殿下」


 鈴が転がるような、明るい声が出た。

 自分でも驚くほど、晴れやかで、弾むような声だった。


「そのお言葉、謹んでお受けいたしますわ」


 もう、あなた方に用はありません。

 そう言外に告げ、私は目の前の二人にも、唖然として固まっている周囲の人々にも目もくれず、優雅に、しかしどこかスキップでもしそうなほど弾む足取りで、きびすを返した。


 ああ、なんて素晴らしい日だろう!


 今日が、私の第二の人生の始まりの日だ。


 これからどんなお菓子を作ろうか。

 この世界には、一体どんな食材があるのだろう。

 前世では手に入らなかったような、珍しいフルーツや、香りの良い木の実があるかもしれない。


 この魔法を使えば、オーブンの火加減だって自由自在かもしれない。

 想像が、次から次へとマカロンみたいに、色とりどりに湧き上がってきて、止まらない。


 考えただけで、期待に息が弾む。


 イースト菌で膨らむパン生地のように、私の気持ちがどんどん、どんどん膨らんでいく。


 そうだ、まずはキッチンを手に入れなくちゃ。

 それから、使いやすい調理器具も全部揃える。

 泡だて器、ゴムベラ、麺棒、それからたくさんの焼き型も。


 ああ、忙しくなる。やりたいことが、たくさん、たくさんある!


 私の頭の中は、すでに色とりどりのケーキや、さくさくのクッキー、ふわふわのスポンジのことで、すっかりいっぱいだった。


 断罪の夜会?

 婚約破棄?

 追放?


 そんなもの、スイーツを作るという、私の夢の前では、ほんの些細な出来事に過ぎなかった。

 むしろ、面倒な手続きをすっ飛ばして、私に自由を与えてくれたのだから、感謝したいくらいだ。


 こうして、私のパティシエとしての新しい人生は、思いがけず、甘い形で、その輝かしいスタートを切ったのである。


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