第5話 アイリーン。
「私の父はね…」
父は酒を飲まなければ、良い人だった。と思う。
外では真面目な温和な人間で通っていたし、両親の仲は良いように見えた。
父は…面白くないことがあると、浴びるように酒を飲んでは家族に当たり散らした。
母はずっと怯えていた。父が飲み始めると、まず兄を避難させた。跡取り息子に何かあってはいけないと思ったんだろう。
私が7歳の時。あの夜のことだけはよく覚えている。
例によって酒を飲んでいた父は母の髪をつかんで暴れていた。もちろん、使用人が止められることではない。
たまたま起き出した私が、びっくりして止めに入った。
「お父様!やめてください!」
そう私に言われたことが、よほど頭に来たのだろう。何度も蹴とばされ、酒のグラスの乗ったローテーブルに突き飛ばされた。ガラスの割れる音。角で切れたのか、額から血が流れ、右目が開けていられないほどになった。
私が…忘れられないのは、このケガではない。酒を飲んで暴れる父の恐ろしさでもない。
いまだに額に残った傷を見るたびに絶望に突き落とされるのは…母が…私を蹴り上げる父を止めようともしなかったことと、血を流して泣き叫ぶ私を振り返りもしなかったこと。
薄れていく意識の最後に私の左目に映ったのは、私に背を向けた母の後姿だった。
このことをジョセに告白した。
10年来、誰にも言ったことはなかった。兄にでさえ。
静かに話を聞いていたジョゼは、いつものように、やはり、肯定も否定もしなかった。私を抱き寄せて、私の右の眉の上に残る傷跡に、優しくキスをした。
「アイリーン…あなたが女性の地位向上を急いでいる理由が、ほんの少しわかったわ。」
ジョゼフィンの胸に抱かれながら、生まれ変わったらこの人の子供に生まれてきたい。そう思った。
ジョセの描いた風景画から目を離して、ローランドを見る。
「…だからね、私には結婚に対して憧れなどはないの。ジョセに求めてしまっていたのは、絶対的な母親としての愛、よ。」
「……」
私が話し終わると、ローランドは黙ってワインのボトルを差し出した。
グラスを出すと、なみなみに注いでくれた。
言葉を選んでいるのか、何か言いたそうだが、何も言わなかった。
「あなたはどうするの?ローランド。アルフレットに告白でもする?」
「な…」
「あら。驚いた顔もするのね。初めて見た気がするわ。あんたっていつも何もかも知った気になって上から目線だったものね。ふふっ。」
驚いた顔のローランドを眺めながら、グラスを傾ける。
ソファーで寝ているアルフレットは起きそうにもない。静かな…長い夜になりそうだ。