第10話 夫の恋人。
「奥様。」
「なあに?リシュ?」
私のご主人の奥方様であるアイリーン様は、領事館でローランド様付きの教育制度改革部の部長になられた。シヴァにいらしてから、もう10年がたった。
何時ものように前髪を下ろして髪を結い上げて、シヴァの女性の着るサリーをお召になっている。当初はその装束から、まるでユーラシアンのようだと陰口を叩かれていたが、本国の女王陛下の推薦もあり、なにより彼女の仕事の的確さで、周りの人たちも時間とともに彼女の実力を認めるしかなかった。
「旦那様がお呼びです。」
「…ああ。わかったわ。」
めんどくさそうに返事をした奥様は、執務机の書類から目を離すと、眼鏡をはずして伸びをした。
「子供に教育の機会を」
と、大々的に打ち上げて、すべての子供たちに…低い身分制度の子供まで教育の機会を与えようとした。まあ…身分格差の激しいこの国では、底辺の身分の者に教育が必要だと理解させるのは大変な困難だったが。
彼女は各地に学校を作り、どうしても昼間は働いていて学べない子供のために、夜間も解放し、簡単な食事も提供した。そう…食糧難の続く国内では、そのたった一食の粗末な食事のためだけに学校に通う子供が大半だった。
食糧難…そう、シヴァに大陸横断鉄道ができてからというもの、内乱は劇的に減ったが、それは軍の移動が速くなったから。同時に、各地への税の徴収も厳しくなり地方は何度か飢餓状態にまで陥った。
その度に旦那様が税制の見直しを働きかけ、支援物資を送り、並行して、イング国への輸出用の特産物を作ることを強いられていた農地を、少しづつだが住民が食べるものを作れるように働きかけた。この広い大陸中…繰り返し繰り返し…気が遠くなるような仕事だった。
奥様の後を半歩ほど下がって付いて行く。
新設された学校の食事欲しさに勉強していた子供たちは、公用語としてイング語を学び、読み書き計算、ができるようになった。今はこのシヴァの経済を支えている。
あの頃は…私はまだ事情が呑み込めずに戸惑っていたが…お二人の会話はいつも本当に私には恐ろしいものだった。
「お前、当初の教育予算から随分とオーバーしてるぞ。」
「ええ。あなたの地方への食糧援助が不十分なので、おかげさまで就学率がいいわ。」
「は!…食い物で釣る?ゲスな考えだな?」
「そうかしら?食べるものがない子供が、空腹でも勉強したいなどという意欲を持つこと自体、あなたの妄想よ。いい?食べるものがあるけど食欲がない、わけじゃないのよ?食べたいけど、食べるものがないのよ。そんな子供が机になんか向かえるもんですか!!悔しかったら、早いところ手を打ちなさい!遅いのよ!」
私は旦那様が地方の飢餓に早急に対処しようと心掛けていることも知っていた。地方の情報はなかなか入ってこない。重大な事態になって、ようやく領事館に持ち込まれる。
ドアの前に立ってお二人の話を聞き、私は…何も知らないくせに…。そう思った。
「ローランド、死んでしまってから食糧援助なんかしても遅いのよ?」
「…ああ。」
「じゃあ、どうするべき?地方にも役人は派遣してあるにもかかわらず、報告が遅かったら?その役人はたらふく食べて、お金までもらっているわよね。領民が飢えで死んでいってるというのに。」
「ああ。」
「そうよ、わかっているんでしょう?首にしなさい。あんたの子飼いの若い子を出しなさいよ。迷っている場合じゃないわ。バカなの?」
「は?…バカは余計だ。」
「うちのコネクションを使いなさい。あの人たち、うちは勉強させるだけの組織だと思ってるから、なんの警戒もしてないわ。」
「そうだな。お前の抱えている子の中でも何人か出せるか?」
「そうね…」
……
旧勢力から引き継いだ役人は、地方の豪族と完全に癒着していた。そこにメスを入れるのは、なかなかに大変なことのように思えた。が、結果、農民がその口に入るものを作らせずに輸出できるものに作物を切り替え、規定以上の重税をかけた挙句に餓死者を出した。
それにしても…うちの旦那様に正面切って意見する人は多分シヴァの中には誰もいない。奥様以外。
もちろん地方の豪族が愚痴をこぼしたり、嫌味を言ったりはするが…。
おろおろしていた私に、二人は口をそろえて面白そうに言った。
「大丈夫だよ、リシュ。喧嘩じゃないんだ。」
…ふふっ。私はずいぶん昔のことを思い出して、少し笑ってしまった。
「あら?そう言えばリシュはアジットの大学に通っていたわよね?今日はお休み?」
旦那様の執務棟に向かう回廊の途中で、奥様に話しかけられる。
「ええ。もう卒論だけなので。時間は結構自由になりましたので。」
「あら、そう。もう3年もたったのね。それで、どうすることにしたの?本国の大学の修士課程に進むんでしょ?ローランドもお勧めしてたし。私も…これからあなたがローランドを支えていく上で、本国をよく見聞きしておくことは大事だと思うわよ。」
「…ありがとうございます。」
「それにね…外からこの国を見てみるのも大事よ。イング国ではちょっと前は肌の色が違うと嫌がられていたけど、シヴァの人間の頭の良さには一目置くようになってきたからね。リシュなら大丈夫!」
そう言って、奥様がからからと笑う。
「それにね、あなたが留守だからって、ローランドに近寄ってくる男の子は私が追い払ってあげるから。安心していってきなさい。ね?」
…この人は…。この人の口にすることは、始めから終わりまで本心だということを、私はこの10年で確信した。
最初はもちろん、疑ってかかった。
旦那様との仲をヒステリックに攻め立てられるとか?なんなら殺されたって不思議じゃない。私はユーラシアンだし。本国の貴族にとっては虫けら以下だろう。ここシヴァの中でも、イング人とシヴァ人の混血児は腫れものを触るような扱いだ。イング人でもなく、シヴァ人にもなれない。
どこの世に、自分の夫の情夫を実の子供のようにかわいがる妻がいる?
しかも、プライベートには一切口を挟まない。疑うだろう?だって、じゃあ、旦那様と奥様が仲が悪いか、といえば、決してそんなこともない。強いて言えば…親友?同胞?兄妹?
そして…決して…お互いの寝室に入ることはしない。
…おかしな夫婦だ。
「奥様をお連れいたしました」
旦那様の執務室のドアをノックして、ドアを開ける。
人払いをしたようで、事務官もいない。
「なあに、ローランド?私も忙しいんだけど?」
「…相変わらずだな、おまえ。まあ座れ。」
渋々奥様がソファーに座る。
私はお茶をお二人に出す。ハリカに貰ったハルワも添えた。
「ねえ、リシュ、時間があったらアニルの勉強を見てくれる?あの子ったらまた家庭教師を辞めさせてしまったのよ。」
「はい。奥様。」
旦那様に目配せされて、退室する。
お二人にはお子様が二人いらっしゃる。今年7歳になるアニル様と4歳のサーナ様。
私はアニル様がいらっしゃるであろう、彼の勉強部屋に向かって歩き出した。




