5.逃げる花嫁
走りながら砂にまみれ、白かった服は砂色にすっかり染まっていた。
師が言ったより一日早くイサは新しい邑に到着し、そこで青い首飾りと交換に食料と幾ばくかの備品を手に入れた。
長居する気はなかった。もう、行き先は決まっている。
遥か西に目をやれば、子供の頃には微かにしか見えなかった大地の境が、はっきりと見えた。
まずは、あそこを目指すのだ。近づくにつれ、朝方になると空に光が充ち始めるのと殆ど同時に、「果て」も光を放っている事に気がつく様になった。
――あそこには、きっと誰も知らない真実がある。
気持ちは早ったが、今度は慎重にクゥルウが疲れない様に行程を進めた。
衣類は荒野での夜には寒すぎる整えだったが、クゥルウの暖かく柔らかい翼に抱かれて眠れば、寒くはなかった。
時折、自分が犯した不義理と、捨ててしまった幸福な日々を思って目頭が熱くなることもあったが、イサはもう決して泣くまいと心に決めていた。
空を見上げる時には、勿論憧れの大地をうち眺め――
(それは、子供の頃の記憶より心なしか角度が違って見えた)
――疲れて地面に目をやるときには、新しい薬草や食べる物を探して、心を前向きに保つ様にした。
最後に邑を出てもう何日経ったか数えるのをやめてしまった頃、イサは第一の目的の地を発見した。 殆ど壊れていない高い建築物の影が見える。
見たこともないような大きな街だった。クゥルウの歩みを早め、イサはその街へ入って行った。
と、いきなり建物の影から男が数人飛び出してきた。
中の一人がこちらに手を向け、何かを発射したかと思うと、出し抜けにクゥルウの脚ががくん、とつんのめった。
イサは弾みで鞍の上から放り出され、背中から固い地面に叩きつけられた。
声も出せないで見上げると、男達が恐る恐ると言った体で近づいてくる姿が見えた。
「おい、乗っていたのは、こりゃ女の子だぞ」
イサは意識を失った。
気がつくと建物の中だった。
白い天井が見える。体は柔らかい寝台の上だった。
「ここは……」
体を起こそうとすると、ぎくり、と痛んだ。相当強く打ちつけたらしい。
唇を噛みしめて周囲に視線を走らせると、すぐ側に窓があった。
驚いたことに、それは透明な、割れていない硝子だった。
窓の外に視線を向けて、我が目を疑った。
それは、他の邑の様に瓦礫ばかりではない、手入れされた遺跡の中だった。
「目が覚めたか」
不意に後ろから声が掛かった。
振り返ると、クゥルウを撃った男が立っていた。
身構えるイサを笑いながら手で制して、男は言った。
「悪かったな。此の辺りは野盗が多いんだ。見慣れない妙な生き物に乗ってるんで、新手の奴かと思って、つい撃っちまった。あんたはちょっと違う様だな」
「クゥルウは……クゥルウは何処? 死んでたら、只じゃおかない」
「あのでかい鳥なら大丈夫だよ。麻酔で暫くおねんねしてただけだ」あごをしゃくって窓の外を指す。「そんなにピリピリしなくても、すぐに会わせてやるよ」
イサは肩の力を抜いた。
「ここは……ヤーヴの街? 世界の「果て」にあるという」
「果て? ああ、余所ではそう言う呼び方をするらしいな。だが、ここは世界の果て何かじゃない。ただ、大陸の端っこなだけさ」
「大陸? 端っこ?」
イサがいぶかしんで眉をしかめると、男はまた笑った。
「急に言っても判りゃしないよな。何にせよ、悪いことをした。腹が減ってるだろう、スープか何か、持ってくるよ」
男が背を向けようとするのを見て、イサは慌てて言葉を継いだ。
「ねぇ、もしここがヤーヴの街なら、ラルダと言う人を知らない? 7年位前に此処を出た男の人。歳は、あなたより少し上位の」
「ラルダ?」
男が、驚いたように振り返った。
「知ってるも何も、それは俺の兄貴だ」
砂煙と屑折れた瓦礫の連なりの中に、まだ原型を留める遺跡が5割かた残っている不思議な街。
それが、彼女の師がかつて捨てて旅に出た故郷だった。
師の弟と言う男に案内されたのは、蔦が絡まって鬱蒼とした外観ではあるものの、そんな中で一番状態の良い建築物の中だった。
そこには、堆く積まれた書物と複雑な機材に埋もれるようにして、白い髭を蓄えた老人が居た。
「親父だ」
少しも似ていない弟とは違い、ラルダの父だということは、面差しですぐにそれと知れた。
随分と歳を取って気難しい感じはしたが、良く似ていた。
「ラルダの弟子だそうだ」
老人は射すくめる様な眼差しでこちらを見た。
「ふん。奴め、野垂れ死にせんと、生きておったか」
「そんな。親子なんでしょう? 生きていたと聞いて、嬉しくはないの?」
「儂の言う事をきかんと、世界を見極めるとか馬鹿げた事を口走って出奔した奴の事など、儂は知らん」
「師は……出てきた街のことも、残してきた家族のことも、悪くは言いませんでした」
「ふん」
老人はぷい、とそっぽを向くと、すたすたと書物の壁の向こうへ姿を消してしまった。
「悪いな。あの通りの頑固爺だ。だが、兄貴はあの親父が嫌になって出ていったんじゃ無いんだぜ。本当に、あの上の世界へ行くんだと言って旅に出たんだ。で、兄貴はあそこへ行けたのか? あの鳥は、あそこに居たのか?」
期待に満ちたきらきら光る黒い目がイサを見下ろしていた。
こういう目は、確かにラルダ師に似ている。
「ううん……行けなかったわ。でも、居場所を見つけたの。旅の途中で脚を痛めて先へは行けなくなったけれど、小さな邑で結婚して。奥さんは死んでしまったけど、薬師として、邑で無くてはならない人になっていたわ」
「そうか。そういう人生も、ありかも知れないな」
ロルダと言う名の師の弟は、遠い目をして空を見上げた。
ヤーヴの街は、イサ達が「果て」と呼んでいた大地の切れ目に面して広がっていた。
昔からここに住んでいた者が殆どだったが、イサと同じように「果て」を目指してやってきた者や、その子孫も少なからず居た。
冒険心に富んだ者、夢見がちな者の比率は、それ故、他所より高いと言えた。
ラルダの父は、そんな街で私設の学院、と言うよりは好奇心旺盛な者達のたまり場を開いていた。イサは、学院に住み込んでいるうちに、薬師の講師の役を買って出ることになった。
学院の貯蔵庫には、腹痛の薬や傷薬等の一般的な薬草を始め、イサでさえ知らないような珍しい薬物が保存されていたが、イサはまず街の周辺の植層を調べてみることにした。
何処とも同じ様な痩せた土地ではあるが、街の中にはしっかりと手入れされた畑があった。
管理する人物の性格が窺い知れる様な、きっちりと区分けされた畑だった。
そこには、生でも口に出来る青菜が数種と、不揃いではあるものの麦の穂が実っている。街の外は、すぐに荒野だったので、あまり役に立ちそうな植物は見あたらなかった。
こんな土地で、どうやって学院はあれだけの薬物を収集したのか、イサには不思議だった。 仕方なく、街の中で生えている植物を物色している内に、イサは麦畑の中であるものを発見した。その一角は育ちが悪く、変色した穂がひょろひょろと生えていたが、その中に数本、褐色の塊を付けている物がある。
(麦角だわ)
イサは思わず手を伸ばした。
これは、強烈な沈痛作用を持っている。止血にも使える。多用しては危険だが、滅多に手に入らない掘り出し物だった。
急いで、でも慎重に収集袋にその塊を詰め込んでいると、向こうからロルダがやって来た。 「よう、精が出るな。もうこの街には慣れたか?」
「ええ……でも、此処へ来る前より、判らない事が増えたわ」
「ほう。例えば何だ?」
「そうね。一番不思議なのは、あれ」
イサはくるりと振り向いて、街の西側を指さした。
「ここの人はあれを渡れない河、と呼んでいるけど、一体、あれは何なの? あれが、私がずっと探していた果ての正体なの?」