4.薬師の弟子
覚えることは山程あった。
今まで見過ごしてきた植物それぞれに、特徴がある。
動物の皮にも脂肪にも、角にも、様々な色の鉱物でさえ、全ての物が秘密を内包していた。
イサは熱心な生徒だった。
ラルダの指示通り、細々とした雑用や、採集にも余念が無かった。
初めは邑人達も、変人薬師が何処の馬の骨とも解らぬ子供を拾って連れ歩いているのを見て眉をひそめていたが、かいがいしく病人の手当をする少女の姿を見るにつけ、少しずつ受け入れるようになった。
邑で一番信頼されている占い師の老婆が、彼女の来訪を瑞兆と占ったことも、その手助けとなった様だ。
流石に巨大な鳥の存在には驚愕の目が向けられたが、それも害の無い生き物で、邑人3人掛かりの力仕事もこなせるとみて取ると、恐がりながらも次第に重宝がる様にもなった。
小さな集落とは言え、この邑はイサがいた所よりも幾分生活が楽に見えた。
中央に貴重な水が湧き出す泉があり、それに寄り添って取り囲むように家が立ち並んでいた。
老いも若きも皆何かの仕事を得、働いていた。それは、平和な邑だった。
※
3年の歳月があっと言う間に過ぎ、細いばかりだった体にも少女らしい丸みがついてきた頃、イサに縁談が持ち上がった。
相手は邑の有力者の長男で、かねてからイサを見初めていたのだという。
これを受け入れれば、一生この邑での安穏とした生活が約束されていた。
ただ、イサはこの青年が好きでも嫌いでもなかった。
というより、どんな青年なのか良く知りもしなかった。
「どうするんだ?」
邑に程近いサンザ草の群生地で、切り傷に利く薄茶色の葉を採集していると、頭の上から師の声が降ってきた。
「いつまでもじらしていては、先方にも悪いだろうに」
このむさ苦しいやもめ男は、男女の機微には至って疎く、さも困惑した風で髭をしごきながら、愛弟子を見下ろしていた。
「ラルダ師は、どう思う?」
「どうって、そりゃ悪い話じゃないが、要はイサの心の問題だろう。それぐらいは、自分で答えを出せ」
イサは薬草を摘む手を止めて、暫くじっと地面を見ていたが、やがておもむろに口を開いた。 「わたし……この邑が好き。ここの人たちはわたしを受け入れてくれたもの。一生ここで暮らせたら、幸せだろうと思う。だけど……時々、本当にここでこうしていることが一番良いのかどうか、解らなくなることがあるの。
居場所って、一体なんなのかしら。幸せって、どういうもの?」
「随分、哲学的なことを考えているんだな。ま、若い証拠だ、大いに悩め。答えは自分自身でしか見つけることは出来ないだろうが、俺としてはそうだな、意見だけさせて貰おう。居場所ってのはな、自分を必要としてくれる人間のいる所だ。幸せってのは、自分のやりたいことの先に見えてくるもんさ」
「わたしにも、見えるかしら」
「そうさな……自分で見えない時には占い師に見て貰うって方法もあるわな。どうだ、ばば様にでも見て貰うか?」
ばば様と言うのは、イサがここへ辿り着いた時に瑞兆と占った、邑で最も年老いた占い師だった。
歳を経るごとにその占いの冴えは磨かれてゆくばかりだと言う。
現に、今ではこの邑の影の実力者とでも言うべき存在だった。邑人達は、恋の悩み等他愛の無いものから、重大な決め事まで、このばば様にお伺いを立てることが多かった。
師に促されて、イサが占いばば様の小屋に赴くと、老女は待っていた、と告げた。
おまえさんが来ることは判っていたんだよ、さあお掛け。
イサは、暫く迷った末、未来を見て欲しいと頼んだ。どうすべきか、では無く将来自分がどうなっているかを漠然と知りたいと思った。
老婆は薄くなった眉をぴくりと上げ、皺が寄って斑の浮いた骨ばった手で朴占をしゃらしゃらと何度か繰り返し、やがてぽつりと言った。
「あんたはまた、ここを出ていく事になるよ。子供の頃からの夢を一生忘れられないのさ。何時の未来にも、おまえさんが旅をしている姿が見える」
イサは血の気が引くような気がした。期待していたのは、そんな事ではない。
平凡な、安穏とした生活だけを熱望していた訳では無いが、それはあんまりだ。
自分には、何時までも居場所が無いということなのか。何時までも、自分は逃げ続けなければならないというのか。
親もなく、厄介者扱いされながら震えて眠った子供の頃の記憶が脳裏をよぎった。決心して、逃げ出したあの夜の光景も。
唇を噛みしめ、爪が食い込むほど拳を握りしめて、イサは老婆に向きなおった。自分でも驚くほどの反発心が沸き起こっていた。
「そんな事は無いわ。わたしは、あの人と結婚して、子供を産み育てていくんだから。
――此処で!」
青年の父は最初、余所者の娘と言う事でこの婚儀を渋っていた様だが、母親の方は大満足な様子だった。
イサは評判の働き者の上、何と言っても薬師の技を持っている。
手先の器用な者は多いが、根気と記憶力と才能を要するこの技を身につけている者は殆どいない。
それを嫁に貰うことは、一家に安泰をもたらす事だと信じて疑わなかった。
青年の名はムルトと言った。
割合整った男らしい顔立ちをしており、均整の取れた長身と、さばさばした性格も相まって、イサは知らぬが邑の娘には密かに人気があったらしい。
嫁取りの話はイサが承諾する前にあっと言う間に邑中に広まり、多くの娘が涙を呑んだ。中には、わざわざイサに嫌味を言いに来る娘もあった。
慌ただしく婚儀の用意が整えられ、明日は晴れて花嫁になろうという日の夕暮れ。
イサは禊ぎを済ませ、神聖な泉の祠に一人居た。
きちんと織られた白い花嫁衣装に、新郎の家族から送られた青い陶器の飾り玉で造られた首飾りが良く映える。
泉に映った自分の晴れやかな姿を見て、彼女は微笑んだ。
「これで良いのよ。イサ、あなたは此処で幸せになるの」
水に映った少女の影は、ゆらゆらと揺れて、その頬に浮かんだ涙を見えなくさせていた。
空から光の帯がゆっくりと姿を消し、夜がやってきた。
花嫁はここで一人、最後の夜を過ごす習わしになっていた。
普通、花嫁となる娘はここで喜びと期待と、娘時代との決別の感慨に耽って涙するという。イサは暗闇の中、時折ぽつん、と膝に落ちる自分の暖かい涙を感じて、この涙はその内のどれだろうかと考えていた。
やがて空に再び光の帯が現れ、朝がやってきた。
イサは祠を出て空を仰いだ。
――天空には豊穣の大地。
胸が締め付けられる様な想いと共に、思いもかけない言葉が口をついて出た。
「わたしは、あそこへ行く!」
言ってから呆然となって我が身を見下ろした。
纏っているのは花嫁衣装。
次の瞬間、彼女は走っていた。邑外れの、薬師の岩屋へ。
入り口付近に、3年前より更に大きくなった巨鳥が草をついばんでいた。聞き慣れた足音に、長い首をひょいと上げて、こちらを向く。
「クゥルウ、行こう!」
巨鳥の傍には、新居へ持っていく最後の荷が小さくまとめて置いてあった。
手早くそれを鞍に結びつけると、イサはひらりとその上に跨った。クゥルウの脚で駆ければ、どんな騎獣も追っては来れない。
もとより、水の無い荒野になど、誰も追ってはこないだろうが。
少しだけ躊躇って師の住居を振り返ると、そこには腕組みをした師の姿があった。
「行くのか」
「御免なさい、わたし……」
「西へ行くのなら、過たず真っ直ぐ行け。クゥルウの脚なら、寄り道せねば10日ばかりの所に小さな邑がある。それから、さらにずっと行けば、俺の生まれた所がある。「果て」の畔の邑だ。昔、教えたことがあったな」
「果ての畔……」
「さあ、ぐずぐずするな。花婿の家族が血相変えて飛んで来るぞ。さ、これも持って行け」食料の入った袋を投げて寄こす。
「こうなる事は、判っていたぞ。お前のその目は、昔の俺と同じだ。自分で納得できる答えを見つけろ」
「ああ、ラルダ師……御恩は忘れません。――ムルトに、御免なさいと伝えて――」
ぴし、と師が手にした鞭が巨鳥の尻に当てられた。
クゥルウは仰天して、駆け出した。もう、誰にも止められはしなかった。