2.はじめての友達
そして、10日余り。
ぴくり、と何かが動いたような気がして、イサは身を起こした。
卵の表面に、小さなヒビが入っている。イサは慌てて一枚しかない毛布をひっつかむと、それをくるみ込んで外に走り出した。
孵ってしまっては、邑には置いてはおけない。
走って走って、放牧地を抜け、邑人の滅多に来ない外れまで来た。
此処には時々イサが逃げ込む小さな瓦礫の隠れ家があった。
毛布を広げてみると、ヒビ割れは一層大きくなっており、隙間からは――小さな嘴が覗いていた。指で周りの殻を少しはがしてやると、黒い濡れた物がうごめいた。
小1時間程掛けて、黒い塊はもぞもぞと動きまわり、ようやく殻が完全に割れて出てきたのは、不格好な鳥の雛だった。
それは心許なげに首をもたげ、そしてつぶらな瞳がイサを捕らえた。
それは、決定的な瞬間だった。
この時、彼はイサを母親と認め、イサは彼を初めての友と認めたのだった。
ネルの飼料を与えてみると、クゥルウは驚くほど良く食べた。
そればかりか、人間の食べられない繊維質の雑草も、地虫も、昆虫も、時にはネズミの様な小動物まで、何でも嬉しそうについばんだ。
そんな選り好みをしない食生活のせいか、1年経った頃には、クゥルウは笑ってしまう程大きく成長してしまった。
2本の力強い脚で地面を蹴り、飛べない短い羽をはばたかせる。
丈は既にネルの雄の成獣より頭2つ分も高く、もしかしたら、イサが乗っても大丈夫かもしれなかった。
黒っぽかった羽毛は抜け落ちてつややかな焦げ茶色と白に変わり、つぶらな瞳はより一層ぱっちりと丸くなった。
変わらないのは、イサを見てその鈎爪型の嘴から漏れる、クウ、ルウルゥル、と言う甘えた鳴き声だけだった。
始めの内はイサの後を懸命に付いてまわっても、簡単な檻に入れてしまえば寂しそうに鳴くだけだったものが、易々と檻を破って、いつの間にか放牧ネルに交じって得意そうにこちらを盗み見ている姿を見るに至って、イサはクゥルウの躾に本腰を入れることにした。
まず、イサが片足でタン、と地面を踏んだら、ぱっと身を臥せること。
パン、パン、と2度手を叩いたら、一目散に走り去る事。
指笛を鳴らせば、全速力でイサの元へ馳せ参じること。
そんなこんなで、1年。
イサにとっては今までで一番楽しい日々が過ぎて行った。そしてイサの12の誕生日、クゥルウは邑人に見つかった。
「ネルよりは力が有るから、運搬にも仕えるし、もう少し大きくなったら大人でも乗せて走れるように成るわ!」
イサがどんなに懇願しても、今度ばかりは族長の表情は険しかった。
「まったく、恐ろしい子だね。1年もの間、あんな大きな生き物を隠していたなんて。ご覧、さぞかし大食らいだろうに、この娘は大事なネルの餌をこいつに横流ししていたんだよ」
邑人が遠巻きにしてひそひそと囁き交わす。
親のいない可哀想な子だ、と思っていたら、とんだ喰わせ者だ。餌泥棒。見ろ、あの旨そうな鳥、きっと独り占めして食う気だったんだぜ。
違う、と叫んでも、誰も耳を貸さなかった。そう、いつもそうだった。
今年は、昨年より一層酷い不作に見舞われ、人々は深刻に飢えていた。
ギラギラとこちらを見る邑人の目には、ただ飢えがあった。
どんなにイサがこの愛嬌のある鳥の有用性について説いて見せても、彼らの目には、ただ食料としかクゥルウは映っていないのだった。
泣いて、叫んで、声がかれてしまった頃、族長がぽつりと言った。
今夜、あの鳥をどうするか皆で話し合って決める、と。
寝床でもあるネル小屋に軟禁されながら、名ばかりの話し合いに向かう邑人達の声が扉越しに聞こえた。
どう料理しようか、と口々に交わすそのはしゃいだ声で、イサの心は決まった。
殺されるとしても、それは明日だ。ならば、逃げるのは今夜しかない。
ようやく皆が寝静まった頃、イサは小屋を抜け出して、共同の厨房に潜り込み、干し肉を一つかみと、ムナ酒を一瓶、干からびたパン3つを大急ぎで袋に詰めた。
さらに物色して、大瓶に入ったクタの実を見つけた。丸くて硬い実の中に、濃厚な滋養をため込んだ非常食。味はくどくて不味いが、これからの旅には一番の助けになると思われた。イサは黙々とその大瓶の3分の1を袋の中にあけた。
族長の居住区の裏に、クゥルウは繋がれていた。
太い縄が、嘴と首と、両の脚に巻き付いている。
やはり、見張りがいた。2人。交代で番をしている様だった。
タン、と一つ足を鳴らすと、大きな鳥は丸い目を更に見開いて、ぱっと地に臥せた。
「おい、どうしたんだ?」
見張りの一人が、覗き込む。
充分近づいたところを見計らってパンパン、と手を打つ。
クゥルウは、ぎゃ、とくぐもった声で一つ鳴いて――突然暴れ出した。
脚の綱の一本が切れ、振り回した首が命中して、見張りの男が一人吹っ飛んだ。
何事か、と向き直ったもう一人の男を後ろから突き飛ばして、イサは鳥の元へ走り寄りながら、指笛を吹いた。
クゥ、と嬉しげに鳴いて、クゥルウは駆け寄ろうとする。
もう一方の脚の綱がはじけ飛んだ。
駆け寄りざま、イサは倒れた男の腰から短剣を抜き取ると、首に巻かれた綱を掻き切り、その背に飛び乗って、パンパン、ともう一度手を打ち鳴らした。
今まで何度も騎乗を試みたが、数百メートル以上成功したことは無かった。
だが、今回は失敗するわけにはいかない。
最後の戒めを説かれたクゥルウは、クワォ、と一声奇声を上げると、猛然と駆け出した。
何事かと飛び出してくる邑人を尻目に、怪鳥と少女は人々の視界からあっと言う間に消え去った。