1.見捨てられた大地にて
イサがそこへ行くのだ、と心に決めたのは12才に成ったある日のことだった。
初めは、憧れだけだった。
この地に住まう者ならば、誰もが物心付いたときから胸に抱く憧れ。
ただ、彼の地へ行ってみたいと言う、純粋な憧れ、それだけだったのだ。
首を巡らせると、晴れた日には頭上の遥か彼方、薄くたなびく霧の向こうに彼の地が見える。
濃い緑の鬱蒼とした森林地帯。
なだらかに広がる丘陵。驚くほど広々とした平野。合間に煌めく水の色。
秋には平地の所々に金色の輝きが広がり、春には花と思しき白い影が一面に散りばめられる。
天空に浮かぶ逆さまの大地。
神の住まうであろう豊穣の地。
人は、我身の足許に横たわる脆弱な地を見降ろして溜息を付き、そして狂おしいまでに彼の地に憧れる。
彼女らの住むこの大地には、瓦礫と砂漠と、僅かばかりの草地が広がるばかり。
小さな集落に身を寄せ会う人々は、つましい食物と貴重な水を必死で抱え込むようにして暮らしていた。
幼い頃から、イサはよく放牧中のネル羊の見張り仕事の合間に、痩せた大地に身を横たえ、時間を忘れるほど天に見入っては、様々な心躍る空想にふけったものだった。
どうにかして、あそこへ行ってみたい。
日毎思いは募るばかり。
もっと良く見ようと目を凝らしているうちに、イサはいつのまにか邑で一番の視力を誇るようになっていた。10歳に成る頃には、空気の澄んだ日は、彼方に「地の果て」さえ見いだすことが出来る程になっていた。
そして。それが見える方向の限られていることに疑問を抱いたのは――
あれはいつのことだったろうか。
優れた視力の持ち主のみが遥かに目を凝らして垣間見る事の出来る「果て」。
それは遠くへ行く程、なだらかに沿り上がっているこの大地が、すっぱりと鋭利な刃物で切り取られたかのように姿を消す境界線だ。
だが幾度見渡しても、それが見えるのは東と西、と呼ばれる方向に限られているのは何故なのか。南北方向には、幾度目を凝らしても、「果て」が見えたことはなかった。「果て」が東西にしか存在しないとして、では南と北には、何が有るというのだろうか?
※
それは、1年前のクゥルウとの出会いに遡る。
いつものように放牧ネル羊の番をしていたイサは、空腹の余り身を起こした。
例によって寝転がって空を見上げていたのだが、どうにも無視できない胃袋の訴えが、彼女を心地よい夢想から現実へと引き戻したのだった。
腹を押さえながら、家畜達の姿をぼんやりと見渡す。
ネル達が逃げる心配はなさそうだった。大人しいこの四つ足の草食獣は、いつも身の回りの世話を誰よりもかいがいしく焼いてくれるイサに、全幅の信頼を寄せている。他の牧童ならいざ知らず、イサが番をしている時には滅多な事で、はぐれネルが出るものではなかった。
イサはぴしりと一つ、平手で地面を打って決意した。
「いいこと、あんた達。あたしはちょっと口に入りそうな物を探しに行くけど、ここで良いい子にしているのよ」
ウミィイ、と啼く横長の優しげな瞳を覗き込んでそう言い含めると、彼女はくるりと背を向けて、近くの崖の方へと足を向けた。
もとよりそんなに遠くへ行く気は無かったが、あの崖の上の小さな窪みには、確かリッカの幼木があった筈だ。まだ今年実を付けたばかりだが、先日見たあの青い実は、もう口に酸くはないかもしれない。
危なげのない軽やかな足どりで、少年のように崖を掛け登ったイサは、だがそこに思いがけない物を見た。
「崖……崩れ?」
記憶にある反対側のこの斜面には、硬いごつごつした岩盤が覆い被さっていた筈だ。なのに、今そこにはそれがない。代わりに、つるつるした別の岩盤が、顔を覗かせている。下には、崩れ落ちた岩の残骸が小さく山を作っていた。
そして、つるつるした岩盤の丁度中央には、大人が楽に潜り込めそうな穴が開いている。
「……あれ、何かしら?」
イサはその奥に、キラリと光る何かを見たような気がした。
片手でもぎ取ったリッカの青い実を一口齧る。
「うへ、やっぱりまだ酸っぱい」
沸き上がる唾液と一緒に残りを一気に飲み込んだ後、イサはもう一度その妙な穴を覗き込んだ。
つるつるしてはいても、足がかりは幾つかあり、身軽なイサならそこまでたどり着けそうだったので、彼女は行ってみることにした。
余りにも不自然に丸い穴だった。
まるで何者かが岩盤をくるりと切り取ったように。そして、驚くことに内部は階段になっていた。
外の岩盤と同じ質感の階段を降りた先には、部屋があった。
鈍く光る金属で出来た穴の開いた箱が幾つも壁際に並んでいる所を見ると、どうやら遺跡らしい。
イサ達の住む瓦礫の中の洞窟にも、似たような箱は幾つかあった。
どれも、何に使う物かはさっぱり不明だったけれども。
だが、いずれも同じ無味乾燥な物体の中にただ一つだけ、イサの気を引くものがあった。数本の透明な筒の中に浮かぶ卵。いや、丸い表面に一本紐のようにくっついた管があるから、もしかしたら果物の一種かもしれない。
「何かしら、これ」
近寄って覗き込むと、それは薄い褐色の液体の中で、ゆぅらりと揺れていた。
恐らく、これは卵だろう。――途方もなく大きなものではあるが。
イサがもっと良く覗き込もうと筒に手を触れた途端、背後で甲高い声があがった。
「見つけたわよ、イサ! やっぱりこんな所でさぼっていたのね」
振り返ると、同い年の少女の姿があった。
そばかすのリタ。何かに付けてイサに食って掛かるこの少女が、イサは苦手だった。
「リタ? どうしてここへ」
「どうしたもこうしたも無いわよ。あんた、いっつもネルの番をいい加減にやってるじゃない。今度こそ言い逃れは出来ないわよ。大事なネルを放り出して、遺跡見物? 随分なご身分じゃないの。ネルは邑の財産なのよ、一匹でもいなくなったら、あんたには責任をとって貰うからね!」
つまりは、リタはイサの見張り番ということらしい。
「それに」と、リタは青い実を一つ突きだした。「実の生る木を見つけたら、すぐに邑に知らせるのが掟よ。隠してるなんて、何処まで根性の腐った娘なのかしら」
勝ち誇ったように彼女はそう言い放った。
いつもの事なので、イサは敢えて反論しない。
相手が言いたいだけ言って言葉がつきた頃に一言、御免なさい好きにして、と背を向ければ、それで済むことだった。
それで、今度も相手が喋り続ける間、ただ黙ってじっと見返していた。
「大体ねぇ、あんたのその態度が気に入らないのよ。何よ、その目は。言いたいことがあるならはっきり……何、それ」
リタの視線は、イサを通り越して後方に注がれていた。
「あきれた……卵じゃないの。あんた、まさかこれも独り占めする気でいたんじゃないでしょうね」
そばかすの少女は目を見開いて、そして細めた。
「そうそう好きにばっかりはさせないんだから」
足許に転がった岩盤のかけらをやにわに拾い上げると、つかつかと筒に近寄っていく。
「!」
止める間も有らばこそ、だった。
リタは渾身の力を込めて筒に石を投げつけた。
ぴしり、とヒビが走り、とろりとした液体と共に、巨大な卵が一つ、転がり出た。
「これ一つで3人は満腹になるわね」
少女は自分の頭より大きなそれを抱えあげると、背を向けて言った。
「証拠の品よ。族長に見せてやるんだから」
待って、と声が喉から出掛かったが、彼女は敢えてそれを飲み込んだ。
言っても聞く相手では無い。
いや、同じ年頃の子供はみんなイサの言うことに耳を貸したりはしなかった。だから、イサには友達などいない。
小さな溜息と同時に、割れた筒の方を見やった。そして残った筒に浮かぶ6個の卵。
もしこれが本当に卵だったら、もしかしたら。
イサは岩のかけらを手にとって、一番奥の筒に向かった。
リタはこっぴどい処分を、と声高に主張した様だったが、族長は予想外の食物の収穫に気を良くして、イサの処分は軽い謹慎で済むことになった。
今年は天候不順で穀物の収穫も少なく、ネルの乳の出も例年より悪かったので、このところ沈んでいた邑に、久しぶりに笑い声が響いていた。
6つの卵は邑人全員で分けると、ほんの一かけらしか当たらなかったが、まったりとした黄身の味が存外に美味であったらしく、誰もが満足の舌鼓を打った。
そんな浮かれたざわめきを、ネル小屋の隅の自分の寝床に潜り込んで耳にしながら、イサは有る物を大事に抱え込んでいた。