坂の上の寺院
「えぇ、ここ上るの……?」
明けて翌日。寺院のある山の中腹、そこに続く坂道の前に来たところで、上を見上げたアイシャがうんざりとした声を出す。目の前にあるのは比較的なだらかな坂が何十回も折り返す長い道と、まっすぐながらも急な角度の階段の二つだ。
「何かもう、この時点で行きたい気分が大分なくなってきたんだけど……」
「ハッハッハ、何を言うかアイシャよ。少し前までやっていた走り込みと大差ない道のりであろう?」
「いや、そうかも知れないけど、上ってるっていうのは何かこう、違うのよ!」
笑いながら言うスタンに、アイシャが抗議の声を上げる。実際なだらかな坂の方は距離こそあれど歩くならそう疲れるとは思えないし、階段の方はきつそうではあるものの三〇分くらいあれば登り切れるように見える。
だが、ここで問題なのは体力よりも精神力だ。身体的なきつさがそれほどでもなかったとしても、上り坂や急な階段というのは、ただそれだけで人のやる気を削るのである。
「では行かぬのか? 余は無理にとは言わぬが……」
「行くわよ、ここまで来たんだし。なら楽そうな坂の方で――」
「さて婆さん。今日もプッター様をお参りに行くかのぅ」
「そうじゃな爺さん。この階段を上れなくなったら年寄りの証じゃて」
「…………階段を上るわよ」
通りかかった老夫婦の会話に、アイシャの視線が坂から階段へと移る。
「いいのか? 別に急いでいるわけではないのだから、ゆっくり坂を上っても構わんが」
「いいのよ! ほら、さっさと行くわよスタン!」
「わかったわかった。では上るとするか」
急に張り切り始めたアイシャに続いて、スタンもまた階段を上っていく。そうして三〇分後……
「ぜはぁ……ぜはぁ……つ、ついた……」
「ふぅ、ふぅ……な、なかなかきつかったな……」
息を切らせつつもなんとか辿り着くと、そこには落ち着いた雰囲気の庭園が広がっていた。近くにあった簡素な休憩所のような場所に腰を下ろして一休みしてから、スタンは改めて近くにいた少年に声をかける。
「そこな少年よ! ちとよいか?」
「はい。何でしょうか?」
スタンの呼びかけに、庭で掃き掃除をしていた子供が答えてくれる。白い服に黒い前掛けをし、地肌が見えるほどに短く髪を刈り込んだ八、九歳くらいと思われる少年だ。
「余達はプッター教に興味があってな。ダイ・プッター殿の逸話やプッター教の教義、歴史などを知りたいのだが、何処かでそのようなものを調べたり、あるいは話を聞かせてもらったりはできぬだろうか? ああ、無論相応の謝礼……いや、喜捨はさせてもらうつもりだ」
「えっと、そうですね……資料などはありますけれど、流石に部外者の方にいきなりお見せしたりはできないと思います。ただお話でしたら、住職様のご都合があえば聞けるとは思いますよ。聞いてきましょうか?」
「おお、それはありがたい。是非頼む。これは――」
スタンが腰の鞄から謝礼の銅貨を取り出そうとすると、少年が手を前に突き出してそれを制する。
「おっと、謝礼はいただけません。僕は修行中の身ですから、この寺院にプッター教を学びに来た方からお金をもらったりしたら怒られちゃいます」
「はは、そうか。それは無粋なことをした。すまぬ」
「いえいえ。それじゃ、住職様に聞いてきますね」
謝罪の言葉を口にするスタンに、そう言ってぺこりと頭を下げた少年が寺院の方へと走っていく。そのまま一〇分ほど待つと、明るい表情を浮かべた少年が戻ってきた。
「お待たせしました。住職様がお話をしてくださるそうです。こちらへどうぞ」
「うむ。では行くかアイシャよ」
「ええ、行きましょ」
少年に案内されながら立派な寺院に入ると、入り口のところで靴を脱ぐように言われ、それに従う。その後は板張りの通路を歩いて進み、木と紙で出来た不思議な引き戸を開くと、その向こうにはかなりの広さの空間があり、そこには黒地に金の刺繍が施された立派な服を着た、六〇代くらいの男性の姿があった。
「住職様、お客様をお連れしました」
「ご苦労だったショーサン。もう下がっていいぞ」
「はい。では失礼します」
「ささ、お客人。こちらへどうぞ」
一礼して下がるショーサンを見送ると、住職と呼ばれた男性が笑顔でスタン達を招き入れる。それに応じて足を踏み入れると、ふかっとした奇妙な……だが心地よい感触がスタンの素足をくすぐった。
「これは……草を編んだ敷物、か? いい感触だな」
「ホントね。何かふかふかしてるし、板の床みたいに冷たくもない」
「これは絶つ編みと言う手法で草を編んで作った床でしてな。この上で瞑想……プッター教では座禅というのですが、それを行うと心にこびりついた邪念がこの絶つ編みに引っかかって抜け出し、純粋な魂となって悟りへと近づけると言われておるのです」
「ほう! つまりこの床全てが、プッター殿の伝える『悟り』へと近づく手段の一つとなっているわけか」
「ええ、そうです。日々これ修行というわけですな」
感心するスタンに、住職が穏やかな笑みを浮かべて答える。そんなスタンの隣ではアイシャが何度も足踏みをしてその感触を楽しんでいたのだが、ふと住職と視線が合うと顔を赤くして俯いてしまった。
「うぐっ!? ご、ごめんなさい。ちょっと気持ちよかったので、つい……」
「ははは、構いませぬとも。町の外から来た方には慣れぬかも知れませんが、そのままここに、楽な姿勢で座ってください。どうしても馴染めぬという場合は椅子もありますが……」
「いや、是非ともこの場の作法に従わせてもらおう。では遠慮なく」
「アタシも! よいしょっと」
どっかりと腰を下ろした住職に習い、スタン達も絶つ編みの床の上に腰を下ろす。アイシャは勿論、スタンもすっかり野営などに慣れているため、特に違和感などはない。
「では、まずは自己紹介をいたしましょう。私はこのチョイヤバダッタの寺院の住職をしております、ジーサンと申します。外の方であれば、聖光教の司祭に当たると言えばわかりやすいですかな?」
「えっと、要するにここを管理してる一番偉い人ってことですよね?」
「有り体に言ってしまえばそうですな」
アイシャのストレートな物言いに、ジーサンが苦笑して頷く。肩書きというのはその名も含めて重要なものなのだが、とはいえ自分の孫より若い娘の言動に目くじらを立てるほど、ジーサンは頭の固い人物ではなかった。
「丁寧な紹介、痛み入る。余はD級冒険者でサンプーン王国二八代ファラオ、イン・スタン・トゥ・ラーメン・サンプーンである」
「ちょっ、アンタはまた!? あ、アタシは普通のD級冒険者で、アイシャです。よろしくお願いしますジーサンさん」
「ああ、よろしく。しかしアイシャ殿はともかく、そちらの……」
「余のことなら、スタンで構わぬぞ」
「ではスタン殿。スタン殿のその、ファラオというのは……?」
その問いかけに、スタンは自分の身の上を説明する。それを聞き終えると、ジーサンは深く頷いて神妙な顔つきとなった。
「なるほど。スタン殿は、お若いのに随分と苦労しておられるようだ」
「余の話を信じるのか?」
「疑う理由がありませんからな。それに正しさとは、常にその人の中にしかありません。誰がどう否定しようと、自分の信じることこそがその人にとっての真実になる。それは他人の目を通して確認する事実よりも『悟り』に近いものであると、プッターは教えておりますので」
「ほほぅ。プッター教……ますます興味が出てきたな」
穏やかに告げるジーサンの言葉に、スタンは少しだけ前のめりにその仮面を突き出した。





