契約
青年は無事に原稿を提出した。
出版社を出た後、茜は「食事でもどうですか?」と彼を誘った。
断る理由は無い。
彼としても、お礼がしたいと考えていた。
だが二人の間には認識のズレがあった。
どちらも「奢る」予定であり、その金額は「一桁」違う。
青年は近場のカフェかファミレスにでも入るモノだと思っていた。だから目的地に到着した時、思わずポカンと口を開けてしまった。
とあるビルの46階。
地上200メートルの位置にあるレストラン。
夜の東京を一望できる窓際の席。
青年を連れ込むことに成功した茜は、満足そうな表情で言う。
「そういえば、まだお名前を伺っていませんでしたね」
「……平織、です」
「へしき? 珍しい苗字ですね。どういう字を書くのですか?」
二人は横並びの席に座っている。
茜はスマホを持ち、あえて肩を寄せて質問した。
「……えっと、ひらおりで変換してみてください」
「この字ですか?」
「……はい、そうです。それで、へしきと読みます」
平織はボソボソと息を吐くような声で言った。
その様子を見て茜は内心でくすくす笑う。
彼女の目には、彼が緊張している少年に見えていた。
(……店の雰囲気か、それとも異性に慣れていないのか)
茜の目的は、彼が「健康的で文化的な二十代の初心で可愛い子」なのか否か見極めることである。故に、彼女は笑顔の裏で面接官の如く思考を巡らせる。
一方、平織は泣きそうな気持ちだった。
こんな高そうな店は無理だと叫びたい。しかし彼女には恩がある。今さら断ることなんて、できない。
(……お金、足りなかったらどうしよう……土下座しかない、か?)
平織が杞憂に満ちた覚悟を決めたところで、茜が柔らかい声色で問いかける。
「全席禁煙ですが、大丈夫でしたか?」
「……はい、平気です。吸わないので」
「それは良かったです」
茜は頭の中に用意したチェックリストにレ点を付けた。
今のは「健康的で文化的」という観点の質問であり、ひとまず合格。
「さて注文ですが、希望はありますか?」
「……えっと、その」
平織は息を震わせながら呼吸を整えて、
「メニュー、見せて貰っても良いですか?」
「もちろん。どうぞ」
茜は開いたメニューを机に乗せ、二人の間に置いた。
平織は彼女の何気ない仕草にドキリとしつつ、メニューに目を向ける。
(高い! ここの肉一枚で一般的な食べ放題と同じ値段じゃないか!?)
それは茜からすれば見慣れた価格帯だが、彼の金銭感覚は中学生レベルである。
普段の食費は一食あたり300円未満。
そんな彼からすれば、ただの肉1枚で数千円というのは眩暈がする世界だった。
「オススメはこちらの四種盛りです。お友達と来る時は、大体これひとつで二人とも満腹になります」
茜が笑顔で提案する。
平織は彼女の細く長い人差し指が示す場所を見て、咄嗟に唇を嚙んだ。
(……五千円だと!? き〇ぐならプレミアムコース食べ放題だぞ!?)
彼の驚きは、しっかりと表情に出ている。
あえて比較的高額なメニューを提案した茜は、その反応を見てくすくす笑った。
「あら? ひょっとして、ご馳走して頂ける予定でした?」
「へっ? いや、あの、それは……」
彼は一瞬だけ悩み、
「もちろん。お礼をするつもり、です」
彼は後ろ手に回した手で背中を抓り、内心で血の涙を流しながら言った。
「なるほど。ではお言葉に甘えて……等と言いたいところですが、ご安心ください。今日の食事代は私が出します」
「そんなっ、そこまでして頂くのは流石に悪いですよ! せめて割り勘で」
「そうですね……こういう時にピッタリな台詞があったと思うのですが……」
茜は悩む素振りを見せた。無論、これは演技である。彼女は事前に会話をシミュレーションしており、この状況を想定していた。
あえて間を開けたのは、彼の意識を自分の言葉に向けるため。茜は平織の表情が変化したタイミングを見て、冗談っぽく言った。
「そう、私の月収は53万です。しかも二度の賞与を残しています。みたいな感じです」
「……な、なるほど」
「だからお金のことは気にしないでください」
茜が笑顔を向けると、平織は「はい」とも「いいえ」とも言わず苦笑した。その反応を見て、茜は次の言葉を口にする。
「それに、これは私のためでもあります」
「……どういうことですか?」
ワンテンポ遅い平織の反応。
それよりさらに間を開けて、茜は少し照れたような様子で言う。
「実は、漫画家さんに興味があります」
「……そう、なんですか?」
「はい。それで、お話を聞きたいと思いまして……ご迷惑、だったでしょうか?」
その同性から見れば「あざとい」と言わざるを得ない上目遣いを受けて、平織は思わず息を止めた。
茜が想像した通り、彼は女性に対する免疫が無い。そして彼の目に映る茜は、それはもう美人だった。
ピンと背筋を伸ばした姿勢、肩に触れる程度の短い黒髪、そして長い睫毛と優し気な目付き。言葉を選ばなければ母親のような雰囲気があるのに、少し丸い輪郭からは微かな幼さが感じられる。
顔を見て話すのは照れる。
しかし目線を下げると、今度は豊かな胸部が目に入る。
彼女の服は露出が少ない。
胸元は一切開かれておらず、肌が見えるのは首までだ。
それでも大きいと感じる存在感。
平織は目を閉じて唇を嚙み、茜から顔を逸らして言った。
「……その、まだ連載が始まったばかりの新人ですが、それでも良ければ」
「ありがとうございます。嬉しいです」
茜は再びメニューに目を向けて、
「その前に注文ですが、飲み物はどうしましょう? お酒もありますが……」
ここで自然に面接再開。
平織が「飲むぜ!」と答えれば、その時点でアウトである。
「……えっと、お酒は飲まないです。水で、お願いします」
「あら、珍しいですね。男性の方は皆さん飲まれる印象がありました」
「……そう、なんですか?」
「ええ。失礼ですが、年齢をお聞きしても?」
「……24歳です」
茜は心のメモに彼の年齢を刻む。
(……年下。良いですね。素晴らしいです)
「20代で全く飲酒しない男性は、全体の三割というデータがあります」
「……意外と少ないですね」
「多いか少ないかは個人差があるとして、何か飲まない理由があるのですか?」
「……漫画家、なので?」
「漫画家は、飲まないものなのですか?」
「……いえその、僕は、長く漫画を描きたいので、健康第一にと」
「なるほど、良い心掛けですね。因みに私も飲まない人です。気が合いますね」
茜は笑みを浮かべて、多くの条件をクリアした平織に軽くアプローチした。
もちろん鈍感な彼は「脈あり」な反応に気が付かない。反応は、苦笑いだった。
(……健康的で初心な可愛い男の子。残る要素はひとつです)
茜は微かに鼓動が早くなるのを感じた。
彼女が言う文化的の基準は、会話が成立するか否か。
最も判断が難しい部分だ。
これまでの反応から、彼が会話の通じないパリピでないことは分かった。しかし数十年という時間を共にすることを考えると、まだ判断材料が足りない。
茜は彼に魅力を感じていない。
容姿が少しばかり琴線に触れたのは事実だけれど、それ以外はさっぱりだ。
もしも幼馴染の葵から「育メン」の概念を教わらなければ、今この瞬間は成立しなかっただろう。だって、彼には容姿以外の魅力が無い。無名の漫画家なんて、言ってしまえばフリーターと同じだ。しかし、育てることを念頭に置いた時、話は変わる。
(……もっと深く彼のことを知る必要がありますね)
茜は深く考えながら、ひとまず店員を呼び注文をした。それから雑談を繰り返して、あっという間に食事が終わった。
「おかわりは如何ですか?」
「いえ、満腹です。なんというか、柔らかくて、美味しくて……初めて食べました」
「そうですか。それは良かったです」
茜は一度、水を口に含んだ。
それから少し間を開けて、踏み込んだ質問をする。
「平織さんは、どうして漫画を描き始めたんですか?」
「……難しい質問ですね」
彼は窓の外に目を向ける。
それから遠い場所を見ながら言った。
「……好きだから、ですかね」
「何か好きになった理由があるのですか?」
ごまかすような返答をした平織に対して、すぐさま茜が次の質問をした。
「……言葉にするのは、難しいです」
「抽象的でも構いません。とても気になります。教えてください」
茜は質問を打ち切らない。
相手が文化的か否か。言い換えると、会話が成立するか否か。要するに、物事に対する考え方、価値観が近いか否か。それを確かめるために、この話を深堀するべきだと直感的に判断したからだ。
「……」
平織は茜を一瞥した後、また遠い目をして窓の外を見た。
「……うちは、貧乏でした」
その言葉から、茜は無数の続きを予測する。
しかし彼が次に発言したのは、どの予想にも当てはまらないものだった。
「それはつまり、皆と同じことが、できないってことです」
その一言で茜の思考が止まる。
もちろん、平織に彼女の機微は分からない。
「簡単に言えば、いじめられてました。ずっと不思議でした。なんでだろう。他の人と違うってだけで、どうしてこんなに苦しい想いをしなきゃダメなんだろうって」
茜は「面接」という意識を忘れて、その言葉に聞き入っていた。
「ある時、漫画を読みました。お恥ずかしい話、コンビニの立ち読みです。そこで、その……憧れました。主人公が、凄いんです。僕なんかよりずっと苦しいのに、絶対に諦めない。恐怖に立ち向かって、幸せを手に入れる。その姿に強く憧れました」
彼の言葉が少しずつ明るくなる。
「そしたらちょっと勇気が出て、僕も頑張ろうって思えたんです。そのうち、僕も、誰かに勇気を与えられるような漫画が描きたいって、そう思うようになりました」
彼の声からは、おどおどした弱々しい感じが消えていた。
そして、どこか遠くを見るその目には、力強さが感じられた。
「それを、当たり前にしたい」
「……当たり前というのは、どういう意味ですか?」
「はい。だって今は、漫画を読んで勇気を貰うなんて、特別なことじゃないですか。僕は悔しいです。こんなにも素晴らしいのに、お金儲けの道具にしたり、バカにしたり……全員黙らせるような漫画を描いて、常識を変えたい。それが僕の夢です」
彼はハッキリと言い切った。
その後、照れたような顔で茜を見て言う。
「まあでも、夢を叶えるどころか連載継続も危うい雑魚作家ですけどね」
茜は彼に合わせて笑みを浮かべた。
その笑顔の裏で、様々なことを考える。
「いくつか質問してもよろしいでしょうか?」
「はい、どうぞ」
茜は妙な胸の高鳴りを感じながら、努めてゆっくりとした口調で問いかける。
「貧乏ということですが、どうしてあのアパートに?」
「敷金礼金ゼロだからです。凄いですよね、オロライフ」
茜は納得した。
オロライフ。家賃が少し割高な代わりに初期費用を抑えられるサービスである。
「それでも月々の家賃は高額ですが、大丈夫なのですか?」
「あと半年は大丈夫です」
「それが過ぎたら?」
「それまでに結果が出なければ、実家に帰って地元で就職します」
「……夢を、諦めるということですか?」
「はい。その覚悟です。貧乏ですから。……ただ、一度も挑戦しないまま諦めるのは嫌だったので、今ここに居ます。お金は、それまでの貯金です」
茜は彼の目を見た。
とても真剣な目。平織は確かな圧を感じながらも、目を逸らさなかった。
彼の夢が、茜の琴線に触れた。誰かの「特別」をごく当たり前の「普通」に変えたい。その気持ちに痛いほど共感した。そして──決めた。
「……へ?」
平織が素っ頓狂な声を上げた。
理由は、茜が彼の手を摑んだからだ。
「……あの、これは、どういう」
彼は突然の出来事に困惑する。
茜は一度、深呼吸をした。それから真剣な目で、言った。
「私は、あなたに好感を抱いています」
「…………」
平織はポカンと口を開けて、硬直した。
「あなたの夢を、誰よりも近くで、見てみたいと思いました」
「……えっと、それは、スポンサー的な話でしょうか?」
「いいえ、恋愛的な話です」
「……れん、あい?」
全く予想していなかった言葉に戸惑う。
茜は真剣な表情をして、逆に質問を返した。
「私の容姿、どう思いますか?」
「……どう、とは?」
「女性として、魅力を感じますか?」
「……それは……えっと……はい」
「ありがとうございます」
茜は柔らかい笑みを見せた。
それは直前までに何度も見せているものだ。
しかし彼は、これまで以上にドキリとした。
「それでは、結婚を前提として、交際しましょう」
「な、か、からかわないでください。僕なんてそんな、クソ雑魚ですから。その……釣り合わないですよ」
「なぜですか? あなたからすれば、メリットの方が多いはずですよ」
「それは、そうですけど……でも、えっと」
「茜です」
「……あかね、さんの方は、その……メリットなんて、無いじゃないですか」
「確かに、今はそうかもしれないですね」
茜は彼の言葉を肯定した。
事実、彼女は現時点の彼には、それほど魅力を感じていない。
「しかし私は確信しています。あなたは、将来的に、魅力的な男性になります」
自分が必ず、そのように育て上げる。
「しばらく養ってあげるので、将来的に養ってください」
茜は平織に顔を少しだけ顔を近付けて、そう言った。
その姿はとても妖艶で、魅力的で、彼には断る術など存在しなかった。
──かくして二人は不思議な交際を始めた。
茜は彼を導き、時折、成長した行動や言動にドキリとさせられながら、二人の時間を積み重ねた。その過程で二人は様々な困難に直面した。けれども、その果てに幸せな結末があったことは、きっと、語るまでもないことだ。
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