運命の出会い
茜が住むアパートには24時間使えるゴミ捨て場がある。より正確には、大人が二人か三人は入れそうなダストボックスがある。
もちろん、実際に人間が入ることは無い。
……と、今日この瞬間までは思っていた。
(……人形、でしょうか?)
ダストボックスに、何かヒト型の物体が突き刺さっていた。
それは服を着ている。上下共に黒色の薄着で、部屋着と言われれば違和感が無い。
しかしピクリとも動かない。
だから茜は人形かもしれないと考えた。
(……どちらにせよ関わりたくないですね)
人形か、人間か。
前者ならば迷惑な話。
後者の場合は事件性があるかもしれない。
茜は令和を生きる一般的な若者である。
しかも東京で生活しているから、あえて面倒事に関わるほど無警戒ではない。
他人は全て詐欺師と思え。
それが令和の東京における鉄則である。
(……帰りましょう)
茜は踵を返した。
その瞬間、彼が目を覚ました。
「ぶはぁっ、臭っ!? ゴミ箱!? なんで!?」
茜はビクリと肩を震わせて、背を向けたまま動きを止める。
「って、朝になってる!? やばい、時間ッ、スマホっ、無くて、えっと、つまり、これは………………」
彼が口を閉じたことで、茜は恐る恐る振り向いた。
茜の目には、地面に四つ這いになる不審人物の姿が映った。
「……終わりだ。もうダメだ。おしまいだ。死ぬしかない」
彼は茜に聞こえる声で、そう言った。
(……私は何も聞かなかった。何も見なかった)
茜は自分に言い聞かせて、再び彼に背を向けようとした。その直前。彼が顔を上げて、ハッキリと目が合った。
「……何か、お困りですか?」
茜は苦々しい声と表情で言った。
そこからは強い嫌悪感が読み取れるが、実はそうでもない。
(……かわいい)
目に涙を浮かべた彼の姿を見て、茜は内心そう思っていた。
何を隠そう彼女、重度のショタコンである。本人に自覚は無いけれど、街で少年の姿を見れば無意識に目で追ってしまう程度に拗らせている。そして彼女の目に映った彼の泣き顔は、その歪んだ琴線に触れるものだった。
「……すみません、取り乱してしまって」
彼は俯いて、消え入りそうな声で言う。
「……締め切りを、破ってしまいました」
「締め切り、ですか?」
茜は三メートルほど離れて問いかける。
距離感の理由は汚臭である。一晩をゴミ箱で過ごした彼は、臭い。
「漫画です……こんなゴミ塗れのクズ野郎ですが……締め切りだけは守る男でした。だから信頼を得て……やっと……連載に……なったのに……」
その言葉は最後まで続かず、彼はガックリと地面に額をつけた。
「締め切りは、いつなのですか?」
「……今日の、十時です」
「ならば、まだ三時間ほどあります」
「……無理です。残り八ページ。どう足掻いても絶望です」
今回の漫画は初めての連載作品。
締め切りギリギリまでクオリティアップに時間を使い、昨夜から今朝に掛けて寝ないで仕上げる予定だった。しかし、体力の限界を迎えたことで寝落ちして、今に至る。
彼のスピードは一時間に一ページ。残り三時間では、どう足掻いても八ページを仕上げることはできない。
もちろん茜はそんな事情を知らない。
彼女は間に合わないという事実だけ理解した。
「漫画は、どこの誰に提出すれば良いのですか?」
「……出版社で、担当さんに提出予定です」
「分かりました。では準備をしてください」
「……準備?」
彼は顔を上げた。
茜は三メートルの距離を維持しながら、笑みを浮かべて言う。
「私が事情を説明して、締め切りを伸ばします」
「それはダメです!」
突然の大声。
彼は真剣な目で言う。
「漫画は僕だけで創るものではありません! 多くの人が関わることで、初めて本になるんです! 僕一人の都合で……しかも他の人に頼むなんて……そんなこと、絶対できません!」
その表情を見て茜は感心した。
分かりやすく言えば、ゴミ箱で寝ていた可愛い男の子から、健気で可愛い男の子に評価がランクアップした。
──育メン。
その言葉が茜の脳裏を過る。
──絶対に譲れない点を決めて、それを満たす相手を育て上げること。
茜は思う。
彼は、先ほど決めた要素の多くを満たしているのではないだろうか?
まだ不明点が多いけれど、最も難しいと思えた「可愛い」を満たしている。
そして直前の発言から、ある程度は文化的であることが分かる。
彼女が言う文化的とは、要は日本語が通じるかという話だ。簡単に言えば、会話の大部分がウェーイとヤバーイで構成されているパリピはお断りという意味である。
「……なるほど、よく理解できました」
茜は一度、相手の言葉を肯定した。
「どちらにせよ、早急に連絡すべきです。電話番号は分かりますか?」
「分かります!」
彼女はズボンのポケットからスマホを取り出して、彼に差し出した。
「すみません、助かります」
彼は何の疑いも持たずスマホを受け取って、連絡先の番号を入力する。
(……履歴ゲット)
茜は彼から少し離れて、後ろ手でグッと拳を握り締めた。
因みに、離れた理由は臭いである。
彼女はまだ、悪臭に耐えられる程の好感を彼に抱いていない。
一方で彼は、離れた茜を見て会釈した。
気を遣って離れたと判断したのである。
電話は四コール目で繋がり、彼は大きな声で謝罪をした。そして数秒後、急にあたふたした様子で茜を見る。
「えっと、あの、これはその、偶然会った人にスマホを借りて、それで」
茜はとても早口な彼の声を聞いて、なんとなく状況を理解した。
その理解は正しい。彼は「なぜ普段と違う番号から連絡したのか」と問われ、上手く理由を説明できず混乱している。
(……チャンスですね)
茜は彼に近付いて「スマホを寄越せ」と手を伸ばした。
「えっと、あの、代わります!」
茜はスマホを受け取って、彼から少し距離を取った。そして彼に聞こえないよう注意しつつ、締め切り延長の交渉を始めた。
もちろん目的は恩を売るためである。
彼は自分で説明したがっていた。しかし茜はパニックに近い様子を見て、無理だと判断した。そして彼自身も、無理かもしれないと弱気になったところだった。
果たして茜は、今日の十八時まで締め切りを伸ばすことに成功した。もちろん、自分が交渉したとは伝えない。彼には──
「担当さんからの伝言です。私がスマホを渡すことになった事情を説明したところ、呆れた様子で『今日の十七時までなら待てます』とのことでした」
と、噓の混じった言葉を伝えた。
「本当ですか!?」
しかし彼は純粋な目をして言った。
茜は若干の後ろめたさを感じながらも、
「良かったですね」
と笑顔を見せる。
それから念を押す意味で、彼に言う。
「完成後は、私にも声をかけてください。二人で来るように言われました」
「二人で……? どうして?」
「分かりませんが、恐らく直接事情を聴きたいのでしょう」
噓である。
二人で来いなんて言葉、担当は口にしていない。
「……あの、ご予定とか、大丈夫ですか?」
「そうですね……分かりました。午後の予定は空けることにします」
「ありがとうございます!」
彼はあっさりと騙された。
良くも悪くも純粋で、しかも切羽詰まった状況なのだ。相手を疑う余力は無い。
「私は204号室の守橋です。作業が終わりましたら、お声掛けください」
「分かりました。204号室ですね!」
「はい。それから、作業はお風呂に入ってから再開することをオススメします」
「……すみません。臭いですよね」
彼が苦笑すると、茜は肯定する代わりに笑みを浮かべた。
かくして茜は、健気で可愛い男性と出会い、恩を売ることに成功した。
この出会いは多くの偶然が重なったことで生まれたものである。
茜が直前に「育メン」の話をしていたことも、彼が締め切り間際だったことも偶然である。どちらか一方でも欠けていたら、二人が接点を持つことは無かった。
ただし、偶然は出会いだけである。
その後の出来事は、何もかも、茜の計画通りなのだった。