結婚相手に求める条件
「育メン? それは結婚してからの話では?」
『ねーちゃん遅れてる。育児じゃなくて育成のこと。育てるって意味だぜ?』
それは茜が初めて耳にする概念だった。
しかし彼女は頭の回転が速い。言葉の意味を考え、短い時間でそれらしい答えに辿り着いた。
「なるほど。理想の相手を探すのではなく、自ら作り上げるということですね」
『おー、流石ねーちゃん。話が早くて助かる』
「具体的にはどうするのですか?」
『まずはライン決め。絶対に譲れない点を決めましょう』
茜は顎に手を当てて、
「難しいです。具体的な言葉になりません」
『私から質問してあげよっか?』
「お願いします。あ、待ってください。メモするので」
『あはは、ねーちゃん真面目だなぁ』
茜はスマホを手に持ち、メモアプリを起動した。
「お待たせしました」
『んじゃ、まずは年齢かな。何歳くらいまで恋愛対象?』
「年下が好ましいですね。より長い時間を共に生きたいですから。……そうですね。大事な要素です。ひとまず、二十代で線を引くことにしましょう」
茜は両手の指を使って素早くタイピングする。
その動作は葵から見えない。しかし彼女はまるで見えているかのような間を開けて、次の言葉を口にした。
『身長はどう?』
「身長? それは、何か関係があるのですか?」
『拘る人多いよ? 自分より大きくないと無理、みたいな』
「理解できない価値観ですね。次お願いします」
葵は苦笑した。そして内心で(皆が茜と同じ思考だったら仕事が楽なのに……)と思いながら、質問を続ける。
『恋愛経験は?』
「それについては、ゼロがベストという研究成果があります」
『何その研究』
「要約すると、恋愛経験ゼロのペアと、経験豊富なペアを比較した場合、前者の方が六倍離婚しにくいそうです」
『わお、そんなに違うんだ』
「母数も多い研究なので信頼できます」
茜は素早くメモを始める。
その後も葵は質問を繰り返して、
『──まとめると、健康的で文化的な二十代の初心で可愛い子って感じだね』
「的確ですね」
葵の総評を聞いて茜は頷いた。
『ねーちゃん、年収とか気にしないんだね』
「確かに年収は重要です。一部の例外を除き、それなりの面接を通過している証なので、相応の人間性を有している可能性が高くなります。ただ、それは私が判断すべきことです」
『なるほどねー』
そういうことじゃないと思うよ。
葵はその言葉をグッと抑え、話を続けることにした。
『結果を発表します』
「どういうことですか?」
『じゃらららららら……』
質問を無視された茜は、仕方なく結果を待つことにした。
『なんとっ、該当する男性はゼロ名です!』
「唐突過ぎて理解が追い付かないのですが……」
『私の仕事、知ってるよね?』
「なるほど。葵さんが受け持つ顧客の中に、今の条件を満たす方はいないのですね」
そういうこと、と葵は頷いた。
『でも、実はねーちゃんの身近に一人いるぜ?』
「どなたですか?」
『わたしー』
「……さて、そろそろ朝食の用意をします。早朝から退屈な話に付き合って頂き、ありがとうございました」
『ぶー、ねーちゃん冷たい。でもそういうところも好き』
それから二人は少しだけ他愛のない話を続けて、電話を切った。
茜はスマホから手を離し、んーと声を出しながら伸びをする。
「……育メン、か」
その概念が強く印象に残った。
理想を追い求めればキリが無い。そもそも、そんな都合の良い相手は存在しない。
だからこそ、最低限、これだけは譲れないというラインを決める。そして、そのラインを超えた相手を育てる。
字面だけ見れば実に利己的な考え方だが、育成という言葉の行間には、きっと互いの好きなことや嫌いなことを分かり合い、共に歩み寄るという意味がある。
それはきっと当たり前のことだ。
しかし能動的に相手を探す時、どうしても「条件」という言葉が邪魔をする。
これが嫌だから結婚できない。
この条件を満たさなければ話をする気になれない。
そういう気難しい顧客を成婚へ導くために生まれた概念なのだろう。と、茜は客観的に理解した。あるいはそのような解釈をした。
「……まあ、そもそも出会いが無いんですけどね」
これまで彼女は「普通」に生きてきた。
真面目に勉強して、真面目に将来を考えて、真面目に行動してきた。
学生時代、恋愛に時間を使った経験は無い。
年収ゼロの同級生と大人の真似事をするよりも、少しでも自分の価値を上げるため勉強するべきだと判断した。
結果、上位の大学に合格して、大学院まで進学した。
その過程で企業とのコネクションを得た。学生時代からアルバイトとしてオフィスに出社したり、高単価な副業を受注して、それなりに貯金を作ったりしていた。
就職活動は数分の面接だけで決まった。
卒業後、在学中のコネクションを維持して副業を続けた。
結果、社会人1年目から800万円近い年収を得た。2年目には本業の賞与等が加算され、より増える見込みとなっている。
年収だけで考えれば、同じ年齢で上位1%に入る。女性に限定すれば、もはや具体的な順位を数えられるレベルかもしれない。
それでも彼女は自分を特別とは思っていない。彼女はずっと普通に生きてきた。彼女の基準で、当たり前のことをしてきた。
故に、彼女は孤独だった。
現代は格差社会だ。
社会的価値の高い人間は、極めて高い確率で特別な親を持っている。
特別な親を持った子供は、特別な環境で、高度な教育を受ける。
普通、彼らは自分達が特別なことに気が付かない。それが当たり前だからだ。
彼らは普通の人と同じような生活をして、価値観を共有する友人や恋人を作る。その要素だけ切り取れば、特別な点は何も無い。
茜は違う。
特別な親を持ったわけではない。
特別な環境に身を投じたわけでもない。
とても一般的の家庭に生まれ、とても一般的の進路を歩んだ。
しかし、たまたま、現代社会を生きるうえで有利な能力を有していた。
彼女は特別だった。
何をしても、同じ環境を生きる人々よりも頭ひとつ抜けていた。
常に孤独感があった。
寂しいという感情が育っていた。
「マスクは……まあ、この距離なら不要ですよね」
その感情に拍車をかけたのが、入社と同時期に始まったパンデミック。
少し奮発して会社の近くにある新築アパートを選んだのに、まともに出社したのは研修後の一ヵ月間だけ。その後はずっと在宅勤務で、ほとんど家から出ていない。
会議で会話する機会はあるものの、ビデオは常にオフ。顔も知らない先輩社員の声がスマホやパソコンの向こうから聞こえてくるだけ。当然、仕事の時間だから、何か愉快な会話が行われることは滅多に無い。
寂しい。とにかく寂しい。
その感情が社会人2年目という節目を迎えたことで加速度的に大きくなっている。
現在、四月下旬。
まもなくゴールデンウィーク。
そろそろパンデミックも落ち着いた頃だから、久々に友人と……たった一人の友人である幼馴染と遊びにでも行こうかな。そう思って通話していた。その過程で結婚に関する話になった。理由は、葵がそういう仕事をしているからだ。
「よいっしょ、っと」
声を出してゴミ袋を持ち上げる。
それからドアを開けて、彼女は──運命と出会った。