サブロク協定 その5
「容体は安定しています。2、3日安静にしていれば、元気になるでしょう。しかし・・・」
マリリンは、ウィリアムの自宅で治療を受けた。自宅へ急行してすぐ、彼に気付いた医者は、声を潜めて伝えていった。。
「大量の睡眠薬を摂取したようです・・・どうやら精神面の病かと・・・そうなると、完治までは時間がかかるものと・・・」
医者の言葉の途中で、ウィリアムは、寝室へと向かった。ベッドに横たわる真っ白なマリリンの顔に、生気はない。
「ウィリアム・・・」
か細い声が、ウィリアムの耳にぎりぎり届いた。ウィリアムは、彼女の枕元に腰を下ろす。マリリンの頭をなでる。
「マリリン・・・全く、お前は、ドジなやつだ。はっはっは。なぁ?・・・先生!どうやら、彼女は、ビタミン剤と睡眠薬を取り違えてしまったようです。いやいや、笑いごとではないな。最近肌が荒れているからといって、大量にビタミン剤を飲んでも効果はないぞ。先生。そうですよね?」
「はい。適度な摂取量というものが、ビタミン剤にもあります」
「睡眠薬をもっと分かりやすいケースに入れ替えよう。間違えないようにな。そして、ビタミン剤の量もちゃんと先生のいう量を守るんだ。また間違えても、寝込むことのないようにな。ははは・・・先生。急に来ていただいてありがとうございます。もう大丈夫です。私が責任をもって、安静させます」
「はい。分かりました」
医者は、そういうと、部屋を出ていった。医者がいなくなるのを確認すると、またマリリンの頭をなでる。何も言わないウィリアムを見て、マリリンが声を絞り出した。
「ごめんなさい・・・」
「なぜ、謝る?」
「おこらないで・・・」
「怒るわけない・・・そんなわけない」
「あなたいつも怒っているでしょ?」
「君に怒ったことなんて・・・ないさ」
「嘘をつかないで・・・あなた、いつも嘘ばっかり」
「うん・・・そうか。そうだな」
ウィリアムは立ち上がろうとした。
「行かないで・・・」
マリリンの小さく白い手が、ウィリアムの手首をつかんだ。
「行かないで」
「早く寝たほうがいい」
「そばにいて。眠れないから・・・」
「分かった」ウィリアムは、またマリリンの横に腰かける。ウィリアムは何も言わず、じっとマリリンの手を握る。
「強く握らないで、息ができなくなりそう・・・」
「ああ、すまん」
ウィリアムは、マリリンを握る手を緩める。つかの間、静寂となる。彼女はすぐに、眠りについた。太陽は、高く高く上昇していく。世界を光で包みこみ、すべての生き物、建物、事物を完璧な真上から照らした時、世界から一切の影がなくなった。マリリンの寝室にも、カーテンを透き通るほどの閃光が差しこみ、ウィリアムを照らしたが、彼は微動だにせず、じっと、マリリンを見つめ、手を握り続けた。別の部屋の電話の呼び鈴が何度か鳴り響いたが、彼は何の反応も示さなかった。何度かマリリンが寝返りを打ち、手を放したが、すぐに手を握り直した。やがて、太陽は傾き、事物に影を作り、それをパンの生地のように伸ばしていく。マンハッタンの街は、建物が多い。すぐに街は、影で満たされる。マリリンが、目を覚ました。同時に、マリリンは問いかけた。
「難しい?」
「何が?」とウィリアム。
「難しい?」ウィリアムはマリリンの質問を無視した。
「ああ・・・簡単ではない」
「そうよね・・・難しい。本当に難しい・・・観客は、私の歌なんて聞きたくない」
「そんなことないさ」
「嘘はもう聞きたくないの・・・」
「諦めてはいけない」
「もう歌いたくないの」
「諦めたら、夢は叶わない」
「もう夢は見れないわ。もう随分、眠ったから・・・もう、眠れないわ」
「君はそれでいいのか?」
「いいの・・・私、今、とても幸せ」
「・・・そうか・・・そうか・・・そうか」
ウィリアムは何度かそう繰り返して、言った。
「そうか・・・そうだな。もういいんだ・・・もういいんだ。戦わなくていいんだよ。マリリン」
マリリンは、そういうと、また目を閉じた。ウィリアムが握っていた手を引き、シーツの中に手を隠した。ウィリアムは、立ち上がった。
「私を許してくれ」
ウィリアムは、そう言うとマリリンに背を向け、部屋の扉へ向かう。
「ウィリアム。あなた・・・彼女の歌を聞いたの?」
マリリンは、背を向けたウィリアムに突然話しかけた。
「なんのことだ?」
「コンサートのセットリストに曲が追加されていた。あの曲を入れたのはあなたでしょ?The Water Is Wide。リサが歌手だった時に歌ってた。彼女の十八番よ。あなた、
あの曲を聞いたんでしょ?・・・また、聞きたくなったのね?」
「あ・・・ああ、お前、彼女を前から知ってたのか?」
「ショーパブにいた時、何度か見たことがあるの。すごくきれいな声で・・・あんな声で歌いたかった。だから、オフィスに彼女がいた時は、ビックリしちゃったわ・・・なんだか恥ずかしくて、ちゃんと話せなかった。変な写真も撮られるし・・・変わった人」
「いい写真だった」
「ええ、いままで何度か写真を撮ったことはあったけど、比べ物にならないくらいいい写真だったわ。写真の才能もあるのね。あの人」
「きっと、カメラがいいんだ・・・」
ウィリアムは目を閉じる。(すべてが、複雑に、そして、運命的に絡み合っているのだ)突然、リサへの思いが去来し、かつて、トーマスが言った言葉が頭をよぎる。
―存在は・・・互いに重なりあう
「さようなら。ウィリアム」
マリリンは、二人の関係の終わりを告げた。
「さようなら。マリリン」
「ああ、ちゃんと手切れ金はもらうわよ」
かすかな笑い声を上げ、二人は笑いあった。
部屋の外に出ると、チャーリーとボブがもめていた。
「おい。入れてくれよ!」
「ダメだよ。ボスに誰も入れるなって言われてんだから・・・あ、ボス」
「ボブ、もういい。入れてやれ」
「ふー、やっと終わった」
ボブはそういうとぺたんとその場に座り込んだ。彼は、ウィリアムが部屋にいる間、訪問者を全員追い返すという、長時間の重労働を強いられていたのだ。しかし、ウィリアムは、一切の休憩も許さなかった。
「行くぞ。ボブ。立て!」
「え?行くってどこにですか?ここは、ボスの自宅ですよ」
ボブは渋々立ち上がった。
「チャーリー」と、ウィリアム。
「はい。なんでしょう?」彼の酔いはさめていたが、昨日のことがあり、顔は恐怖で引きつる。
「マリリンを頼んだぞ」
「は・・・はい」
柄にもないことを言ってしまった。と、ウィリアムは、はにかんだ。
「ボス。もう今日は、業務終了でいいですよね?」
「まだだ。会社に戻るぞ」
「えー、マジっすか!」
ボブは渋々、ウィリアムを会社まで送った。オフィスにウィリアムが姿を現すと、全員の顔が、彼の方に向いた。
「なんだ?何見てるんだ?お前ら、俺に会うのは初めてか?おい。サミュエル?俺を見るのは初めてか?」近くにいるサミュエルを、ウィリアムは睨みつける。
「い・・・いえ・・・」
「仕事しろ!手を動かせ!ない頭を使え!」
ウィリアムの怒号が響いたと同時に、全員が倍の速度で動き出した。タイプライターの音が、響き渡り、あれやこれやと、人々が右往左往するが、決してぶつかることはなく、極めてスムーズに会社は機能していた。
「あら、ウィリアム。今日はもう来ないと思ってた」
と、コーヒーカップを片手にマヤが話しかける。
「問題はなかったか?」
「あったわよ。でも、電話も出ないし、家に行っても、ボブに追い返される。サミュエルなんて、殴られたのよ」
見ると、サミュエルは頭に氷を当てながら、仕事をしていた。
「俺の指示だ・・・で?問題は?」
「私が処理しておいたわ。大変だったわぁ」
「ご苦労だった」
「仕事するの?」
「無論だ」
「今日くらいは休んだらどう?」
「今日は十分やすんだ。問題ない」
ウィリアムは、ハットをかけ、椅子に座り、カッカッカと、ペンで机を叩き始めた。
カッカッカ。
「今日はもう大丈夫なの。あなたが、無理して出てくることないわ。ストリートジャーナルは大企業なのよ。全部一人で抱え込まなくても、優秀な人材はたくさんいるわ」
リサはそれだけ言うと、部屋から出ていった。
カッカッカッカッカッカ・・・
ペンを止める。社長室の薄い壁を通して、タイプライターの音が聞こえる。がやがやと聞こえるそのノイズは、まるで鼓動だと、ウィリアムはふと思った。そう、ストリートジャーナルは大企業だ。1日や2日、自分がいなくても、元気に生きていけるのだと、ウィリアムは感じた。
(いや、もしかしたらもっと・・・)
社長室は、反対に何の音もない。音楽を聴く気力も起きない。静寂は、マリリンとの別れを思い出させた。ふと、自らの言葉を思い出す。
―カメラがいいんだ。
「そうだ」
デスクの引き出しを開けると、リサから奪ったあのカメラがそこにはあった。
ウィリアムは、電話を手に取った。
「リサ・パーラメントにつないでくれ」
「はい。パーラメントです」
受話器の向こうから聞こえてくる声は、リサではなかった。彼女の母親だった。
「はじめまして、マダム。リサ・パーラメントさんはいらっしゃいますか?私は一緒に仕事をさせていただいております。ウィリアムというものです」
「まぁ、いつもお世話になっております。私はリサの母です。彼女は、今外出中でして、帰ってきたら折り返しお電話いたしましょうか?」
「いや、結構です」
「あの、お仕事で何か問題でも?」
「ああ、明日の仕事に必要な道具を忘れて行ってしまいましてね。明日の朝、すぐに必要になるものですから、ご在宅であればお届けしようかと・・・私も自宅がミッドタウンにあるもので」
「ああ、娘がご迷惑をおかけしてすいません。私が代わりに、受け取りに行きたいところなのですが、あいにく足腰が悪いもので、一人で外出することができません。あの、リサは、行きつけのマンハッタンというバーにいると思います。その店には、電話がありますので、私の方から連絡して、すぐに会社に取りに行かせます」
「それには及びません。マンハッタンですね。ちょうど私も、そこに行こうと思っていたところです。ちょうどよかった。直接、お渡ししに行かせていただきます」
「重ね重ね、ご足労をおかけします・・・」
リサの母は丁寧に、かつ、しっかりとした謝罪と感謝の意を伝えた。ウィリアムは、電話を切ると、BARマンハッタンに電話を掛けた。
「ウィリアムというものだが・・・」
「ええ?なんて?」
かなり盛り上がっているようで、ウィリアムの声が、電話に出た店主まで届かない。
「ウィリアムというものだが、リサ・パーラメントは・・・」
「もうデリバリーの時間は終わったんだ。また明日電話してくれ」
店主は、出前の電話と勘違いし、乱暴に電話を切った。
「ちっ!」
舌打ちすると、ウィリアムはカメラをポケットに強引に詰め、ハットをかぶって、社長室からでた。
「ご苦労」
ウィリアムはサミュエルの肩をポンとたたいて、足早にオフィスを去っていった。ウィリアムが消えたのを見て、全員がふうっと大きく息を吐いた。