サブロク協定 その4
◆第二部 Song of the River
〈22:679:632:339:567:990:000〉
パチッと、青色の世界で、リサが目を覚ます。カプセルが開く。
(もっと眠りたかったのになぁ・・・)
大きなあくびをすると同時に、ガコンッと世界が揺れた。
(なんだなんだ?)
慌てて部屋の外に出るリサ。急いで、「赤色の世界」を見る。「赤色の世界」は激しい雷雨に覆われていた。世界を照らす激しい閃光と世界を覆う無限の雨が降り注ぐ。
(あれ?これは)
〈22:679:632:339:567:977:689〉
ガコン。
〈22:679:632:339:567:977:665〉
(まずいんじゃないか?)
ガコンガコン!
「青色の世界」が連続して激しく揺れる。
ガッコン!
より強い揺れが一つ。リサは、右方向に顔を向ける。廊下の先、遥か向こうから赤土を吸い込んだ濁流が迫ってきていた。
(やばい!)
リサは、左方向に走りだした。しかし、赤い濁流は、即座に彼女に追いつき、赤土と同様に飲み込んだ。
(あーーーーれーーーーー!)
リサの体は、制御を失う。濁流に身を任せ、暗闇の中に流されていった。
◆〈16: 000: 000: 000: 000: 000: 000〉Song of the River
「リサ。リサ」
マヤに肩をゆすられ、リサは目を覚ます。
「はい!」
「いま寝てなかった?体調悪いの?」
「いえ、大丈夫です。最近は、むしろ、早く帰れてるので問題ありません」
「ああ、そういえば、そうかもね。あなた仕事をするスピードがすごく早くなってない?なにかコツをつかんだの?」
「いえ・・・特に・・・」
マヤの言うように、ウィリアムに歌を歌ったあの一夜から、リサの仕事をこなすスピードは、見違えるように速くなっていた。
社長室に目をやるリサ。あの夜以降、社長室のブラインドは、開きっぱなしになっていおり、リサの席からウィリアムの挙動が見えるようになっていた。
「書き直せ!」とはいえ、ウィリアムの怒号は、変わりなく飛び交っている。
「特にメモのタイピングがすごく早い」
「確かに・・・慣れてきたみたいです。特に・・・」
「特に?」
「社長のメモに目が慣れてきたみたいです」
「すごいわね。私なんて3年はかかったわよ。ウィリアムと相性がいいのかもしれないわね」
「そ・・・そんなことないですよ・・・」
リサは顔を赤くした。明確なことが、一つある。あの夜以降、ウィリアムのあの落書きを解読できるようになっていたのだ。まるで、言葉を覚えた子供のように、みるみるうちに、彼が筆跡に込めた思いを感じ取れるようになっていた。
(どうしてだろう・・・)
一方で、ウィリアムとは、あの日以降、あいさつ程度の会話しかしていない。お互いあまり目も合わせない。社長室を見つめる回数が、リサは多くなっていたが、ウィリアムと目が合う瞬間、お互いに目をそらしていた。そして、そのことをお互い感じ取っていた。
(うーんなんだろう。なんか気まずいんだよなぁ)
ふと、ハロルドの方を見る。リサは、すっていたタバコの火を消す。
もう一つ、彼女の中に変化があった。ハロルドの原稿だけでなく、オフィスの中全体がどんどん黄ばんで見えてきていたのだ。
(タバコ辞めちゃおっかなぁ)
そう思いながら、リサは新しいタバコに火をつけた。
「ウィリアム。今度のマリリンのコンサート。セットリストが届いたわ。これでいい?」とリサが一枚の紙をウィリアムに渡す。
「ああ、問題ない」
「じゃあ、これでマリリンに伝えておくわ。次に招待客にも目を通しておいてほしいの。次回の市長選挙のために、今から足場を固めておく必要があるでしょ?」
次に渡された書類については、ウィリアムも時間をかけて吟味した。前回の落選のダメージは大きかったが、さすがにあれほど露骨な選挙妨害があっては、ウィリアムに対する同情論の声も少なくなく、彼の支持基盤についてはそれほど大きなダメージはなかった。加えて、ボブとギャングとのつながりを確認できた今となっては、前回のような選挙妨害を防ぐ手立てがある。勝機は十分にあったのだ。
「OK。問題ない」
リサが社長室から出ていこうとした瞬間、「ちょっと待て」と、ウィリアムが彼女を引き留めた。マヤは、招待客リストを差し出す。
「そっちじゃない。セットリストの方だ。一曲、追加してほしい」
変化があったのは、無論、リサだけではない。ウィリアムの中にも看過できない変化があった。
この日、ウィリアムはマンハッタン島のアッパーウェストにある豪邸へと帰宅する。
豪邸では、マリリン主催のパーティが始まったところで、彼女の横には、チャーリーの姿があった。
「主のお帰りよ!」
マリリンが、参加者に向かって叫び、視線をウィリアムへと促すが、ウィリアムはすべての反応を無視して、自室の書斎へと真っすぐに向かった。
書斎に入ると、すぐに電灯をつけ、デスクの上のタイプライターを叩き始める。場所は関係ない、彼は仕事をやめない。が、この日、ふと手がとまった。いや、この日だけではない、なぜか、リサの歌を聞いたあの夜から、時折原稿を書く手がとまることが多くなっていた。
深い河に沈んでいく二人。
その情景が、頭をよぎるのだ。そして、離れないのだ。
もう一度、タイプライターに向かい仕事を続けようとするのだが、タイプライターを打つ手は、全く進まない。
「ダメだ」
ウィリアムは、天井を仰いだ。一旦、タイプライターを横にどけ、仕事を進めることを諦めた。代わりに、引き出しから、一冊のノートと万年筆を取り出して、書き物を始めた。
木々の生い茂る河の岸辺。
流れていく川。
その情景が、新聞記事を書くウィリアムの手を止めたのだ。代わりに、ペンを持つ手を動かした。真っ白なノートに記されていくのは、いつも記事に書くようなきっちりとした文章ではない。それは、一編の詩のような・・・ただの、何の変哲もない散文であった。
~Song of the river~と題名を記した後に、こう続けた。
―――
雪解けの水は春へ向かってくだる
そして、春は濁流の中へ、若葉の歌とともに
猛ける川は、海にたどり着き
そしてまた、雨となる
かつてのあの場所へと戻る
なぁ。
人生の深い謎と、似ていないか?
雨や雪と同じように、
いのちは気高い丘の上で生まれ
微笑みの中に流れ落ち、夢の中で消えていく
あの青い歌とともに
私たちはいつ死ぬの?
死んだらどうなるの?
人生の意味は?
愛はどこにあるの?
何も聞かないでくれ
それは、神のみぞ知る答え
何も聞かないくれ
私は、今、永遠の輪廻の中
何も聞かないくれ
私は、今、かつてのあの場所へと戻るのだから
―――
ノイズが聞こえた。
書斎のドアが開き、ほろ酔いのマリリンが入ってきた。
「何?また仕事してるの?」
「邪魔をするな」
「邪魔なんてしないわよ」
そういって、ウィリアムの背後に回る。
「何書いてるの?」
ノートを除きこむ、マリリン。ウィリアムはとっさに文章を隠す。
「邪魔をするな」
「何よ。久しぶりに帰ってきたと思ったら、不愛想ね」
「パーティの途中なのだろ?戻ればいい」
マリリンの表情が一瞬険しくなる。
「ふん。そうやって死ぬまで仕事してなさいよ。そして、私の洋風代を稼いで頂戴ね」
マリリンの皮肉に、一瞬、ウィリアムのほほが引きつる。険悪な空気が満ちたところで、チャーリーが姿を現す。
「おい。マリリン。どうしたんだ?早く戻ってきてくれよ・・・あ、ウィリアムさん、お疲れ様です・・・取り込み中でしたか?」
チャーリーの右手には、シャンパンの瓶が握られている。
「いえ、全然大丈夫よ。戻りましょう」
マリリンは、チャーリーの元へ向かい、ウィリアムの目の前で、熱いキスを交わす。
散々、キスを見せつけた後、二人は書斎から消え、パーティーへと戻っていった。
ペンを握りなおし、散文の続きを書こうとするウィリアムだが、今度は、ペンの動きも止まる。あの青いイメージが消え、今度は、先ほどの、キスをする二人の光景が、頭から離れなくなった。それは、リサに写真で見せられた光景と同じだった。これがどうした?と、リサを恫喝したときに見せられた光景と全く同じだった。そして、カメラを取り上げた光景と全く同じだった。
ウィリアムは、カバンを取り出し、リサのカメラを中から取り出す。同時に、リサが手渡してきた二人の抱擁写真も取り出した。改めてその写真を見た。そこにあったのは、白と黒の灰色の写真などではなく。この世界すべての色彩が付与された完璧なカラー写真だった。ウィリアムの手は震え、顔は真っ赤に熱くなる。急上昇した血圧は、彼の血管を膨張させ、コメカミにはっきりとその痕を示す。
ウィリアムは、カバンに手を突っ込み、拳銃を取り出した。
会場(広いウィリアムの自宅のリビングだが)は、みんなが酔っ払って、バカ騒ぎが続いていた。チャーリーとマリリンは公然と、キスをし続けている。このままでは、一線が始まり、より下賤なパーティになる可能性も感じられた。
「いいのか?ウィリアムさん。せっかく久しぶりに帰ってきたのに、ほっといて」
「大丈夫よ。帰ってきたって、仕事場と変わらないわ。仕事してるのよ。バカでしょ?」
「いやぁ、すごい人だ。そんなに仕事ばかりできないよ」
「普通そうよ。あの人、病気なのよ。人間じゃないわ」
二人はまたキスをした。
その時、リビングにウィリアムが現れた。チャーリーがそれに気づいた。
「あ、ウィリアムさん、一緒にパーティを・・・」
「バカ騒ぎは終わりだ!全員帰れ!」
会場の空気が張り詰める。
「はぁ!何勝手なこと言ってるのよ!」
マリリンは食って掛かる
「ここは私の自宅だ。主の私の許可なく使用するな!」
その言葉を聞いて、参加者は一目散にこの場を去ろうとしている。
「ここは、私の家でもあるのよ!」
マリリンも激高している。
「黙れ!」
「あきれた!たまに帰ってきたと思ったら・・・馬鹿じゃないの!チャーリー行きましょう!みんな!近くのチャーリーの家で飲みなおしましょう!」
「マリリン!お前は残れ!」
「はぁ?いやよ」
「まぁまぁ、お二人とも、落ち着いて」チャーリーは、我を忘れている二人を落ち着かせようとする。ウィリアムが、チャーリーに向かって真っすぐに歩いてくる。
「ど、どうしたんですか?」
長身のチャーリーは、ウィリアムを見降ろしながらそう言った。ウィリアムが、目の前に迫り、チャーリーを睨みつける。そして、ポケットから拳銃を取り出し、チャーリーへと銃口を向けた。マリリンが悲鳴を上げる。
「あなた、気は確か?」
「チャーリー!二度と俺の前に現れるな!」
銃口を向けられているチャーリーはまだ冷静だった。
「はっはっは。さすがウィリアム社長だ。みんなさん、マリリン。落ち着いて、これはジョークですよ。そうですよね。ウィリアムさん。しかし、これはちょっと、度が過ぎるドッキリですよ。さすがに、みんなさんついていけません。はっはっは。でも、これがウィリアムさんのすごさ。みんなさんの予想をはるかに超える行動で、周囲を圧倒してきた。さすが、希代の経営者のマインドですね。勉強になります」
薄笑いを浮かべながらしゃべり続けるチャーリーの口を止めたのは、銃声だった。
バン!
弾丸は、チャーリーのほほをわずかにかすめたのみだったが、彼は恐怖で全身の力が抜け、無様に腰を抜かした。
「あああ!」
チャーリーの叫び声が、リビングに響く。パーティの参加者もまた、悲鳴を上げながら、逃げていった。
「人殺し!」
チャーリーはそう叫びながら、這いつくばるように逃げていく。
「キチガイね」
マリリンは、目の前の光景を見て固まったままそう言った。
「邪魔者は消えた。今後、俺の家で、パーティなど開くな。そして、あのチャーリーと会うことは禁止する」
「いやよ。あなたとは別れるわ」
マリリンもまた、リビングを去ろうとする。ウィリアムは、彼女の腕をつかみ、引き留める。
「離して!」
「ダメだ。私と一緒にいろ!」
「はぁ?何よ?急に!」
「一緒にいろ!」
「いやよ!ウザイわね!」
バシッと、マリリンがウィリアムをぶった。ウィリアムが、マリリンを睨む。
「怒ってるの?打ちなさいよ。さぁ、撃ち殺しなさいよ下種男!」
ウィリアムが、マリリンをぶった。同時に、マリリンは床に倒れこむ。ウィリアムの熱は急激に冷め、冷静さをとりもどす。
「すまない。マリリン」
「触らないで!」
「つい、かっとなってしまった」
「あなた病院に行ったほうがいいわ、そして、二度と出てこないで!」
「悪かった。マリリン。悪かった。二度とこんな真似はしない。許してくれ」
「そんな言葉、信じられるわけないでしょ?」
「愛しているんだ。マリリン。君を深く愛している」
マリリンは、立ち上がり、アウターを羽織る。
「愛してる?あなたが愛してるのは、自分だけでしょ?」
「どうして、そう思うんだ?私が君のためにどんなに苦労してきたか・・・君の夢をかなえたいんだ。大きな舞台で歌を歌いたいと、君は言ったじゃないか」
ウィリアムは、マリリンの手を取る。
「歌ってくれ、歌うんだ。なぁ、マリリン」
ウィリアムは、マリリンを抱きしめた。
「やめて・・・今日は、帰るわ」
マリリンがウィリアムを振り払い、部屋を出ようとする。
「いや、マリリン。今日は、ここに泊まっていきなさい。仕事を思い出した。私は会社へ向かう。今日はもう帰らない・・・だから、安心してくれ」
部屋を出るマリリンを引き留め、変わりにウィリアムが部屋から出た。そして、その足で、オフィスへと向かい。夜通し仕事をした。
夜が明ける。この日、ウィリアムは大忙しとなる。
「おはようございます」
リサは出勤し、いつも通りタバコに火をつけて、ハロルドの方を見た。今日はいつもと様子が違った。
「あれ?今日は、あんまりタバコ吸ってないんですか?」
「どうして?」そう答えるハロルドは、タバコをくわえている。
「だって、今日は全然原稿が黄ばんでない。真っ白で綺麗な原稿用紙のままです」
「ん?そうか?」
原稿を書き終わったと同時に、ハロルドは立ち上がり、原稿を持って、社長室に向かった。「なんだろ?」
いつもの怒号はなく、ほんの数十秒で、ハロルドは社長室から出てきた。
「さようならリサ」
「え?」リサはきょとんとした表情で、大きな段ボールを抱えたハロルドを見つめる。ハロルドは、会社を辞めた。
カンカンカン
不機嫌そうに、ペンでデスクを叩く音が、社長室から聞こえる。
次に社長室に駆け込んだのは、マヤだった。
「今度はなんだ?お前もやめるのか?」とウィリアム。
「馬鹿な事言わないで!早く家に帰って!マリリンが倒れたわ!」