表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

サブロク協定 その3

使い方間違ってます?

◆番外編 ボブの長い一日

「ひいおじいちゃん!ひいおじいちゃん!起きてよ!」

 小さな子供に体を揺すられて、白髪交じりの黒人男性が目を覚ました。

「ああ、ジュニア。おはよう」

「ひいおじいちゃん!今日は山登りに行く約束だろ?いつまで寝ているの?ほら、もう出発するよ!」

 少年の名前は、ボブジュニア。そして、その曽祖父である男の名前は、ボブ。

「そうだったね。すまんすまん。さあ、すぐに出かけよう。白髪のボブはベッドから立ち上がり、傍にある杖を手にした。左足が不自由らしく、彼は杖を突き、足を引きずりながら歩き、窓から見える小高い山をめざして家をでた。

「今日は、少し天気が悪いね」

 ボブは、空を見上げた。雨は降っていないが、曇り空だった。

「頂上に行けば、晴れるかなぁ」とボブジュニア。

「きっと晴れるさ」

「頂上からは、ひいおじいちゃんの思い出の場所が見えるんでしょ?」

「そうだ。すべては見えないが、その一部を見ることができる」

「ねぇねぇ。上るまでの間に、ひいおじいちゃんの昔話を聞かせてよ!」

「昔話か。そうだねぇ。おじいちゃんは、大昔、東海岸のとある場所で働いていたんだけど、仕事がとても忙しくてねぇ。中でも、特に忙しかった一日の話をしてあげよう」

「うんうん!」

 意気揚々と足取り軽く、ボブジュニアは歩き始めた。ボブもまた、杖を突いて、前へ前へと進んでいく。


――――――――

「おはようございます!社長!」

 多忙で、ほとんどオフィスで寝泊まりしているウィリアムを、彼の邸宅から送迎するのは、一カ月に数日だ。

「おはよう。ボブ」

「社長!聞いてくださいよ!昨日、うちのワイフが、大量にミルクを買ってきたんですよ。俺は、ワイフに「おいおい、そんなに買ってきて飲み切れるのかよ!」って言ったんです。ほら、ミルクってすぐに腐るでしょ?長くても2、3日で飲み切れる量をちゃんと買ってくるんですけど、昨日は、そうだなぁ。1週間分くらいの量を買ってきたんですよ・・・」

 ボブは、底抜けに明るく、おしゃべりだ特に、朝は非常にテンションが高い。

「話を聞くから、車を出してくれ」

「ああ、そうですね!失礼しました!」

 ボブは車から降り、車の前についているハンドルを勢いよく回す。初期の車のエンジンの初動は手動である。

「ブルンブルン!」

 彼は毎朝、エンジンを掛けるとき、エンジン音をまねたこの奇声発する。だんだん本当にエンジンの音に近づいてきているのをウィリアムは感じていたが、どうでもいいことなので基本的に無視する。

「やっぱ、いいっすね!ガソリン車ってやっぱ最高ですよ!」

 余談だが、車が量産化されて間もないこの頃、動力源としては蒸気機関が主流であった。大きなボイラーと大量の水が必要となる蒸気機関は、小さな車にとっては非常に効率の悪いシステムであるが、蒸気機関車の技術発展の流れを受けて、車も蒸気機関で動かすのが当然という固定観念が根付いていた。徐々に、ガソリン車の有用性が証明されつつあったのだが、完全にその地位を確立するのは、数年後。それを成すのは、トーマスの弟子であるフォードである。

「話の続きは?」「ああ、そうですね!それで、せっかく買った牛乳が腐ってしまうと思って、不安だったんですけど、なんと、うちのワイフが一日で全部飲み干しちゃったんですよ!あの飲みっぷりには、ビックリしましたね。それで、うちのワイフに言ってやったんですよ!「おいおい、My Wife!おまえ、世界ミルク飲み選手権があったら絶対優勝するぜ」って」

 心地よい車の振動が、ウィリアムの眠気を誘うが、ボブがそれをかき消す。

「そしたら、あいつなんて言ったと思います?」

「・・・知らん」

「「それは無理よ」っていうんですよ!だから、俺は「なんでだ」って聞いたんです。そしたら、うちのワイフなんて言ったと思います?」

「・・・知らん」

「「ベッドの上のあんたには負けるわ」っていうんですよ!ハッハッハッハ!!」

 ボブは、ハンドルを叩いて笑う。

「いやーそっからはもう、止まらなかったですよ!5人目が生まれたらどうしましょう」

「・・・知らん」

「給料上げてくださいね!社長!」

「・・・もっと働け」

「社長が家に帰ってくれたら、もっと働けますよ!そうだ!そろそろ結婚相手でも探したらどうですか?」

「・・・余計なお世話だ」

「社長なら、選り取り見取りなんでしょうけど、あんまり選ばないほうがいいですよ。完璧な女なんていないんですから、この子はこれがだめ、あの子はあれがダメって、結局決断できないだけですから」

「じゃあ、どうすればいい?」

「おすすめの方法があります」

「なんだ?」

「結婚前にベイビーを作るんですよ。俺みたいに!」

「お前と一緒にするな」

「自分で決断できないんですから、だれかに決断を任せるしかない。でも、他人に任せることはできない。そうなりゃ、我が子に託す以外ないでしょ?社長のベイビーが、「このママがいい」と思った女性と結婚しちゃいましょうよ」

「下賤な話をする前に、ちゃんと運転しろ」

「あいよ!」

ボブは、細く、長い指でハンドルを握り、右に大きくまわした。


ボブの第一の仕事は、もちろんウィリアムの送迎である。日中、ウィリアムは、出先に行くことも多く、そういう日はボブも忙しくなる。しかし、時期によっては、ウィリアムは、会社からほとんどでないこともある。しかも、彼はそういう時に限って社長室に泊まり込むため、朝・夕の自宅への送り迎えもない。マヤやそのほか外回りの多い人の送迎も行うが、ウィリアムが会社にこもるときは、大抵、そのメンバーも一緒だ。つまり、定期的にボブは極めて暇になる。そういう時、ボブは決まって小遣い稼ぎに時間を費やす。街中をうろつき、適当な人を送迎し、チップを稼ぐ。所謂、白タクだ。

「今日も暇だろうなぁ。いっちょ稼ぐか」

 まず、会社の周りのビジネス街を一周し、客を見つけることにした。

「おっ!ビンゴ!」

 きょろきょろとあたりを見回している中年ビジネスマンを見つけた。

「今日は運がいいぞ!こんなに早くカモがみつかるなんてな!」

 ボブは、ビジネスマンの横にT型を横付けし、彼に声をかける。

「おじさん。道に迷ってるの?乗せていってあげるよ!」

「ああ、ありがとう・・・」

 そう言って、車に乗り込もうとする直前、ボブの顔を見て、彼は動きを止めた。彼は、ボブが黒人だと分かった瞬間、気が変わったようだ。

「いや、やめておくよ」

「どうして?チップは少しでいいよ!」

「いや、失礼する」

 ビジネスマンは、逃げるように去っていった。

「あーあー、惜しかった」

 もっとも需要があるはずのビジネス街で、ボブのタクシーの乗車率は低い

「なんでかなぁ。いい漁場だと思うんだけどなぁ」ボブに差別を受けているという思いは、さらさらなかった。

 ほかにも、何人かに声をかけてみたが、駄目だった。そろそろ、別の地域に移動しようかと思った時、ビジネスマンの波に揉まれている老婆を見つけた。

「バアチャン!乗ってくかい?」

「ああ、ありがたい」

 小さな老婆は、コンコンと持っている杖を車に当てた。

「車に傷、つけないでくれよ!バアチャン!」

「ああ、ごめんなさいね」

 くしゃくしゃの笑顔で車に乗り込んだ。乗り込む瞬間、一度、足を踏み外す。

「バアチャン。大丈夫かよ」

 ボブは車を降り、優しく手をかしてあげた。

「あなた、親切なのね」

「そうだよ。だから、チップ弾ませてよね!」

「まぁ、商売上手だこと」

 老婆の眼球は、白く濁っていた。

「バアチャン大丈夫かよ?その目」

「ああ、もうほとんど目が見えてないのよ」

「ええ!ここまでよく来たな!一人で来たの?」

「そうよ。メリーランドから一人で来たのよ」

「遠かっただろ?一体、どうやってきたんだ?」

「あなたみたいな親切な人を街で見つけては、助けてもらってきたのよ。だけど、このあたりに来てからは、全然、誰も手を貸してくれなくて困っていたの」

「ここらの人間は、みんな忙しいからね。しょうがないよ」

「老人には、つらい時代になったものね」

「まぁ、あんまりネガティブになってもしょうがねぇぜ!時代の流れには逆らえないからね」

「それもそうね」

「ところで、目的地はどこなんだ?」

「ああ、ここよ。親戚の家があるの」

 老婆は、くしゃくしゃの紙を差し出した。かすれた文字で、住所が書かれていた。

「おいおい、まじかよ」

 指し示していた場所は、ニューヨーク、マンハッタンのロウアーイーストサイド。イタリア系ギャングの「ファイブ・ポインツ」とユダヤ系ギャングの「イートマンズ」が目下抗争中の、極めて危険な地域である。

「バアチャン。やめたほうがいいぜ」

「どうしたの?」

「ここめちゃくちゃ危ないところだ。ギャングだらけだ」

「あははは、そんなわけないじゃない。平和なところって言っていたわ。それに、親戚の家は、牛乳配達の仕事をしてるのよ。とても繁盛してるって。ギャングが毎朝、律儀に牛乳を飲むわけないでしょ?」

 スラム街育ちのボブには分かる。スラム街では、牛乳屋が繁盛する。配達するのは、ミルクという名の、ドラッグ。恐らくアヘン。

「バアチャン。その親戚とは仲いいの?」

「今日初めて会うの」

「はぁ?」

「私、最近、再婚したの。今日は、ここに住む人たちは、旦那の親戚よ」

「マジかよ!バアチャン元気だね!何歳?」

「御年75よ!」

 ヒューっと口笛を吹くボブ。

「旦那は、今日、いないの?」

「メリーランドに置いてきたわ。仕事が忙しいって」

「冷たい男だね」

「働き者なところが気に入ったのよ」

「ふーん。まぁ、確かに俺のワイフも、働き者なところがいいって言ってたし。そんなもんか。で、なんで会ったこともない親戚にわざわざ一人で会いに来たんだ?」

「親戚の家は宿として借りるだけ、本当の目的は息子に会いに来たの」

「息子さんに?」

「そうよ。もう何十年も会ってないの」

「直接息子さんのところに行けばいいじゃないか」

「それが、どこにいるのかわからないのよ。ニューヨークのどこかってことしか、今のところ手掛かりはないの」

「おいおい、大丈夫かよ」

「息子は働き者なのよ。毎月すごい額のお金を送ってくれるの」

 よく見ると、老婆はとても派手だ。すべての指に、大きな宝石のついた指輪をつけている。

「でも、会ってもくれないどころか、居場所すらも教えてくれないんだろ?なんだか怪しいぜ?大丈夫かよ?」

「忙しいのよ。きっと、すごく成功してるわ。すごいビジネスマンになっているはずよ。だから、最初にビジネス街に来てみたんだけど、さっきも言ったように、だれも助けてくれなくてね。親戚に手伝ってもらうわ」

「バアチャン。ニューヨークは広いんだぜ。手がかりもナシに、探すのは難しいと思うんだけどなぁ」

「大丈夫よ!親子ですもの!見つけるわ!さぁ、とりあえず、まずはここに行きましょう!」

「まじかよぉ」ボブは渋ったが、老婆の希望に満ちた顔に押され、車をだした。


 朝のロウアーイーストサイドは、穏やかだった。しかし、街全体の湿気が高いのか、ジメジメした不快な空気に包まれている。人気はない。時々、道で遊ぶ子供たちと、タバコを吸いながらそれを眺める母親の姿が見えるだけだ。母親は、胸元が大きくはだけた格好。そこに高級車が通り抜ける。母親は、じっと車を目で追う。さすがのボブもこの地に足を踏み入れた瞬間から、黙りこんだ。手の汗で、ハンドルがすべる。

「こえぇぇ」

「ところで、あなた肌が黒いのね」

 ぼんやりとしか見えていない老婆が言った。

「もしかしてニガー?」

 さらりと、蔑称を言った。老婆は、黒人差別主義者だった。

「え?そうだよ?」

 特に気にした様子もなく、ボブは答えた。

「あははは、面白いのね!冗談よ。ニガーが車を運転できるはずないものね!」

「そんなことないぜ。ニガーの方が車の運転は得意だぜ」

「あははは。冗談ばっかり」

「とにかく、静かにしてくれ」

 老婆は無視して、しゃべり続ける。

「ほんとリンカーンは、バカよね。アフリカの原始人に人権を与えるなんて。汚らわしい。私なんて、彼らを見るだけで寿命が縮むのよ。ああ、いやだいやだ。私、昔ハーレムに住んでいたんだけど、ニガーが増えたから引っ越したわ」

「俺、今ハーレムにすんでるんだけど?」とボブ。

「まぁ、あなたも早く引っ越したほうがいいわ。私が出たのは30年くらい前だけど、もうハーレムは完全にニガーの街になっているらしいじゃない!ああ、やだやだ」

 差別的な扱いに対してどん感なボブでも、不快な気分になってきた。

「息子さんて、どんな人だったんだい?」

 ボブは話題を変えようとした。

「ああ、息子は、すごく頭がよくて、体も強くて、ほんとうにいい子だったわ」

「いいなぁ、俺の息子とは大違いだ」

「気にしなくていいのよ。私の息子が特別なだけ」

「悪いこともしなかった?」

「親思いのいい子だったわ」

「でも、思春期のころはちょっと荒れたんじゃない?おれの息子もかなり大きくなってね。手がかかるよ」

「そんなことなかったわ」

「うらやましい。一度も、怒ったことがないんじゃない?」

「そうね・・・あ、でも、一度だけ、ひどく怒ったことがあったわ」

「何やったんだい?」

「ケンカよ」

「まぁ、男の子にはよくあることじゃないか」

「私が怒ったのは、喧嘩の原因よ。彼、ニガーを助けようとしたのよ!ホントにあの時はビックリしたわ」

 ボブにしてみれば、とても好感の持てる息子だ。ボブも、少し息子さんに会いたくなった。車は街のさらに奥へと進む。子供の姿はもう見えない。代わりに、タトゥーだらけの若者たちの姿がちらちらと見える。時々、イタリア語で罵倒するような声が聞こえる。

(うわぁ、怖い怖い)

 「ご近所さんの目もあるでしょ?だから、手加減するわけにはいかなかった。彼をひどくぶったの。彼は初めて私を睨んだわ。その時の、あの子の顔が忘れられないのよ」

 老婆は、めそめそと泣き始めた。ボブは、悪い話題を振ったなぁと少し反省する。

「バアチャン。泣かないでくれよ・・・泣きたいのは俺の方だ・・・そうだ」

 ボブは、お得意?のアメリカンジョークで空気を変えようとする。

「ニューヨークにあるビジネスマンが住んでいた。そのビジネスマンは、とても仕事熱心だった」

「なんの話?」

「まぁ、聞いてくれただのアメリカンジョークだよ」

「あら!本場のジョークを聞けるのね!」

 老婆はノリノリだ。

「そのビジネスマンは、とにかく仕事が好きで毎日毎日仕事仕事だ」

「いいことじゃない」

 「ああ、だが度が過ぎる。妻と一人の子供がいたが、仕事仕事でほとんど家庭に寄り付かない。たまーに、帰るくらいだ。当然子供は彼に懐かない。ある日、彼とは正反対の同僚。家族サービス優先で仕事は二の次の同僚が彼に言ったんだ。「おいおい、仕事だけが人生じゃないんだぜ?」その言葉に、ビジネスマンの心が動いた。ビジネスマンは、子供に父として認められようと、家族サービスをすることにしたんだ。だけど、仕事仕事の人生だから何をすればいいのか分からない。彼は、あろうことか、子供を職場に連れてきた。社会見学という名目で自分の一番輝いているところを見せようとしたんだ。嫌がる子供を、彼はオフィスに案内し、同僚に紹介しようとした。その時、子供は一目散に同僚に飛びつき、言ったんだ。「ダディ。知らないオジサンが、僕をここまで連れてきたんだ」ってね。ハッハッハッハ!!ハハハ?」

 老婆は、冴えない表情だ。

「えっと、ごめんなさいね。意味が全然わからないんだけど」

「えーっとつまりだね。同僚はビジネスマンの妻と浮気してたんだ」

「そうかしら?本当は、同僚が父親で、ビジネスマンが知らない人じゃないのかしら?」

「うーん、確かに、そういう解釈もできなくはないかぁ」

 思ったようにはならなかったが、目的地にたどり着くまでの時間つなぎにはなった。

「住所はここだよ!」

「ああ、着いたのかい?ありがとう。ほんとにありがとう」

「いいってことよ!」

 ボブは元気よく返事をして、後部座席を振り向き、彼女にアイコンタクトをした。

(さぁ、たんまりチップをくれ!)

 ボブは、目で合図したが、後部座席には彼女はもういなかった。

(ガッデム!!)

 ボブはハンドルに頭をぶつけた。一方、老婆は、住所の家のドアを杖でたたく。中から、10歳くらいの男の子が出てくる。

「坊や。初めまして。ランドルフおじさんを知ってる?」

 子供は首を横に振る。

「私は、ランドルフの妻のマリーっていうの初めまして」

 子供が首を振ったのに、彼女は見えていないようだ。

「ママ!変なババアが来たよ!」

 さらりと汚い言葉を叫ぶ子供。

「ウィリアム!勝手に玄関を開けないでってなんど言ったら分かるの!」

(あの子供、社長と同じ名前か)

 なんだかおかしくなって、ボブは笑った。

 家の奥から、一人の女性が現れた。

「変なオジサンが入ってきたらどうするの!・・・あんた誰?」

「ランドルフの妻のマリーです」

「・・・ああ、あなたがマリー?いらっしゃい」

 女は笑顔を作る。

「遠かったでしょ?よくここまで一人で来られたわね」

「親切なドライバーがここまで連れてきてくれたの」

 女が道沿いのボブの方を見る。ボブは手を振る。女の表情が険しくなる。

「ウィリアム。家の奥に入りなさい。お父さんのところへ」

「でも・・・」

「早く!」

「マリー。ランドルフから何か、私たちに渡すように言われていない?」

「ああ、これね」

 マリーは、白い箱をカバンから取り出した。女はそれを乱暴に取り上げる。そのまま、中を確認する。

「OK。さぁ、入って」

「ああ、ありがと」

 老婆は、家の中へ入っていく。扉をしめる直前に、ボブに向かって手を振った。

「じゃあな!元気でな!」

 ボブは、懐中時計を取り出した。12時35分。

「しまった!」

 13時に社長をブロードウェイまで送るという仕事があるのだ。会社のあるミッドタウンの北側から普通に行って40分程度だが、なるべく安全な道をゆっくりと進んだせいで余計な時間がかかっていた。あと、20分ほどの時間しかない。ボブは、助手席に置いてあった小さなバスケットに手を伸ばす。中から、ホットドックと小さなアイスカップを取り出す。バターナイフでアイスカップに入っている粘性の高い物質をホットドックに塗りたくる。塗ったものは、カスタードではない。

「やっぱ、ホットドックには、ピーナッツバターだな!」

 彼は、巨大な口を開け、ホットドックを2口で食べ尽くした。

「来た来た来た!」

 ボブは、クラッチペダルを踏み込む。ボブの足元には3つのペダルがある。一つはクラッチペダル、二つ目はリバースペダル、3つ目はブレーキペダル・・・。おかしなことに気づいただろうか?アクセルペダルがないのだ。ボブの車は、足元でスピード調整はしない。代わりに、手元のスロットルレバーで操作する。これが、アクセルペダルの代わりである。ボブは勢いよくレバーを弾いた!

「イケー!!」

 エンジン音が大きくなり、T型は加速し、ニューヨークを駆け抜ける。ロウアーイーストサイドのボロボロな建物が、現れては消える。

「たまんないぜ!この車!色々運転してきたけど、風になれるのはこいつだけだ!」

 初めてこの車と出会った時のことを、ボブは思い出していた。

 あれは2年前、ウィリアムがトーマスの家を訪問した時だ。

・・・

「ボブ。君に用があるそうだ」

「俺に?一体、なんですか?」

 当時運転していた車の助手席から首を出すと、ウィリアムの横に白衣を着た白人男性が立っていた。痩せていて、眼鏡をかけ、下を向いている。典型的なガリ勉という感じだ。

(うわー完璧な陽キャラなおれとは、話しが合わなそうなおとこだなぁ)というのが、ボブが受けた第一印象。

「や・・・やあ、えっと、僕はヘンリー。ヘンリー・フォード」

 ヘンリーは、震える手を差し出した。

「よろしく!俺はボブだ!」

 車のドア越しに彼と、握手するボブ。

「ところで、用ってなんだ?」

「じ・・・実は・・・、」

「なんだ?」

「え・・・えっと」

 ヘンリーは、うつむき気味にチラチラとボブを見る。

(うわ・・・こいつ・・・もしかして・・・)

 ボブは、身の危険を感じた。

「とりあえず、俺はトーマスを探しに行くから、二人で時間を潰しておいてくれ・・・まったく、どこに行ったんだ?」

「すいません。自由な人なんです」

 ヘンリーが申し訳なさそうに謝る。

「いいんだ。久しぶりにこの邸宅を散歩させてもらうとする。じゃあ、また後で」

 そういうと、ウィリアムが去っていった。

(社長!おいていかないで!!)

 ボブは心の中で叫んだが、ウィリアムには届かなかった。


 二人きりになった、ボブとヘンリー。

 ヘンリーが、ボブを見つめる。

「と・・・とりあえず、ちょっとついてきてくれませんか?」

「は・・・はい」

 ボブは恐る恐る、ヘンリーについて行く。

(身長・体重、共に俺が一回り上だ。いざとなったら・・・いや、しかし、俺は丸腰だ。そうだ、こいつは科学者だ。頭はいいはず。負けると分かっている相手に力づくで迫るわけがない・・・拳銃を持っている?いや、違うだろう。そんな単純な方法を使うわけない。薬?いや、何か蒸気機関を使った大規模な装置をどこかに隠しているんだ。自動的に俺を拘束できるようなシステムをどこかに隠しているに違いない)

「さぁ・・・こ・・・この中です」

 小さな掘っ建て小屋の前に立つヘンリー。ボブは、胸に十字を切る。

(終わった・・・)

「さぁ、中へ」

 震えながら、中に入るボブ。暗くてよく見えないが、入口近くに、小さなベッドが見える。

「ここにすんでるんですか?」

 ぎこちない丁寧語で、ボブはヘンリーに聞いた。

「そうです・・・ここで寝泊りしています・・・作業場の一つなんですが、一日中仕事ができるようにと、社長が貸してくれたんです」

 硬直しているボブに、ヘンリーの言葉は入ってこない。

「ヘンリー・・・悪いんだが・・・俺には、愛すべきワイフが・・・」

 ヘンリーは、電灯のスイッチを入れた。白熱電球のあたたかな光が、映し出したもの、それが”フォードT型”との最初の出会いだった。一目見ただけで、ボブは心を奪われた。ヘンリーに感じていた恐怖も跡形もなく吹き飛んだ。

「ワォ!なんだこれ!超かっこいいじゃんか!」

 黒塗りの鮮やかな光沢。精密な骨組み。そして、何よりボブを魅了したのは、その圧倒的な軽量感である。一切の無駄を排除したデザインにボブは心を奪われた。

 「動力はガソリンです。蒸気や電池は、重すぎますし、燃費も悪い。最悪です。これからは、絶対にガソリン車の時代になると思うのです」

 急に饒舌になったヘンリー。

「操作方法もよりシンプルな方式に替えました。ちょっと、敷地の外へ行きましょう。操作方法をレクチャーします」

「マジかよ!やったぜ!」

 T型に乗って、二人は広大な敷地の周りを一周した。ボブの興奮はさらに高まっている。

「ヤベェよ!すげぇよ!なんだこれ?未来の乗りのだな!」

「い・・・いいえ。未来ではありません。これからの乗り物です」

「本当に運転してもいいのか?」

「もちろんです」

 運転手を交代した。2、3回、エンストをおこしたが、ボブはすぐにマスターした。

「右手側のレバーを上に挙げるほど、スピードが出ます」

「フウウウ!!!」

 ボブは勢いよくスロットルレバーを弾く。エンストはしなかった。代わりに、味わったことのない慣性力が、ボブを座席に押し付ける。

「最高だ!」

 ヘンリーの半分の時間で、もとの場所まで戻ってきた。今度は、ヘンリーの方が恐怖した。

「試作品ですので、あまり速度を出しすぎないようにしてください!」

 ヘンリーが強い口調で言った。二人の距離も一気に縮まっていたのだ。

「悪い悪い!でもこれ、ホント最高だ!あんたが作ったのか?天才だぜ!」

 褒められたヘンリーの顔が赤くなる。

「ありがとう・・・」

「ところで、これいつ発売されるんだ?社長に即買ってもらうぜ!」

「いや、売り出す予定は、まだないんです」

「なんで?もう、完成してるじゃないか?」

「いや、まだまだです」

「マジかよ。残念だ。すぐにでも運転したいのに!」

「販売はしませんが、これ、差し上げますよ」

「えっ!」

 おしゃべりボブは言葉を失う。

「度々やってくるあなたの運転をずっと見てました。素晴らしいです。車への愛情も申し分ない。あなたのような素晴らしいドライバーに、使ってもらいたいんです」

「マジかよ!ありがとう!あんた最高だぜ!」

 ボブが、ヘンリーを抱きしめた。わずかにヘンリーの顔が火照ったことにボブは気が付かない。とにかく、そんなこんなで、二人は友人となった。


 その後、二人は車談義で盛り上がった。

「俺も車が好きでさぁ。自分なりに社用車をいじったりしてるんだが、難しいな。家の中にガラクタが増えるばっかでね。ワイフにいつも怒られるんだ」

「あなたのような車マニアが増えてきて嬉しいです。しかし、車はまだ上流階級の乗り物です。ウィリアム社長のような資産家しか手を出せないのが現状です。僕は、それを変えたい。もっともっと、一般の人たちにも手が届くものにしたい。一家に一台は、必ず車があるような。そんな世界を作りたいんです」

 ヘンリーの熱い思いに、ボブはジンと感動した。

「あんたを尊敬するよ。でも、それなら、なんでまだここで働いているんだ?その夢に向かってすぐに走り出すべきだ」

「私は、まだまだです。社長から学ぶことが山ほどあります。この車も、社長に言わせてみれば10歳のころに遊びで作ったものと同じだそうです」

「絶対、嘘だろ?あんたの才能に嫉妬してるだけだと思うけどな?・・・ホットドック食うかい?」

 ボブは、どこからともなくホットドックを取り出し、ヘンリーに差し出す。

「いいえ結構です」

「そうか」

 ボブはそれを自分で食べる。

「社長はすごいです。まだまだ底知れない未知の知識を秘めている。僕にしてみれば、神みたいなひとです」

 ヘンリーの目が輝いている。

「おいおい。大げさに言いすぎだぜ?俺たちにとって神は一人」

 ボブは、また胸に十字架を切った。言い忘れていたが、彼は敬虔なクリスチャンである。

「ほんとにすごいんです。私たちが1カ月悩んだことも、あの人にかかれば数秒で答えを導きます」

「それなら、すぐに答え聞けばいいじゃないか?」

「いいえ、あの人は基本的に教えるということはしません。いつも、自分の仕事に没頭していますから、私たちは、たまに彼が話してくれる内容から、自分に役立つ知識を類推、抽出するんです。そういった能力が、あの人の部下には必要です」

「お互いめんどくさいボスをもったな」

「間違いないですね」

 ボブとヘンリーが顔を見合わせて笑った。


「ところで、この車なんて名前なんだ?」

「T型と私は呼んでます」

「なんだ?そのTって」

「さっき言ったような社長の助言を頼りに作ったものですから、社長の名前トーマスの頭文字を取りました」

「だせぇな。もっと別の名前にしていいか?」

「もちろんです。今日からあなたのものですから」

・・・

 風の中で、ボブは思い出した。

(そういえば、まだ名前をつけてなかった)

 ボブは、ずっと”この車”と呼んでいた。

(何にしよう・・・トーマスの名前を取ってT型か・・・そんじゃぁ、俺はウィリアムにするか・・・ウィリアム?いや、だめだ・・・まぁ、T型でいいかぁ・・・ウィリアムねぇ)

 先ほどの子供、ウィリアムを思い出した。同時に、あの老婆も。

(あのバアチャン大丈夫かな?絶対いいように利用されてる気がするんだが・・・)

 後ろ髪を引かれる思いがした。あんな危険な地域に一人、おいてくるべきではなかったのではないか?とボブは思った。


 12時55分。間に合った。ボブは、会社のビルの前に車を止め、何食わぬ顔でウィリアムを待つ。そして、テナントからとウィリアムが現れた。

「社長!お疲れ様です!」

(そういえば、あのバアチャンの息子の名前を聞いてなかったなぁ。きっと、あの親戚は頼りにならない。俺が手伝ってやるかぁ・・・)

「早く出せ!」

「あいよ!」

 車の運転をしながらも、ボブはあの老婆に思いを馳せていた。

(仕送りをするのに、何十年も合おうとしない息子・・・おかしな奴だ・・できのいい息子ねぇ・・・頭がよくて、何でもできる。自分の意思のためなら喧嘩もする・・・気の強い男なんだろうなぁ・・・黒人を助けてくれるなんて、好感の持てるやつだ)

「右じゃないのか?」

 ウィリアムが言った。

「あっ、間違えました」

 ボブがUターンする。

「はぁ」

 ウィリアムがため息を着く。

(頭がよく。なんでもできて、出来がいい。気が強く、対立する相手と喧嘩することも厭わない。毎月、多額の仕送りが出来るほど成功している。そして、黒人を差別しない白人男性・・・まさか!)

 ボブは、ブレーキペダルを踏み込む。車は急停止する。

「バカ!何やってるんだ!」

「すいません」

 ボブはまた車を走らせ始めた。

「社長。社長のお母さんてどんな人でした?」

 ウィリアムは新聞を読むのを止めた。

「なんだ?」

「いえ、お母さんてどんなひとだったかなぁと」

「黙って運転しろ!」

「はい!」

 ボブは黙って運転する。

(この反応。やっぱり・・・)

 ボブは確信を強める。

「・・・俺とは違い。穏やかな人だった」

 ウィリアムが、話始めた。すかさずボブが質問する。

「怒られたことはありますか?」

「ないな」

「本当に?」

「何が言いたい?」

「いえ、どんなに優しい母親でも、一度くらいは子供をしかりつけるでしょ?一度もないなんてホントかなと」

 ウィリアムは、新聞を置き、考えた。

「・・・一度だけある」

(来た!)

「怒られた原因はなんですか?」

「お前には関係ない」

「社長、そこをなんとか」

「そこまで聞きたいか?」

「はい。もちろんです」

「ならば、今月の給料20%減額だ。それでも聞きたいか?」

「・・・いやです」

 それは、いやだった。

「話は終わりだ」

「・・・はい」

 ボブは質問を変える。

「お母さんは、今、どこでなにを?」

「お前、一体どうした?」

「いえ、特に理由はないんですが・・・なんとなく気になって」

「十年前に死んでる」

(え?)

「以上だ」

「・・・はい」

 鈍感なボブでも気まずい気持ちになった。

(亡くなってたのか・・・いや、それも嘘かもしれない)

 そうは思ったものの、これ以上追求する気にはなれなかった。


「社長着きました。どれくらいかかります?」

「10分だ」

 ウィリアムの10分は、大抵30分位を示す。

(また、中途半端に待たされるぞ)

 と思ったが、きっかり10分でウィリアムは戻ってきた。

「早かったですね。会社に戻りますか?」

「・・・いや、待て」

 そういうと、ウィリアムは腕組みし、じっと考え始めた。

「どうしました?」

「ハロルドを呼んできてくれないか?」

「え?ハロルドさんいるんですか?」

「前もいったスタジオだ」

「分かりました」

 ボブは、車を出て、スタジオに走った。

(自分で呼んできたらよかったのに・・・まぁ、社長なりの演出みたいなものがあったんだろうなぁ)

 

「ハロルドさん!社長が呼んでるよ!」


 ハロルドはひどく緊張していた。

「乗れ」

 と、ウィリアム。会社へ戻るまでの間、ウィリアムとハロルドが何かはなしていたのだが、ボブは二人の話に全く耳を傾けていなかった。

(あのバアチャン大丈夫かな?)

 あの老婆のことがどんどん気になり始めていた。

「社長。今日、送迎はまだありますか?」

「今日は会社に泊まる」

(今日の仕事は、これで終わりだ。あのバアチャンのところに戻って、息子探しを手伝おう)

 老婆が、極度の差別主義者であることなど、ボブの頭にはなかった。人の悪いところなど、すぐに忘れて、気にしない。それが、ボブである。


「お疲れ様です!今日は、帰ります!」


 ボブは、またロウアーイーストサイドに戻った。そして、危険な通りを恐る恐る抜け、マリーの親戚の家まで戻った。しかし、

「えっ!出ていった?」

 家主は、玄関のドアを開かなかった。ドア越しに、ボブに言った。

「そうだ。だから、早く俺の家の前から去れ」

「どこに行ったんだ?」

「知らん。息子を探しに行くといっていた。手伝うように言われたが、断ると、怒って一人で出ていった。さぁ、これでいいだろ?今度、俺の家に近づいたら、撃ち殺す」

 さすがのボブも、家主のこの態度にキレる。

「撃ってみろよ」

 ボブが、ドア越しに家主に言い放つ。明るく能天気なボブだが、忘れてはいけない。彼はスラム育ち。暴力沙汰など日常茶飯事である。優しいだけでは生きていけない世界で育ったのだ。

「何いってんだ。本当に撃つぞ!今、俺は右手に銃を持っている。すぐにでも、お前を撃ち殺せる状態だ」

「だから、やってみろよ。だが、ドア越しだと外すかもしれんぞ?それに威力も半減する。俺を殺し損ねるぞ?ドアを開けろ」

「だめだ」

 ボブは、車に戻っていく。ドアスコープ越しにその様子を確認する家主。

「やっと帰る気になったか」

 しかし、ボブは帰ろうとしているのではなかった。ボブは、車の座席下を開ける。そこには、10ガロンのガソリンタンクと、巨大なトルクレンチが入っている。それは、ジュニアハイスクールの子供くらいの大きさで、一体何を組み立てるためのトルクレンチなのか、全く想像もつかない代物だった。

「おい、なんだ!あれは!」

 トルクレンチを大きく振りかぶるボブを見て、家主が観念する。

「分かった!ドアを開けるから!やめてくれ!」

 家主はドアを開く。ちょび髭を生やしたイタリア系の男が、トルクレンチを振りかぶったままのボブに言った。

「悪かった。謝る。だから止めてくれ!」

 ボブは、トルクレンチを降ろした。

「バアチャンはどこに向かった?」

「歩いて行ける距離に駅がある。ちゃんと近くまで送ったさ」

「あの人は目が見えないんだぞ!一人で行かせるなんて何考えてる!」

「そりゃ、止めたさ!でも、あのばあさん、目が見えねぇだけじゃなくて、聞く耳を持たない!」

「一緒に行ってやればいいじゃないか!」

「そりゃ無理だ!」

「どうして!」

「あのばあさんはユダヤ人だ!」

「どういうことだ?」

「お前も知ってるだろ?今ここでは、イタリア系とユダヤ系のギャングが抗争している。見ての通り、俺はイタリア系だ。ユダヤ人と歩いてるとこを見られてみろ。家族に危険が及ぶ」

「なら、どうして、家にとめてやることにしたんだ?」

「金を払ってくれるっていうから・・・、」

 あの白い箱の中身は、やはり多額の金だったようだ。

 「あと、鉄道はユダヤ系のギャングが牛耳っている。イタリア系の俺は乗れない」

 ボブは一応、事情に納得した。

「分かった。怖がらせて悪かった」

 ボブは、トルクレンチを引きずって車に戻った。駅に向かって車を走らせた。


(ヤバかったぁ)

 運転するボブの足は震えていた。実はさっきかなりビビッていた。ビビった時は、タンカを切る。スラムでの鉄則だった。駅は近かったが、周りの雰囲気は全く違っていた。ロングコートを来た若者が、たむろしている。イタリア系とは違い、かなり物静かだが、チラチラとボブの方を見るのは変わらない。

(バアチャンどこだ?)

 ボブはキョロキョロとあたりを見ながら車を進める。さすがに、ここにはもういないだろう。なんの手がかりもなしに探すのは難しい。

(聞き込みをするしかないか)

 しかし、あの怖そうな若者に声を掛ける勇気はない。どうしようか探しているボブは、視線の先に一人の紳士風の男性を見つけた。ボブは、その男の前で車を止めた。

「オジサン。ちょっと聞きたいことがあるんだけど・・・ってちょっと!」

 男は、ボブの顔も見ずに勝手に後部座席に乗り込んだ。背が高く、ダンディな見た目、短髪。しかし、男の顎には、深い傷跡があった。最近ついたものではない。

(しまった。こいつギャングだ)

「出せ」

 地を這うような声で男がいった。

「いや、今は客拾いはしてない・・・」

「ニガーか?どういうことだ?」

 あからさまな悪意をむき出しにして、男は言った。

「それはこっちのセリフだ。オジサン。早く降りろ!」

「何か手違いがあったようだが、仕方がない。早く出せ」

「何言ってんだ!オッサン!」

「早くだせ。お前も死ぬぞ」

「えっ?」

 周りにいた若いユダヤ人たちが近づいて来ている。ボブの背筋が凍った。反射的にクラッチペダルを踏み、スロットルレバーを弾いた。

「ちくしょう!!あー!最悪だ!!最悪だ!!最悪の日だ!いやな予感してたんだ!!クソッ!!」

「落ち着け。運転に集中しろ」

「あんた何者なんだよ!厄介なことしてくれたな!」

「俺も聞きたいことは、山ほどある。だが、今は運転に集中しろ」

 確かにその通りだった。走る音だけでなく、通りから数台の車も追いかけてきた。

「振り切れるのか?」

「当然だ!」

 ボブは、運転しつつ、助手席のバスケットからホットドックを取り出した。ノールックでピーナッツバターを塗りつけると、それを二口で平らげた。

「イケー!」

 掛け声とともに、車は勢いよく加速した。

「すごい加速だな」

 男がつぶやいた。

 追っ手の自動車とは、根本的な性能が違う。加速力だけでなく、容易に変速が可能なT型は、街中といった小回りの必要な場所での機動力では、無敵といってよかった。

「つかまりな!」

 ボブの運転は荒く感じられるが、ギリギリを責めることのできるセンスがあった。急激にハンドルを右に切る。遠心力で左側の車輪が浮いた。5mほど片輪で進むと、自重で両輪が元通り地面に接した。その瞬間、衝撃で二人の体が座席から浮く。遥か後方で何発か銃声が響いた。

「見たかこの野郎!」

 ボブは追っ手と、後部座席の男に向けて中指を立てた。


 人気のない通りにたどり着くと、速度を落とし、エンジン音を抑えて走った。二人の会話する空間が生まれた。

「あんた何もんなんだ?いきなり人の車に乗り込んできたと思ったら、なんか命狙われるし・・・もう、訳わかんないよ!」

 男は、ボブの質問には答えなかった。

「おい、ニガー。質問は俺からする」

 カチッ!

 拳銃のハンマーを引く音が、聞こえた。

「心して答えろ」

 ボブの額から大量の汗が吹きでる。さっきのように、タンカを切ることはしない。ボブは、雰囲気で察した。

(この男は、躊躇なく撃つ!)

「この車をどうやって手に入れた?」

「どういう意味だ?」

「ニガーは常識を知らんのか?QuesTionをQuesTionで返すな。もう一度だけ言ってやる。どうやって手に入れた?」

「もらった」

「バカか?ちゃんと答えろ。3カウント以内だ」

 緊張で、ボブの呼吸が荒くなる。

「3」

「本当だ!もらったんだ!」

「2」

「だから、本当だって!知り合いの発明家からもらったんだ」

「そいつの名前は?」

「ヘンリー・フォード」

 男は銃を降ろした。

「あんたも知っているのか?」

「俺の質問はまだ終わっていない。なぜ、あそこにいた?」

「朝、客として拾ったバアチャンを探してた。あんたには、そのバアチャンを見かけなかったか聞こうとしただけだ。なぁ、だから、この辺で勘弁してくれよ」

「そのバアチャンのために、ニガーのお前が危険を犯してまであの辺をうろついてたのか?どれほど危険な行為か分かってなかったのか?」

「いや、そうなんだけど。心配になって」

「ふん」

「なぁ、もういいだろ?俺はただの運転手なんだ。そろそろ解放してくれよ」

「ダメだ。俺をこのまま、波止場まで連れていけ」

「波止場!」

 ここでいう波止場とは、ロウアーイーストよりさらに南。マンハッタンの最南端の港を指している。その地域を牛耳っているのは、アイルランド系ギャング。ニューヨークでも最古参で、最も力がある。当然、ファイブポインツ、イートマンズよりも格上の組織だ。

「なんでだ?」

「よくしゃべるニガーだな。少し黙れ。不快だ」

 口調がウィリアムに似ている。

「あんた、うちのボスに似てる」

「堅気にこんな口の悪い男がいるのか?」

「あんたより、遥かに立派な人だ」

「ふん・・・暇つぶしにしゃべるのは構わんが、とにかく、早く波止場まで行け」

 ボブに選択肢はなかった。彼は、角を曲がり、南へと進路を変えた。ボブの手は震えていた。彼には本能的に分かった。この男は、人を何人も殺している。

「ところで、その社長ってやつのそいつの仕事はなんだ?」

「新聞社の社長だ」

「それはすごい。ぜひともお会いしたいものだ」

「お前みたいな人間とは会わない」

「会うかどうかは俺が決めることだ」

「社長が決めることだ」

「この状況で、よく口答えができるな」

 後部座席から、男が運転座席を蹴った。

「俺は、ドライバーのボブ・ライドマンだ」

「・・・はぁ?」

 また、運転席を蹴る。

「お、俺は自己紹介をした。それならあんたも名を名乗るべきだろ。お・・・お前たち白人紳士のマナーだろ?」

「ウィリアム。ウィリアム・スタンバーグ」

 社長と同じ名前だ。

(今日は、本当におかしな日だ。それにしてもウィリアムって名前の人間はみんなこんな感じなのか?)

「し・・・仕事は?」

 ボブの心臓の鼓動はまだ早い。

「仕事は何してるんだ?」

「ハッハッハッハ!俺に言ってるのか?わかった。次は、お前の質問に答えよう」

 スタンバーグが笑い始めた。

「ギャングをしている」

「幹部か?幹部なのか?」

 謎の質問をボブは投げかけた。

「今のところはな。今日中に降格だ」

「なんで?何かミスしたのか?」

「その質問には答えられない」

「どうして?」

「機密情報だ」

「いいじゃねぇか。俺は堅気だ。何の関係もない人間だ」

「質問時間は終わりだ」

「どうして?」

「運転に集中しろ。追っ手が来た」

「追っ手?なんてことないさ!さっきの見ただろ?この車に乗ってる限り、追いつかれることはない!」

「そうだ。この車でなければ、追いつけない。だから、”この車”を持ってきたんだ」

「えっ?」

 ボブは、後ろを振り向いた。路地に姿を現したのは、まさにボブが運転している車。ヘンリー・フォードのT型であった。

「なんで、同じ車が?!」

 急いでスロットルレバーを弾くボブ。いつも通り加速する。いつもなら後続車をはるか後方に追いやるこの行為だが、同じT型には効果がなかった。全く同じ加速力でもって追いかけてきた。そして、追っ手は1台だけではない。2台、計3台のT型が追いかけてきている。

「どういうことだ?どういうことだ?」

 ボブは、ドタバタだらけだったこの日の中で最も混乱していた。

「なんでだ?なんでだ?なんでギャングがこの車を!」

 あの気弱そうな、まじめな、オタクで、ガリ勉なヘンリーの顔がフラッシュバックした。

「ヘンリーに何かしたのか!」

 ボブが叫ぶ。

「黙って運転しろ」

 スタンバーグは、銃口を頭に突き付けた。ボブが気をそらしている間に、追っ手はすぐ近くまで迫ってきていた。

「追いつかれるぞ!ニガー!」

 ボブは急ハンドルを切り、路地を曲がる。いくら性能が同じとはいえ、ボブは2年間この車とともに過ごしてきた。運転テクニックは、後続のギャングたちよりも遥かに上だ。角を曲がれず、通り過ぎていくギャングたちが見えた。しかし、見事に追っ手を撒いても、ボブの怒りは収まらない。ボブは、車を止める。

「どうした?」

「説明しろ!ヘンリーに何をした!」

 銃口を突き付けられながらも、ボブはスタンバーグを睨みつけていった。

「俺が納得するまで、車は動かさないぞ!」

 スタンバーグがボブを睨み返す。

「撃ってみろ」

 ボブを殺せば、運転手がいなくなる。逃げ切ることはできない。ボブに選択肢がないように、スタンバーグにも選択肢はないのだ。ボブの表情に余裕がないように、スタンバーグにも余裕はなかった。

「奴の会社に出資した。だから、試作品をもらった」

 これだけ聞くと、彼は感謝すべき人間のように聞こえるが、ボブは信じなかった。

「それだけか?本当に、金を払ったのか?一部じゃないぞ!ちゃんと全額払ったのか?」

 ボブがすべてを見抜いていることは、目で分かった。

「・・・いや、まだだ」

 出資の話をチラつかせ、わずかな前金だけ渡し、信用を得る。そして、車だけもらい、残りの金は払わない。そういうことだ。

「ヘンリーは、なんでお前たちなんかのことを信じたんだ?」 

 ボブは、思った。

(あれだけ頭のいいヘンリーが騙されるはずがない)

 ボブは、ヘンリーを信じていた。

 忘れてはいけない。ボブは銃口を突き付けられている。

「資金集めに苦労していた。俺が出資の話を持ちかけた瞬間、飛びついてきたぞ?」

「嘘だ」

「奴に出資するやつなんていないさ」

「なぜだ!あいつは天才だ!この車で、世界を変える男だ!そんなこと、俺みたいなバカでも分かる!」

 発明の喜びと将来への希望にあふれたヘンリーの笑顔がボブの頭によぎる。しかし、スタンバーグの一言が、その笑顔をかき消す。

「エジソンの一番弟子だぞ?あのペテン師の弟子を誰が信じる?」

 これが世間一般の認識である。ボブは返す言葉が見つからなかった。笑顔のヘンリーの代わりに、資金繰りで苦しむヘンリーの姿がはっきりと見えた。どんなにアピールしても、門前払いされるヘンリー。尊敬するトーマスを嘲笑され、バカにされるヘンリー。そして、一縷の望みであった出資者が、ギャングであり、都合よく車をだまし取られたヘンリー。哀れで、かわいそうなヘンリーを、ボブは思った。そして、悔しさであふれ出る涙を、ボブは堪えることができなかった。

「ヘンリー!」

 ボブは叫んだ。

 バンッ!

 突如、スタンバーグが発砲した。

 銃弾はボブの頬をかすめた。

「わめくな。ガキが」

 スタンバーグの低い声と銃弾が、感傷的になっていたボブを現実に引き戻した。

「出せ」

 ボブは、黙って車を波止場へ走らせた。追っ手は来なかった。二人の間に、しばらく会話はなかったが、静寂を破ったのは、スタンバーグの方だった。

「俺が、あいつを評価していたのは確かだ。騙してでも、この車が欲しかったんだ」

 ボブは何もしゃべらなかった。そして、スタンバーグもそれ以上、何も言わなかった。


 波止場が近づき、潮の香りが漂ってくる。ここまでくれば、追っ手の心配は必要ない。すでにアイルランド系ギャングの縄張りに入っているのだ。アイルランド系ギャングは、ニューヨークが開拓された頃から、この波止場を縄張りとしている。テリトリー内には金融の中心、ウォール街があり、資金源は潤沢。ここニューヨークで絶対的な地位を確立していた。抗争する相手などいない。彼らのアジトは豊かで、治安が良かった。

「ご苦労だった」

 ボブは、しゃべらない。ヘンリーのこと、そして、今までのぞんざいな扱いにイラついていた。とはいえ、「どうしたニガー?急にしゃべらなくなったな」

 そういわれると、しゃべりたくなるのがボブだ。

「ニガーはやめろ!いい加減腹が立つ!」

「ふん・・・」

「ボブと呼べ!」

「分かったよ。ボブ」

 スタンバーグは、素直に引き下がった。あまりにも意外な反応に、ボブは少しだけ困惑する。

「俺だけだからよかったものの、ハーレムの真ん中だったら撃ち殺されてるぞ」

 ハーレムはマンハッタン島の北部に位置し、近年アフリカ系アメリカ人が多く移住するようになった地域であった。そこでは、白人に支配されたアメリカの常識は通用しない。ハーレムでは、差別の対象は逆転する。

「ハーレムのことならよく知っている。俺は、ハーレムで生まれ育ったんだから」

「なに?」

「ニガーが幅をきかせだしたのは、俺がハーレムの実家を出たあとからだ」

「いつ頃だ?」

「三十年前くらいか」

「あんた何歳だ?」

「42歳。12でこの世界に入った」

「12て!ガキじゃねぇか。めちゃくちゃだな。お母さん泣いてただろ」

「ギャングの親がまともなやつだと思うか?」

「おれのママもおかしかったぜ?一回、家に強盗が入ってきたんだ。ショットガン持って。おれのママそいつを素手でボコボコにしたんだ。怖い怖い」

 スタンバーグはにこやかな顔で答えた。

「毎月、父親が変わった。本当の父親は、母本人も分からんだろうな。そして、ひどいヒステリー女でな。お前の母は、強盗を殴ったんだろ?代わりに、俺の母は俺を殴った。男に殴られるたびに、うっぷんを俺にぶつけた。多分、その強盗以上にボコボコにされてた。俺は、自分を守るために12でギャングになったんだ」

「その母親は今どうしてるか知っているのか?」

「俺がギャングになってすぐにニューヨークを離れたよ。それ以来あっていない。」

「母親も母親だが、お前も冷たいやつだな」

(やっぱギャングの家庭って、ひどい環境なんだなぁ)

もう少しで、スタンバーグからおさらばできるという、安堵感をボブは感じていた。

「大変なんだなぁ。一応、同情するよ。その顎の傷も親にやられたのか?」

 スタンバーグの特徴である顎の傷。恐らく、小さいころについた傷だ。ボブはカマをかけた。その質問にスタンバーグは答えなかった。

「ボブ。その辺で止めろ」

 見ると、数人の男が立っている。

「あいよ」

 ボブが車をとめる。

「じゃあな」

 スタンバーグが車を降り、男たちと合流して、去っていった。

「ふぅ」

 ボブは大きく息を吸い込み、深呼吸した。

「疲れたぁ」

(大回りして帰ろう。できるだけ、ギャングのいない地域を通っていこう)

 ボブは、ボブはゆっくりと車をUターンさせる。その時、後部座席に目をやった。見ると、1ドルの札束。50枚はあるだろう。ボブにしてみれば大金である、刈れば喜びを通り越し、激しく興奮した。今までの扱いなど、一気に清算された。

「あいついい奴じゃんか!」

 お調子者のボブは軽快に車を走らせた。きっと、ヘンリーもこんな感じでだまされたのだろう。表面的な印象は正反対だが、本質的な部分はヘンリーもボブも同じなのだ。


 帰路に戻る途中で、ボブは本当の目的を思い出した。

「あっ、バアチャンを探すんだった」

 手がかりゼロ。加えて、珍しい車に乗った黒人ということで、ただでさえ目立っていたのに、さっきのカーチェイスで完全に要注意人物になった。きっと、ロウアーイーストを探し回ることは、無理だ。自殺行為だ。

「どうしよう・・・」

 しばらく考えて、いい案が浮かんだ。

「今日の夕刊の新聞に載せてもらおう!「息子を探しているオバチャンを見かけたら、ニューヨークストリート社までご連絡を」って!うん、それがいい。何なら、息子も一緒に探してやろう」

 会社に向かって車を走らせる。


「貴様!俺を舐めてるだろ!」

 ボブは、オフィスに入ると同時に、ウィリアムに事情を話した。そして、即座に罵倒された。

「舐めてないですよ。社長。そんなわけないでしょ?バアチャンが心配なんですよ」

「警察に言え!俺の新聞を下らんことに使うな!」

「黒人の話を聞いてくれる警察なんてニューヨークにいないんですよ。どうせ無視されるか、適当に対処されて、「見つかりませんでした」ハイ、終了」

「なら、自分で探せ!うっとおしい!仕事中にくだらん相談をしに来るな!」

「そんなぁ、社長・・・ひどいっすよ」

 ウィリアムがボブを睨む。

「分かった。広告欄に載せてやろう。だがな、金は払え」

「いくらですか?」

「50ドルだ。今すぐもってこい」

「えっ、そんなの無理・・・」

 無理ではないことに、ボブは気づいた。

(50ドル・・・もってる・・・しかし・・・50ドル・・・あれだけ苦労して、手に入れた50ドル・・・バアチャンに50ドル・・・いや、迷っている場合ではない!)

「どうぞ!」

 苦虫をかみつぶしたような表情で、ボブが50ドル札をデスクに叩きつけた。意外な反応に、ウィリアムがとまる。

「・・・これはなんだ?」

「50ドルです」

「バカが。それくらいわかる。なぜ50ドルが手元にある?」

(しまった!)

 ボブは地雷を踏んだ。白タクをしていることがバレる。

「だれにもらった?」

 ウィリアムは静かに問うた。怒鳴られるより、怖かった。

「うう・・・」

「どうした?答えられないのか?」

 バレたら・・・クビだ。ボブは、脳をフル回転させた。

「なんとかいえ。そんなに無口なやつだったか?」

 ボブは答えた。

「ギャングに・・・脅されて、車に乗せたんです。目的地まで連れて行ったら、チップをくれたんです」

「貴様。俺をバカにしてるな?」

「本当です!信じてください!多分かなり大物のギャングで、怖くて、逆らえなかった」

 ウィリアムの怒りは相当なもので、立ち上がり、ボブの胸倉を掴み、睨みつけた。

「大物?それなら何人か俺も知っているぞ?そのギャングの名前は?」

「ウィリアム」

「はぁ?」

 社長室近くのデスクで会話を聞いていたマヤが笑った。そんなマヤをウィリアムが睨む。

「ウィリアム・スタンバーグです」

 ウィリアムの手が緩む。そして、今度はウィリアムが笑い始めた。

「ハッハッハッハ!面白い!お前のジョークで始めて笑ったぞ!」

 ウィリアムの笑いが止まらない。

「えっ?」

「お前もうちの新聞を読むようになったんだな。ハッハッハ」

「なんの話ですか?」

 ボブは、新聞など読まない。

「お前、そもそも今日の夕刊記事などもうすでに入稿済みだ。元々無理な相談なんだよ。ほら、これがゲラだ」

 ゲラにはこう書かれていた

【ロウアーイーストの抗争ついに終結】

「ん?」

 記事には、確かにあの顎に傷のある男。スタンバーグの顔写真が載っている。ボブは記事を顔面近くに押し当てるように読んだ。

〈ロウアーウェストで勃発していたイタリアン系マフィア「ファイブポインツ」とユダヤ系マフィア「イートマンズ」との抗争に終止符が打たれた・・・組織内での抗争の首謀者であったイートマンズ最高幹部の一人、ウィリアム・スタンバーグ氏が殺害されたことを受け・・・両組織で停戦協定が結ばれました。・・・〉

「スタンバーグが・・・殺害された?」

(どういうことだ?)

「これはいつの情報です?」

「3時過ぎくらいか?情報屋がタレコミに来た」

「その後、スタンバーグを載せたんです。彼は生きていました」

「何?」

「確かな筋の情報ですか?」

「信頼のおける情報屋だ。イートマンズの構成員の一人だが、うちで飼っている。ガセ情報を流したら、組織にチクるとな。何より、その男はスタンバーグのドライバーだ。この情報は確かだ」

「しかし、ガセという可能性はゼロではないんですか?」

「大金を払っている。そして、情報がガセだった場合は、組織に密告者であることをチクるという契約だ。やつの命がかかっている。そんなバカなことはしないさ。ちなみに、ほかの新聞よりも情報が遅い場合、金は払わんという条件もある」

(どういうことだ?)

 ボブの頭の上の?マークが増えた。

(スタンバーグは、生きていた。これは事実ではない。しかし、少なくともこの記事がでる夕方までに、スタンバーグは殺される予定だったんじゃないか?ドライバーはそれを知っていた。だから、金をもらうために情報を先行してタレこんだ。)


 ボブは、記憶を辿り、さらに手がかりを探した。

(俺が最初に、スタンバーグに近づいたとき、周りの構成員たちは、俺を珍しい目で見ていたが警戒していなかった。T型は世界でイートマンズしかもっていない。構成員たちは、きっとおれの車を組織の車だと思っていた。加えて、構成員たちは、スタンバーグが殺害計画を知らないと思っていた。だから、彼を拘束せずいつも通り、少し距離を置いた警備体制を取っていた。組織の車をあえて止めることはしなかった。・・・しかし、スタンバーグが乗り込むと同時に、奴らは焦り始めた・・・構成員たちの知らされている計画では車に乗り込む予定はなかったのだ・・・きっと情報を知っているスタンバーグは逃走計画を立てていた・・・そして、乗り込むはずの車を間違えた・・・)

「そういえば、そいつ。お前と同じ車に乗っていたらしいぞ?」

 ウィリアムの何気ないひとことに、ボブがピンと来る。

(間違えたのはドライバーの車じゃないか・・・しかし、スタンバーグ殺害の情報を流したのはドライバー。これも、組織を油断させるための、逃走計画の一つか?いや、でもガセ情報を流せば、ウィリアムの密告によってドライバーも殺される。一緒に逃げる予定だったのか?)

 スッキリしないボブ。

(何かまだ、見落としがある・・・)

 見落としていた答えのヒントは、彼の手元に会った。

〈・・・スタンバーグ氏殺害の容疑者は、アイルランド系ギャングの構成員・・・〉

 記事に書かれた犯人は、ファイブポインツではない。波止場を支配するアイルランド系ギャング。そして、ドライバーは、新聞に情報をタレこむような奴だ。ボブは、答えを見つける。

(そうか・・・ドライバーが、スタンバーグに組織内部の裏切りによる殺害計画の情報を流す。スタンバーグが逃走計画を立てる。彼は波止場へ向かった。アイルランド系ギャングの協力を前提とした逃走計画だ・・・しかし、アイルランド系マフィアも彼の殺害を考えているのでは?・・・いや、もしかしたら、スタンバーグ殺害の本当の首謀者なのでは?・・・タレこみ屋であるドライバーとグルになって・・・)

 この仮説が真実であれば・・・。

「スタンバーグが危ない!」

 ボブは超スピードで、オフィスを出ていく。

「お・・・おい」

 ウィリアムが戸惑いながら声をかけたが、もうボブはそこにいなかった。

 ボブは、T型の最高加速でもって、波止場まで急いだ。危険なロウアーイーストであろうが、猛スピードで、最短距離を駆け抜けた。


 一方、波止場。

 暗い建屋の中で、椅子に括りつけられたスタンバーグの姿が見える。顔面はひどく殴られ、血だらけだ。ボブの仮説は、当たっていた。

「早く殺さないのか?」

 スタンバーグは、パンパンに膨れた顔で、周りの男たちに問いかけた。

「そうしたいところだが、まだだ。ボスが来てからだ」

「ふん」

「ああ、ちょうど来た」

 建屋にピカピカのフォードT型が、入庫してきた。

 スタンバーグの横につけ、エンジンがとまる。運転席から降りてきたのは、スタンバーグ専属ドライバーのジョン。後部座席からは、屈強な男のほか、一人の老人が降りてきた。彼は、アイルランド系ギャングのボス、エディー・マクガレス。

「偉くなったなジョン。こんな大物のドライバーなんてな」

 ジョンは、スタンバーグと目を合わせない。代わりに、彼の前に椅子を配置する。エディーが、その椅子に座り、スタンバーグにグッと顔を近づける。

「ジジイまだ生きてたか。そろそろ引退しろ。お前みたいなのを、老害っていうんだ」

 スタンバーグが悪態をつくが、エディーは、無言で目を見開き、マジマジとスタンバーグを見る。不気味な光景であった。

「ウィリアム・・・」

 エディーの声は、かすれていた。喉に大きな傷跡がある。

「惜しい男をなくすことになる。わしは、君が好きだった」

「俺はずっと嫌いだった」

「これも仕事だ。この世界に入った時から、覚悟はできていただろう?」

 スタンバーグが、口にたまった血反吐をエディーに吹きかける。隣のボディーガードが、スタンバーグを殴る。ジョンがエディーの顔を拭こうと近づくが、エディーがそれを拒否した。血反吐にまみれたまま、エディーは視線を変えず、スタンバーグを見つめる。

「・・・ダスティン」

 ダスティンは、ボディーガードの名前だ。

「鍵」

「鍵ですか?」

「俺の家の鍵をくれ」

「はい」

 ダスティンは鍵を渡す。エディーは、鍵を握りしめた。握りは、扉の鍵を開ける時と同じ。

「・・・目をくり抜こう」

 鍵穴は、スタンバーグの目だった。エディーは、鍵の先端をスタンバーグの目に近づける。スタンバーグが顔を反らす。

「抑えてろ」

 ダスティンが、スタンバーグの頭を抑える。もう逃げられない。エディーの鍵の先端が、スタンバーグの柔らかな眼球に迫る。

「やめてください」

 ジョンが、エディーを止めた。エディーが初めて、スタンバーグから目をそらし、ゆっくりとジョンを見上げた。ジョンはひどくおびえた表情で、エディーに訴える。

「痛めつけるのは、やめてください。は、早く殺しましょう」

 エディーがゆっくりと立ち上がった。

 バシッ!とエディーはジョンをはたいた。ジョンはわずかに後ろに下がる。

 バシッ!バシッ!バシッ!計四回、エディーはジョンをはたく。老人の平手など、威力はないが、ジョンは大げさに後ろへと下がった。

「ダスティン」

「はい」

 ダスティンが、ジョンを羽交い絞めにする。

「な!何するんですか!話してください」

「顔」

 別の男がジョンの顔を抑え、エディーに向ける。

「な、なにをする気だ!」

 エディーは、目玉をくり抜く相手を変えたのだ。

「話が違う!」

 ジョンの顔が、恐怖に染まる。

「そう。話が違う。お前がこれほど信用できない男だとは聞いていなかった」

「なんの話ですか?」

「新聞社に情報を流しただろ?」

「一体どういうことですか!」

「ニューヨークストリート紙」

 ジョンの顔が引きつる。(まさか、今日の夕刊記事に?しかし、明日の朝刊に載せるという約束だったのに!)

「今日の夜。そのT型に乗って、ニューヨークを出るつもりらしいなぁ。私が払う貴様へのギャラと、新聞社から貰ったギャラ。合わせるとかなりの額になるんだろ?故郷のメリーランドに戻って、ドーナツ屋を開く・・・素晴らしい計画だ」

「ど、どうしてそれを?」

「お前の女がすべて吐いたよ」

 エディーの鍵が、ジョンの眼球に迫る。

「ヒイイイ!」

 金切り声を上げるジョン。

「ワアアアア!」

 それに呼応して、別の叫び声が建屋を振動させた。すごい声量だ。1台のT型が、猛スピードで現れた。全員があっけに取られている隙に、ボブが巨大なトルクレンチを持って、車から飛び出す。敵は、エディー、ダスティンを含め5人、しかし、今、銃を握りしめているのは、1人。ボブは大きく振りかぶり、まず銃を持っている男の脳天にトルクレンチを打ち付けた。続けてボブはトルクレンチをスイング。鈍い音を響かせて、もう一人の男の頭に直撃した。次に、ボブは重いトルクレンチを手放し、懐から手のひらサイズの小さなトルクレンチを取り出した。そして、最も力の弱そうな男、エディーをチョークスリーパーの要領で拘束する。トルクレンチの取手側の端は尖っているのだが、ボブはその先端をエディーの顔に押し付け、ダスティンたちに言った。

「動くな!このトルクレンチをジジイの目玉に突き刺すぞ!」

 全員の動きが止まる。全員の表情に緊張が走る。しかし、エディーだけは変わらず無表情だ。

「スタンバーグを解放しろ!お前だ!早く縄を解け!」

 ボブは、ダスティンに命令する。観念したダスティンが、スタンバーグを拘束している縄を解く。自由になった瞬間、スタンバーグがダスティンを思い切り殴った。同時に、ボブの太ももに激痛が走る。

「イテッ!」

 エディーが、握りこんだ鍵をボブの太ももに突き刺していた。ボブの腕が緩んだ隙に、エディーが振り返り、ボブの眼球めがけ鍵を突いた。幸いにも狙いははずれ、ボブの頬に突き刺さる。

「クソジジイ!」

 ボブがエディーの頭を思い切り、ひっぱたく。衝撃で、エディーがひるむ。ボブの攻撃を逃れていたギャングが、懐の銃を取り出そうとしている。ひるんだエディーを、そのギャングめがけて突き飛ばすボブ。エディーを受け止めようとしているギャングに向かって、小さなトルクレンチを投げる。

「いくぞ!スタンバーグ」

 ギャングたちがもたついている隙に、ボブとスタンバーグが車に乗り込む。二人に向けてダスティンが銃弾を放つ。カンッと気持ちのいい音を立てて、銃弾はT型に弾かれた。ボブとスタンバーグが、建屋から脱出する。


「追え!」

 ダスティンが部下に指示する。建屋の奥の車に乗り込み、三台の車がボブたちを追っていった。

 建屋には、ダスティンとエディーそしてジョン。ジョンは腰をぬかして、地面に座り込んだままだ。ジョンを見下ろすエディー。

「奴を捕まえれば、タレこみの件は許してやろう」

 エディーの言葉を聞いて、ジョンは走りだした。そして、ピカピカのT型が姿を現す。助手席にダスティン、後部座席にエディーを乗せて車は走り出した。(エディーも乗るの?)とジョンはちょっと思った。


「アア!畜生!今日は、ほんとについてねぇな!」

 車を運転しながら、ボブはホットドックにかじりつく。

「俺はついてたみたいだ」

「そんな顔でいうセリフじゃねぇだろ!」

「大した事ないさ」

「中学生かよ!あんたろれつまわってないぜ!」

 助手席のスタンバーグの血だらけな顔に、ボブが吐き捨てた。スタンバーグのダメージは大きかった。ボブの言うようにろれつが回っていないし、目は虚ろだ。気力で何とかもっていたが、意識は朦朧としていて、すぐにでも気を失いそうだ。

「ニガーに、助けられるとはな・・・因果か・・・」

「さっきも言っただろ!ニガーっていうな!ボブって言え!」

 スタンバーグのうわごとは止まらない。

「ボブ・・・そうだ。ボブだ。おい。ニガー。お前たちが来てから、ハーレムはおかしくなった。おれの町はもうない・・・どうしてくれる。どうしてくれる。俺の町。ハーレム」

 スタンバーグの意識は、現実と別の世界の間を行き来し始めていた。

「はぁ!お前ら黒人が俺たちを差別したからだろ!俺たちがお前たちを嫌うのは、もともとお前ら白人に原因があるだよ!」

「差別?俺たちユダヤ人を舐めるなよ。貴様ら黒人に対する差別の歴史など。せいぜい300年やそこらだろ?俺たちユダヤ人に対する差別の歴史は、3000年だ」

「なんの自慢だよ!あんた3000年前にも生きてたのかよ?!大事なのは今どうなのかだろ!!」

 遥か後方に、追っ手の車が見えた。

「ふん」

 と、ボブが息を撒く。フランス製の最新の車のようだが、T型の敵ではない。しかし、追いかけてくる車の数がどんどん増えていく。持久戦に持ち込まれたら終わりだ。朝から走り回っているボブの車には、あまり燃料はない。早く安全な場所に非難しなければならない。

「おい・・・ニガー・・・どこに向かっている?」

 聞こえるか聞こえない位の小さな声で、スタンバーグがつぶやく。

「警察署だよ!一番安全だろ?」

「やめておけ、ニューヨーク市警は全員あの爺さんの手下だ」

 アイルランド系マフィアの影響力はボブの想像以上だった。

「ええ!じゃあどうすりゃいんだ?」

「・・・ニューヨークを出るしかない」

「クソッ!ニューヨークって結構広いんだぞ!」

「・・・ボブ。ボブか、ボブ・・・大丈夫か?」

 スタンバーグは正常な思考力をなくしている。何かにうなされるように、うわごとを口にする。

「やべぇ!病院に行くべきか?いや、まさか病院もあぶないのか?」

 ボブは混乱したまま、ハンドルを握る。

「おい!どうすりゃいい?」

「逃げろ・・・早く逃げろ・・・ボブ」

「今逃げてんだろ!クソッ!おい!しっかりしてくれよ!」

「任せとけ・・・あんな奴らボコボコにしてやる・・・」

「はぁ?お前、ボコボコにされたんじゃねぇか!」

 ボブは、スタンバーグをゆするが、反応はない。

「てめぇら・・・今度ボブになんかしたら・・・こんなんじゃ済まさねぇぞ」

 死にかけのスタンバーグは、ボブと話しているわけではない。スタンバーグの意識は、今、完全に現実から離れ、幼少期の記憶の中にあった。スタンバーグはそこで、過去の自分になっている。そのことに、ボブは気が付いた。

(喧嘩に勝ったのか?若いころの記憶?いや、もっと前か?)

 ボブは、スタンバーグの会話から推測を始める。

「ママ・・・ママ」

(子供の頃の記憶?)

「あいつら・・・ボブをニガーって呼ぶんだ」

(ボブは黒人?俺と同じ名前?)

「ママ・・・ママ・・・あいつらボブに石を投げつけて、ケガさせたんだ・・・学校の先生もあいつらに何も言わなかったんだ・・・なんで?」

(黒人を庇っているのか?)

「ママ・・・ママの言ってること、おかしいよ。言ってることが全然わかんない・・・」

(黒人の親友?)「なんで、打つんだ?・・・納得できない・・・いつもどおり、俺を殴るのはいいけれど・・・ボブは・・・俺の・・・親友だ・・・」

(殴られた?・・・ハーレム育ち・・・30年前に、ニューヨークからいなくなった母・・・まさか!)

 ボブの中に散乱していた点が、今、線となって繋がった。ボブは車を止めた。

「お前の母親の名前、マリーっていうんじゃないのか?!」

 スタンバーグをゆするが、反応はない。完全に意識を失っている。

「ああ!もうっ!」

 イラついたボブは、ピーナッツバターにまみれたホットドックをバスケットから取り出し、スタンバーグの口に押し込んだ。スタンバーグの血糖値が、一気に上昇する。死の危険を察した人体の防衛本能により、スタンバーグの意識が回復する。

「な・・・なんだ?」

「おい!お前の母親の名前!マリーっていうんじゃないのか?」

「急になんだ?」

「いいから、答えろ!イエスかノーだ!」

「・・・イエス。何で知ってる?」

「ビンゴー!!」

 ボブは、この日一番の奇声を発した。

「直感で答えろ!Don'T Think!feel!お前のママが!ニューヨークに来て!お前を探しに来たとしたら、どこに行く!!??」

 死の淵から目覚めて、いきなりの質問攻めである。スタンバーグの思考は停止していた。わけもわからず、スタンバーグは答えた。

「ハーレム・・・昔の家に行く・・・・・・なんだ?どういうことだ?」

「よし!ハーレムに行く!お前のママがそこにいる!親子の絆にかけてみようじゃねぇか!」

 遥か後方にいた追っ手の車は、すぐにそこまで迫ってきていた。

「行くぞ!」

 ボブの感情と呼応するように、T型はこの日一番の加速を見せた。一気に、ギャングたちを引き離した。

「どうした?何が起きたんだ?」

 正気を取り戻したスタンバーグが混乱する。

「だから、ハーレムに行くぞ!」

「何言ってる!」

「お前のママが、そこにいるはずだ!」

「馬鹿か!」

「馬鹿じゃないさ!ハーレムは、俺たち黒人の街だ!白人ギャングも手を出せない安全な場所だ!」

 ボブのいう通り、ハーレムだけは、エディーですら手を出せない聖域であった。そういう意味では、ハーレムに向かうというボブの判断は正しかった。しかし、

「お前は安全でも俺が殺される!」

 ロウアーイーストとは逆に、スタンバーグの身が危険にさらされることになる。

「大丈夫だ!俺がいる!俺が何とかする!!」

「ふざけるな!」

「ウィリアム!」

 スタンバーグのファーストネームを初めて口にしたボブ。

「ボブを助けてくれて、ありがとう!今度は、ボブがウィリアムを助ける番だ!」

 T型がさらに加速する。二人は風になって、ニューヨークの街を颯爽と駆け抜ける。そして、追っ手を完全に撒いた。


 と、思っていたが、どうも様子が違った。


 ほとんどの追っ手の車は、視界から消えていったのだが、一台だけ、なかなか消えない。それは、ボブと同じT型の車。

「ジョンの車だ」

 スタンバーグがボブに言った。

「大丈夫だ。俺のテクニックで撒いてやる」

 ボブは、わざと入り組んだ街へと進路を変えた。性能は同じでも、運転テクニックで勝るボブが有利なのは変わらない。

 しかし、T型の姿は消えるどころか、どんどん大きくなる。追いついてきている。

「お前のドライバー。すごいテクニックだな!」

 手ごわい追っ手に、ボブが焦り始めた。

「ジョンのテクニックは大したことない。やっと運転に慣れ始めたくらいだ」

 確かに、角を曲がる際の減速が大きい。つまり、角を曲がるとき、差は開いている。距離を縮められているのは、ストレートに走っている時だ。

「どういうことだ?同じ車なのに、加速力が違う!」

「同じなのは見た目だけだ」

「えっ!」

「あれは、俺のためだけに作らせたT型の改良版。フォードT―2000型だ。見た目は同じだが、性能は別次元だ」

「なんだとぉ!」

 ボブが車を譲ってもらってから、ヘンリーの技術力は格段に向上していた。ボブとジョンのテクニックの違いを凌駕するほどの性能差があった。T―2000型はどんどん近づいてくる。もうすぐで、ダスティンの拳銃の射程距離に入る。

「ウィリアム!銃は?」

「銃を取り戻す時間なんてなかっただろ?」

「奪って来いよぉ!」

 運の悪いことに、車は大通りに出てしまった。ブロードウェイだ。ハーレムまで一直線だから、逃げ場はもうない。

「だめだぁ!撃ち殺される!」

「おい!さっきの覇気はどこいった!俺を助けるんじゃないのか!」

「あんな車もってるなんて聞いてなかった!」

「そんな言い訳、通用するか!」

「うるさい!うるさい!ああーー!」

 ゴン!

 ボブがハンドルに頭を打ち付ける。強く打ち付けすぎて、わずか、ほんのわずかだけ、脳震盪をおこす。一瞬、ほんの一瞬だけ、ボブは気を失い。走馬燈が駆け巡る。走馬燈の内容は、ヘンリーに車をもらったあの夜の出来事・・・。

・・・

 トーマスの家の外、T型の運転席と助手席にボブとヘンリー。車談義で盛り上がる二人のもとに、トーマスの弟子の一人が近づいてきた。

「ヘンリー。お前も手伝ってくれ!社長がぜんぜん見つからない」

「いつものことだろ?」

「ああ、でもウィリアムさんをこれ以上待たせるのは申し訳ないだろ?手伝ってくれ」

 ヘンリーは気が乗らない顔をしている。

「ヘンリー悪いが、俺からも頼む。うちの社長をいらつかせると後でめんどくさいんだ」

「わかりました」

 ヘンリーはしぶしぶ了解した。

「では、見つかるまで、T型の運転を楽しんでてください。また戻ってきますので」

「あいよー」

 お言葉に甘えて、ボブは気ままにT型を乗り回す。心地よい夜風が、ボブを包む。

「気持ちいー」

 天にも上る気持ちのボブ。ふと、前方に人影が見えた。

「危ない!」

 急ブレーキを踏むボブ。

(間に合わない!)

 ボブはそう思ったが、そこはさすがのT型、ブレーキング性能もボブの想像以上で、ギリギリのところで車はとまった。

「おい!危ないだろ!この車じゃなかったら、引かれてたぞ!・・・て、あれ?」

 そこに立っていたのは、みんなが探していた人物。トーマスだった。

「トーマスさん。ここにいたんですか?みんなさがしてたんですよ!」

 ボブの話を無視して、トーマスはT型の周りをぐるぐると歩き、車の細部をチェックし始めた。

「なにしてるんですか?早く戻りましょう」

「これはフォードが造った車か」

「えっ?・・・はい」

 ヘンリーはトーマスにこの車を隠していたことを、ボブは思い出す。車をチェックするトーマスに向かってボブが話しかける。

「トーマスさん。この車はすごい。そして、ヘンリーは天才だ。この車が世に出れば、世界が変わります」

「そうか」

 トーマスの反応は薄い。

「だから、そろそろあいつの独立を認めてやってください」

「従業員の独立を止めたことはない。好きにすればいい」

「ほんとうですか?」

 ボブは、疑いの目でトーマスを見る。ボブからしてみれば、弟子の才能をねたんでいる老人に見えている。

「この車を、私の作業場まで運転してくれ」

 トーマスが車に乗り込んだ。

「なぜですか?」

「あの左に見える工場だ」

 ボブの質問を無視して、トーマスがひときわ大きい工場を指さす。ボブは黙って、車を作業場まで乗り入れる。トーマスはすぐに車を降り、何やら車をいじりだした。

「何やってるんですか?」

「ん?ちょっとね」

「まさか、ヘンリーの、弟子の技術を盗む気ですか?」

 トーマスはボブの問いかけを無視して、作業を続ける。

「あなたは確かにすごい発明家です。うちに電球が灯った時は、すごく感動しました。でも、今、正直あなたに対する世間の評判は芳しくありません。もうそろそろ後進に道を譲るべきです。あなたの技術をさらに発展させるような新しい才能が、生まれつつあります。それがヘンリーです」

「そうか」

 まるで興味ないかのような反応。

(このおじいさん。人の話を聞かない・・・社長とおんなじだ・・・話を聞かないもの同士で、社長はいつもトーマスさんと何の話をしてるんだ?)

 ボブは、説得を諦め、トーマスの作業を見守ることにした。もし壊すようなそぶりをみせれば、止めるつもりだ。

(ん?いま後部座席を壊したのか?)

 急いで確認するボブ。しかし、特に変わった様子はない。

(ん?いま、ハンドルを外した?)

 しかし、やはり、ハンドルは元のままだ。

(ん?今エンジンを?)

 ボブは近づいては、離れ、近づいては離れを繰り返す。トーマスが、何をしているのか全くわからない。

「よし。できた」

 ものの数分でトーマスの作業は、終わったようだ。

「なにしたんですか?」

「ちょっとだけ、丈夫にしておいた。このまま走るのは危険だからね。あとちょっとしたオプションをつけておいた」

「オプション?」

「もし、何かに追われて、逃げ切れないと思った時、ハンドルを思い切り引っ張りなさい。車体から取り外す勢いでな」

「はい?」

「思いっきりだ。君の全身全霊・・・命を懸けるつもりで引っ張りなさい。少しでも力を抜けば、作動しない。加えて、君でなければこのオプションは作動しない。君以上の腕力を持った人間が引っ張っても、君と全く同じ腕力を持った人間が引っ張っても、ただハンドルが外れるだけだ」

 トーマスは脈略もなく、意味の分からないことを言い出した。

「使えるのは1回だけ。あと、まっすぐな一本道で使いなさい。5キロ以上は欲しいな。でないと、建物に衝突して、君は死ぬだろう」

「はぁ?」

「覚悟して使いなさい。じゃあ、私はこれで」

 トーマスは、作業場から去ろうとした。

「いや、ちょっと待ってください。一体、何をしたんですか?そのオプションが作動したらどうなるんですか?」

 トーマスは足を止め、振り返る。そして、顔の前で、人差し指と親指の隙間を少し開ける。

「ちょっとだけ・・・」

 わずかな静寂の後、トーマスがつぶやいた。

「浮く」

 トーマスが微笑む。なぜだろう。ボブにはその笑顔に、言いようのない不気味さを覚えた。(悪魔の微笑みだ)

 トーマスが作業場から去っていった。怖くて、ボブはこの出来事をヘンリーに言わなかった。そして、自分の記憶からも抹消した。

・・・

 意識が戻るボブ。

(逃げ切れないと思った時。そして、まっすぐな一本道・・・)

「おい!追いつかれるぞ!」

 カンッカンッ!

 助手席からダスティンが放つ銃弾が、ついにボブの車に着弾し始めた。二人に当たるのも時間の問題だ。

「早く何とかしろ!」

「うるさい!」

 ハンドルを両手でしっかりと握りこむ

「うおおお!」

 トーマスの言葉通り、ボブは己の命、全身全霊をかけてハンドルを引っ張った。

 ガコッと、ほんの数センチハンドルが動く。同時に、ウィイイイン!と、ボブのT型は、聞いたことのない機械音をまき散らした。

「なんだ?」

 と、スタンバーグ。

 キュウィーン!また別の機械音が響く。

「なんだなんだ?」

 そして、

 ドン!

 一瞬の轟音を発して、車は音を置き去りにした。


 巨大な慣性力と空気圧によって、スタンバーグとボブは座席に貼り付けにされる。呼吸もできない。

(アアアア!)

 二人は声にならない叫び声をあげる。(ぺしゃんこに押しつぶされる!)二人は同じことを思った。

(アアアア!)

 車の加速ではない。(車の後方から、何かが噴き出している?)苦しみの中、ボブはそう推測したが、確認できる状況ではない。一体なにが起きているのか、全く分からない。

(アアアア!)

 只々、二人の叫びがニューヨークを駆け抜ける。まだ速くなる!そして、すさまじい加速は、ついに車に揚力を与える。


 二人は、確かに感じた。時間にして、1秒や2秒程度(いや、もっと短い?)だが、確かに感じた。車輪が地面から離れ、車が浮いた。確かにトーマスのいう通りだった。

「死・・・死ぬ!!!」

 浮くと同時に、車は一気に減速を始める。今度は、フロント側に貼り付けになる。スタンバーグは、また気を失っていた。

 

 そして、T型は「正常な」速度まで減速した。一瞬の出来事だったが、二人にとても長い時間だった。車は、ちゃんと走っていたが、所々でカラカラと異音を発している。

「ウィリアム!」

と、ボブは叫ぼうとしたが、先に猛烈な吐き気が襲ってきた。ボブは顔を車外に出し、今日食べたすべてのホットドックを吐き出した。

「ウィリアム」

 嘔吐物にまみれたまま、ボブは意識のないスタンバーグの背中をさすった。スタンバーグは、わずかに目を開き、ボブと同様に大量の嘔吐物を吐き出した。そして、スタンバーグは力なく、ボブの方に倒れこんだ。

 車が止まる。

「こ・・・ここは?」

 かすかな声で、ボブに問いかけるスタンバーグ。

「良かった。生きてる!」

「どこだ?」

(そうだ。ここはどこだ?)

 ボブは、周囲を確認する。二人は、すでにハーレムにいた。

「ウィリアム!着いた!ハーレムだ!」

「そうか・・・ハーレムのどこだ?」

「えっと、ハーレムの・・・」

 そこは、黒人たちのリーダー、通称「ダディ」の邸宅の近く。絶対に白人が近づかない、ハーレムの最深部だった。

「まずい・・・」

 ここに足を踏み入れて、生きて帰ってきた白人はいない。周囲から、どこからともなく若い黒人男性たちが姿を現す。そして、ボブたちの周りを取り囲む。

「やってくれたな・・・」

 スタンバーグが察する。いくらボブでも、いきなりこの領域に白人を連れてきて、ただで済むわけない。白人であるスタンバーグは、問答無用で処刑だ。

「みんな!違うんだ!こいつはいい奴だ!俺の仲間だ!」

 黒人たちは聞く耳を持たない。スタンバーグとボブを、強引に車から引き下ろす。

「ニガーに殺されるくらいなら、あのジジイに拷問されたほうがましだ・・・」

 奇声を発しながら、スタンバーグを抑え込む黒人たち。彼の悪態に、怒り心頭のようだ。

「やめろ!」

 ボブも黒人たちに羽交い絞めにされる。

「やめろ!やめてくれ!」

 ボブは訴える。黒人の一人が、ボブの耳元でつぶやく。

「ボブ。静かにしろ。ダディがいらっしゃる」

「だ・・・ダディが?」

 警戒心の強いダディは、なかなか人前に姿を見せない。実は、ボブもダディの顔を知らない。黒人たちの奇声がやみ、ハーレムが静寂に包まれる。

 群がっている黒人が、ダディの道を開く。大柄の屈強な黒人男性が見える。その姿は、海を割るモーセのようだ。スタンバーグを羽交い絞めにしている黒人が、彼を解放し、離れる。スタンバーグは、ぺたんと地面に座り込む。

 ダディが、スタンバーグの目の前に迫る。見上げるスタンバーグと見下ろすダディ。

「ダディ。許してください」

 ボブが叫ぶ。


 じっと見つめ合う、ダディとスタンバーグ。


 スタンバーグの瞳孔が開く。そして、つぶやく。

「ボブ・・・?」

 ダディが、スタンバーグの前で跪く。

「友よ・・・会いたかった」

 ダディが、優しくスタンバーグを抱きしめる。ボブは、呆然とその様子を見つめる。

(ボブって・・・もしかして?)その通り、スタンバーグが子供のころ親友だった黒人の少年ボブが、今のダディだった。

「ボロボロじゃないか。また俺のために戦ってくれたのか?」

「馬鹿言うな」

 二人は、優しい笑顔で会話した。

「それとも、またあの怖い母親に殴られたか?」

「まぁ、そんなところだ」

「じゃあ、もっと殴ってもらえ」

 ダディの後方から、若い黒人に手を取られ、ヨボヨボとマリーが歩いてきている。

「バアチャン!」

 ボブが叫ぶ。

「ウィリアム・・・ウィリアムなのかい?」

「・・・ママ」

 ハーレムの夜。建物から白熱電球の柔らかい光がもれ、スタンバーグとダディ、そして、マリーの三人を包み込んだ。確かに今日、ウィリアム・スタンバーグはツイていた。そして、「うう・・・なんていい日なんだ」

 感動の再会に、ボブは思わず泣き出した。


 素敵な光景を見た帰り、カラカラと異音を発するT型をゆっくりと走らせ、ボブは家路へと向かっていた。夜のブロードウェイをトボトボと歩く小さな女性が見えた。肉体的にはヘトヘトだったのだが、心が高揚していたボブは、不幸そうなその女性に声をかける。

「お嬢さん。元気ないな?一体どうしたんだ?」

「いえ、大丈夫です」

 女性はうつ向いたまま歩き続ける。

「おいおい。そんな元気のない返事をされちゃあほっとけないじゃねぇか。家まで送ってやろうか?この車に乗れば、暗い気持ちは一瞬で忘れられるぜ?」

「大丈夫です」

 といった瞬間、その女性はこけた。

「おいおい」

 ボブは車を降りて、彼女を介抱する。女性は、声を上げ思い切り泣き始めた。

「おいおい。こんな大通りの真ん中で、泣かれちゃあ、困るぜ!俺が変なことしたと思われるだろ!」

 とボブが怒鳴ると、女性はすっと泣き止んだ。

「すいません」

「さあ、家まで送ってやるよ。怪しい男じゃねぇよ。俺は、新聞社で働くごく普通のサラリーマンだ」

「はい。じゃあ、お言葉に甘えて・・・マディソンスクエアパークまでお願いします」

 力のない声で、女性はうつ向いたまま後部座席に乗り込んだ。

「ああ、わかった。すぐに到着する。一瞬だ。さぁ行くぞ!」

 カタカタと音を立てるT型は、いつものようにスピードは出なかった。女性は、すぐにしくしくと泣き出した。

「どうしてそんなに泣いているんだ?」

「私、歌手を目指しているんですけど・・・オーディションに落ちたんです・・・」

「おいおい、一回失敗したからってめそめそするなよ。また挑戦すりゃいいじゃないか?」

「もう百回くらい落ちてます」

「お、まじか・・・」

 会話が途切れた。気まずい空気を断ち切るため、ボブは次の話題を考える。

(自己紹介するか・・・いや、駄目だ。もっと違う話題・・・話題?・・・そうだ)

「お嬢さん。俺が一曲歌ってやるよ!」

「いまは何も聞きたくないです・・・」

「おいおい、歌手を目指してるんだろ?歌の力を信じろよ。あんたみたいに落ち込んでいる人にこそ、必要なもの・・・それが音楽だ!」

 ボブは、自らの足でビートを刻み、高らかに歌う。女性が顔を上げる。

「すごい」

 ボブの生命力あふれる歌声が、女性に活力を与える。ボブのビートセンスは完璧で、アカペラとは到底思えない。そして何より、曲がいい。元気のないリサのテンションがどんどん上がっていく。聞いたことのない種類の音楽だが、完全に彼女のハートをわしづかみにした。

「すごい!すごくかっこいい曲!なんて曲ですか?」

「え?確かWake me upって曲だ!」

「誰の曲なんですか?」

「ええと忘れた。まぁ、いいじゃねぇか、続きを歌わせてくれ」

「はい!お願いします!」

 ボブのビートに乗って、女性は後部座席で踊りだした。

「すごい!運転手さんすごい!」そう叫んだ瞬間、彼女は得も言えぬ高揚感に包まれ・・・意識を失った。


「リサ!ご飯できたわよ!」


 母の声で女性が目を覚ますと、自宅のベットだった。

(あれ?眠っちゃったのかな・・・あれは夢?・・・きっと夢だ・・・音楽の神様に会った夢)

「リサ!早く起きなさい!」

 母の声で、女性は飛び上がるようにベットから起き上がった。

「もう夢を諦めようかと思ってたけど・・・もう少し頑張ろうかしら・・・」

 リサは大きく体を伸ばした。

 ―――――


「とまぁ、その日は、そんな感じですごく忙しかったんだ」

「すごいや。ぼくも大人になったら運転手になろうかなぁ・・・でも、ひいおじいちゃん。いっこわからないことがあるんだけど」

「なんだい?最後の、リサって人の話・・・ひいおじいちゃんはその場にいなかったはずなのに、なんで、次の日の出来事を知っているの?」

「うーん、どうしてだったかなぁ。その後、リサさん本人に聞いた・・・んだと思うよ」

「ふーん」

 とボブジュニアは、腑に落ちない顔で、歩を進めた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ