サブロク協定 その2
◆入社36日目(残業)神に近い者
「はぁー、適当にタイプライターを叩いてたら、すごい記事が書ければいいのになぁ」
「何バカなこと言ってるんだ。仕事しろよ」
汗をたらしながらタイプライターを叩いているのにも関わらず、ハロルドは、リサの適当な独り言に反応した。
「でも、英語は、たったの26文字のアルファベットから、なるんですよね。スペースを入れてもたったの27文字ですよ。そう考えたら、英語で表現できる文章なんて限られてるような気がするんですよねぇ」
リサは深く考えることなく、適当な言葉を紡いだ。
「すごい感覚だな。有名な話がある・・・サルが、適当にタイプライターを叩いて、シェイクスピアのハムレットを完成させられる確率はいくらだと思う?」
「えーと、算数は苦手なので分からないです」
「27かける27は?」
「えーっと、・・・・736・・・」
「729だ。それが、「HAMLET」のうちの「HA」を打てる確率だ。729回打ちなおして、やっと一回成功するかどうか。もう27を賭けてみなそれが、「HAM」を打てる確率。19683分の1・・・それから」
リサは目が回っている。ハロルドは、タイプライターから手を離し、わざわざ計算し始めた。
「387420489分の1。サルが「HAMLET」打てる確率。1秒に1キータイプできるとして、24時間365日打ち続けたと考えてもえーーーと、12年以上かかかって1回できるかどうかだな・・・どうだ?」
「ハロルドさんてすごく、数字につよいんですね」
リサはもうハロルドの話を聞いていなかった。ハロルドの計算能力にただただ感服するのみだった。
「いや、そうじゃなくて。俺が言いたいのは、リサの言ってることがどれだけ的外れな話かってことだ」
「はぁ、なんだかよくわからないです」
「うーん」ハロルドはすっきりしない。
「すいません。私数字がとても苦手で・・・数字を並べられても全然何がなんだか・・・」
「そうか・・・いや、俺の方こそ悪かった」
いくら大きな数字を重ねようが、数字に対するなじみの薄いリサを説得させることはできないことに、ハロルドは気が付き、少し熱くなった自分を反省した。
二人の何気ない会話は、収束したかに見え、二人は再び業務に戻ろうとした。が、邪魔が入った。ウィリアムが急に二人の間に入り込み、ウィリアムがつらつらと、語り始めた。
「10の10乗匹のサルが、仮に置いた世界の寿命、10の18乗秒の間、タイプしているとする。1秒間に去サルは10個ものタイプができるとしよう。タイプライターには44個のキーがあるが、下段の文字を頭文字の代わりに使用することは可能とする。ハムレットには10の5乗の文字があるとして、サルがハムレットを完成させられる確率はいくらだ?」
これにはハロルドもついていけない。質問しながら、すぐに自ら答えを出す。独特の口調で答えた。
「10の164316乗回に1回だ。つまり、この世界が16万回は終末を迎えてやっと1回、可能かどうか・・・ということだ。リサ。これをなんと言うかわかるか?」
「わ、分かりません?」「不可能ということだ」 ウィリアムは、リサの反応を見ることなく、仏頂面で、社長室へと消えていった。
「そういうことだ」 ハロルドが口ぞえした。
「はぁ」リサは、腑に落ちない表情のままだった。
「まぁ、社長が言いたいのは黙って仕事をしろってことだな」
ハロルドは、またタイプライターとにらめっこを始める。
「ところで、ハロルドさんは、今、何の記事を書いているんですか?」
「記事じゃない。社長の講演の原稿を書いているんだよ」
「へぇー社長、何の講演をするんですか?」
「もうすぐ、メーデーだろ?ニューヨーク中の労働組合のお偉いさんが集まる会合が開かれる。社長はそこで自分の政策について講演するんだ」
「ああ、確か、知事に立候補するんでしたっけ?」
「そうだ。どれだけ労働者のことを考えてるかをアピールして、彼らの支持を集めるんだ。社長の支持基盤は、労働者階級だからな」
「へぇー」
「他人事じゃないぞ。その日は講演のほかに、後援者を集めたパーティも開かれる。当然、俺たち社員も駆り出される。忙しくなるぞ」
「新聞記者って記事を書くだけじゃないんですね」
「うちだけだよ。こんな仕事」
「そうなんですか。ハロルドさんも大変ですよね。社長のわがままに付き合ってばっかりで」
「まぁ、覚悟の上だ。そういう会社だからな」
「ところで、ハロルドさんは、なんでこの会社に入ろうと思ったんですか?」
ハロルドは手を止め、リサの方を見た。
「俺は・・・戦場ジャーナリストになりたいんだ」
「戦場ジャーナリスト?」
「ああ、文字通り、戦場に行って、直接その目で現地を見て、記事にするんだ」
「ええ!そんな危険な仕事に憧れてたんですか?」
「そうだ。父から南北戦争の話を聞いて育ってきた。父は話し上手でね、いつもワクワクしながら聞いていた。子供のころの戦場のイメージは、ファンタジー小説の世界そのものだった。戦争が好きだったんだ。そこで、大人になった俺は軍に入隊した」
「あ、軍人だったんですか!以外!」
リサは、やせ細ったハロルドの体をじっとみた。ハロルドは、リサの視線から彼女の気持ちを察した。
「痩せたのは退役してからだ。俺は米西戦争に参加した。そこで、初めて本物の戦場を見たんだ。あの戦争は、アメリカの圧勝だったとはいえ、実際の戦場を見ると、イメージとはまるで違った。土と鉄と血の匂いが充満した・・・悲惨な世界が広がっていたんだ。その時俺は思ったね。リアルを伝えるべきだと、父のように脚色された戦場ではなく、俺はリアルを伝えたい」
「なるほど」
「そこに戦場ジャーナリストとして、キューバにいた社長と会ったんだ」
「え?社長って戦場ジャーナリストだったんですか?」
「彼は、なんでもやる男だ。発行部数のためなら、戦場にだって突撃する。そんな社長をを見て、彼のようなジャーナリストになりたいって思ったんだ。そして、ここに入社した・・・と、まぁ、理想を語ったが、今の俺の仕事は、演説原稿の推敲なんだけどね」
「戦場ジャーナリストかぁ。でも、ご家族は心配しますよ?そんな危険なお仕事」
「それは大丈夫だ。もう両親はいないし、一人っ子だから・・・結婚もしていないし・・・する気もない」
「えっ?結婚願望ないんですか?(というか結婚してなかったんですね・・・)」
「ああ、戦場ジャーナリストになると決めた瞬間、結婚は諦めたよ」
「なぁんだ」
リサはタバコをふかす。リサの反応にハロルドの頭にははてなマークが点灯した。
リサは話題を変える。
「ところで、社長のことなんですけど、今日はとりわけ機嫌が悪かった気がしませんか?何かあったんですか?それとも定期的にすこぶる機嫌の悪い日があるとか?」
「うーん、俺も良くわからなんだが、今日は、新型の蓄音機の商談をしていただろ?定期的に商品の宣伝をしてくれっていう製造メーカーが今日みたいにやってくるんだけど、社長はそのたびに、いつもの数倍機嫌が悪くなるんだ」
「へぇー、なんでですかね」
「分からないなぁ。そういう日は、いつもきまって夜遅くに、社長室にこもって、何か良くわからない書き物?計算をするっていう、変な習慣があるんだ」
「うーん。ますます良くわからない人」
「さぁ、休憩は終わりだ。仕事を終わらせよう」
「はぁい」
リサとハロルドは、タイプライターと向き合った。
社長室に入ったウィリアムは、手帳を開き、何やらカリカリと計算を始めた。さっき、二人に語った内容について検算しているのだ。対数関数を使用した高度な数学であったが、ウィリアムは、ペンを止めることなく、まるで何かにとりつかれたかのように、計算を続ける。
カッカッカッ
筆圧が、どんどん強くなる。
カッカッカッ
最後の式を掻いたところで、手がとまる。ウィリアムの意識が、あの白い空間へと飛ばされる。白い後ろ姿が言う。
=私は学がないからね。君たちのいう常識がわからないのだよ。
―学歴など、無意味です。ハーバードに居ましたが、すぐに辞めました。私やあなたのような非凡な人間には必要ありません。
=はっはっは。すごいな。私は小学校中退だ。一週間と持たなかったよ。
―確か。四六時中、教師に質問したせいで、学校を退学になったらしいですね。どこかで聞いたことがあります。一体、何を質問していたのですか?
=単純な質問だよ。“私たちは、何でできているの?”
―ほう。興味深い質問ですね。教師はなんと?
=まず最初の教師はこう答えた。君が昨日食べたお肉とパンでできているとね。
―年少児童の教師としては、パーフェクトな答えですね。
=私は納得できなくてね。じゃあ、お肉とパンは、何でできているのと続けて質問した。そしたら、牛の食べた草。生産者さんが摘み取った小麦。と答えた。私は納得できなかった。じゃあ、草、小麦は何からできているの?川から流れる水の恵み。じゃあ、水は何でできているの?こんなやり取りを繰り返したよ。3、4個目の質問で、その教師は困りだした。別の教師が現れてこう言った。“わしたちは細胞というとても小さな小さな粒からできている。細胞がいっぱい集まってできている”
―ほう。理科の教師ですかね。
=どうだろうね。私はさらに質問した“じゃあ、細胞は何から?”教師は、“もっともっと小さな原子という粒からできている”と教えてくれた。
―原子・分子論ですか。現在でも、まだ論争中の最新の理論を知っていたなんて、とても優秀な教師なのですね。
=ああ、そうなのか?私はそれでも納得できなかった。“じゃあ、原子は一体何からできているの?”この質問の答えは、持ち合わせていないみたいだった。“もうこれ以上、小さなものはない”といったが、私は何も納得できなくてね。そうこうしているうちに、私は退学処分とされてしまった。
―はっはっは。教師もたまったもんじゃない。
=学校を追い出されてすぐ、母が答えを教えてくれたよ。“答えは自分で見つけなさい”とね。真理だ。
―素晴らしい母親だ。
=唯一の理解者だった。
―それで、あなたは質問の答えを見つけることができたのですか?
=ああ、私なりの答えを見つけることができた。そうだな。あれは、ああ、それだ。君の足元に落ちているノートを開いてみてごらん。
「はぁ・・・やっと終わった」
リサは、追加の仕事を終わらせて、やっとオフィスを抜け出すことができた。
「ああ・・・こんな調子でやっていけるのかなぁ・・・」
リサは真っ暗な道を当てもなく歩く。疲れで、前を向く気力がなかった。転ばないように、ひたすら足元を見つめながら歩いた。
「バーでもいこっかなぁ」
行きつけのバーで一杯飲もうと決心して、やっと彼女は顔を上げた。
「あれ?ここどこ?」
気づいたときには、すでに遅し。来たこともない場所に、彼女は一人たたずんでいた。あまり建物のない寂しい路の真ん中。キョロキョロとあたりを見回すが、手がかりとなる建物も見当たらなかった。
「誰かに聞こう」
そう思うが、人影も見えない。ポツポツと間隔を開けて、住居が並ぶ。富裕層の住む地域なのだろうが、それぞれの敷地は無駄に広く、持て余しているようで、わびしさを感じさせる。
そのうちの一軒、大きな門構えの豪邸が、リサの目に付く。門は施錠されておらず、わずかに開かれていた。門の塗装は所々剥げ、敷地には短い雑草が生い茂っている。ぬっと、リサが門の隙間から、内部を覗き込む。敷地内には、さびれた豪邸と、そのわきに、小さな町工場のようなプレハブ小屋があった。小さな小窓から温暖色の光が漏れ、灰色の世界を薄赤く照らしていた。
「すいませーん」
プレハブ小屋のドアもわずかに開かれていた。リサはその隙間から声をかけたが、返事はない。思い切ってドアを開き、恐る恐る中へ入った。真っ白な空間が広がった。
(外見よりも広く感じる)
リサは不思議な感覚に陥った。空間の真ん中には、作業台が一台、そして、白衣を着た白髪の男性が、背を向けたまま、何やら手を動かして作業をしていた。
「ようこそ」
男は、背を向けたまま、優しい声でリサを招いた。
「あの、勝手に入ってすいません」
「そこに座り給え、コーヒーを入れておいた」
見ると白い小さな机の上に、白いマグカップがおかれ、真っ黒なコーヒーに真っ白な湯気が漂っていた。
「えっ、これ今入れたばっかりの・・・」
「そうだ」
「えっと・・・でも、誰かほかの人の、コーヒーじゃないんですか?」
「いいや、君のために入れたんだ」
「えっ?」(何言ってるの?この人)とリサはいぶかし気な顔で、返事をした。(少し怖い)とすら感じた。
「誰かと勘違いしてませんか?私、道に迷って、迷い込んだだけなんですが・・・」
「それくらい分かっているよ」
「私が、この時間、ここに来ることが分かっていたってことですか?」
リサの意地悪心が目覚め、この老人をからかうような質問をした。
「もちろんそうだ」
当り前だろ?と言いたげな声色で、男は返事をした。
「いやいやいや」
笑いながら、リサは突っ込んだ。
「未来予知能力ですかぁ。そんなことができるのは神様くらいですよ。おじさんは神様か何かですか?」
リサの言葉を聞いて、老人は手を止め、高らかに笑い始めた。
「はっはっはっは」
そして、彼は初めてリサの方へ体を向ける。
「面白いことをいう子だな」
背後の作業台に手を置き、老人は言った。
「神様か・・・まぁ、それに近い存在だな」
髪の毛はすべて白く染まり、皮膚に張りはない。しかし、彼の眼光は力強く、確かなエネルギーが宿っていた。
「私、リサといいます」
「初めまして、私はトーマス」
「仕事で夜遅くなってしまいまして、ぼーっと歩いてたら道に迷ってしまって」
「お嬢さんをこんなに夜遅くまで働かせるなんて。なんていう会社に勤めているんだい?」「ニューヨークストリート社で働いてまして・・・」
「ああ、ウィリアムの会社だね」
「ご存じなんですか?」
「友人だよ。しばらく会ってないがな」
ウィリアムの知り合いと分かり、リサは安心感を覚えた。彼女は、無意識のまま、机の前の椅子に座った。
「社長に友達がいたんて!」
「一時期、よく取材してくれたんだがね。どうやら飽きられたようだ」
「ええ!じゃあ、トーマスさんは有名な方なんですか?」
「神様だからね」
「なるほど」
二人は、同時に笑った。緊張がほぐれ、周囲の様子が目に入る。この空間の所々に、何やらよくわからない。奇妙な機械や造形物が所狭しと、乱雑に置かれていた。まるでスクラップ小屋である。
「トーマスさんは、お仕事は何を?」
「仕事かい?発明家だ」
「へぇー、どんなものを作っているんですか?」
「ガラクタだよ。なかなかうまくいかなくてね。気づけば、この歳というわけだ。ここはガラクタ小屋だ」
「そ、そんなことないと思いますけど・・・」
気を使って、根拠のない弁護をしようとしたが、全くいい言葉が思いつかない。周囲のスクラップから、何か褒められるものはないか・・・目をやった。
「あっ、これ」
思いがけず宝物を見つけたリサ。彼女は小さな四角い箱を手に取った。その箱に、リサは心当たりがあった。
「これ、最新のカメラじゃないですか!」
この時代、カメラの発展はめざましく、ちょうど庶民でも購入可能な汎用型携帯カメラが発売されていた。
「最近発売されたものですよね?えっと、コダックとかいう会社の!うちの新聞でも広告が出てました!よく手に入りましたね!すごく売れてるんですよね」
トーマスは首を傾げた。
「最新?それは、私が幼少期に作ったものだが?」
「ははは!本当ですか?すごいですね」
リサはまた冗談と受け止めて、笑った。リサの笑顔を見て、トーマスは言った。
「そんなものでよければ、もっていくといい」
「え、いいんですか?」
「もちろんだ」
「いやいや。でも・・・」
「君は新聞社で働いているんだろ?カメラなら、役に立つことがあるだろう。一方、私は出不精でね。使うタイミングがないんだよ。君が持っていたほうがいいだろう」
「では、お言葉に甘えて・・・」
リサは、小さな箱を、カバンの中に押し込んだ。
(もっと掘り出し物をもらえるかも)と、リサの意地の悪さが出てきた。きょろきょろとスクラップを見渡すと、今度は、一冊のノートが目に入った。(汚いノートだな。何年前のものなんだろう)リサは、勝手にノートを開く。そこには一つの簡単なグラフが記されていた。縦軸と横軸がぴったりと90度で交わっていて、横軸のちょうど真ん中には、真っすぐに伸びた一本の直線が記載されている。細かな目盛りはなく、ただ一つ、縦軸の終点近くに、ただ一つ、短い線で目盛りが記されている。そこに掛かれている数字は「1」。その目盛りは、横軸の真ん中から伸びている直線の上端と同じような位置を示しているように見える。「1」を示す直線のグラフである。
リサは首を傾げた。
「ふーん。あのぉ、近くにあったノートを勝手に見させてもらってるんですけど、このグラフは一体何ですか?」
「ノート?どんなグラフだい?」
トーマスは、また作業に戻っており、リサに背を向けている。
「なんか、横軸の真ん中から線が伸びてて、縦軸に1という数字が書いているものです」
「ああ、そのグラフか。そうだな。そのグラフは、君の目の前のコーヒーカップが、君の目の前にある確率だ。1には、100をかければいい。そうすれば、パーセンテージとして考えられる」
「100%を示すグラフですか??」リサは、首をかしげる。
「そう見えるかい?」
「はい」
「本当に100%と、自信を持って言えるかい?」
「うーん、そういわれると、ちょっと、直線の頂点が、目盛りよりもちょっとだけ、小さいような。そう見えるような・・・いや、見えないかなぁ。答えはなんなんですか?」
「わからん・・・わからんが、完全な100%ではないことだけは確かだ」
(うーん、よくわからない話を始めた)
「モノの存在は、完全なものではなく、あくまで確率で表現される性質のもので・・・・」
(何言っているのか、全然わからないなぁ)
リサは、トーマスの話を理解することを諦め、右から左へと彼の言葉を流す。代わりに、リサはノートのページをめくる。そこには、見たことのない文字がびっしりと、書きなぐられていた。その筆跡には、ただならぬ感情が読み取れ、リサは一瞬恐怖を感じたほどの異様な空気が感じられた。
(めちゃくちゃ汚い文字?見たことも無い文字ね。社長のメモ以上に読みにくいわぁ)
リサは、ペラペラとページをめくる。同じような、ページが続く。
(あ、そういえば、道を聞きに来たんだった)と、本来の自分の目的を思い出したころ。ついに、ノートの最後のページまで来た。そのページを見た瞬間、リサは慌ててノートを閉じる。
「あの、そろそろ。おいとましようかと思ってるんですが・・・私、どうやったら帰れるでしょうか?」
「ああ、そうだね。道に迷ったんだったね。門を出て左にまっすぐ進むといい。すぐに良く知っている道に出るはずだ。街灯が三十メートルおきに設置されているから、道は明るい。安全な道だ」
「あ、ありがとうございます。今日はどうもありがとうございました。初対面なのにカメラまでいただいて・・・」
「気にせず。また来なさい」
トーマスの声は優しかった。
(あ、コーヒー飲まなきゃ。せっかく入れてもらったんだから)
リサは、慌ててコーヒーを飲んだ。
すっかり湯気のなくなったコーヒーを、口に含む。
「甘!」
思わず吐き出すほど、甘いコーヒーだった。吐き出したコーヒーをカバンから取り出したハンカチで乱暴にふき取ると、リサは逃げるようにトーマス邸を出ていった。
「ごちそうさまでした!」
社長室にて、ウィリアムはまだ計算を続けていた。何度も計算間違いをしたようで、床には丸められた髪が何枚も散らばっている。彼の意識は、まだ過去にあった。
―この直線のグラフは一体なんですか?これが、あなたの見つけた答え?原子よりも小さな構成要素だ田言うことですか?
=前のページを見てごらん。
ページを一枚もどすと、そこには、緩やかな丘のような形のグラフが描かれていた。同じ縦軸には、「1」と書かれた目盛りが一つ書かれているが、丘の頂上の位置は、「1」よりも随分低い位置にあった。
―これは?とても、滑らかな曲線が描かれていますが?
=それが、私がたどり着いた“最小要素”だ。“私たち”、“もの”を含めたすべてに共通する“最小要素”・・・“存在”というべきものを示したものだ。
―この丘の輪郭をなぞったような曲線がですか?
=そうだ。
―私にも意味が分かるように説明いただけないでしょうか?
=学校を追い出されてすぐ、母は私に小さな実験部屋を与えてくれた。私は疑問の答えを見つけるため、さっそく“仕事”を始めた。
―あなたの初仕事ということですね。かなり難易度は高そうですが。
=まず“細胞”はその日のうちに確認することができた。“原子”は一年かかったが、まぁ、それほど難しくはなかった。そしてそこで、まず私は“大きさはとても重要”だということに気が付いた。
―一体どういう意味でしょうか?
=この私の最初の仕事。答え探しの手法。それをかみ砕いて言うと“分解”という作業だ。“モノ”を分解し、観察する。それが、確認という言葉の意味だな。例えば、君が手に持っているコーヒーカップ。それはコーヒーカップだ。
―そうです。現に、コーヒーが入っていますからね。
=しかし、コーヒーが入っていなくてもコーヒーカップだとわかるんじゃないか?
―そうかもしれません。
=その形。色。一目見れば、カップだということは分かる。しかし、それを割ってみてはどうだろう。パリンとカップを落とすんだ。コーヒーカップは粉々になるだろう?
―そうですね。
=そして、粉々になった破片を拾い上げ、誰かに問いかけてみなさい。“これは何?”と、その人はコーヒーカップの破片だとわかるかな?
―いえ。何かの割れ物の破片だとは分かりますが、果たして皿か、コーヒーカップかの判断はできないでしょう
=そう。紛れもなくコーヒーカップを構成していた破片だが、破片を見ているだけでは見分けはつかない。分解し、細分化すると同時に、“コーヒーカップ”という性質が失われた。破片を金づちで叩き、もっと小さな粉へと変えてしまおう。破片はなく“白い粉”がそこあるだけだ。そうなるとどうだろう。それがコーヒーカップどころか陶器の割れ物であることも分からないだろう?“陶器”という性質が失われる。さらに、粉々で小さな小さな粉にして、たった一個の粉の粒だけを取り出してみよう。“白い”粉であることすらわからなくなる。
―そうなると。もう見えもしないでしょうね?
=肉眼では難しいだろうな・・・“白い粉”であることも分からなくなれば、ガラスを同じように粉々にした粒との見分けはつかなくなる。コーヒーカップと窓ガラス。二つを構成する粒は、ここで共通となる・・・といってもいいと思わないか?
―はぁ
=つまり、“モノ”を小さく細分化すればするほど、そうだな、いわば“肩書”は失われていく。コーヒーカップ。陶器。粒。色。
―いわば、根源へと近づいていく・・・ということですね?
=そうだ。そうやって、“肩書”を少しずつ消していった。最終的には、“物質”という肩書も消え去り、行きついた構成要素・・・それが、“存在”だ。
―は、はぁ・・・そうですか。存在・・・はぁ、まぁそうなんでしょうけども・・・えーと、このグラフが、存在を示すと・・・いうことでしょうか?
=そうだ
―ところで、この最小要素とあなたが言ったこのグラフの頂点が「1」を示していないのはなぜでしょう?“もの”の存在は、「1」、100%ではないと?一方、先ほど見た・・・コーヒーカップのグラフは「1」を示していました。この矛盾は一体?
=ここで最初に言ったキーワードが出てくる。もう一度言おう。“大きさは君たちが思っているよりも重要だ”。
―大きさ・・・確かに重要だとは私も思います。
=“白い”という性質が消える粒子となった時、君は“見えない”といったな。
―そうでしょう?見えない。
=そう。我々の視力という計測機。自分の“物差し”で、大きい小さいを判断する。我々の物差しでは、粒子を見ることができない。見えないものをどうして、“そこにある”といえるんだ。
―えっと、さっきまで破片として“あったから”
=それは理由になるだろうか?もしかしたら、ものすごく弱い風で飛ばされてきたただの土の粒かもしれんぞ?
―それは、確かに否定することはできないですが。
=つまり、そこに“存在”している確率が小さくなった・・・そうは言えないか?
―まぁ、そういう言い方もできるかもしれませんが、“存在しているものは存在しています”実際に、顕微鏡で確認してはいかがでしょう?
=そう。顕微鏡を作り、確認すればいい。つまり、君の視力という“物差し”を変えるのだ。改良するのだ。しかし、もしかすると見えているのは、顕微鏡のレンズに付着しているゴミである可能性は考えられないか?
―はっはっは。言いがかりにも聞こえますが・・・そうかもしれませんね。
=もっと高精度の顕微鏡を用意しよう。そうだな原子を見に行こう。
―不可能では?
=そうだ。巷ではなかなか手に入らない、特別な性能を持った顕微鏡だ。とても、複雑で巨大な顕微鏡になるのだろう。特別な設計のものだ。手軽で、構造も単純な顕微鏡と違って、とてもデリケートで、扱いづらい。そんなもので観察したからといって、原子という極小の粒を、果たして原子と断言できるかな。疑念がわかないか?
―はっはっは。そんな顕微鏡。想像もできません。
=そうだろう?突然、“原子”がここにあると指をさされても、君は信じられない。私が言いたいことはだな。“モノ”は、細分化され“肩書”をなくし、消えていくと同時にどんどん小さくなる。そして、小さくなるほどに“存在”を疑う要素が増える。“存在”は、あいまいなものとなっていく・・・あくまで確率的なものとなっていく。従って、私が行きついた最も小さな“要素”、“存在”のグラフは、「1」よりも遥かに小さなものとなってしまうのだ。
―はぁ、では、このグラフと。「1」を示す真っすぐな線をどうやってつなげるのですか?
=細分化したものを今度は元に戻せばいい。だよ。次のページをめくってみたまえ。
ウィリアムはページをめくる。先ほどの直線のグラフのページではなかった。ウィリアムが開いたページには、3つのグラフ、2つは“最小要素”のグラフ。1つは“最小要素”のグラフよりも少し、急な丘の曲線。頂点の“尖り”はわずかに鋭利になっていた。頂点の位置も「1」に近づいている。
=“白い”かどうかも分からない小さな粒を、二つくっ付けるとしよう。
―変わりません。多分、見えないでしょう。
=千だとどうだろう。
―・・・“白い”粉だとわかるかもしれません。
=一万の粒を集めるとしよう。
―想像できないですが、もしかしたら、白い陶器の破片だとわかるかもしれません。
=君の“物差し”でも、確認できる。“存在”しているという確信が強まるということだ。
―存在確率が高まる。ということですか。
=そうだ。複数の“最小要素”が結合し、1つの存在となることで、“存在”の確率が「1」に近づいた、鋭利な曲線が発生するのだ。
―はっはっは。まるで、波ですね・・・あなたの言っていた“我々も波だ”という言葉は実は、このことを言っていたのですか?
=そうだ。存在は、波。互いに重なり合う。そして、“強め合う”。考えてもみたまえ、コーヒーカップを構成する“白い粉”ですら、一体、どれくらいの数の粒があると思う?
―無数に近いでしょうね
=それが、想像もできないほどの高精度の顕微鏡しか見えない“最小要素”に置き換えた場合、数字ともいえないくらいの巨大な数の“最小要素”・・・存在・・・波が集まる。それが、すべて高め合い、一つの波となるのだ。
―なるほど、“それ”が“そこ”に存在する確率は、「1」となる。それが、最初の一本の線の意味ですか。
=正確には「1」ではない、極限まで「1」に近づく。あくまで確率だからな。
―はっはっは、私には「1」にしか見えませんね。
=完全な「1」など存在しない。ただ、我々は結局のところ、自分の物差しで物事を判断する。我々の物差しだとそれは「1」ということになるだろうな。
―「1」ではないとすれば、コーヒーカップが別の場所に“存在”する可能性もあると?この横軸の中心ではなく、もっと端の方に存在する可能性もあると?
=私たちの物差しで判断すると「ない」という答えになる。その確率は、そうだな。サルがタイプライターを適当に叩いて、シェイクスピアのハムレットを書き上げる確率よりも遥かに、遥かに小さい確率なのだろうな。私も計算したことはない。呆れるくらい多くの「0」を書き続けなければならないからな。しかし、完璧な正確さを求めるのであれば・・・物差しを別の何かに置き換えれば、それは明らかに「1」ではない。しかし、間違えてはならない。「0」もまた「0」ではない。完璧な「1」が存在しないように、完璧な「0」も存在しない。
―そうですか・・・(あまり理解はできなかったが)・・・ところで、“モノ”の存在がこんな簡単な直線で表せるのならば、私たち生物の存在もまた、このような直線で描けるのですか?
と何気なく質問を投げかけたウィリアムだったが、トーマスは答えず、そのまま作業に戻った。
ウィリアムは、無意識に、またページをめくる。「1」を示す最初のページではなかった。そのページに書かれていたのはグラフではない。一面にびっしりと、解読不可能な文字が書きなぐられていた。見たこともない文字。似ている文字を探すとすれば、極東の島国「ジパング」の「HIRAGANA」という文字が近いとウィリアムは感じたが、それとも本質的には違うようだ。これはトーマス独自の“数学”ではないかと、ウィリアムは推測した。文字は荒く、ひどく慌てて書いたように見える。そして、その計算の最後・・・最後の文字だけは、ウィリアムでも、はっきりと認識できた。アラビア数でこうあった
〈36〉
ウィリアムの意識は、現在の社長室へと戻る。。
カッカッカ
答えまでもう少しというところで、ウィリアムは、自身の計算の間違いを見つけた。乱暴に、ノートを破り、また計算を始めようとするが、諦めてペンを置いた。
走るリサ。気が付くと、ブロードウェイ沿いの会社近くまで来ていた。
「なんか不思議な人だったなぁ・・・」
息を整え、顔を上げると一軒のバーの前にいた。〈BARマンハッタン〉。ここは、リサの行きつけの店だ。
「ちょっと飲んで帰ろ」
リサは、軽い足取りで、バーの中に入っていった。いつものメンツが揃っていた。
「おお!リサ!久しぶり!こっちだ!」と声をかけたのは、売れない脚本家のジェファーソン。通称ジェフ。その隣には、小太りの売れない俳優、アルフレッド。通称アル。
「久しぶり!」
リサが二人の席に座り、タバコに火をつけた。
「調子はどう?」
「こんな感じだよ」ジェフは、アルを指さす。アルは、どうやら完全に出来上がっているようだ。下を向いたまま「ああ、あの人に会いたい」と、ブツブツとつぶやいている。
「また、その話?」とリサ。
「俺の女神は、一体どこにいるんだ?」
「まだチェリーボーイなのね」リサはタバコをふかしながら笑った。
「リサ。何とかしてくれよ」とジェフ。
「どうにもできないわよ。また酔っ払って暴れるようだったら、ビンタしてあげるけど?」
「一回酔っ払ったアルが、お前に襲い掛かった時のあのビンタは素晴らしかった。1週間くらい、こいつの首曲がってたもんな」とジェフは、笑う。
「正当防衛よ」とリサ。
「はぁ、あの女神にもう一度会いたい。リサ。本当に覚えてないか?お前がショーパブで歌っていた時、たまに舞台に出てたじゃないか。だいたい、お前の次の出番だったかなぁ」
「ショーパブの楽屋は、暗いし、みんなあんまり話さないのよ・・・それにしても、ほんと、あなた全く変わらないわね。別の仕事を探してみたら?」
「俺たちは、もう変われないさ。お前みたいに賢くも強くもない。しかし、よくあんな大企業に就職できたな」
「運が良かったの」
「年齢制限とかなかったのか?」
「ぎりぎり大丈夫だったの」とリサはそういうと、アルのグラスを取り上げ、バーボンを一気に飲み干した。
「それにしても、オフィスレディも大変だな。こんな時間まで働いてるのか?」
「うーん。そうね。今日は、早く終わったんだけどね。ちょっと、寄り道してたの」
「へぇ」
「不思議な人だったなぁ・・・」リサは、ぼーっとバーの天井を見つめる。
(あのカメラで何を撮ろうかなぁ)リサは、タダでもらったカメラを思い浮かべ、少し笑った。
◆入社50日目 名前のない青年
5月1日。メーデー。「5月の日」。世界各地の労働者たちが、自らの労働環境改善のために集い、決起する特別な一日。メーデーが制定されるきっかけになったのは、自由の国アメリカで起きた大規模な暴動事件である。1886年、シカゴにて、労働者たちによる大規模なデモが暴動へと発展、多数の死傷者が発生する大惨事となった。抗議活動の中心地がヘイマーケット広場であったことから、「ヘイマーケット事件」と呼ばれる。事件の発生自体は5月4日だが、発端となったデモが、5月1日であったことから、労働者たちはこの日をメーデーと呼び、様々な抗議活動を行うようになった。余談だが、メーデー発祥地ともいえるアメリカでは、上記のような労働決起の日は、世界基準の5月1日ではく、9月の第一月曜日であり、レイバーデイ(労働者の日)と呼ばれている。これは、「ヘイマーケット事件」があまりにも悲惨な暴力的な事件であったためで、事件を意識させないように日にちを変えたのである。
とはいえ、世界中の労働者たちが決起している時に、何もしないわけにもいかない。この日、ニューヨーク州の有力な労働組合幹部による「労働を考える会」がマンハッタンのユニオン広場で開かれていた。間近に知事選を控えた「労働者の味方」ウィリアムは、基調講演を依頼されていた。ハロルドも言っていたが、彼にとってみれば、支持基盤を確保するための大事なイベントである。
ボブの運転で、ウィリアムとリサが会場へと向かう。車中、ボブは得意のブラックジョークを繰り出し続ける。
「俺のワイフの素晴らしいところはたくさんあるが、一番すげーのは、その乳だ。見せてやりたいね。ビッグだぜ!それで、先日、俺はついついこんなことを言った。すげーな、まるでホルスタインじゃねぇか。一番下の子供も、もう離乳食なのになんでそんなにでかいまんまなんだ?って、そしたら、ワイフはこういった。乳離れできない暴れ牛を飼っているからね。はっはっは。ちげぇねぇ!だから、俺はこう思っている。今度、ワイフをロデオの大会に出そうってな!はっはっは。意味わかるだろ?」
「は、はぁ」リサはうつ向いたまま返事をした。
「それでよぉ。あ、もう着いた。ああ、このT型にしてみりゃマンハッタン島は、小さすぎるんだよな。すぐに目的地につちまう」
T型の性能という面もあるが、そもそも、灰色の世界のマンハッタン島を走る車あるいは馬車というのはそれほど多くはない。路面電車と歩行者に気を付けていれば(それが難しいといえばそれまでだが)、フルスロットルで、マンハッタンを駆け巡ることができる。
T型は、マンハッタン島南部のユニオン広場に到着する。簡易的ではあるが、しっかりとした舞台がセッティングされており、各労働組合から集まってきた民衆が集合していた。参加者は、全員が幹部クラスというわけではなく、若く血気盛んな若者の顔もチラホラと見える。
「さぁ、つきましたよ!社長!」
「ごくろう」と、ウィリアム。
「あ、ありがとうございました」と、リサ。
T型から降りると同時に、主催者であるトミー・ワトソンという中年の白人が、ウィリアムを迎えた。
「おはようございます。今日は、よくお越しくださいました。さぁ、舞台のセッティングは終わっております」
「おはようございます。事前にお送りしておいた蓄音機も準備万端でしょうか?」と、ウィリアムはが彼に聞いた。
「はい、準備万端です。ぬかりはないでしょう。この演説を記録し、ぜひともニューヨーク中の労働者たちに届けましょう」
「それに見合う演説をしなければな」
ウィリアムは、トミーそして、その取り巻きとこんな調子で雑談を交わした後、そのまま舞台に上がった。到着してから、ほんの数分の出来事である。
「ああ、社長」
リサが、築いたときにはウィリアムは、労働者たちと正対しており、すぐさま演説が始まった。
「おはようございます。ウィリアム・オーソン・ウェルズです。本日は・・・・」と演説における常套文句を軽く述べたのち、自己紹介とともに本題となる話を始めた。
「私の本業は新聞社の経営者ですが、私には別の顔があります。政治家です。去年から、下院議員というくだらない副業でやっているのですが、どうも納得のできないことが多すぎるもので、まずは皆様に私の愚痴をきいていただきたい。つい先日、私の提出した労働環境改善に関するいくつかの法案が廃案となりました」
ブーブーと、否決の判断を下した国会に対する罵声がチラホラととびかった。
「その法案の内容というのは、まさに皆様労働者たちの人権を保証する極めて重要なものです。具体的に申しますと、まず第一に、1日8時間という労働時間の規定。これは、シカゴのあの事件から、いやもっと前から、アメリカ中の労働者たちが求めてきた規則です」
ヒューヒューと、ウィリアムを支持する声がチラホラ。
「第二に、時間外労働という概念の導入。どうしても、8時間以上の労働が必要となった時、それは時間外労働という区分となり、賃金は通常の20%以上の上乗せすることを規定いたします。そして、第三に時間外労働時間の制限です。給料が上がるとしても、無限に働かされたのでは、貴方達の体は悲鳴をあげるでしょう。したがって、時間外労働時間には、明確な制限を設けます。一年で許される時間外労働時間は360時間です。どんな事情があれ、360時間を超える時間外労働を課した場合、大きなデメリットを会社と資本家に与えます。場合によっては、資本家を逮捕します。犯罪なのです。ちなみに360という数字は、我が社での実績をもとに算出した絶対的な数字であります・・・この360という数字から、私はこれらの法案をこう呼んでいます。もう皆様はご存知でしょう。そう、36(サブロク)協定です」
聴衆は拍手した。
「こんな素晴らしい法案を、国会は廃案としたのです。信じられません。否決の根拠は、どうもチンプンカンプンで、まったく理解できないものでありました。なにより私が憤りを感じたのは、ほかの議員から、対案と呼べる具体的な提案が何一つなかった点であります。つまり、国会で真剣に取り組むべき議題ではないと、彼らはそう言っているのであります。いや、正直申し上げますと、真剣に取り組むことができないといったほうがいいかもしれません。彼らの何人かは心の中では、36協定にポジティブな意見を持つものもいたのでしょう。しかし、彼らは、その信念に基づいて行動できないのです。なぜか。ここが最大のポイントです。国会議員の行動を妨げている者たちがいるのです。それは誰か。もう御存知かとおもいますが、トラストたちです。彼らの私利私欲を守ることが、この国の行動原理となっています。国会議員たちは、彼らの傀儡でしかありません。逆らうことができないのです。従って、アメリカの頭脳であるはずの国会は、労働問題を議題とすることすらできない。完全な箝口令が国会を支配しています。アメリカという国は、重病なのです。「労働」について真剣に考えることができない。そういう病にかかっています。これは大問題です」
「そうだそうだ!」と聴衆からチラホラと声が聞こえた。
「かじかむ手で釘を打つ、罵詈雑言を浴びながら、機械部品を組み立てる。眠い目をこすりながら、延々と炭を炉にくべる。労働とは、少なからず自分の意志を抑制するものです。私は、思うのです労働の対義語は自由であると。労働を否定しているわけではありません。むしろ、我々が生きていくためには必須なものです。労働とは、生きるために自由を犠牲にする、人間独自の生理現象のようなものであると私は思います。相反する「労働」と「自由」の調和、これこそが私が生涯をかけて追及したいテーマなのであります。それこそが、真の意味での自由であると信じているのであります」
「いいぞいいぞ!」と声が聞こえた。
「労働問題は、ことアメリカにおいて、特別な意味を持ちます。なぜなら、アメリカは「自由」の国だからです。トラストの馬鹿どもは、それを理解していない。
1776年7月4日、建国の父らによって高らかに宣言された自由は、南北戦争という未曽有の内戦を乗り越えてなお、未完成のままであると言わざるを得ないでしょう!一日に18時間も働かされた重労働者に、果たして自由を感じることができるのでしょうか?36協定の成立は、まさに独立戦争と構図は同じ。植民地としていた強国イギリスがトラスト、そして、アメリカ建国の父が私たち労働者。真の自由を勝ち取り、アメリカという国を真の意味で建国するのです。今回のニューヨーク州知事への立候補は、開戦ののろしです。トラストにも、悪徳な資本家にも、財政にも、メディアにも縛られないこの私が、みんなさんの戦闘に立ち、すべての銃撃から、守り、敵陣深くに切り込みます。私ならそれができる。いや、私しかできない。それは、みなさま、わが社の新聞を一見すれば明らかでしょう!私の記事は、誰かにしっぽを振っていますか?」
「いや!振っていない!」と聴衆の中からまた声が聞こえる。
「自由は、今の政界にはありません。では、どこにあるのか!皆様の手に握られているのです!皆様が持っている自由は、誰も傷つけず、誰とも争うことはありませんが、この独立戦争の唯一にして最強の武器です。最大の敵!トラストを打ちのめすことのできる唯一の武器なのであります!来たる選挙の日、どうか、皆様の武器を私に託してください!そして、見ていてください!自由を手に、あいつらを打ちのめす姿をご覧に入れましょう!」
割れんばかりの拍手の渦が、会場を飲み込んだ。会場は最高の盛り上がりをみせる。
客席側の会場の隅で、ウィリアムの演説を見守っていたリサもその盛り上がりに圧倒され、ウィリアムのカリスマ性に、初めて尊敬の念を覚えた。
(すごい)
思わず拍手をするリサ。しかし、リサの拍手の音は、すぐ隣から発せられる異常な大きさの声でかき消される。声の主は、ぼさぼさな髪、ボロボロな衣服にお身を守ったみすぼらしい白人青年で、骨折でもしているのか、右手を白い布でぐるぐる巻きにしている。白い布が緩衝材となり、音はあまり出ていないが、彼はそれでも必死で手を叩き、狂ったように、称賛の言葉を叫び続ける。
「ブラボー!!資本主義の悪魔たちをやっつけてください!あなたこそ!私たちの希望!自由の象徴だ!」
拍手は静まろうとしていたが、この青年の熱は冷めない。壇上のウィリアムも彼の存在に気が付いた。ウィリアムは、民衆、そして、発狂した青年にビジネス用の微笑を投げかけると、壇上を降りた。すぐに、トミーが駆け寄ってきた。
「素晴らしい演説でした」
「ありがとうございます」
トミーの横にいるオスカーという男もウィリアムに話しかけてきた。
「これで、当選は確実だ。なんせ、このニューヨークの最大勢力は我々労働者なのだからな!」
「その通りです。選挙の日が楽しみですよ」
彼の周りに聴衆が集まり、彼を取り囲む。
「みんなさん落ち着いてください。はっはっは。チャーリーにでもなった気分だ」
チャーリーとは、最近、NYで人気急上昇中の若手喜劇俳優である。人々をかき分けて、あの青年が握手を求めてきた。差し出した手は左手だった。
「ああ、君か」
「あなたは、私たちの希望、私たちのヒーロー、救世主、神です!私たちを救ってください!」
「はっはっは、私は神ではない。ウィリアム・オーソン・ウェルズだ」
青年の目は笑っていなかった。その目はまさに、遥か昔、民衆が救世主を拝見したときのものと全く同じであっただろう。青年のみすぼらしさを見たウィリアムは、彼に興味を示さず。少し乱暴に彼を振り払った。
青年は、ウィリアムを追いかけるしぐさをみせ、使えない右腕を伸ばそうとした時、青年に、リサが声をかける。
「ウィリアムを応援してくださってありがとうございます」
青年は、右手を下ろし、笑顔で答えた。
「いえ、お礼を言いたいのは、私たちの方ですよ。あの人は、我々労働者の希望です」
青年は、目を輝かせながら、そういった。
「ありがとうございます。私、ウィリアムの部下のリサと申します」
「ああ、やはり素晴らしい部下をお持ちだ。こんな私にもとても礼儀正しく接してくれる」
「いえいえ、そんな・・・右手に怪我をしているのに、わざわざ来て下さって・・・」
「この右手ですか?いえ、けがをしているわけではありません。これは一種のおまじないのようなものです。私にとってのね」
「は、はぁ」
リサは首をかしげる。
みすぼらしい青年は、青い目の美しい微笑みを浮かべていた。青年の着ている服は、毛玉だらけで、彼が貧しい労働者の一人であることを物語っている。リサの務めるニューヨークジャーナルは、夜遅くまで仕事する激務の会社だが、何不自由なく生活できている自分がいかに恵まれた人間かを実感した。
「よかったら、お名前を教えていただけませんか?」唐突に、リサは彼の名前を聞いた。
「名前・・・名前は、実は今は、ないのですが・・・」
青年が、聞こえるか聞こえないかの小さな声でつぶやいた。リサは、首をかしげる。不自然な間をおいて、青年は答えた。
「・・・レオン・・・レオン・チェルゴッシュです」
リサは左手を差し出し、握手を求めた。
「これからも、ニューヨークストリート紙をよろしくお願いします」
「もちろんです。この新聞こそ、今の私の聖書です」
ウィリアムの演説はすぐに終わったが、二人の仕事はまだまだ終わらない。マンハッタン中の労働組合事務所を回り、一日中、労働組合の偉い人との会談が繰り返された。早朝から始まったリサの休日出勤だったが、気づけば日が落ちかけていた。ブロードウェイ近くのホテルで、最後の打ち合わせが終了した。もう帰れる・・・とくたくたになったリサは、議事録の束をカバンに強引に押し込んだ。
「おい、リサ。これから、懇親会としてパーティを開く、会場の準備を手伝え。このホテルの大広間だ」
リサへの死刑宣告に等しかった。
(パーティ?散々懇親したのに、パーティなんて開く意味ある?)リサはそう思ったが、彼女の心を読んだかのように、ウィリアムが睨みを利かす。
「わかりました・・・」リサは、ウィリアムの圧に負け、渋々承諾した。
「私は何をすれば?テーブルを並べましょうか?」
「いや、マリリンのお付きだ。控室までエスコートしろ。場所は、講演の終わりに案内された部屋だ。その後は、彼女の要望に応えろ」
「マリリンさんいらっしゃるんですか?」
「ああ、舞台で歌わせる。今日は催し物だからな。早く行け。もうここに着く頃だ」
「はい」
◆入社50日目(サービス残業)星条旗よ。永遠に
リサがエントランスまで走ると、マリリンがボブのT型から降りてくるところだった。車から降りる所作のすべてが美しかった。リサは思わず見惚れてしまった。
「お疲れ様です。リサ・パーラメントと申します。今日は、何なりとお申し付けください」
チェックのワンピースを身に着けたマリリンが、美しい瞳で、リサを睨みつける。
「誰?あなた」
「あの、最近、タイピストとして入社しました」
「ああ、そう。部屋はどこ?」
マリリンはそっけなく答えた。巨大なサングラスをつけた二人の男が、マリリンの脇を固めている。
「こちらです」
リサは、控室まで3人を案内した。控室は、小さな会議室に鏡を一つ置いただけのそっけない部屋だった。マリリンは、すぐに鏡の前に座り、タバコをふかし始めた。
「ふぅ」
タバコをふかす彼女の姿は、美しさに加え、妖艶なエロティックさがプラスされる。
「すごく綺麗ですね」
リサは思わず口にだした。
「はぁ?何?」
「あ、いえ、あまりにも所作が美しいので・・・」
「だから何よ?」
「ああ・・・ええと・・・はい」
「わけわかんないこと言わないで」
「はい、すいません」
最初の会話は、そっけなく終わった。無言の時間が続く、二人の取り巻きは、一言もしゃべらない。やがて、マリリンは、タバコを1本吸い終わった。
(そろそろ、準備するのかな)
リサは、壁に掛けられている衣装に目をやった。一体どこに生息しているのかわからない、巨大な白銀の羽根が全体にあしらわれた、巨大なドレスがそこにはあった。
(派手すぎない?)
とリサは一瞬引いた。視線をマリリンに戻すと、彼女は2本目のタバコに手をかけていた。「あの・・・」 リサは思わず声をかけた。
「何よ」
「そろそろ、準備されたほうが・・・」
「あなた何なの?」
「あと、歌う前なんで、さすがにタバコは控えたほうが・・・」
リサは勢いに任せて、言いたいことを言った。
「あんた何様?邪魔だからでていってくれない?」
「いや、社長にあなたの世話をするようにいわれていましてぇ・・・仕事でしてぇ」
「ふん。何でこんなオバサンと一緒に居なきゃいけないのかしら・・・出ていくのがいやなら、ウィリアムを呼んできて」
(オバサン?)
リサのコメカミに血管が浮出たが、ぐっとこらえた。
「はやくして。ウィリアムを呼んできてよ」
「社長は、あとから来られます。今、忙しいので・・・」
「あの人に忙しくない瞬間なんてないでしょ?さぁ、早く呼んできて、今すぐ!」
ここで負けると、ウィリアムに怒られるのは目に見えている。
「あの、メイクとかを済ませて、舞台への準備が整った段階で、お呼びしたほうがいいのでは?」
「オバサンのあなたと違って、舞台を上がるときにも厚化粧をする必要はないの。メイクしてようが、してなかろうが、大して変わりはないわよ」
(オバサン・・・2回目よ・・・)
リサの血管がまた浮き上がった。ぐっとこらえるリサ。
「そういわれましても・・・何か飲み物を用意してきましょうか?」
「耳も遠くなってるの?ウィリアムを連れてきてって言ってるでしょ?耳まで遠いの?どんだけ年取ってんのよ!」
(もう無理!)短気なリサは切れた。
「初対面の人間に向かってその口の聞き方ってないじゃないんですか!」
マリリンは、驚いた表情でリサを見た。
「何キレてんの?更年期?」
「はぁ?あんたみたいな失礼な人間初めて見たわよ!一体どんな教育受けてきたの?歌を歌う前に、社会人としての常識を身に着けなさいよ!あなたに歌を歌う資格なんてないわよ!」
「あなた何様?」
マリリンが立ち上がる。背が高い。リサを見下ろす。
「いいわ。私がウィリアムを呼びに行くわ。そして、あなたを首にしてあげる」
「やってみなさいよ!そんなんでクビにされるなら、こっちから辞めてやるわよ!あなた恥ずかしくないの!全部、社長におんぶにだっこで支援してもらって!あなただけの実力で、これだけの人と、あれだけ豪華な衣装を着れると思ってるの?無理でしょ!謙虚になりなさいよ!」
「あなたに私の何がわかるの!」
「わからないわよ!だから、問題なのよ!マリリンなんて歌手、聞いたことないわ!もっと、謙虚になって、自分の力で売れるように努力しなさい!」
「やめろ!」
ウィリアムが、控室に駆け込んできた。
「あっ、社長」
「まさかと思ってきてみたら・・・そのまさかだったな」
「ウィリアム。この女・・・」「黙れ」
マリリンは黙った。
(ヤバイ。怒鳴られる)とリサは思ったが、ウィリアムの反応は違った。
「リサ。会場の配膳を手伝え。彼女の世話は別の人間に頼む」
「はい」
リサはうつ向いて、部屋を出た。
部屋を出てすぐ、リサは深い後悔に襲われた。「しまった。またやってしまった・・・」
自分の発言を思い返す。思い返すほどに、後悔は深まっていく。
(出番前で・・・ナーバスになっている人に・・・優しくできなかった)
思い返すと、自分の発言は、すべて上からマリリンを見下しているように思えた。自分の中に、歌手としての薄っぺらなプライドが残っていたことが、恥ずかしくなった。
(私なんて、全然売れなくて、逃げ出した人間なのに・・・)
「はぁ・・・あとで、謝りに行こう」
リサは、立ち止り、ため息をはいた。
「お嬢さん。マリリンの控室はどこか分かりますか?」
突然、声をかけられた。長身の男性だった。ふと見上げると同時に、リサの顔が赤くなった。
(めちゃくちゃカッコいい・・・ていうか、この人・・・)
「チャーリーさんですか?」
「はい。そうですが・・・もしかして、ファンの方ですか?」
彼は、巷で人気の若手喜劇俳優。ハットをかぶり、ちょび髭をつけ、ステッキを使ったコミカルな動きで、人々を魅了している。メイクをしていない彼は、まるで雰囲気が違った。
(やっぱりスターは違うのねぇ)
リサは、チャーリーの顔をまじまじと見つめた。
「あの、今はプライベートだから、サインとかはできないんですが・・・」
「あ、ああ、すいません。マリリンの控室はそこです。あ、でも今、うちの社長が・・・」
「社員の方でしたか、すいません。はっはっは。ちょっと天狗になっているみたいだな僕も。ところで、ウィリアムさんもいらっしゃるんですか?ちょうどよかった。最近、お会いできてなくて」
「社長を知ってるんですか?」
「当然です。ウィリアムさんにはいつもお世話になっています」
(社長すごい)とリサは改めて思った。
「ところで、すこし体調がすぐれないように見えたのですが?大丈夫ですか?」
(めちゃくちゃいい人じゃん)この日初めて接した優しい人に感動してしまったリサ。
「えっと、なんでもないです。大丈夫です」
悩みは一瞬で、吹き飛んだ。
「そうですか。では、失礼します」
が、チャーリーが去ると同時に、やはり、先ほどの言動に対する後悔は押し寄せてきたのだった。
「はぁ、やっちゃったなぁ。いい加減、もっと大人にならなきゃ・・・」
リサ落ち込んだまま、会場の手伝いへと向かう。
会場は活気づいていた。みんなが、ウィリアム、そして、彼の公約の一つである36協定を称賛している。
「いやぁ、36協定がアメリカの常識となれば、この国は最先端の民主主義大国として、世界に認知されるでしょう」
「そうですね。36協定が制定されて、初めてこの国は自由の国となるでしょう」
「いやぁ、若いのにとても優秀な男だ。彼はきっと、この国のトップになる。大統領になる日は近いぞ」
「1日8時間だけの労働で生活していけるなんて、幸せだろうなぁ」
といった具合だった。
彼らの会話に聞き耳を立てながら、シャンパングラスをリサは片づけていた。
「おい、動きが遅いぞ。早く片付けろ。もうすぐマリリンの出番だ」
と、食器を大量に手に持ったハロルドがリサに注意した。
「あ、すいません」とリサ。
「めんどくさいだろうけど、これも仕事だ。しっかりやれ」とハロルド。
「そ、そうですね。気合入れないと」とテキパキと動くリサだったが、作業のスピードは遅い。
「遅いなぁ。そんなんじゃ、何時間あっても準備が終わらない」
「は、はい」先ほどの行動の後悔も相まって、リサはさらに落ち込んだ。
「はぁ、私の労働時間は8時間じゃたりないわぁ」と弱音を吐いた。
「何言ってるんだ?」とハロルド。
「はぁ、ハロルドさん・・・もし36協定が可決されたら、私どうなるんでしょうか」
「残業するか、他の人を雇うかって話になるんじゃないか?」とハロルド。
「ですよねぇ。はぁ、でも8時間なんて誰が決めたんでしょ?」
「知らないよ。社長に聞いてくれ」
「8時間かぁ。意外と短いなぁ。でも、ちょっと疑問におもったんですけど・・・」
「何が?」
「もし戦争が起こっても、8時間しか働けないんですか?360時間しか、残業できないんですか?」
「戦争なんて起きないよ。それより手を動かせ」
「はあい」とリサは、真っ白なテーブルクロスを机にかぶせようとするが、テーブルクロスはいびつに波打ち、逆にリサに覆いかぶさった。
「だめだこりゃぁ」と、無気力なリサはつぶやいた。
ハロルドの頑張りにより、会場の準備はギリギリで間に合った。
拍手喝采と共に、ウィリアムが壇上に上がり、短い挨拶を済ませると同時に、懇親会が始まる。そして、また参加者へのあいさつ回りに、リサは付き合う。彼女はおなじみのカバンを持って、無意味な会話のメモを取る。そして、カバンの中に乱暴にメモ書きを入れる。という作業を繰り返す。
(さっきも挨拶しなかったっけ?この人)と思いながら、ウィリアムの横で、ビジネス用の笑みを浮かべるのであった。
会場が暗転しマリリンのステージが始まった。会場の中心。最も舞台をよく見れる位置に、ウィリアムが立ち、その横にカバンを持ったままのリサが立った。
(社長怒ってないかなぁ)
と横目にウィリアムを見るリサだったが、彼の表情は明るかった。
(本当に、マリリンさんの舞台が好きなんだなぁ)と、リサは思った。
マリリンが登壇する。きらびやかな白銀の衣装を身に着けたマリリンの美しさは、同じ人間とは思えない神々しさを醸し出していた。会場の誰もが、彼女の美しさに対し、全力の拍手喝采を送った。
「なんて美しいんだ」「ああ、女神、彼女こそ自由の女神だ」そんな感嘆の言葉が、自然と彼らの口からこぼれ、リサは(歌手は見た目が重要)というウィリアムの言葉をかみしめた。
拍手が鎮まった後、楽器隊による伴奏が始まる。彼女が歌うのは、1814年、フランシス・スコット・キー作詞、ジョンスタンフォードスミス作曲の名曲「星条旗」(The STar-Spangled Banner)
―――――
Oh,Say can you see
―――――
たった一小節歌い上げたところで、会場の空気が変わる。この会場の聴衆の中で、音楽に通じているのは、リサだけだったが、全員が、すぐに察した。マリリンは、音痴なのだ。
音程、リズム、声質、すべてが絶妙にずれていた。マリリンが歌い終わるころには、全員のテンションは、どん底へと急降下していた。
(おい、どうすればいい?)(この後、ウィリアム社長となんて話せばいい?)
登場した時は、一瞬で巻き上がっていた拍手は、歌い終わった後は、一転、すぐに拍手するものはおらず、静寂が会場を包んだ。
パチパチパチ。
会場の中心に陣取るウィリアムが一人拍手を始めた。
パチパチパチ
それを見た周りの聴衆が、マリリンではなく、ウィリアムを見ながら拍手をはじめ、そして、その輪はどんどん広がっていく。会場はすぐに、盛大な拍手に包まれる。
満足そうにマリリンを見つめるウィリアム。彼には、聴衆がどう感じたなどどうでもいい。なぜなら、“どうにでもなるから”。拍手するほどのパフォーマンスかどうかなど、どうでもいい。その基準は私が決める。心の底から、そう思っていた。
ウィリアムは、ふと、隣のリサを見る。リサは、涙を流して、拍手していた。その拍手は、ウィリアムが強制したものではなかった。(どうして、泣いている?)その疑問を投げかけることはしなかった。
マリリンが、舞台を降りると同時に、リサは会場から離れようとした。
「どこへ行く?」
ウィリアムが思わず声をかけた。リサは泣きじゃくりながら答えた。
「マリリンさんに謝りに行かなきゃいけないんです」
ウィリアムは引き留めようとしたが、リサは、大きなカバンを振り回しながら、足早に控室へと向かった。
一小節目を聞いた瞬間のリサの印象は、観客たちと同じだった。
(やばい!全然だめだ)
いや、元歌手の彼女は、一小節もかからなかった。最初の一音で、マリリンの舞台がどういうものになるのかを察した。
(ああ、まずいまずい)
大失敗の舞台は、彼女は何回も経験している。最初の一音から、歌い終わるまでの間は、まるで永遠のように長く感じる。地獄で終末まで、拷問を受けるような感覚に陥る。
(ああ、やばいやばい)
リサは、まるで自分が舞台に立っているような感覚に陥り、一人、心の中であたふたしていた。しかし、地獄から逃れることなどできず。泣き出すしかないのだ。周囲には、何人も人間がいるのに、全く一人でいるように感じる。長い長い曲が終わるまで、完璧な孤独なのだ。リサはそれを知っていた。マリリンが歌い終わっても、リサの孤独感は消えなかった。まだ、リサは一人だった。
気が付けば、リサの意識は、高級ホテルの大ホールから、場末のパブに移動していた。誰も彼女の歌など聞いていない。酔っ払ったオヤジが、ヤジを飛ばす。
「おい。もっとキレイどころを用意してくれよ。辛気臭い歌手の歌なんか聞きたくねぇよ」
静寂を切り裂くのは、そんな悪意に満ちた言葉だった。
パチパチパチ
と、パブに拍手が響く。その音で、リサの意識は元に戻る。
パチパチパチ
一瞬の後に、拍手が、波紋となって、波のように広がっていく。ここで初めて、発信源である最初の拍手が、ウィリアムであることに気が付く。彼の拍手には一切の迷いがなく、力強い。ふと、マリリンを見る、彼女はその美しい笑顔でウィリアムを見つめていた。
(彼女は、社長のために歌っている)そう確信できた。
(そして、社長には、確かに彼女の歌が響いている)そう断言できた。(音程やリズムなんて、二の次、自分の愛する人に響くかどうかが重要なのだ)力強いウィリアムの拍手の音は、リサの感性を刺激する。マリリンの歌に感動する感覚を得る。その衝撃は、リサの固定観念を破壊し、琴線を刺激したのだ。その感情は、ウィリアムの中では拍手という形で現実世界に現れたが、リサには、涙という形で吐き出された。
「マリリンさん!すごくいい舞台でした」
そう伝えようと控室のドアの前に立った時、中から聞こえる話し声に気付き、リサは動きを止める。
「素晴らしい舞台だったよ。マリリン」
男性の声。(この声は・・・チャーリー?)
「ふん。お世辞はいらないわ。ひどい舞台だったって言いたいんでしょ?」
「君はどうして、そんなにネガティブなんだい?頼むから、自分に自信を持ってくれ」
「馬鹿にしないで!」
「君を馬鹿になんかするものか。さぁ、来てくれ。君を抱きしめたい」
「だめよ。誰か来るかも」
「構うものか」二人は、愛人関係にあった。
「げぇ!」
衝撃のあまり、リサの口から思わず声が漏れた。
「誰だ!」
声に気付いたチャーリーが、扉を乱暴に開ける。が、間一髪のところで、リサは、廊下に置かれていた机の下に隠れた。
「気のせいか」
チャーリーは、部屋の中に戻る。
(危ない、危ない)リサの鼓動は、早まっていた。マリリンへの称賛の言葉などすでに消え去っており、代わりに、突如、リサの心の中に、ひらめきが生まれる。
「若手人気俳優と美人歌手との逢引・・・これはスクープだ!」
タイピストであるリサは、急に芸能リポータへと心の転職を果たした。さぁ、次にやるべきことは?
(ウラ・・・証拠を押さえねば!)
現場はすぐそこ、決定的な証拠がすぐそこにある。現行犯・・・これを抑える方法は?
(写真を撮るしかない!)
写真を撮るには?
(カメラ!)
カメラなんて珍しいものを持っているのか?
(タイピストの私がそんなもの持っているわけが・・・あった!)
リサはゴソゴソとカバンをあさると、出てきた。分厚い財布くらいの箱を取り出す。それは、あの夜、不思議な老人から貰ったカメラであった。
(どうやって使うんだろ?・・・まぁ、適当に構えればいいか!)
リサは、忍び足で、机の下から出て、扉に近づく・・・幸運なことに、チャーリーは、きちんと扉を閉めていない。隙間から、中を撮れる。除くと、キスをしている二人が見えた。まさに絶好のタイミング。
リサは急いで「カメラ」を構える。小さな接眼窓を覗き込む・・・が、何も見えない。
(真っ暗じゃないの!どうなってるの?壊れてる!あるいは、そもそも、これカメラなの??)鼓動がさらに高まる。指が震え、黒財布の角あたりを、とんとんと叩いた。
無音のまま、黒財布の真ん中に、径3センチほどの穴が開き、レンズが飛び出した。世界を散乱し、跳ね回っている様々な波長の光が、レンズによって集光され、接眼窓を覗き込むリサの眼球へと投げ込まれた。
接眼窓の向こうには、灰色の世界はなかった。すべての色彩を敷き詰めたフルカラーの世界がそこにはあった。
(なんだこれ?)
クエスチョンマークだらけのリサだったが、そんなことよりも、今は目の前で繰り広げられている濃厚なキスを記録することに集中した。
(この辺を叩けばいいのかな)リサは、エイヤと黒財布の角を叩く。
カシャッ!
「誰かいるわ!」
マリリンが叫び、リチャードがまた、急いで扉を開いた。しかし、リサの逃げ足は早く、そこには誰もいなかった。
裏口から、外に逃げたリサは、まだ興奮していた。
「やった。初スクープ!これは、社長に報告しなきゃ」
急ぎ足で会場に戻ると、撤収作業が始まっており、ウィアムの姿はなかった。
「社長は帰ったよ」撤収作業をしているハロルドが言った。
「そうですかぁ」
急に興奮は冷めた。
「まぁ、明日、現像した写真を持っていくかぁ」
リサは、撤収作業をサボって、会場を後にした。タイミングよく、乗合馬車を見つけ、それに乗った。カメラをじっと見つめる。マリリンの浮気もそうだが、今は、カメラから見えた鮮やかなフルカラーの世界が脳裏に焼き付いていた。この灰色の世界で生きるリサにとって、初めのフルカラーの世界。色彩を覚えた彼女の視覚は、全く違うものとなっていた。
日は落ち、星の光が見える。とりわけ、白銀の月は、あらゆるクレーターのコントラストが、明確に彼女の瞳に落ちていく。
「今日の月・・・すごくきれい」
同時刻、レオンは新聞の束を抱えて自分のアパートに到着していた。右手には、あの白い布はなく、これといった傷も見当たらない。
「おい、貴様。先月の家賃。一体いつになったら払うんだ」
レオンは、二階の自室へと向かおうとしたが、一階に住む大家が、彼を呼び止めた。大家は、大柄で太った中年男性で、バーボンの瓶を握っていた。
「すいません。ぜったいに明日には払いますので」
レオンはうつ向きそういった。
「てめぇ!昨日もそういってたよな?おとといも!」
大家は力いっぱいレオンを殴った。細身のレオンの体が、ぐらつく。鼻からは血が滴る。
「すいません。絶対に。絶対に明日にはお支払いします」
「分かった。明日までだ。明日間に合わなかったら、貴様を二階の窓からぶん投げてやるから覚悟しとけよ」
「はい。ありがとうございます」
レオンは、鼻血をぬぐいながら、頭を下げた。
鼻血が止まらない。血だらけになったレオンは、自室に入るとすぐに、机に向かった。天井裏から、ネズミが走る音が聞こえる。彼は、小さなランタンに火をともし、積み上げられた新聞の束の上にさらに、束を積み上げた。彼は即座に作業に入る。ランタンの小さな光を頼りに、今日聞いたウィリアムの演説を書き起こし始めた。顔をつたう血を一滴たりとも吹かずに、一心不乱に書きなぐった。紙を貫かんばかりの筆圧で、荒々しく、乱暴で粗野な筆跡でもって、ウィリアムの言動を記録していった。ひとしきり書き終えたのち、彼はやっと一息ついた。額の汗と鼻から流れる血を手のひらで拭う。
「ふぅ」下の階から、薄い床をする抜け、小さな声が聞こえた。この下は、あの大家の住まいである。青年はもう一度、血をぬぐった。白黒の世界では、赤色を表現することはできない。ランタンの光では色彩を与えることはできない。彼の血は、彼の目に、真っ黒に映る。
「おい!酒を買って来い!」
薄い床の壁は、真下の大家の部屋の音を容易に伝える。酒を飲みつくした大家が、同居している母親に命令している声だった。しかし、こんな時間に開いている酒屋など近くにはなく。母親は、何やら反論している
床に耳をつけ、しっかりと階下の様子を把握したレオンは、おもむろに床に落ちている空瓶を手にとる。そして、彼は、アルコールランプの灯を消した。かすかな月明かりだけを頼りに、ランプを分解し、そして、中の燃料を空瓶に注ぎ始めた。一つのアルコールランプで、三分の一ほど、空瓶が満たされる。床に積みあがった資料をあさり、手探りで、もう一個のアルコールランプを見つけ出した。
「あった」
暗闇の中で一言そういうと、彼はまたしても、燃料を瓶にそそぐ。三分の二ほど、満たされたところで、レオンは自分が飲んでいた安酒を注ぎ、瓶を満杯にした。コルクを詰め、栓をし、彼はそのまま、大家の部屋に向かう。
コンコンと、レオンは扉をノックする。
中からは、先ほどの数倍酔っ払った大家が現れた。意識も朦朧としているようだが、レオンを見るなり、わずかに正気を取り戻した。
「なんだ?あ?てめぇか!おい金を作りに行くんじゃねぇのか?それとも、また殴られにきたのか?」
大家が、拳を振りかざしたところで、レオンは、先ほど酒瓶を差し出す。大家の手がとまる。
「あの・・・ご迷惑をおかけしておりますので、お詫びといっては何ですが、バーボンを差し上げたいのですが、いかがでしょう?」
大家の顔がほころぶ。
「おいおい、気が利くじゃねぇか」
大家は乱暴に酒瓶をレオンの手から取り上げた。
「しかしなぁ、期限は守れよ!明日、俺の目の前に家賃を持って来い!」
「大丈夫です。任せてください」
レオンは微笑んだ。大家が乱暴に扉を閉占めた。
次の日、レオンは階下の騒がしさで、目が覚めた。マットレスを通して、声が聞こえてくる。
「目が目が!目が見えねぇ!」
階下に降りると、タンカに乗せられ運ばれる大家の姿が見えた。
「目見えねぇんだよ!」
そう叫び続けていた。
彼を見送る彼の母親にレオンが尋ねる。
「一体どうしたんですか?」
レオンの心配そうな表情。
「朝起きたら、目が見えないって騒ぎだしたんです。ただのお酒の飲みすぎだと思うんですけどね」
「それは、気の毒です。目が見えないのであれば、家賃の勘定もできませんものね。気の毒だ」
レオンの奇妙なコメントに、彼女は違和感を覚えたのだが、彼の神妙な表情をみて、彼がいかに息子を心配しているか、その感情の大きさに気が付いた。
「ありがとう。うちのバカ息子をこんなに心配してくれるなんて。ほんとに心が綺麗なのね。今時珍しい素晴らしい青年ね」
「そんなことはありません。大家さんには、ずっとお世話になっていますから、大げさな言い方かもしれませんが、ニューヨークでの私の父親も同然の人なのです」
「ははは。大げさよ。ねぇ。あなた、失礼だけど、私たちのアパートに住んでいるくらいだから、随分生活に困っているんでしょう?良かったら、何か食べていくかい?」
老婆は、微笑みをレオンに投げかけた。
「社長!スクープです!」
早朝の社長室。リサが、一枚の写真を持って社長室に走りこんできた。ウィリアムは不機嫌そうだが、リサは気にしない。
「これ。見てください」
そこには、抱き合う美男美女。チャーリーとマリリンの写真である。ウィリアムは、一瞥氏し、一言「いい写真だ」と口にした。
「はぁ?」
「なんだ?」とウィリアム。
「社長はこれを見て何も思わないんですか?これ、マリリンさんですよ。相手はチャーリーさん」
「馬鹿にしているのか?その程度のこと、見ればわかる」
「う・わ・き!浮気してるんですよ!マリリンさん!」
「俺たちは結婚などしていない・・・なぜ浮気になるんだ?」
「社長!マリリンさんを愛してないんですか??社長は前に言ってたじゃないですか?俺にも愛があるって!あれは嘘なんですか?」
「貴様!誰に口をきいている!いいか、チャーリーとマリリンの関係など、とうの昔に知っている!それがどうしたっていうんだ?貴様の価値観を、勝手に押し付けるな!俺には俺の愛し方があるんだ!」
「分けわかんないです!」
「それは、俺のセリフだ。勝手に俺の部屋に入ってきて、これは隠し撮りだろ?その写真を見せつけてスクープだと?これを見せれば俺とマリリンの関係を壊すのが目的か?」
「いや・・・そんな・・・」
リサが口ごもる。
「性悪な女だな!人の関係に勝手に口をはさむ。これで、俺から褒められると思ったか?スクープだといって給料を上げると思ったのか?」
「いえ・・・そんなことはないです・・・」
「じゃあ、なんだ?この写真は?ああ!!」
リサは黙る。
「まぁ、写真の出来としては上出来だ。チャーリーの主演舞台がもうすぐ始まる。宣伝のための記事として、明日の朝刊に出そう。しかしなぁ、リサ。貴様のような悪意の持った人間が、こんな高精度なカメラを持っていては社会悪だ。お前に、新聞記者としての役割は期待していない」
「そ・・・そんな・・・」悔しさでリサが泣き出す。
「カメラを渡せ。お前がこの会社を辞める時に返してやる」
リサは、おとなしくカメラを取り出し、ウィリアムに渡す。
「なんだ?これは?カメラか?」
そういいながら、ウィリアムは自分のデスクの引き出しに、それを投げ込んだ。
「さぁ・・・いつまでここに居る!仕事しろ!」
リサはトボトボと自分のデスクへと戻った。
「また社長に怒られたのか?」
とハロルドが泣くリサに声をかけた。
「うう・・・なんでもないです」
しょんぼりと下を見るリサ。
「さぁ、嫌な社長であっても、俺たちはあの人に雇われている身だ。黙って仕事をしよう」
「はい」
とリサは、涙を拭いて顔を上げた。タバコに火をつけ、ひと吸いするとリサの機嫌はもとに戻る。
「さぁ、仕事しよっと」
タイプライターに向かうと同時に、彼女は、あることに気付く。
「ハロルドさん・・・タバコ吸いすぎですよ!」
ハロルドは、いぶかし気な顔でリサを見た。
「どうして?今日はまだ一本しか吸ってないぞ?」
「嘘ついてますね?いや、気づかないなんてヤバいですよ。ホラホラ、目の前の原稿を見て」
「一体なんだ?」
「原稿用紙が黄ばんでますよ」
「えっ?」
ハロルドは、目の前のクラフト紙をまじまじと見る。
「いや、そうは思えないが」
ハロルドは気にせずタイプライターを叩く。リサには、クラフト紙がどんどん黄色くなっていくように見えた。
(ちょっと、私もタバコの量を減らそうかな)
リサは、乱暴にタバコの火を消した。
この日、ウィリアムの機嫌はかなり悪かった。正午過ぎの社長室には、ウィリアム。マヤ。そして、音響技師が二人、計4人が小さな社長室に集まっていた。音響技師二人の額からは、汗が滴っている。
〈ザザザーザーウェルズです。ザザザー〉
蓄音機からは、砂利をすり合わせたような音が響き、わずかな隙間にウィリアムの声が混ざって聞こえた。
「説明しろ」
ウィリアムは静かに、つぶやくように言った。音響技師たちからは、さらに汗があふれ出した。
「す、すいません。あのええと、少し収音器から距離が、遠かったのかなと・・・」
「俺のせいか?俺が、収音器から離れすぎていたと?俺のミスだと?」
「い、いえ、そんなことはありません・・・」
「ならば説明しろ。納得できる説明をしろ。この失態をどう責任取るつもりだ?このガラクタの前でもう一度、しゃべれと?観客を集めてもう一度、あの偉大な演説を繰り返せというのか?どうなんだ!貴様は言ったよな?これは、世界でも最先端の技術で造られた蓄音機だと!あらゆるノイズを消去する。クリアな録音が可能だといったな!お前はとんだほら吹きだな!」
マヤが口をはさむ。
「ウィリアム。言いすぎよ。ちょっと落ち着きなさい。あんな広い空間で録音なんて、現代の技術でもまだまだ難しいのよ。さぁ、撮り直ししましょう。ここくらいの小さい部屋なら大丈夫ですよね?」マヤは、技師に笑いかけた。
「はい。絶対にありません!社長!もう一度チャンスをください」
「ウィリアム。いいでしょ?取り直しましょう。あなたのセリフは一言一句、漏らさずメモしてもらっているんだから、全く同じ演説を録音することは可能でしょ?ウィリアム?」
突然、ウィリアムは、ノイズを奏で続ける蓄音機を持ち上げ、それを床に叩きつけた。蓄音機はバラバラになって飛び散っていった。
「何してるの!」
「ふざけるな!いいかお前ら!俺が残したかったのは、あの時、あの瞬間の俺の演説だ。あの時、あの瞬間の空気、観客の熱気だ!俺は、ただの言葉など、録音する気はない!帰れ!二度と俺の前に顔を見せるな!」
「はぁ」
マヤは、眉をしかめたまま、ため息をついた。技師たちは急いでばらばらになった蓄音機の部品を拾い、オフィスを出ていった。
「全く、ほんと困った人ね。撮り直しすればいいじゃない」
「黙れ。お前も出ていけ!」
「はいはい」
ウィリアムは、マヤにも手が付けられないほど、怒り狂っていた。その怒りは、終業まで続いた。散々、八つ当たりをしたのち、さすがに疲れ切ったウィリアムは、珍しく早めに退社した。社長室には、蓄音機の部品から、ウィリアムがビリビリに破った書類・・・見るも無残なありさまで、後片付けをするのは、マヤとリサの二人だった。
「マヤさん大変ですね」
ごみを拾いながら、リサはマヤに話しかけた。
「慣れたものよ。子どもが一人増えたと思えばいいのよ」
「ははは。それはいい考えですね。アイテッ!」
「大丈夫?」
「なんか針みたいなものが落ちてました。あ、これ、蓄音機の針じゃないですか?これも技士さんたちに返してあげないと」
「そうね」
蓄音機の部品は、すべて集め、音響技士たちに返却することになっている。
「ところで、マヤさんて、お子さんいらっしゃるんですか?」
「ええ、二人。4歳と6歳よ」
「一番かわいい時じゃないですかぁ。でも、いつも遅くまで働いてますよね。子守大丈夫なんですか?」
「母が面倒を見てくれてるの」
「そうなんですねぇ。旦那さんも仕事が遅いんですか?」
ほんのわずかに間があった。
「離婚してるのよ」
「やばッ!ごめんなさい!」
「いいのよ。私ね、男を見る目がないのよ。ふふふ」
マヤはそう言ったものの、社長室は気まずい雰囲気に包まれた。
「あ、蓄音機の部品は、私が返しときます」
「いいのよ。私がもらうわ」
「いえ、私がやります」
「いいの。その針も私が責任をもって預かるわ。さぁ、仕事を終わらせましょう」
その夜。マンハッタン島の南側、ダウンタウンの北側に位置するマヤの自宅。
「ただいま」
「ママお帰り!」
それに答える子供の返事は、見事に2つの声がシンクロしていた。
奥から、二人の男の子が姿を現した。マヤの子供は、マヤに似た端正な顔立ちをしていた。
「お帰り。今日も遅かったわね」
二人の子供に続いて、マヤの母が彼女を迎えた。
「大した事ないわ。ジョニー。マイケル」
マヤは、二人の子供の頭を撫でた。
それから、すぐにマヤは子供を寝かしつけにいった。
居間には、マヤとマヤの母。
「ママ。子供は8時には寝かしつけてって言ってるじゃない」
「しょうがないじゃない。あなたが帰ってくるまで、起きてるっていうんだもの」
「今のあの子たちくらいの子供には、睡眠時間は何より大事なの。わかるでしょ?」
「分かるけど。母親との時間も同じくらい大事でしょ。あなたも、子供たちとの時間がほしいんでしょ?」
「ええ。そうだけど、いつも私が帰ってくるまで、待ってるなんて駄目よ」
「もっと早く帰ってこれないの?」
「無理よ。仕事が忙しいの」
「あなた働きすぎよ。お金はいいから、もっと楽な会社はないの?」
「ダメ。あの子たちのためにお金が必要なのよ。楽な会社ならいくらでもあるけど、今と同じくらいの給料がもらえる会社なんてないわ」
「そんなにお金が大事?」
「大事なのはジョニーとマイケルよ。あの子たちにはちゃんとした人生を歩んでほしいの」
「そうね。私もそう思うわ。あの子たちの父親みたいになってほしくないわ」
マヤが母を睨んだ。
「ママ。怒るわよ」
「マヤ。安心して、あなたが思うよりも、あの子たちにはお金は必要ないわ」
「どういうこと?」
「あなたが言ってたマンハッタンの私立小学校の入学は拒否されたわ」
「なんですって!」
マヤが机をたたいて立ち上がった。
「静かにしなさい」
「どうして!」
「分かるでしょ?小学校の入学審査は、子供たち自身の審査じゃないわ。子供の親を審査するのよ」
「あいつとは離婚してるのよ。親権も私よ。私だけのものよ」
「離婚しても、親権をもっていなくても。あの男はジョニーとマイケルの父親。ジョニーとマイケルはあの男の子供。犯罪者の息子よ。一生・・・」
「最低!」
怒りのあまり、マヤは母を殴ろうとした。
「やめなさい。あの男と同じことをする気?」
マヤは振り上げた手を止め、降ろした。
「あなたはまだ、逃げてるわ。今のあなた、そして、あなたの子供の現状と向き合わなきゃだめ」
「もう寝るわ」そう言って、マヤはリビングを出ていく。
その姿を見て、母は穏やかな声で彼女に言った。
「そう。お休み。マヤ」
一方、リサの自宅。
母の作ったポテトサラダを掻き込むリサ。
それを見つめるリサの母。
「仕事は忙しい?」
「うん」
「体は大丈夫?」
「うん。全然元気」
「職場にいい人はいないの?」
リサが手を止める。わずかな静寂。
「分かんない」
「ちゃんと働いてる人ならだれでもいいけど、体の丈夫な人を選ぶのよ。生命力のある元気な人じゃなきゃだめ・・・パパもいい人だったけど、生命力がなかった・・・だから、苦労したわ」
「うーん。生命力のある元気なひとねー」
リサは顔をしかめて、天井を見つめた。
「うーん・・・分かんないな。ごちそうさま!」
リサは食器を乱暴に片づけて、寝室に向かおうとした。
「おやすみ・・・ママ??」
見ると、母が泣いていた。
「泣いているの?どうして?」
「私がダメだったのよね。あなたを甘やかしてしまった」
「何?なんで泣いているの?」
「私がダメだったのよ。歌手になりたいだなんて・・・最初から無理だと思ったのよ。花のない地味な私の子供が、歌手になるだなんて・・・」
「お母さん?何言っているの?」
「早く諦めさせれば良かった。どうして、こんな年になるまでほおっておいたのかしら・・・ああ、結婚なんてもう無理よ・・・」
「お母さん!なんてこというの!娘だからって言っていいことと悪い事があるでしょ!」
リサが声を荒げた。
「ああ、お母さんが悪いの。私が悪いの。ああ、どうしてこんなことに。どうして。どうして。なんでこんなことに・・・」
母はオイオイと泣き続ける。
「お母さん!お母さんにとって、私は結婚しなきゃなんの価値もない人間なの!?ひどい!許せない!もう知らない!二度と口きかない!!」
リサは、ひとしきり喚き散らして、寝室へとかけていった。母はリサの言葉に耳を傾けず、夜通し泣き続けた。この日から、リサは母親と口を利かなくなった。
◆入社70日目 青い歌
投票日。ニューヨークストリート社では、一番大きな会議室を開放し、ウィリアムの当選祝いの準備をしていた。鉄道会社、鉄鋼会社、漁業組合、様々な労働組合のトップが一同に会し、バーボンを傾け、タバコをふかしながらウィリアムの当選の知らせを待ち構えていた。鉄道会社の労働組合、委員長のブライアン・アダムス氏は、キューバから輸入した大きな葉巻をふかしながら、談笑していた。
「こんな余裕をもって選挙を迎えるというのは、初めてじゃないか?」
取り巻きが、手をこすりながら、答える。
「確かにその通りです。この選挙は、今までないがしろにされていた我々労働者の力を見せつける絶好の機会ですよね」
「その通り、ウィリアム氏の圧勝により、トラストの馬鹿どもに思い知らすんだ。この国は、民主主義だ。数こそ正義。すなわち、我々労働者こそが支配者であると!」
ブライアンは、朝から飲みすぎているようで、顔は真っ赤だった。
「ところで、今日の主役はどこかな。最初の挨拶から、姿が見えないが?」
「ウィリアム氏は、開票が完了するまで、通常業務に従事するとのことです」
「はっはっは、さすが、ウィリアム社長。結果の見えた選挙の行方を待つよりも、新聞社としての仕事を優先したということか。働きものだな。我々労働者も見習うべきなのかもしれないねぇ」
ブライアンは、プカプカと葉巻をふかす。
ウォルドルフ=アストリアホテルにて。
カチカチカチカチ。
「あの、失礼ですが。タイプライターはご遠慮いただけないでしょうか?」「え?」
多数の記者が、大統領の質疑に耳を傾けている中、リサは一言一句書き逃さぬように、膝の上のタイプライターを力強くたたき続けていた。
この日、選挙速報の号外記事を書くために、ニューヨークストリート社の記者は、オフィスに缶詰状態である。同日に、大統領がマンハッタンで定例会見を開いているのだが、ウィリアムの判断で、タイプライターのリサが、代理で出席することになった。
「ほかの方に迷惑になりますので・・・」
と秘書に注意されるリサ。
「あ、すいません」
顔を上げると、ほかの新聞社の記者たちが全員リサの方を見ていた。リサは、顔を真っ赤にして、タイプライターを大きなカバンに突っ込み、くしゃくしゃのメモを取り出した。
「すいません」リサは全員に謝罪した。当のマッキンリーは、リサを微笑みながら見つめていた。
昼過ぎ、ニューヨークストリート社にて、社員の一人、サミュエルが、社長室へと駆け込んできた。
「社長!」
「どうした?もう投票結果が出たのか?開票は、夕方からじゃないのか?」
「投票所が大変なんです!」
記者会見が終了し、記者たちが部屋から出ていく、リサも立ち上がり、彼らについて行こうとするが。
「ストリート社のリサさん。少し、残っていただけないでしょうか?」 秘書に引き留められる。
「まじすか」リサの額に汗が流れる。(絶対、怒られる気がする)
記者たちが全員退室し、大統領の執務室には、リサとマッキンリーだけになった。
「君たちも、席を外してくれ。誰も通さないように」
マッキンリーは、部屋の隅で待機していたルーズベルトと秘書に命じる。緊張感から、リサの額には汗が流れる。タイプライターを突っ込んだ巨大なカバンを抱きしめた。
「あの・・・すいません」
「ん?どうしたんですか?私に謝ることなんてないと思うのですが?」
「タイプライターをカチカチしてすいません」
「はっはっは。気にすることないですよ。そんなこと。それより、忙しいところ、お時間をいただいて申し訳ない。大した用事じゃないんです。少し、お話ししようかと思いましてね」
(なんだろ?・・・とりあえず、気まずい・・・)
温和そうなおじいさんとはいえ、相手は、大統領。リサは、帰りたい気持ちでいっぱいだ。何を話せばいいのかも、話しかけていいものなのかもまるで見当がつかなかった。話を切り出したのはマッキンリーの方だった。
「何か飲みますか?オレンジジュースもマンゴージュースもコーヒーも紅茶だってありますよ。あ、でもそうですね。まだ、若いんでやっぱり、コーラがいいですか?」
彼は、机の引き出しから、コーラの瓶を取り出し、リサに見せた。
「いえ、結構です・・・(しまった!)」
反射的にリサはきっぱりとマッキンリーの勧めを断ってしまった。緊張のあまり、彼に気を使わせるのが失礼だと思ったのだが、思わず、強い口調で返事をしてしまった。マッキンリーは残念そうな表情で、コーラの栓を開けた。
「そうですか。炭酸飲料は、あまりお口に会わないものなんですかねぇ」
「いえ、決してそういうわけでは!」
リサが弁解しようとしたと同時に、マッキンリーは、グイッと瓶を口にやり、そして、一気にコーラを飲み干した。その豪快な様子を、見た時リサは思った。
(あれ?そんなに小さな人じゃない)
初対面の印象のせいか、マッキンリーを背の低い小男と思っていたリサだったが、こうしてみると、標準的な身長であり、彼の年齢からするとむしろ少し背が高いほうかもしれない。小男どころか、肩幅が広く、がっしりとした印象を受ける。
「鍛えてらっしゃるんですか?すごく、強そうな体ですね」
マッキンリーは目を丸くして、口元をぬぐいながら笑った。
「はっはっは。ありがとう。いやぁ、お嬢さんから言われると少し恥ずかしいが、しかし、はっはっは、うれしいものだ。ありがとう。ただ、特にトレーニングをしているわけではないんだ。骨格的に筋肉質に見えるだけですよ。まぁ、私も南北戦争を経験した身だ。若いころに鍛えた貯金がまだ残っているのかもしれないがね」
「あー軍人だったんですね」
「まぁ、こんなひ弱な性格のせいか。軍人としては、全く出世できなかったんですがね。はっはっは」
「でも、今やこの国のトップじゃないですか。すごいですね」
「いやいや、運が良かっただけですよ。本当に、たまたまだ」
「すごいです。やっぱり、出世する人は謙虚なんですね。うちの社長にも教えてあげたいです」
「それは過大評価というものです。私なんかよりも、ウィリアム君の方がずっと大統領に向いている。あれくらい、物事をスピーディに判断したいものだ。私はとても優柔不断でね」
「そりゃあ、国の運命を決めるんですから、社長みたいに適当に決められるものじゃないですからね」
少し打ち解けてきたことで、リサの弁も軽くなってきた。
「それにしても、うちの社長がいつも無礼な態度ですいません」
「はっはっは、最近は、老人にかみつく若者が減ってきていてねぇ。若者はあれくらいじゃないと」
「でも、礼儀を知らない若者はもっと良くない気がするんですが・・・」
「私からしたらかわいいものです」
今日のマッキンリーの発言には、すべてに余裕が感じられた。リサは、自分の中のマッキンリー像と今の彼から受ける印象が乖離していくのを感じていた。弱腰の老人から、イケてる老紳士へと変貌を遂げていく。リサは、独自の質問をどんどん投げかける。
「社長は、大統領になれると思いますか?」
「それはノーメントでお願いします。「マッキンリーはウィリアムを支持!」なんて記事を書かれたら、党内での私の立場がないですからね」
(あ、そうか)リサは、自分が新聞社の人間であることを忘れていた。
ウィリアムは、会社近くの投票所に到着した。中に入ると、すべてが明らかになった。投票用紙の受け取り用紙を記入する机の前には受付として、強面の男たちが待ち構えている。その見た目から、“その筋”の人間であることはすぐに分かる。彼らは、投票者の記載内容を常にチェックしている。所々でこぜりあいが起きている。
「おい!これは不正選挙だ!」
「離せ!これは民主主義の崩壊を意味している!離せ!アメリカは自由の国だろ!」
若い男が、わめいている。
「おい、にいちゃん。あんまり自分勝手なことばっか言ってるとなぁ。家に帰れねぇぞ?」
スキンヘッドの巨体の白人が、青年の胸倉をつかむ。
「離せと言っているんだから離せ!」
スキンヘッドの男は、後頭部にひんやりとした硬い触感を感じた。ウィリアムが、銃を突き付けていた。
「どういうことだ?説明しろ!」
「おいおい、こんな大衆の面前で、銃を撃つ気か?」
「そうだ。大衆の面前で、堂々と選挙を妨害している人間なら、撃っても構わんだろ?」
「おい、ほんとにうつ気じゃねぇだろうな?」
「ボスに会わせろ!誰の命令だ!」
ウィリアムが、引き金に手をかけた瞬間、取り巻きを数人引きつれた長髪の男が姿を現した。
「私の命令だが?何か御用ですか?・・・ああ、ウィリアム社長じゃないですか?」
「誰だ?貴様!」
「覚えていらっしゃらないんですか?」
男がウィリアムの目の前に迫る。男の身長は、ウィリアムよりも一回り大きかった。紳士的なスッキリとした顔立ちだが、顎には深い傷跡があった。
「以前、あなたの新聞に死亡記事を書かれたスタンバーグというものです」
「ああ、思い出したぞ貴様。ユダヤ系ギャングのクズか。話が早い。誰に依頼された?モルガンか?ロックフェラーか?ああ?」
ウィリアムが、銃口をスタンバーグに向ける。
「落ち着いてください。これには、深い深い事情がございます。大人の話なのです。社長。どうか、察してください。そして、大人しく、選挙結果をお待ちください。まぁ、結果はおしてしるべしという感じですがね」
カチッ!
マグナムのハンマーを引く。スタンバーグに動揺する様子は全く見られない。
「ふん。ウィリアムさん。私は朝。必ず目玉焼きを食べるんです。今でも母に焼いてもらっています。私の好みは半熟です。子供のころからずっと、しかし、この頃は母もボケてきましてね。焼き加減を間違えて、しっかりと火の通った卵焼きも時折出てくるようになってしまいました。その場合、私は手を付けず、母にバレないように捨てます」
「それがどうした?」
「私はギャングですよ?つまりですね、朝起きて目玉焼きを見た時の感情と、銃口を見るときの感情に対して、違いはない。あなたは全く無意味な行為をしているということです」
「そうか?ただ、脳天を打たれたことはないようだな」
「ウィリアムさん。私は分かるんです。毎朝見ていますからね。今日の目玉焼きが半熟かそうでないかなんて、一目でわかります。食べてみる必要はありません。それと同じように、銃を向ける人間が、撃てる人間か、そうでないかはすぐに分かる・・・ウェルズさん、あんたは絶対に後者だよ」
そういうと、スタンバーグはウィリアムを思い切り殴った。ウィリアムは、ふらつき、地面に倒れる。大きなハットが吹き飛ぶ。様子を黙って見ていた有権者たちが騒ぎ始める。
「黙れ!」
スタンバーグが一言発するだけで、会場は静かになった。
「おい!社長!大丈夫ですか!」ボブが会場に駆け込んできた。そして、ウィリアムのそばへ駆け寄る。
「社長・・・って、ウィリアム何してんだ」
「おいボブじゃなぇか」
と答えたのは、スタンバーグ。スタンバーグのフルネームは、ウィリアム・スタンバーグだ。
「貴様ら、知り合いか?おい、ボブ。説明しろ!」
血の滴る口を拭いながら、ウィリアムは起き上がる。
「ああ、ボス。前にいろいろあって、仲良くなったんです」
「貴様。俺の恩を忘れたのか?どういうことだ?」と、ウィリアム。
「ああ、めんどくせぇことになったな」と、ウィリアム・スタンバーグは頭を抱える。
「おい。ウィリアム!社長に謝れよ!なんてことしてくれたんだ!」
奇妙な三角関係が出来上がった。
「無職のお前に職を与え、高い給料を払ってきたんだぞ」
「社長。俺は関係ないんです。おい、ウィリアム。説明しろ!」
ボブがスタンバーグにつかみかかる。
「おいボブ。俺も仕事でやってんだ。俺だってやりたくてやっているわけじゃない。手を放せ」
「おい。俺が無職になったらどうしてくれるんだ!」
「はぁ」と、ボブの手を払い、スタンバーグは、ウィリアムに言った。
「ウェルズさん。あんた、運がいい。選挙が終わるまで、このまま監禁しとこうかと思ったんだが、ボブの上司となりゃ話が変わる。前に随分世話になったからな」
「今すぐ、投票所から出ていけ」
「それは無理な相談だ。俺も雇い主がいるからな」
「誰だ?言え!」とボブ。
「誰の指示だ!概ね見当はついている。マーク・ハンナだろ!」とウィリアムは、ハンカチで口を押えている。
「マーク・ハンナ?誰ですか?ウェルズさん。あんた随分と検討違いをしているみたいだ。世界を支配するのに必要なもの、それが何か分かってない。頭が良すぎるのかな。考えすぎなんですよ。支配するために必要なもの・・・それは極めて単純なものだ・・・金でも、権力でも肩書でもない・・・力ですよ。単純な腕力。暴力です」
スタンバーグは、そういうと、長い髪をかき上げた。一部が禿げあがっている。あらわになった頭皮には、縫合された大きな傷が見えた。位置は、頭部右側。傷の状態でウィリアムは、凶器を推測した。それは、片手で扱えるくらいの短いこん棒の傷であった。
ウォルドルフ=アストリアにて。
「実は、お嬢さんに尋ねたいことがあってね」と、マッキンリーが本題を切り出す。
「えっと、私にこたえられることならなんでも・・・」リサがそう返答したところで、何やら外が騒がしくなった。
「困ります」
「黙れ!ぶち殺してやる!」
それはウィリアムの声だった。
「通しなさい!」
マッキンリーが、ドア越しに秘書へ指示を飛ばした。ウィリアムが、ドアを乱暴に開け、駆けこんできた。ウィリアムの背後には、こん棒を持ったルーズベルトが控えている。
「セオドア。下がっていなさい。問題ない」
ウィリアムは、肩で息をし、マッキンリーを睨みつけた。
「やってくれたなマッキンリー」
「どうたんですか?」
マッキンリーは、素知らぬふり。コーラを飲んだ後、秘書に入れさせたコーヒーを一口、口に含む。
「何が自由だ。聞いてあきれる。この国には民主主義のかけらもないのか?ああ??」
「一体どうしたんです?私には何を言っているのかわかりません。どうか落ち着いてください」
マッキンリーは、ウィリアムを見ず、手に持っているコーヒーカップをじっと見つめている。
「どうもおとなしいと思ったら、まるで品のない選挙戦略だな。」
老人に対する怒りで、ウィリアムは我を失っていた。しまりの悪いマッキンリーに対し、ウィリアムが迫る。
「落ち着いてください」リサが、小さな体で、ウィリアムを必死に止める。が、止まらない。
「大丈夫。お嬢さん。何も心配することはないよ」 マッキンリーは、冷静にリサを制止した。
「殺してやる!」ウィリアムは、鬼の形相で、マッキンリーに迫る。そして、デスクの上に置かれているペーパーナイフを握りしめ、マッキンリーに切っ先を向けた。
「ヤメテ!!!」とリサが叫びながら、顔を両手で覆う。一瞬の静寂の後、リサは目を開く。
そこには、時間が止まったかのように、静止した二人の姿があった。マッキンリーは、左手でペーパーナイフの切っ先を握りしめ、ウィリアムの動きを完全に止めていた。マッキンリーの手からは、血が滴っている。
「ウェルズさん。どうか冷静になってください」
激昂していたウィリアムは、目の前の光景に驚愕し、テンションが一気に下がっていた。
「今のこの状況、理解できるかな?君は安全なナイフの柄を握っている。私は、危険な切っ先を握りしめている。傷つくのは私だが、コントロールしているのも、私の方だ」
マッキンリーの瞳の奥が、ウィリアムには見えていた。アメリカ合衆国民すべての個性が混合された・・・漆黒の虹彩がうごめいていた。先にペーパーナイフから手を離したのは、ウィリアムの方だった。
「そうだ。ウェルズさん。それが、懸命だ。選挙などせず、君はただ、新聞で喚き散らしていればいい。いいかい?世界は、極めて複雑に絡み合っている。世界は、巨大なうねりそのものだ。君の想像が及ばない世界なのだよ。所詮、君の新聞の記事など雑音だ。ただの小さなノイズなのだよ。数年すれば、消えてなくなるようなものだ。おとなしく、でたらめな記事を書き続ければいい。それに関しては、私は邪魔をしない」
ウィリアムは、口惜しさのあまり、震えていた。しかし、何もできなかった。無力。力は、暴力は明らかにマッキンリーの手の中にあったのだ。
力のないウィリアムの姿を見て、マッキンリーは満足そうに微笑んだ。ふと、リサが彼のそばに寄ってきた。
「お嬢さん。申し訳ない。見苦しいところをお見せし・・・」
バシッ!
リサの小さな手のひらが、高速でマッキンリーの左頬に衝突した。マッキンリー首に、巨大なトルクがかかった。
一瞬、何が起きたのか、マッキンリーもウィリアムも理解できなかった。二人が、状況を把握しようとしたとき、リサの絶叫がこだました。
「私たちの新聞が、ただの雑音だなんて!ひどい!いくら大統領でも言っていい事と悪い事があることくらいわからないんですか!バカバカ!確かに、気にくわないことばっかりかもしれないけど!けど!けど、作っている人がどれだけ必死か!命を懸けて頑張っているか!どうして、わからないんですか!どれだけ大変か!どうして、想像しないんですか!・・・」
「やめろ。リサ」ウィリアムが静かな声で、制止したが、リサの耳には届かない。
「変に弱腰な大統領だと思ってたけど、全部演技だったんですね!本当は、弱い男を、演じて、私たちを馬鹿にしてたんですね!気持ち悪い!」
「リサ止めろ!」とウィリアム。しかし、やはりリサの耳には届かない。
「手から血を流せばかっこいいと思ったの?ほんとダサイ!」
「やめろ」
リサの声量はどんどん大きくなる。
「リサ!」
「ワー!ワー!ワー!」
もう、何を言っているかもわからない。
「リサ」
ウィリアムは、力づくで制止するため、マッキンリーに詰め寄るリサを思い切り、抱きしめた。
「はっ?」
突然のウィリアムとのコンタクト。極めて直角に近い角度で、リサの怒りの感情は急降下した。
「リサ・・・落ち着け」
ウィリアムは、角の取れた、丸い声色で、リサに語り掛けた。リサは、完全に冷静さを取り戻した。彼女の力が抜けるのを感じると、そっと彼女を開放した。大統領、会社社長・・・そして、リサの3人を静寂が包んだ。リサ。ちなみに一番ショックを受けているのは、マッキンリーで、完全に放心状態だった。
「大変失礼しました。本日はこれで失礼します」
ウィリアムは、意識のないマッキンリーにそういうと、同じく機能停止したリサを抱え、そそくさと大統領室を後にした。
「大丈夫ですか?」
セオドアが部屋の中へ入ってきた。そこで、マッキンリーはやっと我に返る。
「ああ、問題ない」
「怪我を・・・」とセオドアが駆け寄ろうとする。
「問題ないといっている!」
マッキンリーが声を荒げた。
「失礼しました」
そして、マッキンリーは白いハンケチを取り出し、傷ついた右手に巻き始めた。白いハンカチは、すぐに赤く染まる。その様子をマッキンリーはじっと眺めた。
「大統領」とセオドア。
「なんだ?」
「実は、9月の博覧会について、ご報告があります」
「それは君に一任しているはずだが?」
「はい。しかし・・・」
「彼か?」
「はい。トーマス・エジソン氏が、個人での出展を希望しておりまして・・・」
「すぐに、返事しろ。無理だとな」
「はい。しかし」
「しかしなんだ?早く申請を破棄しろ!」
「私もそうしようとしたんですが、ヘンリー・フォード氏から反対がありまして・・・エジソン氏の出展を棄却すれば、T型の出展も取りやめると・・・」
フォードは、博覧会の最重要人物であり、彼の辞退は、博覧会の中止を意味している。
「フォード。若造め。忌々しい・・・ちょうどいい、私が直接話に行く」
「はい。承知いたしました。ところで、話しをしに行くのはフォード氏でしょうか?」
「違う。エジソンだ」
ボブの運転でオフィスへと帰った一同。オフィスには、待機させられていた記者たちが、手持無沙汰で集っていた。ウィリアムがオフィスに現れ、一言、「帰れ」という号令を聞いた瞬間、全員がそそくさと帰宅していった。
ウィリアムとリサは、社長室で無言のまま椅子に座っていた。
「二人とも大丈夫ですか?家まで送りますよ」
見かねたボブが、ウィリアムに声をかける。
「今日はいい。リサを家まで送れ」
「私も大丈夫です」
リサは正気を取り戻していた。
「一体何があったんだ?リサ」
「言いたくないです。ボブさんはかえってください」と、リサ。
「そうか。そう言うなら帰るけど・・・」
ボブは腑に落ちない表情で、オフィスを後にした。
ニューヨークストリート社には、リサとウィリアムだけが残された。
正気を取り戻していたリサは、ついカッとして、こともあろうか大統領をビンタしてしまったことを後悔していたが、それよりも、ウィリアムが心配でならなかった。明らかに、精神的ショックを受けていた。
うなだれるウィリアムの姿を始めてみたリサは、一つの提案をする。
「歌います」
(はあ?)っと、ウィリアムは顔をあげる。
「今から、歌いますね」
「どうして」
「・・・社長が命令したじゃないですか?ここで・・・歌えって」
「ああ、それはそうだが、しかし、今・・・」
「社長。静かに・・・」
「ああ」
ウィリアムは、初めてリサに命令を受け、しかも、それに対して、従順に従った。ウィリアムは、口を閉じ、リサをじっと見つめた。リサは目を閉じ、3回大きく深呼吸した後、歌い始めた。
曲は、スコットランド民謡を源流とし、時代を超えて歌い継がれてきている名曲・・・「The Water Is Wide」
――――
The water is wide, I cannot get o'er.
And neither have I the wings to fly.
Build me a boat that can carry two,
And both shall row, my love and I
――――
リサの声は、真水のような透明感があり、真っすぐに、よどみなくウィリアムの心に突き刺さる。リサの発した振動は、ウィリアムの鼓膜を揺らし、聴覚、音という感覚を彼に届けたのだが、彼の眼前にははっきりと歌の世界の情景が広がった。
広い川の岸辺。日は落ちているが、太陽が山陰に隠れた直後で、空はわずかに青みを帯びている。手をつなぐ二人。周りにボートはない。無論、川を飛び越える羽根も二人の背中にはない。二人は、手をつないだまま、向こう岸へむかって歩き出す。足元、腰元、まで水位は迫り、ついに二人は、深い河の中へと沈んでいく。澄んだ河の水は、薄暗い空の青を吸収し、限りなく黒に近い青色を帯びていた。深く深く沈んでいく二人。深い青の世界に消えていく。
―青色の世界それはリサの世界―
歌い終わって、リサは目を開き、ウィリアムを見た。
「いやぁ、久しぶりに歌いました。全然だめでしたねぇ」
恥ずかしさ半分で、リサはそう言った。ウィリアムは、リサに初めて微笑みという優しい表情を見せていた。
「GREAT !採用だ」
二人は、顔を見合わせて笑った。
ウィリアムは、リサの顔を見ながら、一瞬、魔が差したようにある考えが頭をよぎった。
(カメラを返さなくては・・・)
カバンの中に、カメラはある。ほんの少し手を伸ばせば届く範囲にある・・・。しかし、彼はそうしなかった。
同時刻、トーマスの邸宅。
「久しぶりの再会だというのに、コーヒーも出してもらえないんですか?」
トーマスは、返事もせず、作業を続けている。
「随分、嫌われたものですね。まぁ、当然ですが、はっはっは」
マッキンリーは、おもむろに椅子に座る。トーマスは、振り向きもしない。
「ところで、今日来たのは、一つお願い事・・・いや、命令をしに来たのです。来たる9月6日の科学博覧会のことですが、あなたはまた模造品を出展している・・・出展を止めていただけませんか?」
間髪入れず、トーマスが返答した。
「勝手に出展をキャンセルすればいい」
「それがですね。この博覧会の最大のスポンサーがフォード氏でしてね。彼が許さないのですよ。どうか、出展を取りやめさせてくれ、やっと正気に戻ったのだとね・・・」
「断る」と、トーマスは一言で一蹴する。
マッキンリーは、椅子から立ち上がり、トーマスの方へと歩いているのだが、不思議と、二人の距離は縮まらない。
「あなたももう老齢だ。どうでしょう?隠居なされては?特別に政府から、隠居費用を捻出しましょう」
「不要だ」とトーマスは一蹴する。
「交換条件は何ですか?」
「特許をすべて、返せ」
トーマスは、間髪入れずに答えた。完全に答えとして、用意していたものだ。
「特許?結局、金ということですか?特許の権利は、裁判で決められたものですので、今更ひっくり返すことはできません。だからこそ、私は年金を提案しているのですよ。安心してください。貧乏はさせません」
「いらないと言っている。二度いわせるな」
「相変わらず話がかみ合わない」
「特許を返せと言っているんだ。金などいらない」
「ああ、なるほど、発明家としての名誉がほしいのですか?それは、無理です。あなたの名誉を地に落とすために私がどれだけ頑張ったか・・・」
「名誉ではない。特許を返せと言っているんだ」
トーマスは、怒りの形相で振り向いた。トーマスに向かって歩き続けていた続けたマッキンリーであったが、二人の距離は、この建屋に入った時よりも遠く離れていた。トーマスの怒りに、マッキンリーが呼応した。
「返せなど、どの口が言っているんだ!電話のことを言っているのか?あれは正真正銘ベル氏のもの・・・」
マッキンリーの言葉を遮り、トーマスが、叫んだ。
「あの特許は、“私たち”のものだ!」
トーマスの怒号は、巨大なうねりとなって、空間を飲み込んだ。マッキンリーの歩みがとまった。そして、ふっと哀れむような嘲笑を見せる。
「哀れなものだ。二人とも・・・孤独な老人がかみ合わない会話を続けている。喜劇だ。私と君のコメディだよ。全く笑えない。つまらない、コメディだよ。今日は、無駄足だった」そう言って、マッキンリーは工場から出ていく。
マッキンリーが去った後も、トーマスは作業を続けた。ただ、いつもと違い、今日の彼からは焦燥感がにじみ出ていた。
「できた」
汗をぬぐい、トーマスが持ち上げたものは、黒い電話。真ん中に小さな金属製のリングが装着され、そこには合計9個の指を入れる穴が加工されている。トーマスは、受話器を手に取り、小さな穴に指を入れ、リングを回す。ジリリリリと、受話器から、呼び出し音が響いた。
その瞬間、工場の電気が消えた。その日、彼の周りから光が消えた。