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誰かが定めた命の基準

とりあえず書いていたものをどんどん投稿していきます。

長い話で、読みずらいとおもいます。

◆プロローグ「青色の世界」

 光沢のある青い壁に包まれた世界。

 一辺が5mの完全な立方体である部屋の真ん中に、卵型の青いカプセルが静寂とともに鎮座している。人一人が入るサイズのカプセルは、微かな透明性を有しており、中には目を閉じた女性の姿が見えている。

 彼女の目が開く。同時に、無音のままカプセルが開き、女性は立ち上がる。全身は、この世界の色味と統一された青いラバータイツに覆われている。小柄で黒髪のショートヘア。彼女は、お世辞にも華やかさというものはほとんど感じられない、地味な顔立ちである。

 彼女は右左と首をふり、あたりを見渡す。外へ通じる青い扉が見える。彼女が扉へと向かおうとしたとき、無音のままカプセルが閉じた。自分を収納していたカプセルに、彼女は興味を示し、じっと観察し始めた。

 カプセルに彼女の顔が反射する。彼女は首をかしげる。カプセルのちょうど真ん中に、4つの文字が刻印されていることに気が付いた。

〈LISA〉

 LISAリサ。彼女は、首をかしげる。次に、右腕が突然光った。ラバータイツに黄色の数字が映し出された。

〈36:000:000:000:000:000:000〉

 リサはまた首をかしげる。同時に、数字が動きだす。

〈35:999:999:999:999:999:999〉

 何かのカウントダウンが始まった。リサは再度、大げさに首をかしげる。そして、扉へと向かう。扉は自動的に開いた。外は青い世界であるが、幅・高さともに3mの廊下が、横一線に続いていた。リサは、向かって左方向に歩き出した。

 3m幅のちょうど中心を歩くリサ。彼女の左側の壁には、自分が出てきた扉と同じ扉が5m毎に、右側の壁には、30m毎に、小さなガラス窓が設置されている。リサは、立ち止り、窓越しに「外」を眺めた。

 窓の外に広がっていたのは、赤い土に覆われた荒野。動植物はもちろんのこと、液体が存在した痕跡もない無の世界。水平線の果てには、赤土の山脈が連なっている。強風が吹き荒れ、赤土を巻き上げるため、地面だけでなく、空も常に赤く、薄暗い。「青色の世界」のすぐ外には、赤い暗闇に支配された「赤色の世界」が広がっていた。無機質でおぞましい景色は、目覚めたばかりのリサの心をかき乱す。彼女は、窓から目を背ける。窓から離れ、立ち止り、気持ちを落ち着かせるため、3回大きく深呼吸した。

 (少し休もう)

 彼女は、元の部屋へと戻ろうとしたが、リサは、自分の部屋がわからなくなっていた。(どれだろう)彼女は、同じ場所を何度も往復した。確信はなかったが、イチかバチかで、扉の前に立ってみても、扉は開かない。彼女は不安を感じ、また、3回、深呼吸をした。


 少し冷静になって、彼女は気が付く。扉の横に、ボタンがある。(これを押せばいいんだ)ボタンに手を伸ばす。カチッと小気味よい機械音が鳴った。

 

 奇跡が起きた。

 

 扉が開かないのである。誤作動が起きたのだ。リサはもう一度、ボタンを押す。カチッ。やはり開かない。彼女はムキになって、乱暴にボタンを押した。

 カチッカチッカチカチカチカチ。

 無作為のようで、作為的。無意識なようで、意識的なリズムを奏でた後、扉が開いた。彼女はほっと胸をなでおろす。

 部屋の中には、あのカプセルがあり、〈LISA〉の文字が確認できる。右腕のカウンターをみると、〈35:999:999:999:999:887:765〉カウントが進んでいた。カプセルが開き、リサを招く。彼女は、また静かに横たわる。


(もう一回眠ろう)


 目を閉じる。

 心地よい暗闇と静寂の世界。眠気は、確実に勢力を増し、彼女を無意識の世界へいざなう。リサは、安楽の世界にどっぷりと浸る気持ちでいたが、ほんの些細な邪魔が入る。

(カチッカチッカチカチカチカチ)

 先ほどの機械音が彼女の頭の中で響き続けている。

(鬱陶しい)

 わずかなノイズが、彼女の眠りにわずかな狂いを与え、瞳の奥の世界に変化を与えた。何もない暗闇に、真っ白な四角い輪郭が浮かび上がる。くねくねと波打ち。形を変え、どんどん巨大化していく。やがて、輪郭は無数に分裂、結合を繰り返し、世界を形作っていく。


(カチッカチッカチカチカチカチ)

 

 最初にはっきりと認識できたもの。それは、無骨で、巨大な建造物。リサの眼前に、石造りの灰色の高層ビルがそびえたった。


 そのビルを基準として、様々な建物が描かれる。建物の次は、車。歩き回る衣服。そして、人という順番で、街の輪郭が形成される。世界が作られていく・・・。しかし、完成したその世界に、色彩は付与されていない。すべては、黒と白のモノトーンの輪郭によって構成されている。リサの意識が吸い込まれた世界。それは「灰色の世界」。


第一部 「灰色の世界」

◆灰色の職場

 時代は十九世紀と二十世紀の狭間。世紀の区別があいまいで、境界線ははっきり見えない。二つの時代が、限りなく複雑に交じり合ってはいるが、しかし、完全には混合することのない、なんだかスッキリしない・・・そんな時代。街には、石造りの高層ビルが立ち並び、その合間を馬車が行き交う。数こそ少ないものの、車高の高い(現代でいうところの)クラシックカーの姿も見える。車の大半は、蒸気を使った蒸気自動車で、大量の水を搭載していた。水を蒸気化するボイラーの機械音と馬の小気味よい蹄の音色が、街の喧騒を奏でていた。

 

 騒がしいこの街は、アメリカ合衆国の東海岸に位置している。そこは大都市、移民たちを中心として繁栄した夢の街。ニューヨーク。

 

 (カチッカチッカチカチカチカチ)

 

 リサは、完璧にこの世界の一部となった。身に着けているのはラバースーツではなく、黒く大きなスカート、白いシャツ、黒い蝶ネクタイというオフィスレディ定番の身なり。そして、小柄なリサには不釣り合いな、大きな麻布の白いカバンを肩からかけている。

 

 (カチッカチッカチカチカチカチ)

 

 耳障りな機械音は、リサの目の前の5階建てのテナントビルから聞こえてくる。リサは、音に導かれるように、中に入る。貧弱な金属の張りをつなぎ合わせたようなエレベーターに乗り込み、扉を閉める。

 ガシャンッと、頼りない干渉音とともにリサは上昇する。

 

 (カチッカチッカチカチカチカチ)

  機械音が、より鮮明に聞こえてくる。

 (カチッカチッカチカチカチカチ、カシャカシャカシャカシャ)

  ガシャンと、もう一度干渉音を鳴らし、エレベーターは二階に到着した。

  眼前には、巨大な黒い木製のドアが立ちはだかっている。小柄なリサにしてみれば、まさに地獄の門と言っていいくらいの威圧感に満ちている。ドアには一枚のプレートが張り付けられ、こう記されていた。

 

 〈ニューヨークストリート社〉

 

 ドアノブを握りしめる。

 ガチャッ。

 巨大な扉は、少しこもった開錠音を発した。中に入ると、うるさいくらいに、あの機械音が響いていた。

 カチッカチッカチカチカチカチ

オフィスには、タバコの煙が充満し、敷き詰められた大量のデスクを飲み込んでいる。皆、こぞって械音をかき鳴らし、耳障りなオーケストラを結成している。ここは新聞社。音の発信源は、記者たちがかき鳴らすタイプライターである。

「あの・・・」

 リサが、近くのデスクの男性に話しかける。最初の問いかけに、男性は反応しない。

「あの・・・」

「なに?」

 二回目の問いかけで、男性は返事をしたが、タイプライターからは目を離さない。

「あの、採用面接を受けにきました」

「・・・マヤ!」

 男性は、オフィスの奥の女性を呼んだ。純白のブラウスを身に着けた背の高い女性が近づいてきた。

「何?」

「また来たよ!」

「リサ・パーラメントといいます。タイピストを募集しているとのことで、採用面接を受けに来ました」

 小さなリサを見下ろすマヤ。

「ああ、あなたがリサね。私はマヤ。今日は来てくれてありがとう」

 マヤは笑顔で、手を差し出す。リサは小さな手で、握手した。

「えっと、履歴書を書いてきました」

 リサは、カバンの中に乱暴に手を突っ込んだ。

「ああ、まだ出さなくて大丈夫よ。私からは二、三確認するだけ。ええと、まず年齢制限は、18から33歳までだけど・・・大丈夫ね」

「はい・・・32歳なんで、ぎりぎりですけど」

「まぁ、年齢制限なんて、募集要項としてとりあえずつけているだけだから、どうでもいいわ。年端も行かない子供じゃなかったら大丈夫。うちは年齢層が高めだから、あなたなんてまだまだ若手よ」

 リサは目を丸くした。

(この人、何歳なんだろう。綺麗だからとっても若く見えるけど・・・)

「もう一つは、家に電話はある?業務柄、緊急の連絡があるかもしれないの」

「はい。母が仕事で使っていたので・・・」

「あらそう。じゃあ、これもオーケーね。そうだ。ええとあと・・・あ、これは募集要項に書いてなかったんだけど」

「なんでしょうか?」

「家は近い?」

「マディソンスクエアパークの近くなんですが、乗り合い馬車で通えます」

「馬車がない時はどうするの?」

「えっ?」

「ない場合、会社に泊まることになるけど大丈夫?」

「あの、頑張って歩けば、40分くらいなので、歩いて帰ります。歩くの好きなんです」

「そう。じゃあ、大丈夫ね」

(何が大丈夫なんだろう・・・)リサには、察しがつかなかった。

「あー、えーっと、どういうことでし・・・」

「さっそくだけど、採用面接を始めるわ」

 マヤは、リサの質問を遮った。リサは流れに身を任せた。

「はい。よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げると、リサの体の小ささが強調された。

「ちなみに、面接官は、私じゃないわ」

「えっと、ど、どなたですか?」

「うちはどんな職種であろうと、ウィリアムが面接することになっているの」

「えっ、社長が?あのウィリアム・ウェルズさんにお会いできるんですか?」

 この会社から発行されるニューヨークストリート新聞は、創刊から急速に読者を獲得、今ではニューヨークNo.1の発行部数を誇る新聞である。同社の成功は、創業者であり、現社長ウィリアム・ウェルズの手腕による部分が大きい。この若き敏腕経営者は、新時代のアメリカンドリームの象徴として、ニューヨーク市民に広く知られていた。

 

 「うちは、大きな会社に思われているけど、少数精鋭よ。だから、すべての社員を社長自ら評価するの。社長はあそこ」

 マヤは、フロアの一角を指さす。大きなガラスが張られた木製の壁に仕切られた空間があった。ガラス窓を通して、中が確認できる構造だが、ブラインドが下ろされていて、何も見えない。

 リサは不安になった。彼女の癖で、首を横にかしげた。

「緊張する?」

 リサはコクッと頷く。

「そういう時は、深呼吸しなさい」

 リサは大きく深呼吸した。

「回数は3回がおすすめよ」

 リサは3回深呼吸し、社長室へと歩を進めた。


「少数精鋭なんてよく言うよな。みんな辞めていくだけだろ?」

 例の男性が、マヤに言った。やはり、タイプライターから目を離さない。

「あるいは、採用すら辞退するか・・・ね」とマヤ。

「だから、社長を面接官にするなんてやめとけって前からいってるじゃないか?」

「面接官はウィリアムしかありえないのよ。彼を受け入れられるかどうか、採用希望者に判断してもらうの」

「ふん。まるで、社長が採用希望者から面接を受けてるみたいだな」

「あらそうよ?」

(女は怖いねぇ)とでも言いたげな男性の表情。

「それはそうと、俺は受付じゃないんだ。この入口の目の前の席を変えてくれないか?一日に何人も対応しきれないよ」

「いいわよ。私の席と交換してあげる」

「いやだよ。社長室の目の前じゃないか」

「じゃあ、我慢しなさい」

 男性は、タイプライターのキーを力強くたたいた。撃ち込んだ「e」の文字が、クラフト紙ににじんだ。


 社長室の前に立つリサ。

(コツコツコツコツコツッ)

 部屋の中から、妙な音が聞こえる。何かを小刻みにたたく音だ。

(コンコンッ)

 リサがドアをノックした。

「失礼します」

 小さな手でドアノブを握った瞬間、中から罵詈雑言がこだました。

「何度言っても分からんのだな!!貴様は英語が理解できないのか!おい!それとも耳が聞こえないのか?ああ!?何か言ってみろ!文字が書けないなら筆談でもいいぞ!書いてやろう!」

(カッカッカ!)

 ペンをデスクに叩きつけるような音が聞こえた。

「ほらみろ!お前の名前だ!読んでみろ!FOOL(バカ)!」

 (バン!)

 ドアが勢いよく開いた。怒りに震え、青筋を立てた中年男性が、原稿をくしゃくしゃに丸めて出てきた。リサに肩をぶつけると、彼は足早にオフィスから去っていった。リサは不安げに彼を目で追った。部屋の中から、声がした。

「入れ」

「失礼します」

 リサは社長室に入り、ドアを閉めた。

「掛けてくれ」

 リサはデスクの前に立ち、今にも泣きそうな顔でウィリアムを見た。黒いスラックスに、黒いベスト。ネクタイをほどき、真っ白なシャツの首元を大きく開いている。ポマードでオールバックに固めた黒い髪。額は広く、眉毛が薄い。目の堀が深いが、鼻はあまり高くはない。美男子とまでは言えないのだが、肌つやが良く、健康的で、エネルギーにあふれていた。

「よろしくお願いします」

 と中に入ったリサだったが、ウィリアムはリサに背中を見せたままた座っている。そして、カツカツとペンを叩き、何も言わない。

(うっ!気まずい!)

 リサは、この空気と、緊張をほぐすため、少し雑談を交わすことを決心した。彼女は、部屋を見渡す。まず目に入ったもの。それは、絵画のように壁に掛けられている拡大記事であった。その新聞記事には、一隻の戦艦がでかでかと描かれ、見出しはこうだった。

【DESTRUCTION OF THE WAE SHIP MAINE WAS THE WORK OF AN ENEMIY】

(戦艦「メイン号」が敵の攻撃により破壊)

 記事を指さすリサ。

「有名な記事ですよね?これ。当時、私も読んでびっくりしました」

ウィリアムは、無視する。社長室の空気はさらに重くなる。リサの目が泳ぐ。次に目に着いたのは、部屋の片隅に置かれた蓄音機。この時代は、蓄音機の聡明期であり、日々発明が進んでいた。社長室に置かれているものはその中でも、最新型で、丸い円盤に音を録音するタイプのものだった。

「あ、最新型の蓄音機じゃないですか。円盤に記録するタイプですよね?始めてみました」

 ウィリアムは、初めてリサの言葉に反応した。

「壊れている。ゴミだ」

「そ、そうなんですか」

円盤はクルクルと回っているが、ほとんど音は出ていなかった。ただ、〈ザザー〉とノイズが微かに聞こえるだけだった。

「うちの採用募集をどこでみた?」

 自己紹介もなく、唐突に面接ははじまった。

「あの、新聞で」

「どこの?」

「もちろんニューヨークストリートです」

「嘘をつくな。ここ半年、採用広告は載せてない」

「すいません」

 ウィリアムは、コツコツとペンで机をたたき続けている。

「本当は、職業案内所で紹介されました」

「どこの?」

「サニーサイドです」

「ふん。マヤのやつまだあんなところに・・まあいい。履歴書を見せてくれ?」

 リサは、大きなカバンをあさり、しわのついた履歴書を出した。ウィリアムはそれを受け取り、軽く読み流す。

「希望の職種は?」

「タイピストです」

「一分間に何文字打てる?」

「えっと、200文字くらい」

「遅い。300は打て」

「・・・はい。すいません」

「タイピング以外にできることは?」

「速記ができます」「ほう」

 ウィリアムが初めてポジティブな反応を示す。この時代、速記は様々で場面で使われていた。しかし、速記にはある程度の教育と経験が必要であり、きちんと扱える女性は少なかった。

「どこで習った?」

「母からです」

「タイピングは?」

「それも母から」

「そうか・・・父親はいないのか?」

 履歴書を見ながら、ウィリアムは問いかける。

「はい。私がもの心つく頃にはもういませんでした」

 ウィリアムは、履歴書をパサッとデスクに投げた。

「決めた。君の母を雇おう」

「えっ?」リサは、(何をいっているの?)という思いを表情で表現した。

「人に教えられるくらいだから、まず知識については申し分ない。加えて、子供を女手一つで育てあげるくらいなのだから、それなりの収入を長期間、安定して得ていたのだろう。豊富な知識と経験、そして、タイピストとして高い技能を持っていると推測される。同じ給料を払うなら、君の母親を雇ったほうがわが社にとって利益になる」

「母はもう仕事を引退しています。働きたいのは私です」

 ウィリアムが笑いだす。

「働きたい?今頃になってか?三十を過ぎて、初めて働きたいと?」

「ずっと仕事はしていました!」

 ウィリアムの無礼な言動に、リサがムキになる。

「仕事ねぇ。ウェイター。劇場スタッフ。ここは、新聞社だ。職歴としてアピールするのは、非常識だと思うが?」

「・・・」

 リサは、何も言えない。

「くたびれたブラウスとやけに丈の長いロングスカート。母の仕事着を借りたのか?」

「・・・はい」

「定職にもつかず、結婚もせず、その年まで何をしていた?」

(コンコンコン)

 ウィリアムは、机をペンで叩く。

「歌手をしていました」

「それで?」

「小さな事務所に入っていましたが、全然、オーディションに受からなくて・・・」

「どうしてその年になるまで、諦めなかった?」

「何度もやめようと思ったんですが・・・」

「どうして諦めなかった?」

 ウィリアムは意地悪く笑う。

「周りのみんなは、歌をほめてくれたから」

 ウィリアムが、デスクをたたいて笑う。

「ハッハッハ!そりゃ、ほめるさ。歌をね!」

「はい?」

「君は自分の地味な顔を見たことがないのか?その顔で、歌手として生計を立てられるわけがない。みんなそれを理解していた。せめてもの慰めに、周りの人間は歌を褒めるしかないだろ?」

「歌手なので、見た目は関係ないです」

「大いにある。いいか?ステージの上に立つ人間というのは、観客を夢中にさせられるような魅力がなければならない。自分もああなれたらいいのに・・・あんな素敵な女性と出会えたらいいのに・・・そう思わせてナンボの世界だ。それが、エンターテイメントというものだ。歌の良し悪しは、どうにでもなる。いい曲を作る作曲家、最高のボイストレーナーをそろえれば、誰でもいい歌は歌える。だがな、見た目はどうにでもならない。どんなに着飾ろうが無駄だ。どんなにいい曲だろうが、どんなに歌がうまかろうが無駄だ。お前を見て、誰が魅了される?地味でみすぼらしい歌手のチケットを買う客などいないさ」

 辛辣な物言いに、リサもついにムキになる。実は、彼女は気が短い。

「いくら何でもひどいです!採用面接と関係ないじゃないですか!」

「そうか?じゃあ、面接をしよう・・・歌え」

「はい?」

「歌え。歌手は、お前が一生を賭けた職業なんだろ?その技能を披露してみろ。評価してやる」

 リサは、ウィリアムを睨みつけて答えた。

「いやです!」

「なぜだ?」

「歌いたくないからです!」

「ならば、このオフィスから出ていけ」

「いやです!」

 このリサの返しには、ウィリアムも意表を突かれた。

「はぁ?命令だ!出ていけ!」

「いやです!」

「お前は馬鹿か?出ていかないなら歌え!」

「いやです!」

「歌え!」

(バンッ!)

 ウィリアムが、デスクをたたき、立ち上がったところで、マヤが部屋に入ってきた。

「そこまでよ!」

 口惜しさと怒りで、リサの目には涙がにじんでいる。マヤは、リサを抱き寄せる。

「ああ、リサ。ごめんなさい」

「まだ、質問は残っているぞ」

 椅子に座り直し、ウィリアムが言った。

「お前はvirginか?」

「ウィリアム!やめなさい!」

 リサの怒りは頂点に達する。彼女は、マヤの腕をかいくぐり、短い腕を振りかぶる。そして、ウィリアムに向けてビンタを放った。ウィリアムは、椅子ごと、わずかに身を反らす。デスク越しに放たれた彼女の攻撃は、空を切った。

「手が短すぎるな、タイプライターのキーに指は届くのか?」

 ウィリアムは、ひねくれた笑顔を作りそう言った。

「ウィリアム!」

 マヤは、再度、ウィリアムを叱責した。

「さあ、これで分かったでしょ?ここで、働くのは無理よ。きっと、ほかにいいところがあるわ。だから、今日は帰りましょう?」

 マヤが優しく、泣きじゃくるリサに語り掛けた。そして、彼女を社長室の外へと、誘導する。その時、リサが叫んだ。

「ここで働きます!」

 マヤは、驚きのあまり、その言葉を理解できなかった。それは、ウィリアムも同様であった。

「採用してください!」

「いいの?こんな人が社長なのよ」

「お願いします!」

 マヤとウィリアムが目を見合わせる。

「ウィリアム。あなた合格よ」

「ふん」

 ウィリアムは、くるりと椅子を回し、二人に背を向けた。

 かくして、リサは職を得た。社長室の端にある蓄音機の円盤は、まだクルクルと回り続けていた。


 ニューヨーク州マンハッタン島のミッドタウンと呼ばれる地域の南端、ロウアーマンハッタンとの狭間に位置するマディソンスクエアパークの傍に、リサの自宅はあった。オフィス街から近く、ニューヨークストリート社からも歩いて40分程度、馬車を使えば20分もかからない場所にある。

「ただいま!ママ!」

「おかえり」

 小柄な老女がおぼつかない足取りで玄関先まで現れ、リサを迎えた。

「見て!ママ!あのニューヨークストリート社で働けることになったの!」

 リサは大きなカバンからくしゃくしゃになった契約書を取り出して、それを母に見せた。

「あらおめでとうリサ」

 母は、祝いの言葉を口にしたが、そのテンションは低かった。

「今日は、お祝いね。さぁ、ご飯を用意しているわ」


 食卓には、ステーキが用意されていた。

「すごい。ステーキなんて久しぶりね。でも、私が落ちたらどうするつもりだったの?」

「落ちるわけないわ。今日、朝起きた時からずっと、あなたは採用される気がしてたもの」

「へぇー、どうして?」

「・・・どうしてだろうね。まぁ、そんな気がしたのよね」

「ふーん、予知能力的な?」

「そんな大そうなものじゃないわ。私にはそんな能力はないわよ。未来を予知できるのは、神様くらいなものよ」

「ふーん」

 母の言葉を聞き流しながら、リサは大きな肉の塊をほおばった。

「そうだ。ニューヨークストリート新聞の朝刊を採らなきゃ。」とリサ。

「そうね。せっかく就職したんだから、朝刊くらいは採りましょう・・・まぁ、私は読めないけど・・・」

「また、目が悪くなったの?」

 リサが心配そうに声をかける。

「ええ、もうさっぱり。文字なんて全然読めないの・・・でも、大丈夫よ。娘が立派な会社に就職できたから、ひとまず安心ね」

「まぁ、ね」リサは、母から目をそらし、ステーキの塊にフォークを突き刺した。暗に歌手をつづけた自分を批判しているようにも感じたのだ。

 リサの口は、ステーキで一杯になっている。

「あとは、結婚さえしてもらえたら、この世に未練はないわ」

(結婚ねぇ・・・この職場でいい人見つかるかしら・・・あの最初に声をかけた人はどうかしら・・・うーん、ちょっと不愛想かなぁ。でも、悪い人じゃなさそう・・・うーん。社長は・・・いやいや、あんな亭主関白な人と一緒だったら、私の気力が持たない・・・もっと、気楽にいられる人がいいかなぁ・・・)

 ぼーっと、そんな妄想をしながら、飽和状態になった口の中に、ステーキの破片をほおりこんだ。


◆入社一日目 戦争は、私が用意する。

「今日から一緒に働くことになりました。リサ・パーラメントです。よろしくお願いします」

 リサは、ペコリと頭を下げる。オフィスのみんなが拍手で迎えるが、ウィリアムの姿はない。

「今日から一緒に頑張りましょう」

 マヤは改めて、リサと握手した。

「あなたの席はそこ」

 あのタイプライターから目を離さない男性の横であった。彼は、やはりタイプライターとにらめっこしている。

「彼は、ハロルド。わからないことがあったら、彼になんでも聞きなさい」

「また、めんどくさい仕事が増える」

 ハロルドがタイプライターに向かって返事をする。

「不愛想な男だけど、気が弱いから扱いやすいわ。臆せずに質問するのよ」

「はい」

「はいって・・・」

 ハロルドが突っ込んだ。

「少しオフィスを回って、簡単なオリエンテーションをしましょう」

 そういうと、マヤは、リサとオフィスを回る。報道部、芸能部、スポーツ部各部署への自己紹介や、通信室、暗室と、色々な部屋を案内しながら、合わせて会社の歴史について話し始めた。

「知っての通り、ニューヨークストリート社は、ニューヨークNo.1の新聞社で、発行部数も上り調子。まさに、今ノリノリの会社よ」

「ほぉ」

 マヤは、オフィスの壁に掛けられている写真を眺めながら、ストリート社の社史の説明を始めた。そこには、青年時代、会社を立ち上げた時の創立メンバーの集合写真が飾られており、中心には、ウィリアムの姿がある。20歳そこそこの年齢だろうが、すでに、おでこの面積はかなり大きい。

(生まれつきなんだぁ)とリサは一人、思った。


 記念写真のほかには、ストリート紙の有名な記事も並んでいた。中には、リサも見覚えのあるものもあった。

「これ知ってますよ!当時、号外で読みました!「ブルーミングデール精神病院」のスキャンダル記事。確か、記者が10日間も実際に病院に患者として入院して、劣悪な病院の環境を告発したんですよね。その話を聞いてすごく感動しました」

「ありがとう。これは私の書いた記事よ。10日間、潜入調査したのも私。とっても大変だったわ」

「ええ!マヤさんすごい人だったんですね!感動です!」

「ふふ」

 マヤは、娘を見るような微笑みをリサに投げかけた。

「その会社を設立し、牽引してきのが、若き実業家のウィリアム・オーソン・ウェルズ。あの通り、とっても癖の強い人だけど、その経営手腕はとても評価されていて、ニューヨークを代表する若手実業家の一人として、一般的な知名度も高い。政治家としての一面もあって、去年から下院議員を務めているんだけど、今年はニューヨーク州知事に立候補する予定よ」

「そうなんですか」

「ええ、彼の目標はアメリカ大統領よ。笑っちゃうでしょ?でもね、笑っちゃうことを成し遂げる人があの人よ」

「マヤさんもウィリアム社長をすごく尊敬しているんですね」

「・・・まぁね」

 一瞬、言葉に詰まったマヤを見て、リサは彼女の気苦労を感じた。

(あの社長の相手するのは、きっと毎日大変なんだろうなぁ)

 写真を次々と眺め、主のいない社長室に入った。

(結構ズカズカとはいっていいんだなぁ)

 そして、ついにあの記事の写真までたどり着いた。


【DESTRUCTION OF THE WAE SHIP MAINE WAS THE WORK OF AN ENEMIY】戦艦「メイン号」敵の攻撃により破壊)


「そうこの記事。この記事をきっかけに、スペインとの戦争が始まったのよね」

 マヤは感慨深そうに記事を眺めた。

「当時、すごく話題になりましたよね。ニューヨーク市民は、ストリート紙に夢中でした」

「ええ、当時は楽しかったわ。街に出たら、私たちの記事の話題で持ち切り。ニューヨークを支配している気分だったわぁ」

「ほんとに、みんなストリート紙にくぎ付けでした。巷には、ウィリアム社長に関するいろいろな噂話が流れてましたよね。有名なのが・・・「戦争は、私が用意する」でしたっけ?「私の戦争だ」でしたっけ?キューバの特派員からの「戦争が起きる気配がない」っていう報告に対して、ウィリアム社長が言い張ったセリフ」

「ふふ。実はね。社長はそんなこと言っていないのよ。ただのデマね。でも、本人もそのエピソードを気に入ったの。時々、自慢げに言うわ。あの戦争は、私の戦争だ。私が用意した戦争だってね」

「さぁ、この記事に関する説明もちょっとやっておこうかしら・・・」

 マヤは、つらつらと話し始めた。

 創刊以来、順調に発行部数を伸ばしてきたストリート紙だが、ニューヨークNo.2まで上り詰めたところで、巨大な壁にぶつかった。当時のNo.1、ニューヨークワールド社である。No.1とNo.2の差は歴然としたものがあり、その牙城を崩すことはできなかった。

「そもそも、ストリート紙はワールド紙のパクリなの」と、マヤは言い放った。

 ワールド社を率いるのは、帝王ジョセフ・ピューリッツァー。ベルギーからの移民であるピューリッツァーは、新聞にある画期的な手法を取り込む。

「ニューヨークは移民の街でしょ?外国からの多数の労働者で成り立っている。英語は母国でもないし、あまり教育の機会もなかった人々。つらつらと書き連ねた文字の列をしっかりと読み切れる人は少ない。ピューリッツァーはそこに目をつけたの。彼らを読者として取り込むにはどうすればいいか」

「どうすればいいんですか?」

「絵や写真を増やす。文章もなるべく大きな見出しを付けて、一言で内容を伝える。つまり、文字を極力少なくした新聞を作ったのよ。ストリート紙もまた、その手法を完全に模倣したのね。内容も重要ね。上流階級の人間や政治家の汚職、それに残酷な事件。なるべくセンセーショナルなものにする。分かりやすく、過激な内容にするのよ」

「まさに、ストリート紙の記事と同じですね」

 多数派である労働者に目を向けたその戦略を踏襲するストリート社は、当然、ワールド紙と読者層が被っている。発行部数をさらに増やすには、ワールド紙を倒すしかない。

「当時、ワールド紙は、No.1としての地位を確かなものにしていた。私たちストリート社とワールド社は互いに優秀な記者を取り合ったり、スクープを取り合ったりと、会社間の覇権争いを始めた。だけど、ピューリッツァーにうまくやられてね。あの頃のウィリアムは、ずっと機嫌が悪かったわ」

「ピューリッツァーさんは素敵な方だったって、母が言ってました」

「お母さん?知り合いなの?」

「そうです。母はずっと、ワールド社で働いてたんです」

「あら、そうなの」

「体が悪くなって、やめたんです。ちょうど、ピューリッツァーさんが亡くなった時と同じくらいに」

「奇遇ね。うちでいいの?ワールド社にも、母の伝手で就職できたんじゃない?うちみたいに、圧迫面接を受けなくても良かったんじゃないの?」

「いえ、母がこれからはストリート社の時代だっていって、この会社を勧めたんです」

「うれしいわね。頑張らないと」

 起死回生の案として、ウィリアムは、隣国キューバに注目する。当時のキューバは、スペインの植民地であり、圧政に苦しんでいた。隣国ということもあり、アメリカ国内では、キューバに対する同情の声が高まりつつあったのだ。

「どんなスキャンダルや事件よりも、国民の関心を集めるイベント。それが、戦争よ。ウィリアムはそこに目をつけた。大量の特派員を派遣し、連日キューバでのスペインの圧政に関する記事を書き続けたの。最初、狙い通りに民衆の感情を煽ることができた。発行部数を伸ばしていった。キューバを救う。つまり、スペインとの戦争を望む声は広がっていったわ。でも・・・」

「でも?」

「うまくいかなかった。ニューヨーク市民が戦争を望んでも、国はそう簡単に戦争という判断を下さなかった」

 スタートこそよかったものの、政府は、戦争に消極的で、開戦には至らない。センセーショナルな記事にも、読者は慣れていき、国民の関心は少しずつ薄れていった。

「多くの特派員の経費。キューバへの運航費や通信費。多額の投資が必要だった。発行部数を伸ばしても、戦争が起きないんじゃ意味がない。ワールド社を倒せるほどのインパクトはなかった。わが社の財布はどんどん寂しくなる。でも、政府は戦争をしない・・・ストリート紙は、追い詰められていったわ。絶望な状況の中、起きたのがこの事件。「メイン号沈没事件」」

 当時、正式な国交はなかったが、キューバにはアメリカの企業や人々、資本が存在していた。したがって、内乱状態にあるキューバで、アメリカの資本を守ることを目的ために、多数の戦艦が行き来していた。メイン号もその一つで、キューバで働く一般人を含め、多数のアメリカ人を、キューバへ安全に運ぶという役目を担っていた。しかし、到着までもう少しのところ・・・キューバ沖で爆発、一般人を含む数百人のアメリカ人が、戦艦とともに海に沈んだ。事故原因は不明だが、ストリート紙はどこよりも早く号外を発行し、こう結論付けた。「敵の機雷によって、メイン号は沈没した」と。実際にアメリカ人の命が亡くなったことで、弱腰だった政府も、戦争に踏み切るしかなかった。アメリカ対スペインの戦争、米西戦争が勃発した。

 すでにキューバとアメリカ間の報道システムを確立していたストリート紙は、ワールド紙の常に1歩先の記事を書くことができ、発行部数は、あっという間に逆転した。

「ピューリッツァーさんが亡くなって、母が会社を辞めたのもちょうどその頃です」

「そうね。こうして、奇跡の大逆転が起きて、私たちはNo.1の座を手にしたの。メイン号の事件はとても大きなターニングポイントってことね。だから、社長もこんなに大々的に記事を飾っている。とても思い入れのある記事なのね。まぁ、最初の話に戻るけど、あの戦争は、ウィリアムが起こしたものでも何でもないわ。たまたま起きたメイン号沈没という奇跡的な悲劇が、戦争を引き起こしたの。でも、ウィリアムには、そういっちゃだめよ。彼は、断固として、米西戦争を自分の戦争って思っている」


「思っているのではなく、事実だ。あれは、私の戦争だ」

 ウィリアムが社長室に現れた。

「あら、ウィリアム。おはよう」

「おはようございます。今日からよろしくお願いします」

 リサは、ペコリと頭を下げる。昨日の面接のことなど、記憶から消去されていて、全く気まずさなど感じていなかった。

「ふん、早く仕事しろ」

 ウィリアムは、椅子に座り、ふんぞり返って、ペンをコツコツとたたいた。

「さあ、リサ。今日はこの辺にして、さっそく仕事を始めましょう」

「はい」

「さあ、最初の仕事は、みんなが持ってくる書類をタイプライターで清書して。慣れてきたら、ほかの仕事も増やしていくわ」

「わかりました」

「朝は、社長室には近づかないように。機嫌が悪いわ」

 マヤはリサに耳打ちして、自分のデスクへと向かった。リサは、頷いた。


 (ヨイショッ)

 リサは自分の席に座る。目の前には、タイプライターがあるだけの殺風景なデスクだ。

(カチカチカチッ)

 タイプライターの作動音が響いている。リサは、ハロルドの方を見た。

「何?」

 彼の反応は早い。

「いろいろとご迷惑をおかけするとい思いますが、よろしくお願いします」

「さっきも聞いたよ・・・」

 ハロルドを見つめるリサ。タイプライターを見つめるハロルド。

「・・・ハロルドだ。よろしく」

 リサは笑顔になる。

 ハロルドは、右手を胸ポケットの方へ持っていく。そして、ポケットの中から、タバコを一本取り出し、咥え、火をつけた。その間も、器用に左手だけでタイプライターを撃ち続ける。吐き出す煙が、彼の顔を隠す。

「私も吸っていいですか?」

「えっ?君も喫煙者なのか?」

 灰色の時代、職場での喫煙はごくごく一般的なことで、喫煙者も多かった。女性の喫煙者も大して珍しくはなかったが、リサが喫煙者だとは、ハロルドにとって意外に思えた。彼の中のリサへの第一印象が、早くも崩壊した。

「はい」

「好きに吸えばいいよ」

 ハロルドは、自分の灰皿を少しリサの方に寄せた。

「ありがとうございます」

 リサは、小さなカバンからタバコを取り出し、火をつけた。プカプカと煙を吐き出す。

「あら?あなた喫煙者だったの?」

「はい」

 マヤは、ドサッと束の書類をリサのデスクに置いた。

「そう、意外ね。さあ、初仕事よ。これをすべて清書して」

 なかなかの分厚さである。

「今日中ですか?」

「もちろん。うちは激務よ」

 マヤが微笑む。彼女が持ってきた書類は、様々な打ち合わせの議事録で、すべてグレッグ式という定式的な速記で記されていた。出先にタイプライターを持ち込むわけにはいかないので、議事録は速記で記されることが多いのだ。

「他人の書いた速記を読むんですか?」

 速記は一般的に、書いた本人が清書する。型があるとはいえ、書いた人の癖が大きく反映され、他人が読み解くことが困難だからだ。

「うちは人手が足りないから、よくあることよ。グレッグ式速記が分かれば、基本的にすべて読めるわ。ただ、人によってかなり癖があるから、わからない部分があったらハロルドに聞いて。彼が一番詳しいわ」

「・・・はい」

 リサは不安混じりの返事をした。

(カチカチカチッ) 

 リサに速記の実用経験はない。しかし、半年前、夢を諦めてから、母がマンツーマンで教えてくれた速記。母から受け継いだ技能を発揮する瞬間がやってきたのだ。リサはタバコの火をかき消し、タイプライターに向かった。

 一枚目の書類を手に取る。びっしりと曲線の列が並ぶ。そう、まるで流体そのもの。美しい流線形の文面がリサを魅了した。

(読める!)

 リサは安堵の笑みを浮かべる。

(ママ!ありがとう!)

 リサは、勢いよくタイプライターをたたく。

(もうあの意地悪な社長に、母を雇うなんて言わせない!私でも十分通用する!)

 まるでピアノでワルツを奏でているような気分だ。よどみなく流れる紙面に、リサは得意げになった。速記の束はみるみる高度を下げていき、あっという間に半分を消化した。リサは、タバコを咥え、一服した。

(今日中に何とかなりそうね!)

 そう思い、次の書類に取り掛かった瞬間、彼女の手がとまる。

(あれ?ここなんて書いてあるんだろ?)

 読み取れない部分が出てきた。

「すいません」

「何?」

「ここ。なんて書いてあるんですか?」

「え?・・・ああ、I didだ」

 グレッグ式速記では、頻出するdidやhaveといった単語を一本の線で区別する。右上がりにまっすぐに跳ね上げた線。右上がりにやや丸みを帯びて跳ね上がる線。様々な線が用いられるが、区別の種類は線の形だけではなく、長さよっても表現する文字が分かれる。この速記士は、そのあたりが曖昧で文字の判別がつきにくかった。

 所々ハロルドに聞きながら、リサはやっとのことで一枚の書類を清書した。

(下手な速記だったわ)

 リサは、次の書類を手に取る。

(あれ?この人も・・・)

 また少し違った癖のある速記。この人は曲線を描くのが苦手なのだろうか、重要な線の丸みを表現できていない。流れのない、角ばった速記だった.

「すいません・・・ここ」

 リサは、ハロルドに助けを求める。しかし、ハロルドはリサ以上に、焦っている様子だった。

「ちょっと待て。俺もこれを済ませないとやばい」

 ハロルドのタイプライターを打つ速度が加速する。

「はい・・・すいません」

(そうだマヤさんに聞こう)

 リサは、マヤのデスクに向かう。マヤは電話中だった。

「ええ、早く原稿を上げて。あと1時間よ。厳守して」

 電話を切るマヤ。


「何?」

「わからないところがあるんですが」

「見せてみて」

 リサが書類を見せようとしたとき、また電話が鳴った。

「はい。ニューヨークストリートです・・・なんですって!すぐに向かうわ!」

 マヤが急いで電話を切った。

「ごめんなさい。緊急の仕事が入ったの。わからないところは、ハロルドに聞いて」

「あ・・・でも」

 マヤは足早にオフィスを去っていった。リサは自分のデスクに戻った。

(カチカチカチッ)

 ハロルドの焦燥感が、ひしひしと伝わってくる。彼の額の汗は、「新聞記者はアスリートである」と語っていた。

「清書した文書は、書いた本人があとでチェックする。そこで、間違っている箇所を訂正するから、すべてきちんと文字に起こす必要はないんだ。わからないところは空白でいい。わかるところだけ書いておけばいい」

 困り切ったリサの視線を感じとり、ハロルドがアドバイスした。

「わかりました」

 リサは、もう一度タイプライターと向き合った。書類を顔の近くまで近づけ、書き手の細かな癖まで完璧に見抜こうと努力した。

(カチ・・・カチ・・・)

 少しずつ、リサはタイプする。作業効率は極めて悪い。

(カチ・・・カチ・・・)

 一応、一枚議事録を清書し終えた。内容を読み返すリサ。

(・・・何を書いているのか全然わからない)

 空欄だらけで、文字にしている部分も英語になっていなかった。リサはもう一度清書しなおす。

(カチ・・・カチ・・・)

 3回ほど書き直して、所々、意味の分かる文書が出来上がった。

(・・・しょうがない。この速記士さんの清書は、これくらいの出来でいいか)

 時計を見る。六時を過ぎている。

(まだこんなに仕事が残っているのに、もうこんな時間!)

 リサは、ハロルドと同じくらいの焦燥感をにじませ、次の書類を手に取った。その手には、渾身の祈りを込める。

(今度こそ!あのきれいな文字の速記士さんでありますように!)

 しかし、祈りは届かなかった。まず、紙の手触りが違った。

(ザラザラする)

 中身を見て、リサは絶望する。

(これは何の落書き?)

 速記ではない。ぐちゃぐちゃな線がびっしり書かれた書類だった。

(絶対無理!これは後回し)

 しかし、次の書類も同じであった。その次、またその次も・・・。

(残り全部、このぐちゃぐちゃな速記!)

 リサがついにパニックになる。ハロルドは、相変わらず余裕がなさそうだ。リサは立ち上がり、フロアを見渡した。

(誰かほかの人に聞こう)

 しかし、フロア中の人間すべてがハロルド状態だった。入稿が迫っているのだ。

(駄目だ!)

「ハロルドさん。助けてください」

 リサは、泣きそうな目でハロルドを見つめた。ハロルドは一瞬心を奪われ、手を止めるが、またすぐに作業を進めた。

「リサ。済まないが、待ってくれ。もう時間がない」

「でも・・・でも、わからないんです」

「君の残務は、あとで俺がやるから、ちょっと待ってくれ」

「でも・・・そんなことできないです」

「いいんだよ。あとで私がやるよ」

「ハロルドさん。私このままだとクビになります」

「ならないよ」

「せっかくママに速記を教えてもらったのに・・・私全然だめです」

「大丈夫だから・・・頼むから静かにしてくれ」

「ハロルドさん・・・」

「・・・あっ!」

 ハロルドの手がとまる。

「・・・どうしたんですか?」

 リサが不安になる。

「・・・間違えた・・・」

 ハロルドが頭を抱える。

(・・・私のせいだ・・・私がハロルドさんの邪魔をしたから・・・)

 リサが泣きそうな顔でハロルドを見つめる。

「ハロルド。ウィリアムが呼んでるぞ!」

 社長室から出てきた男性が、ハロルドに言った。

「わかった」

 ハロルドは、トボトボと社長室へと向かった。

「!!!!!!!」

 ハロルドが、一歩、社長室へと足を踏み出した瞬間、解読不能の怒号がフロアを揺らした。内容は分からないが、ウィリアムの怒りは十二分に感じることができた。リサは自分が怒られる以上にショックだった。

(ごめんなさい)

 リサは心の中でハロルドに謝ったが、怒号がやむことはなかった。

 

 21時。

 この時間になっても、半分以上の社員が会社に残っている。

「ふぅ。こんなもんでいいだろう」

 結局、あの意味不明な書類は、ハロルドが清書した。

「すいませんでした」

 リサがぺこりと頭を下げる。

「だから謝らなくていいっていってるじゃないか。それより、早く帰りな」

「いえ、帰れません」

 ハロルドは、ため息をついて立ち上がる。

「コーヒーの淹れ方を教えよう」

 彼は、リサを炊事場に連れていき、ガス栓の開け方、コップの場所、コーヒー豆の選び方を教えた。

「マヤは濃いめのブラックが好きだから、豆を多めに入れたほうがいい・・・これくらいかな。社長は、大の甘党だから、ミルクと砂糖を多めに入れるんだ」

「ハロルドさんは、人のコーヒーも入れるんですか?」

「ああ、入れるよ」

「あんなに忙しいのに、雑用もやるんですか?」

「この時間まで残るメンバーの中では、一番仕事は少ないよ。能力が足りないから、無駄に時間がかかっているだけだ」

「そんなことないですよ」

「そんなことあるんだよ。雑用ができる余裕があるのは俺だけだから、速記の書き起こしといった仕事が回ってくるんだ」

「あんな汚い速記を読むなんて、すごいです」

「あれは速記じゃないよ。ただのメモだ。英語なんだよ」

「え?でも、滅茶苦茶崩した文字でしたよ」

「あれを書いたのは社長でね。社長は悪筆なんだ。本人曰く、丁寧に書いた方だっていつも言うんだがね。読めたもんじゃないだろ?」

「文字っていうより、線ていうか、なんていうか・・・」

「そして、最初に君が見た速記はマヤのもの。マヤは型通りの精密な速記を書く。だから、グレッグ式速記を少しかじった人ならだれでも読める。君みたいにね」

 リサはしょんぼりと下を向いた。

「私、首になるんでしょうか?」

「ハッハッハ!」

 ハロルドが笑う。彼の笑顔を見て、リサの心がわずかにほぐれた。

「マヤの速記が読めれば、能力としては十分だよ。知らない人の速記を読むなんて不可能だ。速記とはそういうものだろ?それぞれの書き手の性格、癖が色濃く反映される記入方法だからね」

「マヤさんは、無理な仕事を私に?」

「仕事を振ったマヤの意図としては、(うちの会社の速記士は、こんな文字を書くのよ)ということを君に認識させたかっただけだ。だから、書類は難易度順に並べられていたんだ。一番読みやすいのがマヤ。次は、ほんの少し癖のあるキャサリン。通信士のジョナサンとダストン。最後に、一番厄介な社長という風にね」

「でも、マヤさんは今日中に終わらせと・・・」

「ああ、あれは君に言ったんじゃない。俺に言ったんだよ」

「ええ!」

「ほかの人は置いといて、社長の速記をいきなり読むなんて君がどんなに優秀だったとしても不可能だ。君は俺に助けを求める。しかし、社長の速記の癖を教えることはかなり困難だ。慣れるしかない。結果、今日は俺がやるしかない・・・マヤの予想通りだよ。ただ、君がまだ会社に残ってるのは予想外だったかもしれないがな・・・さあ、これを飲んでもう帰るんだ。俺がマヤに怒られる」

 いれたてのコーヒーを手渡すハロルド。リサは、彼のやさしさとコーヒーのぬくもりに少し潤んでいる。

「ありがとうございます」

 コーヒーを口に含む。その瞬間、リサがしかめっ面になる。

「うわっ!甘い!」

 スイーツ好きのリサですら驚く甘さだった。虫歯でもないのに、歯が痛くなった気がした。

「社長の好みの味だ。覚えとくといい」

 初対面の不愛想な印象とは正反対の、茶目っ気まじりの笑顔でハロルドが言った。

「はあ、働くって大変ですね。もうくたくたです」

「すぐに慣れるさ」

 ハロルドは、コーヒーを口に含む。ここで、マヤがオフィスに帰ってきた。

「はあ、疲れた。今日は大変だったわ」

「お疲れ様です」

「あら、どうだった?初出勤は」

「ハロルドさんのお陰で何とかなりました」

「そう、ハロルド。彼女のタイピング能力はどうだった?」

「問題ない。合格だ」

 リサは嬉しさで、笑顔がこぼれる。彼女は充実感で満たされた。

「そう。問題ないのね。じゃあ、明日、外回りの仕事を頼みたいんだけどいい?」

「明日ですか?明日は日曜日・・・休みじゃないですか?」

「そう。本来は、私が行く予定だったんだけど、どうしても外せない用事があって・・・申し訳ないけど、お願い」

「は・・・はい。でも、私、日曜日の朝には必ず教会に行くことにしてるんです。それからでもいいですか?」

「もちろん問題ないわ。あなたの家の近くの教会ね」

「はい・・・それで、明日の私の仕事というのは・・・取材とかですか?」

「違うわ。大統領との会見の議事録作成よ」

「ええ!!大統領と!」

「ええ、遊説中のマッキンリー大統領が、ニューヨークにいらっしゃるの。セオドア副大統領から連絡があったわ。ぜひとも打ち合わせをお願いしたいって今日いきなり連絡があったものだから、私も予定が合わなくて・・・ちなみに社長と二人よ。仲良くしてね!」

 マヤが笑った。

「ほんとのほんとにいいんですか?社長と大統領と、入社2日目のひよっこの三人の状態になるわけですよね」

「ええ、そうよ」

「ええ、そうよっていうか・・・」

「うちは、そういう会社なの」

(グレーな職場だ)

 リサは、額から流れてくる汗をぬぐった。かくして、リサの初出勤日は幕を閉じた。?


◆入社二日目 弱腰の大統領と強気な社長

 早朝の教会。

 リサの家の近く。由緒正しいグレースチャーチという教会の中。差し込む朝日に照らされた十字架にかけられた男に対し、リサは跪き、祈りをささげている。


 「リサ・パーラメント!」

 と彼女を呼ぶ声が聞こえ、驚いて振り向くと、不格好なほど巨大なハットをかぶったウィリアムがいた。

「社長!」

 憂鬱な気分がリサを襲う。(うわ、なんで社長がここに・・・最悪!どうして?集合時間はまだなのに!・・・ていうか、社長、外出の時は、あんな変なハットかぶってるんだ・・・社長の身長に合ってない・・・)

「跪くなど、無力な人間の、恥ずべき行為だ」

(いきなり喧嘩腰!なんて人なの!)

「社長は、無神論者なんでしょうね」リサは不機嫌な顔でそういった。

「そうだ。だから無知な私に教えてくれ、朝っぱらから、ひざまずく意味をな」

「いやですよ。何言っても否定するんでしょう?」

「当然だ。ただ、もし、俺を論破できるものがいるならば、神を信じてやってもいいがな」

「そんな考えを捨てない限り、神の御加護はありません。人間は無力なのです。そのことを自覚して初めて、神は救いを差し伸べてくれます」リサは、半ばムキになっていった。

「ああそうだな。だいたいの人間は無力だ。力のある人間は、ごくわずかだ」

「自分はそうだって言いたいんですか?」

「無論だ。俺からすれば、その十字架の男も無力な人間だと思うがな。無力な人間が、無力な男に、祈りをささげている。一体何ができるというんだ?何が解決するというのだ?説明してみろ?」

「見返りを求めている時点で、きっと何も理解できません」

「ふん、信者というものはいつもそうやって抽象的な言葉で逃げる」

「神様は、私たちを無条件で愛してくれています。みんなです。たったそれだけのことですが、人間にはできません。神様しかできません。神は、無力な人間たちに、愛という、生きる希望を与えてくれるのです。まぁ、社長は、愛なんてものっていって否定するんでしょう?」

「愛を否定するつもりはない。俺だって愛人はいるからな」

(あ、そうなんだ)

「ただ、お前の考えは間違っている。愛は、生きる希望だといったな?馬鹿なお前に、人がなぜ愛を求めるのかを教えてやろう」

(どうせロクなもんじゃないだろうな)という感情がリサの表情に現れたが、ウィリアムは、気にせず話を続ける。ハナからリサの返答など期待していない。

「誰かを本気で愛した時、どんな感情が生まれる?そうだな。お前に、愛する人との子供ができた時、どんな感情が生まれる?」

(子供かぁ)リサは、回答はせず、重苦しい気持ちに浸る。結婚すら見えていないのに、子供が生まれるなどということに、現実味を感じることができなかった。その“現実”がリサに重くのしかかりる。

「愛する子供ができた時、こう思うんじゃないか?この子のためなら死ねる・・・と」

「そうですね」リサの意識は、ウィリアムの方へと戻った。

「男なら、愛する女性にも同じ感情を抱くだき、それが本当の愛ならば、銃撃される恋人の盾となるだろう」

「素晴らしいですよね。愛って死への恐怖を超越する力があるってことですよね?」

「その通りだ」と、ウィリアムは同意したが。ただ、リサの解釈とは、方向性が違っていた。

「つまりだな、人が愛を求めるのは、死が怖いからだ。人は生まれてからずっと、死ぬのを恐れている。死の恐怖を克服するには自らへの固執を捨て去るしかない。そのためには、死んでもいいと思えるためには、自分以上に大事な存在を見つけるしかない・・・それが愛を求める理由だ。凡人は思うのだ、人を愛せた。もう死んでもいい。死など怖くない・・・死に際・・・恐ろしい観念に襲われずに済むはずだと、そう無意識に考えているのだ。愛とは、本質的に生きる希望ではない。死への保険だ。」

(ものは言いようなんだな)とリサ。ただし、ウィリアムが本当に言いたいことは、これからだった。

「逆にいうとだな。死を恐れなければ、愛などという衝動に価値はないのだよ」

「へぇー」とリサは、腑に落ちない顔をした。そして、ウィリアムは勝ち誇ったような顔をしている。

「社長の話を聞いて一つ質問なんですが」

「なんだ?」

「不死身だったらどうなんですか?永遠に生きるとしたら・・・愛はいらないんですか?」

 突拍子もない質問だったが、ウィリアムの返答は早かった。

「いらない。死がないのだから、死への恐怖はない。従って、愛など求めるはずがない・・・さぁ、無駄話はおわりだ!行くぞ、仕事だ」

 ウィリアムはリサの顔を見ることなく、振り返り、十字架に背を向けた。


 教会の外には、一台の車が横付けされていた。真っ黒な洗練されたボディ。今まで、リサが見たことのない。美しい車だった。リサは乗り込む前に、思わず見とれてしまった。

「すごい!これ、フォードのT型じゃないですか!めちゃくちゃ売れてるやつですよね!よく手に入りましたね」

「そうだろ?」

 リサの言葉に反応したのは、ウィリアムではなく。運転手のボブ。

「しかしなぁ!俺のT型は普通のT型とは一味ちがうハイスペックモデルだ。このスムーズなエンジン音!すごいだろ?」

 ボブは、陽気を絵にかいたような男で、車を愛するアフリカ系アメリカ人だ。車の運転手だが、船乗りが被るセーラーハットをいつもかぶっている。

「へぇ、特別仕様ってことですね!さすが、ウィリアム社長ですね!」

「いやいや、ボス(ボブはウィリアムをボスと呼んでいる)は関係ない。俺の人脈で手に入れたのさ!なんと俺は、ヘンリー・フォードとマブダチなんだよ!」

「へぇー・・・ほんとですか??」

 リサは、疑いの目を向ける。

「おいおい、リトルガール!信じてくれないのか?」

「フォードさんて言ったら、もうこれからの時代を代表する実業家じゃないですか。めちゃくちゃセレブな人ですよ?」

「まぁ、この車の走りを体感したら、きっと信じるさ。この車が、どれだけ特別な車か!凡人では手に入らない代物だ!ところで、今日、俺のワイフが・・・」

「早く出発しろ!」と、ウィリアム。

「イエッサーボス!」

「うおおお」と、圧倒的な加速度による慣性力をリサは感じた。そのまま、三人は風のようにマンハッタンを駆けていった。


 灰色の世界。現職のアメリカ合衆国大統領は、ウィリアム・マッキンリーという人物である。彼は、オハイオ州の生まれで、祖先はアメリカ独立戦争を戦った由緒正しきアメリカ人である。彼の経歴の中で特筆すべきなのは、やはり米西戦争だろう。このスペインとの戦争に勝利したことにより、国内だけにとどまっていたアメリカの支配地域は、国外へと広がっていく、これは後に大国アメリカの礎となる。


 マンハッタン島の中部、ミッドタウン49丁目と50丁目の間のパーク・アベニュー301号に所在する十三階建ての摩天楼の前にT型はたどり着いた。ここは、ウォルドルフ=アストリア。マンハッタンを代表する超高級ホテルである。

「はぁあ・・・」と、口を開いてアストリアの最上階を眺めるリサ。

「何寝ぼけている?なんだ?アストリアを見るのは初めてか?お前、本当にマンハッタンに住んでいるのか?」

「いや、もちろん毎日のように見てはいるんですがぁ。入るのは初めてなんで、なんだか・・・なんというか・・・感無量というかぁ」

 早朝のリサの脳の稼働率は、三十パーセントを切っている。

「仕事中だぞ!シャキッとしろ!だらしない!行くぞ!」

 ウィリアムは、リサを怒鳴りつけて、アストリアの中に入っていった。

「ああ、待ってください。ああ、カバンが重い」

「知らん!この仕事になんでそんなに荷物がいるんだ!お前は馬鹿か!」

「社長は、朝から元気ですね」

 リサのカバンには、あきらかに余分なモノばかりが詰め込まれていた。何本も同じペンが入っていて、あろうことか、タイプライターまで入っている。歩くごとに、小さなメモ帳や、ペンやハンカチといった小物が零れ落ちそうになる。「ああ、待ってください」

ウィリアムは気にしない。


 ロビーには、大統領秘書の女性が待ち構えており、ウィリアムを誘導する。

「おはようございます。ウィリアム様。大統領は、最上階でお待ちです」

「おはよう」

「えっと、あちらの方は?」

「は?」

 歩いては、何かが落ち。それを拾いながら、リサがこちらへと向かっている。しかし、まだエントランスにも入れていない。

「ああ、あいつは、ただのタイピストだ。先に向かう」

 そう言って、ウィリアムはエレベーターに乗り込み、最上階へと向かった。


 消えていくウィリアムを見送ってしばらくし、やっとのことリサはエレベーターの前にたどり着いた。

「はぁはぁ。さすが。広いですね。ええと、どちらへむかえばいいですか?」

「お、おはようございます。こちらのエレベーターで最上階へ向かってください。あの、大丈夫ですか?」

「大丈夫です」

 ちょうどエレベーターが返ってきた。リサは落ち着きなく、エレベーターに乗り込む。ガシャンと乱暴に、ケージが閉まる。

「はぁ」

 と一息つくと同時に、エレベーターが上へと向かう。

「ああ、社長歩くの早いなぁ。でもちょっとくらい待ってくれてもいいじゃない」

「あのすいません」

 足元から、声がした。

「はい?」

 足元に返事をするリサ。

「あの、落としましたよ」

(まーた、ペンを落としちゃったのかな。ハンカチかな・・・もういいか)

「もういいです。差し上げます」

「えっ!いや、いただけません。お仕事に必要なものではないですか?」

 足もとのゲージの隙間を覗き込むと、タイプライターを持ち上げている秘書の姿があった。

「ああ!」

 カバンを確認する。タイプライターがなかった。

「あとで取りに行きます!」

 タイプライターは、もう見えなくなっていた。声が届いたかどうか、怪しかった。最上階へ着くまでの間、リサは絶望的な表情で、エレベーターの天井を見つめていた。

 最上階に着くと、別の秘書が待ち構えていた。

「おはようございます。ウィリアム様は、先に入られました」

「はい。おはようございます」

「あの、体調は大丈夫ですか?」

 汗だくのリサの表情を見て、秘書はたまらず声をかけた。

「あ、大丈夫です。元気です」

 明らかに嘘と分かる表情だったが、秘書は、スイートルームへ案内する。

「あちらです」

 案内された大きな扉の前には、さらに大きな男が立っていた。丸い眼鏡をつけ、軍服を着た男は、小さなリサには身長を推測できないほどの大きさだった。身長だけではなく、肩幅も広い。

(おっきいひと)

 先ほど、ウォルドルフ=アストリアを眺めていた時と同じ印象を持った。巨人の正体は、リサでも分かった。巨人は、柔らかい笑顔で右手を差し出した。

「お待ちしておりました。副大統領のセオドア・ルーズベルトと申します」

「り、リサ・パーラメントです。よろしくお願いします」

 リサはぺこりとお辞儀をしてから、握手した。副大統領の手は、柔らかく大きかった。体の大きさはもちろんのこと、圧倒的なオーラをリサは感じた。

(すごい貫禄)

 セオドアは右手で握手をしたが、左手には短いこん棒を握りしめている。

「大統領がお待ちです」

 セオドアは、丁寧に扉を開けた。

(さすがは、一国のナンバー2!オーラがすごい。大統領となるとどれほどのオーラなんだろう)リサの期待が高まる。

 中は、ニューヨーク最高級のホテルの執務室。入ってすぐ、マンハッタン島のすべてを見渡すことができた。

「すごい」「おそい!」「あ、すいません」

 ウィリアムはふんぞり返って、椅子に座っている。

(態度ワル!・・・あ、大統領は)

 大統領が見当たらない。ふと、中央の大きな机の下から声がした。

「オレンジジュースもあるし、なんでもあるぞ。あ、若いからコーラがいいか。最近、若者の間ではやっている。瓶に入っているシュワーッとする飲み物。ねっ?」

 ヒョコッと、モグラのように白髪の男性が机の中から出てきた(ようにリサは見えた)。その手には、黒い液体の入った瓶が握られていた。

(えっ?この人が?)

 大統領の顔はもちろん知っているが、実際、会ってみると印象は変わるものである。

「おお、いらっしゃい。お嬢さん。リサさんだね。初めまして。私は、ウィリアム・マッキンリー」

 マッキンリーは、コーラの瓶を机に置いて、リサに右手を差し出した。

「リサ・パーラメントです。お会いできて光栄です!大統領」

 リサは元気にそう言って、大統領と握手した。

「小さくて、とてもかわいらしい人ですね。さすがは、ニューヨークストリート社だ。素晴らしい人材が集まってくる。そうだ。リサさんも何かのむかい?コーラもあるよ?」

「あ、じゃあ、いただきます!」

「結構です!」

 ウィリアムがふんぞり返りながら、二人の会話を切断した。リサと、マッキンリーが固まる。

「大統領。私は忙しいのです。早く要件を言ってください」

(大統領に向かってなんてことを・・・)

 リサの表情が険しくなる。

(怒らせたらどうなるか・・・)

 と、マッキンリーを見ると、彼は腰をかがめ、苦々しい笑顔を無理やり作っていた。

「まぁまぁ、いや。まぁ、すまないね。そうだな忙しい君を呼びつけたんだから早く要件を伝えるのが、紳士ってものだな。えっと、そうだな・・・あの君の会社の記事についてなんだが、その・・・なんだ。先週のあれだよ。私についての・・・」

「先週、あなたの記事など書いた覚えなどないですが?」

「いやぁ、いや、記事というか、あの詩?詩だな、短い詩が日曜版の付録に書いてあったじゃないか。あれだよ。数カ月前に暗殺されてしまったゴベアに関する」

「暗殺されたケンタッキー州知事のウィリアム・ゴベアのことですか?」

「そうそう。彼の名が出てくる詩」

「ああ、思い出しました。あの詩ですね」そういって、ウィリアムは、一変の詩を暗唱する。

―――

ウィリアム?

あなたを打ちぬいた弾丸は、どこに?

西部?中部?

そこにはないよ。

エデンの東へ弾丸かれはいく。

ウィリアムを打ち倒すべく

―――

ですね?」

「忘れていた割には、完全に暗唱できるんだねぇ。すごい、記憶力だ。いや、そんなことより、その最後の一文は明らかに私を暗示しているだろう?」

「そうですか?あなたの勘違いでは?ウィリアムなど、この国に履いて捨てるほどいますよ。まぁ、私もその一人ですがね」

「いや、君は常々私の批判記事を書いているから、読者は絶対に私だと思って解釈するとおもうんだよねぇ」

「深読みし過ぎなだけだと思いますが?で、その記事のウィリアムがあなたとして、それがどうしたんですか?」

「いやぁ、あれだよ。やっぱり、私は大統領なわけで、世間からの尊敬によってこの職務に着けているわけだ。ね?だから、こういった記事を野放しにしていては、私の立場がないじゃないか?」

「あなたを攻撃する記事なら、ほかに履いて捨てるほど書いていますが、どうしてこの詩だけ、過剰に反応しているんですか?」

「いやいや、ほかの記事は、あくまで報道の話だ。それに関してとやかく言うつもりはないんだが、これは・・・あれだよ・・・殺害予告、あるいは指示じゃないかい?」

「はっはっは。私があなたを殺すように指示していると?さすが大統領だ。想像力が豊かだ。しかし、豊かすぎです。言いがかりもいいところだ。これは、過激思想を持つ人間が、ニューヨークにも存在しているかもしれない。気をつけろ、という意図のものです。むしろ、あなたを守ろうとして載せた詩です」

「あ、ありがとう。いや、しかしだな、全員がその意図を汲み取ってくれるか、とても微妙な気がするんだ。君を強く尊敬する人間は多い。そのなかに、もし過激な人がいたらと思うとだねぇ。私は恐怖で眠れないんだよ」

「で、どうしろと?」

「訂正文というか、うん・・・訂正文を乗せてくれないか。不適切な、表現だったと書いてくれないか?あれは、あくまでジョークだったと」

「そんな文章を載せたほうが、逆に注目されますよ。そもそも、あなたの命を狙う理由がどこにあるんですか?」

「いや、大統領って狙われやすいからねぇ」

「それは、本当の大統領の場合です。私の定義だと、あなたは大統領ではない。ただの、傀儡だ。ご自分でも心当たりはありますよね?」

「いやいや。そんなことはぁ」

「上院議員のマーク・ハンナ。大統領になれたのは、彼の力ですよね?彼のプロモーション力。そして、モルガンといった巨大企業の後ろ盾があってこそのあなただ。あなたは彼らトラストのフロントマンでしかない」

(それは言い過ぎでしょ)リサは、この場から逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。

「そこまでズバズバ言わなくても・・・ああ、そうだコーラはいらないかい?」

「結構です。私がここまであなたを攻撃するのは、あなたが好きだからですよ。マッキンリー大統領。あなたは私の傀儡の一人でもある。あの戦争ではとてもお世話になりました」

「ああ、米西戦争の・・・」

「開戦に踏み切らないあなたの弱腰外交には、最初はイライラさせられましたが、まぁ、メイン号の事件があったとは言え、最終的には開戦に踏み切ってくれたのです。恐らく、トラストの人間は反対していたんでしょうね?列強との戦争によって、自分たちの利益が損なわれるのではと考えていたのでしょう」

「戦争は良くない。私も南北戦争を経験している者だからね。極力開戦はしたくなかったんだよ。でも、あんなことになってしまってはねぇ。戦争するしかなかったんだ」

「弁解は結構ですよ。あなたが罪悪感を持つ必要はありません。あれは私の用意した戦争です。あなたの戦争ではない」

「いやしかしだねぇ」マッキンリーが、どんどん収縮していく。

「しかし、フィリピンの戦争は話が別だ」

「ああ、米比戦争のことですか。あれについても、君の報道は、あまりにも辛辣だ」

「あれは私の戦争ではないですからね。勝手に戦争を始められては困ります。まぁ、米西戦争を経験した今となれば、トラストは戦争による多大な利益、旨味を学んでしまいましたからねぇ。今度は、逆にどんどん植民地を増やせという要求に変わったのでしょう?あなたも大変だ。上から下から、右から左から各々の意見をくみ取ら中ればならない。中間管理職の苦労といったところでしょう」

「は・・・はぁ」マッキンリーは白髪に覆われた頭を掻いていた。

「話は以上ですか?あのなんでもない詩のことで私をわざわざ呼び出したんですか?」

「あ・・・ああ」とマッキンリーは弱々しく答えた。

「くだらない。帰ります」

「ああ、そういえば、君は今度、ニューヨーク知事選挙に立候補するそうだね」

「それが何か?」ウィリアムは鋭いまなざしで、マッキンリーを睨んだ。

「いや・・・調子はどうかと・・・」

「調子ですか?絶好調ですよ。それが何か?」

「君は、社長業だけでなく、下院議員も務めている。多忙で大変だろう?州知事になるとなれば、さらに負荷が大きくなる。大丈夫かい?」

「大丈夫ですよ。この程度の業務量。暇なくらいです。政治家としても公務もとても順調だ。なんですか?共和党の対立候補を当選させたいから、立候補を取りやめろとでもいうのですか?」

「いや・・・そういうわけでは」

 始終、マッキンリーはウィリアムに圧倒され、どんどん声が小さくなっていく。

「いいですとも、立候補を辞退してもいいですよ」

「ほ、本当かい!」

 急に、マッキンリーの声が、大きくなった。

「ただし、国会で私の法案を可決していただければ、という条件付きですがね」ウィリアムがニヤリと笑った。

「ああ・・・それは・・・」

「そうですよね?労働者の権利を強化する私の画期的な労働法案・・・36協定を、トラストたちの犬であるあなたが認めるわけにはいきません。お気になさらず、私は自分の力で、36協定を可決させてみます。では失礼します。今後、私を呼び出すときは、事前に要件を教えて下さい。足を運ぶべき案件かどうかは、私が判断します」

「あ・・・ああ、わかった。今日は忙しいところ申し訳なかった」とマッキンリーは謝った。ウィリアムが立ち上がり、ハットをかぶりながら部屋を出ようとすると、マッキンリーが世間話のテンションで、言葉を投げかけた。

「ところで、“彼”は、元気かい?」

 ウィリアムの動きが止まる。

「最近はあっていません」

「そうか。まだ忙しく働いてるのかなぁ?」

「無論そうでしょうね」

「私はもう何年も合っていないなぁ。大統領になる前に一度顔を出して以来だ。とても心配していてね。今の彼は、ベル氏との特許裁判に負けて以来、その評判は地に落ちてしまった。彼の数少ない友人のウィリアム君から見て、また彼の名声が復活する可能性はどれくらいだい?」

「ゼロです。ところで、その質問も私を呼び出した理由の一つですか?」

「ああ、いやそんなわけではないのだが・・・ほんの十年前くらいまでは、彼の周りには多くの信者がいたというのに、今では、二人しかいない。君と・・・フォード氏くらいだ。とても、寂しがっているのではないかと思ってね。心配しているんだ」

「フォードか、私は車には興味がないので分かりませんが、T型は革命だと運転手のボブが言っていましたよ。そして、今後、100年は、アメリカを支える会社になるとね」

「ボブ。ああ、あの黒人の・・・まぁ、彼の周りの人間は、成功するほどに離れていく・・・君もそうじゃないか?」

「あなたも同じでしょう?」

「私は今でも、彼を尊敬しているよ」

「私も尊敬はしていますが、今はわざわざ会いに行くべき人間ではなくなったと思っています。まぁ、本人はそんなこと気にしてはいませんよ。彼の頭は、仕事、労働、実験で一杯です。我々の感覚で、評価すべき人ではないです。では、失礼します」

 堂々と、歩き出すウィリアムと、彼を見送る弱腰の老人マッキンリー。

(なんか・・・頼りない人)というリサの印象だった。

「いくぞ!リサ!」

「はい!今日はどうもありがとうございました」

「ああ、こちらこそ。また、お会いしましょう」そう言って、部屋を出るリサにマッキンリーは手を振った。


「ふん。くだらん要件だった」

「あの、彼って誰の事ですか?」

「黙っていろ。お前には関係ない」

「は、はい」

 下降するエレベーターの中で、ウィリアムの意識は別の場所へと移行していた。それは、過去の記憶の中。“彼”は白い白衣に身を包んだ、白髪の男の後姿を思い出していた。記憶の中で、男は、ウィリアムに背を向けたまま言った。

=もっと働きなさい

―世間の人間は、私を仕事の虫と呼んでいますが、あなたに言われては、さすがの私も言い返せませんよ。

=随分と甘い世の中になったものだ

―あなたが異常なのです。偉人の感覚は、私たち一般人のそれとは大きく乖離しているものです。一般の人間は、一日たったの8時間働くのにも苦労します

=信じられないな。一体、彼らは何のために生きているんだ?


 アストリアからの帰り道。T型の車内。

「リサ!あんた結婚してるのかい?」とボブ。

「いいえ。まだです・・・ボブさんは、結婚して何年になるんですか?」

「俺かい?そうだな二十年くらいかな。十八才で結婚したからな。ワイフは十五だったけどな。はっはっは」

「若い!お子さんは?」

「えーと六人いる。すげぇだろ!」

「すごい!」

「すごい!って思うだろうが、俺のワイフを見れば納得する。あの年でまだ、ナイスバディなんだ。そこで俺は今朝、ワイフに言ってやったんだ「マイハニー。お前はどうしてそんなにナイスバディなんだい?十五の時から全く変わらない。何か特別な運動をしているのかい?」そしたら、ワイフは即座に答えた

「毎日、暴れ牛に乗っているからよ」

「ちげぇねぇ!」

 はっはっは。だから今度、ワイフをロデオ大会に出場させようと思っているのさ!・・・わかるか?この話!」

「は・・・はぁ」

 一人で盛り上がるボブに空返事を返すリサ。ウィリアムはボブの会話を無視してリサに話しかける。

「大統領の印象はどうだった?」

「はい。なんか、全然印象が違いました」

「どんな印象を持った?」

「なんというか・・・正直言うと頼りない・・・」

「間違いない。あれがこの国の大統領だ。情けないものだ」と、ウィリアムは会話に入る。

「社長みたいに強気な人間が、大統領に向いているんじゃないですかね?」と、突然、リサはウィリアムを持ち上げてみた。

「おべっかはいらん。お前は自分の仕事を早く覚えることに集中しろ!」

「はぁーい」

「帰ってすぐに、打ち合わせ議事録をかけ。メモしている様子はなかったが、もちろん内容はすべて覚えているだろうな?」

(しまった!)「はい・・・もちろんです」

「ふん。お前は新聞を書くのに向いていないな。嘘をつけない人間だろ?」

「そ、そんなことないです」

「いいか、覚えていないならひねり出せ。事実と異なっていてもだ。必ず結果を出せ!それが企業で働くということだ」

「は・・・はい」

「ところでお前、随分と荷物が軽くなっていないか?」

「あ!」

 リサは、すぐにその理由が分かった。

「ボブさん!車を止めてください!タイプライターを忘れました!」

 リサは、タイプライターを取りに、ウォルドルフ=アストリアまで走った。


◆入社36日目 メリーさんの羊

「やめろ!撮るな!」

 そう叫んでいるような男性の写真が、ニューヨークストリート誌の今日の一面であった。

 入社して1カ月。リサは、ウィリアム以外の人の速記なら大体読めるようになっていて、出勤後、タバコを吸いながら新聞を読む余裕ができていた。

(お金持ちなんだろうなぁ)

 写真を見て、リサはのんきな感想を持った。

 一面の見出しは、〈ドブに流れる我々の血税!〉

内容としては、官僚から不正に政治資金を入手した政治家の告発で、この写真は、政治家が愛人宅から出てきたところを激写したところだ。過激な見出しで、〈我々の血税!〉としたところに、ニューヨークストリート〈らしさ〉がある。

 前述したが、ニューヨークストリート新聞の主要な読者は、大半が労働者階級に属する人たちである。〈我々〉という表現を使うことで、(君たちの仲間だよ)という印象を読者に植え付ける。そして、仲間である労働者の心を強く引き付けるのである。


「働け!死ぬまで働け!休息など取るな!甘えるな!」

 ウィリアムの怒号が響いた後、ハロルドが社長室から出てきた。ほとんど毎日、ハロルドは怒られている。もう慣れているという表情で、ハロルドはデスクに戻る。

「会社はこんなに順調なのに、社長はどうしていつも機嫌が悪いんですか?」

「俺の出来が悪いからだよ」

 相変わらずハロルドはタイプライターに話しかける。

「ハロルドさんのせいじゃないですよ。社長が意地悪なだけですよ。だって、うちの新聞すごく評判がいいですよ。ハロルドさんを含む記者さんが優秀な証拠ですよ。今日だって、こんなすごいニュースが一面になってるし」

「すごい記事・・・確かにすごい記事だな」

 ハロルドの手が一瞬止まる。(何か変なこといったかな)とリサは一瞬不安になる。

「どうしたんですか?」

「いや、なんでもない」

 ハロルドは、またタイプライターを叩く。


 突然、バンっと、勢いよくオフィスのドアが開いた。

「ちょっとウィリアム!」

 派手な服に身を包んだ女性が、数人の付き人を連れて、オフィス内に乗り込んできた。女性は、まっすぐに社長室へと向かった。社長室のドアはバンっと閉められ、ウィリアムと女性が何やらもめている声が聞こえる。

「あの人だれですか?」

 リサが、ハロルドに聞く。

「マリリンだ。彼女を知らないのか?」

「えっと・・・ちょっとわからないです」

「君、歌手やってたんだっけ?」

「はい、売れてないですけど」

「・・・うちの芸能記事は、そこまで読者が少ないのか・・・」

「確かに、ニューヨークストリートの芸能記事は、あんまり話題に上がらないですねぇ」

 リサは、何の気もなしに答えた。

「マリリンも歌手だよ」

「そ・・・そうなんですか。すいません。勉強不足で・・・」

「無理もない。うちの新聞くらいしか取り上げないからな。芸能面を読んでみなよ。マリリンのことが必ず書いてある」

「そうなんですか?」

 手元にあった新聞を手にし、いつもは読み飛ばすページに目を向けた。

〈現世に舞い降りた天使、マリリンの出演情報〉

 そんな小見出しが、目に入った。

「そんなに有名な人だったんですか・・・」

「いや、さっきも言ったように、うちしか取り上げないから、大して有名じゃない。君の勉強不足ということは、絶対にない」

「どうしてですか?」

「全然人気がないんだよ。言いたくないけど、彼女のパフォーマンスを見たらわかる。才能がないんだよ」

(才能がないんだよ)という、言葉がリサの心にしみる。

「そんなこと言ったらだめです。才能は誰にでもありますよ。マリリンさんも何かすごい才能があるから、うちの新聞で取り上げているんでしょ?」

「歌手の才能があるからじゃない。彼女が社長の恋人だから、取り上げているんだ」

「ええ!!」

 リサの叫びがオフィスに響き、全員がリサの方を見た。

「すいません・・・」

(あの人が、前に社長が言ってた愛人ね!)

 一気に好奇心が湧き、リサは、ブラインドで隠された社長室を除こうと、首を伸ばした。


 バンっと社長室のドアが開く。マリリンが、何食わぬ顔で現れ、足早にオフィスから去っていった。マリリンの横顔を、リサはじっと見た。

「美人」

 真っ白い肌。シュッと伸びる足。高く筋の通った鼻。セクシーな唇。

 女性のリサでも、思わずため息が漏れる美貌だった。「すごい美人じゃないですか」

 思わずハロルドに話しかけるリサ。無表情で、タイプライターを叩きながら、彼は返答する。

「すごい美人だろ?」

「絶対人気ありますよ」

「女優ならそうだろうね。最近流行りの活動写真とかいうのに出れば、いくらか人気は出るんだろうけど、彼女は歌手だからね。歌を歌わなきゃいけない。こんなことは言いたくないが、歌手はまず、歌がうまくなきゃいけない。見た目は、メイクで何とかなる。でも、声はどうやっても化粧できないだろ?・・・残念だけど、彼女は歌の才能がないんだ」


(歌はいいけど、見た目がなぁ)

 リサが歌手をしていた時、何度も言われたセリフが、頭をよぎった。

「うっ・・・」

 リサは、マリリンの肩を持ちたい気持ちがあるようで、ハロルドに反論しようとしたが、言葉が出なかった。

「リサ、社長が呼んでるわ」とマヤの呼ぶ声が、リサの悶々とした気持ちを打ち消した。


「はい、なんでしょう」

 社長室に入ると、あの恐ろしい顔のウィリアムが、少し、ほんの少し落ち込んでいるように見えた。

「おい」

が、それは錯覚だとすぐに悟った。

「これを見ろ」

ウィリアムが指さす先には、巨大なラッパのついた、木箱。蓄音機である。

「あのごみを捨てて、これを導入した」

「すごい。立派な・・・蓄音機ですね」

「どう思う?」

「はい?」

「どう思う?お前は元歌手だろ?詳しいんじゃないのか?」

「いや、とても高価なものなので、あまり見たことないんですよ」

「歌ってみろ」

「はい?」

「歌手だろ?最新式の蓄音機に、自分の声を録音してみたいと思わないか?」

「うっ・・・」

 本音を言うと、リサの思いは(録音してみたい)だったが、

「いや・・・です」

 面接時とは打って変わって、弱気な声色で、リサは拒否した。(また、怒鳴られる)そう思って、顔を伏せた。しかし、ウィリアムの反応は違っていた。

「そうか。分かった」

 ウィリアムは、おとなしく納得した。

(この人、情緒不安定?)

 ウィリアムのつかめないキャラに、リサは、首を傾げた。


「ウィリアム。マイヤーさんがいらっしゃったわ」

とマヤ。腰を曲げた胡散臭そうな小男が、社長室に現れた。

「いかがですか?弊社の最新式の蓄音機」

 どうやら、この蓄音機の販売会社のようだ。

「ぜひとも、影響力のある社長に使用いただき・・・」

「3分やる。プレゼンしろ」

 マイヤーの言葉を遮ったウィリアムは、いつもの不機嫌な表情をしていた。

「は、はい」

 マイヤーは、怖気づいたが、気合を入れてプレゼンを始める。

「はい。当社の蓄音機の特徴はなんといっても音の鮮明さです。ノイズだらけだった今までの蓄音機と違い、弊社の蓄音機で録音したレコードは、極めて鮮明な・・・」

「音の鮮明さか。前に捨てた蓄音機をプレゼンしに来た奴も同じことを言っていたな。それ以外に、言うことはないのか?」

 ウィリアムがチクリと口をはさむ。

「いえいえ、弊社の蓄音機は、他者とは全く違います。あの”ペテン師”発明家のせいで、蓄音機はノイズだらけで使いものにならないという固定観念を一新させる・・・」

「帰れ」

「は?」

「帰れ!」

 ウィリアムの表情がみるみるうちに赤くなり、怒りの形相で叫び続ける。

「帰れ!このゴミを持って帰れ!」

 ウィリアムは、蓄音機を持ち上げようとするが、マヤがそれを止める。

「やめなさい!マイヤーさんごめんなさい。今ちょっと、ウィリアムの体調が良くないみたい!これは、ちゃんと使わせてもらうから、また後日お願いします」

「は、はい」

 マイヤーは、大急ぎでオフィスから出ていった。リサもそのどさくさに紛れて、社長室を後にした。

(やっぱり、あの人情緒不安定だわぁ)

 リサは、首を傾げた。

「今日は、早く帰ろっと」


 ウィリアムは、冷静さを取り戻もどすと、社長室に残された巨大なラッパの蓄音機を見つめた。何気なく、レコードに針を落とし再生する。蓄音機からは、かすかなノイズが聞こえるだけだった。

〈ザザーザザザーザザ〉

ノイズの音に導かれ、過去の記憶が、フラッシュバックする。


 思いだされるのは、白衣を着た白髪の・・・白い後姿。

〈ザーザザー・・・メリーさんの・・・・ザー・・・ヒツジ〉

―”あなたが最初に開発した“蓄音機も随分と改良が進められていますよ。

=そうか

 

 白衣を着た男は、振り返ることもせず、黙々と手を動かし、何かしらの作業を続けている。


―来年。遅くとも、再来年には、円盤型のレコードが一般発売されるようです。宣伝のための試作品が、私のところにも届きましたよ。一度試してみましたが、とても性能が良かったです。

=そうか。

―まず記録媒体が円盤というのが良い。筒状のものと違い、かさばらない、とても扱いやすい。

=そうか。

―音質もとてもきれいです。失礼ですが、あなたの録音した“これ”とは大違いです。


〈ザザザーメリーさんの・・・〉


―ノイズだらけじゃないですか?

=そうだな

―はぁ・・・。

 ウィリアムはため息をつき、そばにある小さな椅子に座る。目の前には、小さな白いコーヒーカップが置かれ、真っ白な湯気を漂わせる真っ黒なコーヒーが注がれていた。彼はそれを手に取り、小さなスプーンをコーヒーの中心に勢いよく挿入する。スプーンを起点として、真っ黒なコーヒーの表面に小さな波面が立ち上がって消えた。


―改良型の蓄音機には驚かされましたが、マクロな視点で見ると、まだまだです。“生”で聞く音と比較した場合、その差は歴然としたものがあります。ノイズの除去も完璧とは言えない。改善の余地があります。

=そうか。


 白い男は、ウィリアムのほうを向かず、背を向けたまま、空返事を続ける。


―完璧ではない。すなわち、あなたに勝機は残されています。

=勝機?

―“電話”の開発者は、ベル氏です。それは、揺るぎません。しかし、蓄音機の実用機を初めて開発したのが、“あなた”であることは、世間も認めています。あなたに唯一残された、わずかな尊敬です。近年、急激に拡大している蓄音機のマーケット市場、それはあなたが発信源だ。より完璧な蓄音機を開発し、発表すれば、世間もあなたへの評価を見直すと思うのです。

=そうか。ただ、その蓄音機が、私としては、最も性能の良いものなのだがなぁ。どんな蓄音機を作ればいいのかな?

―シンプルに音質で勝負しましょう。ノイズを完全に除去するのです。

=ほう。どうやって。

―昨日、コーヒーをかき混ぜているときに思いついたのですが・・・音の性質を利用し、ノイズを除去する機能を開発してはどうでしょう?


 ウィリアムは、コーヒーに浸しているスプーンを前後にゆっくりと動かす、スプーンの動きに連動して、コーヒーの波がゆらゆらと表面に発生した。


―音とは波だ。そうですよね。

=そうだな。振動、波の一種だ。ゆらゆらと揺れる我々と同じだな。

―“我々”と同じですか・・・そういえば、そんなことをあなたは昔そんな皮肉を言っていましたね。波が複数存在する場合、互いに影響を与え合い、一つになります。干渉するもの・・・そうですね?

=そうだな

―ある一つの波に・・・


 ウィリアムは、手元のコーヒーのさざ波を見つめる。


―別の波を“タイミング”良く、“綺麗な”波をぶつけると


 彼はスプーンをピンと動かす。新たに発生した波と、すでに発生していた波がぶつかり、より大きな波となった。


―おっと危ない(もう少しで、カップからコーヒーが漏れるところだった)・・・この様に波は互いに高め合い、一つの波となる。オーケストラの演奏が美しい理由がこれですよね。美しいバイオリンの旋律が、完璧なタイミングで、完璧な音色、すなわち、綺麗な波の形で重なりあった瞬間、それぞれのバイオリンの音色は干渉しあい、より洗練された一つの旋律として響き渡る。そこに、同様に高められたチェロ、フルート、パーカッションの音色もまた、美しく干渉し合う。結果として、極めて壮大で複雑な美しい波となって、モーツァルトが会場に響き渡るわけです。そして、人々を魅了する。

―モーツァルトか。あまり聞いたことはないがね

=モーツァルトは素晴らしいですよ。まぁ、その話はいいでしょう。しかし、逆もあります。波は、常に強めあい美しさを強調するわけではありません。弱め合ったり、滑らかな波形を壊してしまう事だってある。


 ウィリアムは、コーヒーのさざ波を作り、タイミングを見計らって、スプーンを動かす。すると、二つの波がぶつかった瞬間、波は互いに打ち消し合い、消えていく。


―タイミングが少しでもずれると、干渉あった波は、その美しさを失う。オーケストラ演奏が難しい理由がそれです。たった一つの休符を読み間違えるだけで、波は美しい旋律の波は、ぐしゃぐしゃな汚い形へと変貌を遂げるのです。だから、私は許せないのです・・・ほんのわずかなノイズもね。どれだけ録音者が完璧な演奏をしても、たった一つの無意味なさざ波で、すべては台無しになる。


=まるで人間関係のようだな。


―そうですね。経営者をやっているとよくわかります・・・ところで、ここから本題なのですが、波はお互いに干渉しあう。この性質を利用できないでしょうか?・・・この性質を使って、ノイズを打ち消すのです。

=ノイズキャンルか。

―そうです。蓄音機とは音を検知し、記録、または音として出力する機械です。ならば、ノイズを検知すると同時に、そのノイズの波に合わせて、別の波を発生させ、ぶつける・・・ノイズを消し去るのです・・・まるで夢のような機能だと思いませんか?あなたなら、こう言ってもらえるのではと思い、今日、ここに来たわけです・・・“容易だ”・・・とね

=容易だ

―はっはっは、そうでしょう?いったい何歳の時、開発しました?ノイズキャンセル機能を

=3歳の時には思いついたと思うが、実際にそのような装置を作ったことはないかな

―今度は、口だけでなく、実際に見せてください。完璧なノイズキャンセル機能を持った最新の蓄音機を。

=はっはっは。“最新”と来たか。はっはっは。

―私は笑われるようなことは言っていないつもりですが?

=ああ、すまん。

―”電話”については、あなたの負けなのです。不服かもしれませんが、しょうがないじゃないですか!今こそ初心に立ち返って、蓄音機事業に取り組んでください。

=君は、円盤型レコードを“最新”といったが、私は幼少期にすでに開発しているものだ。

―また虚言ですか!もううんざりです!くだらないプライドはもう捨ててください。では、あなたが世間に発表したこの”ろうの筒に記録する蓄音機”はいつ発明したのですか?二歳の時ですか?ふん!

=それを発明したのは、三十歳になる手前、そうだな、二十八くらいか。

―あなたは幼少の時から退化しているということですか?この筒形蓄音機が、円盤型に勝っている点を言ってください。

=使用期限が全く違う。円盤型記録媒体など、私から言えば“記録”とは言えないな。何度も再生し、時間を経ていけば劣化し、記録は抹消される。少なくとも、録音した通りの音色ではなくなるだろう。そうだな。長く見積もっても、百年や二百年といったところかな。

―百年もてば十分ではないですか?

=どうして?

―ふん。まぁ、それはいいです。ところで、あなたの蓄音機は、いったい何年“もつ”というんですか?

=“年”などという単位はつかない。“永遠”だ。私の蓄音機の保管可能期限はない。

―ハハハハ!

=私の音痴なメリーさんは、未来永劫再生が可能だ。全くそのままの音質でね。

―ふん。このノイズだらけの、メリーさんを未来永劫聞かされるということですか?

=ウィリアム、一つ疑問があるんだが・・・ノイズを記録できないレコードに何の意味があるんだい?

―どういうことですか?

=メーリーさんの羊、羊、羊・・・

―何がいいたいのか全く分かりません

=ノイズをキャンセルした場合、今私が発した歌と、その蓄音機から流れる音・・・同じじゃないか?

―当然でしょう。あなたが歌っているんですから。ただ、やはり声に張りがないですがね。

=では、録音したころの二十代後半の私を連れてこよう。そして、あの時と同じ家屋で録音しよう。確か、あの日は晴れていたな。天気の良い日に録音しよう。朝食はトーストだった。あらゆる条件を同じにしよう。そうすれば、全く同じマリーさんが聞けると思わないか?

―だから何が言いたいのです?

=再現できるものを、どうして“記録”する必要があるんだ?私には、それが理解できないんだ。

―なんですか?その意味不明な質問は?

=一方、ザザーと流れているそのノイズは違う。すべての条件を完璧に再現したとしても、果たして、同じノイズが録音されると思うか?君も思うだろ?全く違うノイズが記録されるだろうと。

―でしょうね。ノイズですから。雑音ですからね。

=私の歌。メリーさん一小節目の音が小さいのは、私が緊張していたからだ。正直うまくとれる自信がなかったからな。また、直前で妻と喧嘩し、気分が落ち込んでいたことも多分に影響しているだろう。2小節目が、少し明るくなったのは、最初の音を発した瞬間、うまく歌えるのではないかと察したからだ。ここには天気が良く、朝、しっかりとトーストを食べ、体調がすぐれていたことも、影響しているのだろう。全体的にリズムが不安定なのは、私に音楽という才能がないからだ。

―何が言いたいのです?

=つまりだな。“メリーさん”という歌声にはすべて、理由があるのだ。 “私の歌うメリーさん”は、“私の”歌うメリーさんである理由ががまずあって、それから、私の喉仏から発せられ、君達の耳に届き、針を揺らし、記録されたのだ。

―はぁ

=そうだな。これは“モノ”の話に置き換えたほうが分かりやすいかもしれない。君の持っているコーヒーカップ。なぜ、白い?なぜ陶器でできている?なぜそんな大きさで、取っ手は、湾曲している?これらの質問には答えがあると思わないか?白は清潔感を感じる色だから、陶器なのは熱に強く軽いから、持つときに手がやけどしないように取っ手が必要で、かつ、買い手の購買欲を引き出すために、美を感じられるような絶妙な曲線が好ましかった・・・。

―設計者の意図が、形に反映されているといいたんですね?

=そうだ。そのコーヒーカップを設計したのが誰かは知らない。それはどうでもいい。私にとって大事なのは、意図、意味、理由があるかどうかだ。コーヒーカップにはある。だから、再現可能だ。そうだな。私なら同じものを一時間で造って見せよう。

―まぁ、あなたならできそうですね

=それが“モノ”というものだ。メリーさんの羊という歌も本質的には同じなのだよ。物質かどうかは、私の分類では関係ない。本質が重要だ。空気の振動であっても、メリーさんの羊という歌は“モノ”に分類される。一方、ノイズには何のロジックも、根拠も、思想も存在しない。歌いだしでなぜ〈ザーザ〉という音が流れたのかも、なぜ〈メリーさんの〉までは一切のノイズが入っていないのかも。なぜ〈ザ〉という音色なのかもなぜその音の大きさなのかも・・・まったく理由がない。再現することは絶対に不可能だ・・・再現するための手がかりが一切ないのだからな。そう思わないか?

―はぁ。

=そんな再現不可能なものこそ“記録”するべきだとは思わないか?

―一体、何の話をしているのですか?

=ノイズをもう一度聞く方法は、ただ一つ、ノイズが生まれる前、あるいは、ノイズが消えてしまう前に、”誰か“が、ろうの筒に針を落としておくしか無いのだよ


「お疲れ様です」

 朝に与えられた仕事をすっかり終わらせたリサは、足早に帰宅しようとする。

「ああ、ちょっと待ってリサ」

とマヤが、彼女の足を止める。

「はい、なんですか?」

 リサの顔が強張る。

「悪いけど、もう少し仕事をしてくれない?」

「はい・・・」

 リサはまだ、入社以来、日の明るいうちに帰れたことはない。

(はぁ。最近は、働きっぱなし・・・こんな調子で、結婚相手を見つけられるのかしら・・・)

 デスクに戻り、タバコをふかす。ふと横を見ると、ハロルドは相変わらずタバコを口にしたまま、タイプライターとにらめっこしている。

(私がこんな調子なんだから、ハロルドさんなんてもっと長時間仕事をしているんでしょうね。大変そう。書いては書き直し書いては書き直し・・・新聞記者ってつらい仕事よねぇ)

 ふぅっと、白い煙を吐き出した。

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