ダンデライオンにさよならを。
無風。ぴたりと止まって動かない空気。遮られることなく差し込む春の日差しが、部屋の温度を上げていく。
せわしなく飛び交う蜜蜂の羽音が、揺らぐことのない空気を震わせていく。近くの小川から引いた水が、あちこちに作られた浅い水路を巡り、再び外へと流れていく。その傍らには、黄色の花が咲き乱れていた。小さな、たんぽぽ。
温室。天井を見上げると、雨水の汚れが青い空をくすませていた。年に一度だけ開かれるガラス張りの天井は、今はまだ閉じられたまま。
日本たんぽぽ。いわゆる在来種の保護を目的に作られた、小さな研究所。たんぽぽを育てては、その種子を放つという、小さな使命。
もともと三人しかいなかった職員は、今ではたった二人きりだ。あたしと、冬樹先輩。
「…春だね」
温室の隅に置かれた、埃まみれの事務机。ボロボロの椅子に腰を下ろした冬樹先輩が、ぽつりと呟いた。風のない温かな空間に、浮かぶような声。
「春ですね」
ガラスの境界の外では、ようやく緑が芽吹いてきた頃。けれど、温かな温室の中では黄色の花畑が出来上がっている。白い綿毛に変わる日もそんなに遠くはない。
「城春にして、か」
小さな蜂を目で追いながら、冬樹先輩は言葉を浮かべる。
「…なんですか?」
「春望だよ」
先輩の視線の先で、蜜蜂がたんぽぽの花にとまる。鮮やかな黄色。春の色。眩しいほどの。
「…先輩」
冬樹先輩は、ぼんやりとたんぽぽの花の群れに見入っている。その向こうに、何かを見ている。
「ねえ、先輩。何を?」
何を、見てますか。
何を、考えていますか。
何を、望んでいますか。
あたしには、貴方の心はわかりません。
「まだ、追いかけてるんですね」
あの日の、悲しみ。絶望。そして、やりきれない想い。
「そんなことはないよ」
先輩は微かに笑って、あたしの言葉を否定した。けれど、その目はまだ…。まだ、明るい鮮やかな黄色の向こう側を見ていた。
うそつき。
「もう、一年になりますね」
春、夏、秋、冬。一つのサイクル。一つの、区切り。
悲しみを背負って。涙に明け暮れて。置き去りにされて。一年。
冬樹先輩は何も答えずに、無邪気に咲いた花を見ていた。
市村遥さま。
真っ白な封筒が、今日もポストに届いた。通算、三五二通目。いつも通りクリップで留められた小さな紙切れには、いつも通り、宛て先不明を伝える文章が印刷されている。その場で封を切り、中の便箋を開く。
君に会えなくなって、もうすぐ一年が経ちます。君に伝えなければいけなかった言葉があるはずなんだけど。それは、一体なんだったんだろう。
何を、言ってあげるべきだったんだろう。
シンプルで飾り気のない真っ白な便箋には、いつも通り冬樹先輩の丁寧な字が並んでいた。
一通目が届いたのは、去年の晩春。差出人の欄に書かれた冬樹先輩の名前には気付いていたけれど、舞い戻った手紙を渡すことは、できなかった。
あれから、一年。毎日飽きもせず届く手紙を、冬樹先輩に返さなければいけない。話をしなければいけない。そう思うのだけど、小さな決意はいつだって呆気なく崩れてしまう。
話なんて、できるはずがない。ぼんやりとたんぽぽを眺める、あの顔を見てしまったら。遠くを見る目。自嘲に似た笑み。淋しさ。切なさ。悲しさ。そこにほんの少しだけ優しさを混ぜた、憂いの表情。
穏やかなのに、どこか冷たい。優しい笑顔で周りとの関わりを全て拒絶するような、そんな、やんわりとした冷たさ。
そこに手紙を見てしまった罪悪感が重なるから、あたしの声はいつだって、言葉にはならない。封を切られた手紙ばかりが、日ごと日ごとに溜まっていく。私の手元に。心の中に。重く、重く。
後悔するとわかっているなら、開かなければいいのに。それなのにあたしの指先は、無意識にあの封筒を破ってしまう。
「先輩が、いけないんだよ」
その心が知りたくて。その気持ちを聞きたくて。悲しみに寄り添いたくて。だけど、受け入れてはもらえないから。拒絶されているとわかっているから。声をかけることなんて、できっこないから。だって、貴方の心の一番奥にいるのは、いつだってあたしじゃない。
呟いた言葉は春風に流されて、宙に浮かぶこともなく、すぐに消えた。ここは、温室の中とは違う。風が吹いている。
蝶番の軋む音がした。
温室の扉を開く先輩と一瞬だけ目が合って、慌てて視線を逸らした。
「巴ちゃん、どうかした?」
優しい声。だけど口の端を持ち上げただけの表情は、笑顔とは呼べない。手にした封筒を白衣のポケットに押し込むと、くしゃりと微かな音がした。
「何でもないです。たんぽぽを、見ていただけで」
逸らした視線の先に明るい黄色を見つけて、取ってつけたように言い訳にする。
「あぁ。外のたんぽぽも、咲き始めたんだね」
たんぽぽが綿毛に変わると、温室は開放される。屋根も窓も、入り口も、全て開け放して、綿毛を飛ばす。遠くへ。うんと遠くへ。けれど、風に乗れなかった綿毛は研究所の敷地に落ちて、そこで根を張る。
強い風。冷たい雨。過酷な渇き。全てと切り離されて育ったたんぽぽの種は、厳しい温室の外の世界でも確かに花を咲かせる。強く、育っていく。
真っ直ぐに伸びた花の周りを、小さな蝶が舞っていた。紋白蝶。花から花へ。気まぐれに、自由に。
「蝶々は、移り気」
「巴ちゃんみたいだね」
乾いた笑い声で、相槌を打たれる。
「ひどいです、先輩」
気まぐれで、自由。
「ねえ、先輩」
白衣のポケットで、小さな手紙は見過ごすことのできない存在感を持っていた。けれど。
「どうかした?」
先輩の笑顔は、全てを拒んでいた。
「…なんでもない、です」
冬樹先輩は無言のまま軽く頷くと、ガラスの向こうに戻っていった。取り残されたあたしはガラスの壁に寄りかかって、飛び交う蝶に目を向けた。
「春望。今でも、悲しんでるくせに」
風は吹かなくても、時間は過ぎる。黄色い花は、白い綿毛へと変わった。そろそろ、どこかへ飛び立つ頃。
温室に入ると、珍しく音楽が流れていた。古びたデッキから流れる音は、割れて、かすれて。綺麗とは言えないけれど、どこか懐かしい。
アイ ワナ セイ グッバイ
昔を偲ぶ歌。終わらないときを。終わらせることのできない季節を歌う、静かなメロディー。
珍しいですね。
そう声をかけようとしたけれど、言葉は出なかった。ボロボロの椅子に座った冬樹先輩が、静かに泣いていたから。
まるで、結界みたいだ。薄汚れたガラスも、静かに咲くたんぽぽも、微かに流れる音も。あたしの居場所がそこにはないことを、静かに、穏やかに、けれどはっきりと主張している。
温室の外では、風が吹いていた。力強く、心地良く。
「巴ちゃん」
温室から出てきた冬樹先輩は、いつも通りの表情だった。穏やかな、偽物の笑顔。
「時に感じては花にも涙を潅ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」
春望。どんなに恨んでも、別れを取り消すことはできない。
「ねえ、先輩」
恨んだって、仕方ないのに。
「遥先輩は、死んじゃったんですよ。もう、いないんです」
毎日手紙を書いたって届かないし、どんなに悲しんだって何にもならない。
「いつまで、追いかけるんですか」
遥先輩が亡くなったのは、去年の晩春。温室のたんぽぽの綿毛を三人で飛ばした、すぐ後だった。病気だった。
「…たんぽぽみたいな人だったんだ」
冬樹先輩が、呟いた。
「無邪気で、明るくて、よく笑う。たんぽぽみたいな人だった。だから、別れが来るのは当然だったのかもしれない」
別離。たんぽぽの、花言葉。
「温室に閉じこもってみても、時間は止められなかった。戻ってはこなかった」
風は吹かなくても、時間は過ぎていく。
「明日、種を飛ばそう。手伝ってくれる?」
市村遥さま。山岸巴さま。
遥に宛てた手紙を巴ちゃんが受け取っていたことは、気付いていました。君には、ずいぶんと迷惑をかけてしまいました。今までの手紙は、全部燃やしてください。
風が吹いている。天井も、窓も、入り口も。全て開け放たれた温室に、ゆっくりと流れ込んでいく。
「あれ?」
声を上げた理由は、真っ白な綿毛の中に、見慣れない色を見つけたからだった。
「先輩。紅い綿毛があります。なんだろう、これ」
「紅い、綿毛?」
慌てて駆け寄った先輩が、スプレーで色をつけたような綿毛を摘み取った。
「昔、遥と遊んだことがあるんだ。たんぽぽの綿毛に色をつけて、どこまで飛んでいくのか見ていた」
「そのときの、綿毛かもしれませんね」
冬樹先輩が、静かに頷いた。
「あたし、先輩のこと、好きでした。だから遥先輩が亡くなったとき、密かにチャンスだって思ったんです」
ひどい話だけど。自分でも、そう思うけど。
冬樹先輩は、何も言わずに頷いてくれた。それでよかった。
「ここ、もう閉めようと思うんだ」
迷いのない言葉だった。温室育ちのたんぽぽは、外の世界でもしっかりと花をつけるから。守ってあげる必要は、もうないから。
「いいんじゃないですか。あたし、荷物まとめてきます」
強い風が吹いて、足元から一斉に綿毛が飛び立った。背後で、微かに冬樹先輩の声が聞こえた。
「お別れを、言っていなかったんだ」
もう届かないことはわかっていたのに、手放せずに。振り向いた視界に、紅い綿毛が飛び去るのが映った。舞い上がった綿毛は風に乗って、高く高く舞い上がる。もう、戻ることはない。
「遥。輪廻って、あるみたいなんだ。いつかまた、君と会えそうなんだ。だから」
今は、お別れを言うよ。
(終)