一章 6夢 それは現実
平日。大半のカレンダーが、黒色の数字で書かれている日。
時刻は、八時になる手前。そう、時計の針が指し示す。
静寂が包む柊家。そんな中の足音は、いつもの音量よりか気持ちばかり大音量。
着替えに、一人寂しい朝食――その他もろもろを一通り済ませ、とりあえず出かける準備は完了した。
テレビから流れる朝のワイドショーは、巷を騒がせる通り魔事件で一色。
もちろん誰も気には止めないだろう。心の片隅にあってそれはスッと消えていく。
――――他人事というのは、そういうものだ。
そんな事件の余熱さえ――空気の読めない占いが始まる。
当たるとも知れない結果に興味がないと言わんばかりのブラックアウトをお見舞いして、夢美は家を出た。
灰色のパーカーに黒のミニスカート。
フードを深々と被る姿は、それこそ現代の魔女的な立ち位置。
髪を隠してはいるものの、フードの隙間からはしっかりとその『赤』が覗き見える。これは服の性質上致し方ない。
万が一に備え、手でフードを押さえながら、
「とりあえず……ドラッグストアかな」
行き先を選択し、アスファルトを進む。
朝ということもあり、住宅街の歩道には通行人がまばらながらいるため、夢美の挙動はぎこちない。それに拍車をかけているのが、通行人達の視線であろう。
見る目が痛いものを見るかのようで――都会ならまだしも、半田舎のような場所で、しかもフードを被った少女となれば、まあまあそれは厳しい。
都会にかぶれて、そのまま田舎の駅に降りたときのような――。
「……は、早く買って帰ろう」
夢美は謎の羞恥心に苛まれ、小走りになって目的地へと進み出した。
辺りの見慣れた風景には一切目を奪われず、その道のりを、ただ目的のために――。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
自動ドアが開き、フードを被った少女が袋一つ持って現れた。
「……はぁ。とりあえずゲット」
溜まった謎の疲労感を吐息と共に自然に返す。
否が応でも起こる強制イベントこと、店員とのやり取り。
その際の店員の様子から、言葉に出さずともその『赤髪』を捉えたと思しき後の謎の緊迫感に、
――――な、なんか……ごめんね。
と、悪くないはずなのに心の中で謝った夢美がいた。変なところで気を使わせたことに、疲労が蓄積されたのだ。
だが、「髪染め買ってるから!」と、強く言ってやりたくなった本音もあった。
が、それは当然言わない。言ったところで何も変わらない。
「……帰ろ」
無駄な思考に、無駄な疲労。そして、無駄な浪費と、無駄の三重苦。
特に最後の出費は痛い。不可抗力であるがために……。
ユミの足取りは重くなり、うつむきながら歩き始めたために、
――――ドンッ
と、夢美の体は他人の体とぶつかってしまう。
上半身どうしのぶつかりは、相手に軍配が上がった。ユミの方が遥かにのけ反り、左半身がそれに伴い持ってかれた。
骨の軋んだ鈍い痛みの対処よりもまず、
「……あっ、ご、ごめんなさい」
その人物へと右半身も振り返って、夢美が咄嗟に口にした謝罪の言葉が向かっていった、
――――その時だった。
「……え」
あまりの出来事に、夢美の驚嘆のせせらぎが思わず漏れた。
何故なら、その人物が無言のまま近づき、懐から忍ばせていた物を繰り出してきたのだから。
「……っ!?」
骨の軋みよりももっと深く。骨の髄をついたような――そんな鈍い痛みが押し寄せてきた。
謝ったはずなのに。こんなことされるはずないのに。
――――何で……何で……。
「……あ、れ?」
全身の力が抜けていった。
足が突如として震えだし、舗装された固い地面へと転倒を余儀なくされた。
後頭部を強打したはずなのに、それが思いの外、痛くなかったのを覚えている。だが、それとは別に、緊急事態が発生していた。
問答無用に夢美の口と腹からは『赤』が飛び出す。何ともなかったはずの後頭部からでさえ、それは現れ始めた。
そんな夢美などお構いなしに、その人物は夢美を陥れた物を引き抜き、それを携えてどこかへ行ってしまう。
鋭い刃の矛先がユミの腹部へと突き刺さって余儀なくされた対応。それは血反吐と血壊。
腹部には風穴が出来上がり、その向こう側を見渡すのを邪魔するかのように赤が溢れて蓋をする。
溢れてくる『痛み』。消えることなく続くその『痛み』の正体が未だ夢美は掴めていない。
「ぁぁぁぁぁ」
悶える声は掠れて噴出するのみで、未だ思考が追い付かない。
ただ、
――――痛い。痛い痛い痛いいたいいたいいたいイタイイタイイタイ……。
脳裏を占めるは、『痛覚』。ただそれだけであった。
それを引き起こしたと思しき熱源へと恐る恐る手は伸び、その『痛み』の元凶を思い知らされる。
「――――――――ぁっ」
空の青と、手のひらの赤で見事にコントラストを作り上げている。そこから滴り落ちる赤の影がとても温かい。
そして理解する。
――――死ぬんだ。
初めて経験する『痛み』が、あまりにも常軌を逸して、陥ったその思考に塗り潰される。
何もかもに嫌気が差し、その『痛み』の存在に夢美の仲間がだんだんと去って行く。
「きゃああああああああ!!!!」
女性の金切り声がその場に轟き、その場が日常から非日常へと変貌を遂げたことを伝える、
――――耳が逝った。
まず最初に去ったのは、聴覚であった。
胸の高鳴りも、傷口からの脈動も、自分の声でさえも――もう、何も聞こえない。何も伝えてはくれない。
「自分の声って……どんな声だったっけ」
震わせたはずのの喉の感覚はあったものの、並べたはずの声色が押し寄せては来なかった。
辺りを包む排気ガスの異臭は、瞬く間に鉄の臭いへと上書きされ、嗅覚はそれを嗅ぐことなくして去っていた。
苦痛な味覚に嫌気が差したのか、鉄の味を最後にその味覚も閉店。
滲み広がる温かいものが地面を汚して、鮮やかな色が自分のそれと似て非なるものであるという光景に、それもブラックアウトし、視覚による補助が打ちきり。
粘りをもったその赤の不気味さに、触覚というその子は、いたたまれなかったようだ。
いったい、どれほどの自分に夢美は終わりを告げられたことだろうか。
視覚は、闇に落ちた。
聴覚は、ノイズすら拾っていない。
嗅覚は、鉄で塞がれる。
触覚は、断絶された。
味覚は、鉄を味わい尽くした。
一つ、また一つと――最後まで夢美の『魂』と残ったのは、『脳』と『痛み』だけだった。
その『痛み』が、最後のその時まであることに、途方もない休息への道のりの遠さに嫌気が差す。
それさえもふと消えて――。
――――あぁ、おかあさんに、かみ……おこられるなぁ。
現実逃避の中――それさえも消えて、消えて、消えて――残された、柊夢美という空の入れ物。
今だ止めどなく赤を流し続け、惨劇の象徴をその姿は表す。
無惨な最後であった。
虚空を眺めているその双眸に、光などありはしない。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――――――プルルルルルル。