一幕 8話「不死の血」
グツグツ、と鍋を煮込む音が聞こえる。赤い革のソファーに腰を下ろし、タケルは緊張しながら台所を見つめた。
こんがりと焼けたチーズが香る。丸く太いダイニングテーブルの上に飾られた甘い香りの花と混ざり合いどことなく懐かしい匂いに変わる。その奥では、ゆりかごに乗せた赤子を主人がゆったりと揺すっていた。こちらを見ると、にこりと笑みをこぼす。
「この子は、夜泣きがひどくてね。家内がゆっくり出来るように、夜は私が世話をしているんだよ」
部屋飾られたカラフルな布が、ガス灯の明かりだけの部屋を明るくする。ソファーの背もたれに止まったアルが耳元で囁いた。
「大きな国だけとあって、庶民でもなかなか裕福な生活をしているな」
そう言われて部屋を見渡すと、工芸品のような木製の彫り物や綺麗な壺が並んでいた。電気もなにもない。タケルの知る裕福とは、かけ離れたれていたが、この世界では十分なのかもしれない。
「楽にしていていいんだよ」
カラフルなミトンを手にはめて、女性が鍋をテーブルへと運ぶ。白い湯気が立つ鍋からは、ホワイトソースの香りがした。
「やっぱりいい人なんじゃない?」
「それにこしたことはないな」
バレないようにアルは小さな声で話す。その様子を見ていた主人が口端を緩めた。
「その鳥と仲が良いんだね」
「い、いや。さっき拾ったみたいなもので」
タケルの返答に、アルは不服そうな表情を浮かべた。コツコツ、と不満そうにタケルのこめかみ辺りを突いてくる。
「随分と懐いているように見えるが?」
「えーと、まぁそうですね」
「見たことのない鳥だが、どこの鳥だろうか。翼も美しいし、凛々しいな」
主人は、アルを凝視した。褒められたせいか、アルの双眸は、どことなく緩んでいる。話してはいけないと必死に堪えている様子だ。
「‥‥」
「人に全く怯えないな、ツヤもあり実に勇ましい」
「‥‥ 当たり前だ。私は、高貴な鳥であるぞ」
「おい!」
我慢が出来なくなったのか、アルが言葉を発した。タケルは慌てて嘴を掴む。
「貴様、何をする! 息が‥‥ 息が出来ないではないか!」
「しゃべるなよ! 驚いているじゃないか」
主人は、眼光を開きながら驚いた様子で声をだす。
「たまげさな‥‥ 話す鳥か」
アルは、無理やりタケルの手をはねのけると、暖炉の上に飛び移った。大きく翼を広げ、綺麗なコバルトブルーの模様を勇ましく見せつけた。
「私は、フィブラ王国のアウドフィル家に仕えし鳥、アルフェッカだ」
これで追い出されたらどうしようか、とタケルは頭を抱える。そんなタケルに反して、主人はいささか喜んでいるようだった。
「すごいな。はじめて見たよ」
タケルの座っていた斜向かいのソファーに腰を抜かしながら、緩んだ口を抑え込む。それでも驚きが勝っているのか、彼はしばらくソファーから動けそうになかった。
「どうしたんだい。騒がしくて」
「いや、少し驚くことがあってね」
食事の支度を終えた女性がタケルたちを呼びに来た。主人はようやく立ち上がると、アルのことを話し始めた。
*
女性というのは、やはりどこの世界でも強いらしい。少しは驚いたものの、彼女は面白そうにアルにいくつも質問をぶつけていた。
「いつから話せるんだい?」
「はて。いつだったか。雛だった頃から、リラ様とは会話していた記憶があるが」
「すごいね。人間でもまともに話せるのは、大きくなってからなのに」
タケルは、そんな二人の会話を聞きながら、木のスプーンに乗ったスープを口へ運ぶ。ホワイトソースに溶けたチーズの香りが鼻から抜け、甘く焦げたベーコンの味が舌の上に広がった。
「美味しい‥‥」
「自慢のスープだからね」
彼女は、自慢気に大きな胸をぐっと張ってみせた。エプロンの下には、部屋に飾られた綺麗な布と同じデザインの衣を纏っている。
「この織物かい? 私たちは、機織りなのさ」
タケルは、内心を読まれた気がしてドキリとする。
「ほら、そっちに機織り機がある」
彼女が細い腕を持ち上げた。その指の先には、確かに大きな木製の機織りの機械があった。
「生地を編んで売る。しがない人生だよ。まぁこの人と結婚したことを後悔なんてしてないけどね」
「そうだ。紹介してなかったね。私はトパーズ。こっちが妻のサファイアだよ」
「僕は、タケルです」
いい名前だ、とトパーズは大きく笑ってみせた。ガス灯の炎がちらちらと揺れる。木製の食器とスプーンがぶつかり柔らかい音を立てた。まじまじと織物を見つめたアルが言う。
「機織りとは素晴らしい。私の国では、生糸の生産が盛んだ。もしかするとここの布にも使われているかもしれないな」
カラフルな布と同じような色合いの体躯が、小皿に盛られたスープを突く。本当に人と同じものを食べるんだな、とタケルは横目に眺めていた。その奥で、トパーズが顔を曇らせてスプーンを置いた。
「君はさっき‥‥ 生まれの国は、フィブラ王国だと言ったね?」
「いかにも」
大きなトパーズの喉元が下がった。不安げに音がなる。
「昼間の軍勢は見たかい?」
アルは、翼で嘴を拭った。神妙な顔つきになり、トパーズの方に視線を向ける。羽についたスープをどやって落とすのだろう、とタケルは不思議に思う。
「あぁ。それについては、後に訪ねようとしていたのだ‥‥ 少し嫌な予感がしている。話を聞かせてくれないか?」
「君には、話すべきだろうな。一昨日の朝だ。なんの前触れもなく。軍隊長キグヌス様の軍勢がフィブラに侵攻した」
物騒な言葉に、重たい空気が流れた。
「いや、前触れが無かったわけではないが」
トパーズが言葉を付け足す。アルは、どこか知った様子で返した。
「なるほど。長寿の血が目的だな」
「長寿?」
タケルの問いにスパーズが答えた。
「フィブラ王国の民は、長寿で有名なんだ。と言っても十数年、若き時代が長いだけのことだけど」
昼間の縄で繋がれていた女性に、若い人が多かったのをタケルは思い出す。
「昼間、縄で捉えられていた者たちは、皆フィブラ王国の40代までの女性だろう。そうは見えなかっただろう?」
アルは表情こそ変えなかったが、その声はどこか怒りに満ちているようだった。
「フィブラの女は、その若さからよく女郎屋で働かされることが多い。今日、囚えられていた者の何人かは、遊女として売られるかもしれないね」
トパーズの言葉に、食器を片付け始めたサファイアの手が止まった。コツンと、木の食器がぶつかり音を立てた。他人といえ、女性として湧き上がる怒りがあるんだろう。
「まだ、それだけならマシな方だ。もっとも残酷なのは、その生き血を飲み続ければ不死を得られるなどと言って‥‥」
アルは、言葉を濁らせた。タケルは、その言葉の続きを想像するだけで、ひどく胸の奥に嫌悪感が満ちた。想像通りのことなら、言わないで欲しい。あまりに残虐な光景を想像して、
タケルは表情を曇らせた。
「それでだ。主人よ。一つ聞きたいのは、侵攻と言ったな」
「あぁ」
「あの軍勢の数‥‥ 私の考えは正しいのか?」
アルの問いかけに、トパーズは少し間を置いて頷く。その反応に、やるせない様子でアルは首を横に振った。
「君の想像通りかもしれない」
「出来れば否定して欲しかった」
「すまない」
「いや。真実なら仕方がないことだ。問題は、目的だ」
「‥‥ フィブラ王国侵攻の目的は、その殲滅と生き血の確保だと聞いている」
不死になれる生き血、そんなものが存在するなど、タケルには信じられなかった。そんなものを誰が欲しているというのか。
「なんでそんなことを?」
「国王が不死の力を得て、未来永劫の繁栄を成し遂げるため‥‥ だそうだ」
「生き血を飲めば本当に不死になれるの?」
「そんなわけがなかろう!」
アルの口調が荒くなった。大人げない言動を申し訳なくなったのか、すぐに彼は言葉を付け足した。
「すまない。まやかしや妬みなのだ。かつてより、フィブラ王国は、幾度も他国からの侵略を受けては生き延びてきた。皆、噂を信じ、何人もの民が連れていかれた。しかし、それも遥か古の話に過ぎない。近年は、それがまやかしだと分かり、フィブラの女性を狙うのは、その美貌を欲する欲情に塗れた輩だけだったというのに」
アルの鶏冠が激しく揺れていた。感情的になると、そこが隠せないらしい。動いた鶏冠を翼で撫でながら、アルは鋭い眼光をトパーズに向けた。
「失礼に当たれば申し訳ないのだが。なぜ、機織りの主人がそのような軍事情報を知っているのだ?」
確かに、ただの機織りにしては知りすぎていると言えるかもしれない。それに、トパーズは『聞いている』と言った。誰かから情報を得たということだ。それは、公の発表なのか、それとも。
答えづらそうにしたトパーズの代わりに、台所から手ぬぐいを手に戻ってきたサファイアが答えた。
「‥‥ この人は、昔、この国の衛兵だったのよ‥‥」
「なるほど。それで知っていたというわけか?」
今度は、口ごもりしたサファイアをせいして、トパーズが言う。
「フィブラに向かった、というのは公に告げられたことだ。その目的に関しては、少し筋があってね。我々だって、他国の民の血が流れることを望んでいるわけじゃない」
「そうか。筋に関しては、聞かないでおこう。そちらの都合もあるだろう」
国王に対する不信感を口外することの危険は、タケルにだって分かった。これで、アルも彼らのことを少しは信用したかもしれない。
「もう一つだけ聞きたいことがある。あの城への抜け道などは知らぬか?」
「抜け道? フィブラの民を救い出そうというのかい?」
「あぁ。王女が捉えられているのだ。行かねばならない」
「待ってよ」
脳内に昼間の軍勢が思い浮かぶ。突きつけられた武器。正直に言えば、怖い。
「タケルよ。貴様は、リラ様‥‥ いや、あの娘を助け出したくはないのか?」
「そりゃ、助けたいけど‥‥。だって無理じゃないか。みんな武器を持ってるんだよ」
「当たり前だ。国を守護しているのだからな」
当たり前と言われても。突きつけられた武器を思い出すだけで、恐怖で手が震えた。それと同時に、夢で見た自分の姿と舞の言葉を思い出す。
あの夢のように戦うことができるのだろうか。守れなかった歯がゆさが、胸の中で滲む。今、臆病になって彼女を見捨てればきっとまた同じ気持ちになる。
タケルは、顔を上げるとアルの目をじっと見つめる。
「助けたい‥‥ けど僕にできるかな?」
「それは分からん」
あけらかんと言い放たれたアルの言葉に、思わず肩の力が抜ける。
「それでもだ。恐らく我々が動かなくては‥‥ 想像もしたくない仕打ちを受けることになるだろう‥‥」
アルのいう最悪の仕打ちがどんなものなのか。タケルは、想像してみる。おぞましく、忌まわしく、吐き気のするイメージが膨らんだ。同時に、憤慨を覚える。
「怖いけど‥‥ 行かなくちゃいけないんだよね‥‥ 僕らしかいない」
「ならば、勇気を出さなくてはならない。男は命よりも大切なもののを一つや二つ守らなくてはならないのだ」
そう言うと、アルはまた翼を広げ、丁寧に折りたたむ。彼にとっては、タイを締めた胸もとを正すようなことなのかもしれない。
「主人。抜け道をご存知でありますかな?」
ふっ、とトパーズは息を漏らす。柔らかく口端が崩れたかと思うと、少しだけ悲しげな顔を浮かべた。
「止めても無駄みたいだね」
「すまない。一晩、世話をして貰うというのに、こんなことを頼んでしまって」
「いや。構わないよ。この国に仕えた兵士として、この国が犯した所業への報いだ」
アルは、深々と頭を下げた。
「無論、あなたから聞いたことは口外しない」
トパーズは、棚から地図を取り出すと、堀を指先で差した。下水道。あまりにベタでありがちな方法だ、とタケルが言うと。トパーズは、「それもそうだね」と自嘲した。
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