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3回目 -1-




俺は人間だ。

名前はない。

いや、正確にはあったのだろうが、まともに呼ばれたことはなかった。


「おい、邪魔なんだよ。退けよ」


血の繋がっている筈の親から、吐き捨てるように言われる。

子供の俺はそれに従うしかなかった。

物心ついてから、ずっとそれは変わらない。

薄暗い家庭。

荒れ果てた部屋は、訳の分からない異臭を放っている。

身体を洗うことを許されるのも稀だ。

外にいた方がマシとすら思える環境。

そんな中で記憶の片隅に、時折こことは違う温かい場所が見える。

錯覚なのだろうか。

何も思い出せない。

俺の記憶は、この閉ざされた家だけだ。

他の家庭の記憶がある筈もない。


機嫌が悪いと、彼らは直ぐに俺に当たった。

ほんの些細なこと、物音を立てただけで意味もなく激昂する。

気に障ったというよりは、ストレスを解消する何かが欲しかったのかもしれない。


「ヘラヘラすんなよ! 腹が立つんだよ!」


愛想笑いを浮かべても無駄だった。

次第に俺は笑わなくなった。

ただ縮こまって、親なのかどうかも疑わしい者達に逆らわないよう努めた。

非力な俺にはそれしか出来ない。

だからこそ、どうして俺は生きているのだろう。

幼いながらも、そう考えるようになった。


いっその事、死んでしまおうか。

そう思うも、いつかの錯覚が必ず俺を襲った。

俺を慕う誰かの姿。

俺が望んでいた筈の優しい場所。

きっとそれが何処かにあるのだと、自殺をしようとする思いを何度も引き止めた。

ある日、俺はその場所から逃げ出した。


彼らが外へ出ている機会を狙い、牢屋の鍵をこじ開けて、ボロボロのまま家を飛び出す。

行く当てなんてない。

見つからない所へ、遠い所へ逃げる。

捕まれば、きっとタダでは済まないと理解していたからだ。

だが、幼い身体でそう遠くへ行けるわけもない。

次第に降ってきた雨に打たれ、俺は力なく歩くだけとなった。


「見つけた……」


遂に幻覚すら聞こえてきたのか。

正体不明の声に何度も振り返りながら、俺は森の中を逃げ続けた。

そうして、別の町らしき場所が見えてきた時、知らない男が目の前に現れた。

その男は俺の姿を見るや否や、血相を変えてすぐに飛んでくる。


「大変だ……! 君、しっかりするんだ……!」


生まれて初めて聞く、俺を案じる声だった。

雨の中を彷徨っていた俺を拾ったのは、辺境の孤児院だった。

彼は院長らしく、院へと運び込んでやたら丁重に扱ってくれた。

薄汚れた身体も、疲労による衰弱も、院内の大人達が洗い流す。

何処で何をしてきたのか、話す必要はないと言われ、俺も何も言わなかった。

とにかく疲れ、直後にそのまま眠りに落ちた。


当初は彼らの元に帰されるのではと思ったが、院長は此処にいても良いと言った。

行く当てもなく、俺はそれに従った。

孤児院は同い年位の子がいるだけでなく、清潔感が常に行き渡っていた。

あの場所とは違い、陰鬱としたものは感じられない。

それでもいつ豹変し、暴力を振るわれるか分からない。

俺はひたすら、大人達の機嫌を損ねないように努めた。


「ありがとう。でも、そんなに気を遣わなくても大丈夫だからね」

「はい……」


孤児院の人々はそこまでのことを求めていないようだった。

何故かは分からない。

大人達は俺に優しく笑うが、俺は笑い返せなかった。

どう笑えば良いのか、分からなくなっていたからだ。


「そうだ名前。君に名前を付けてあげないと」

「……?」

「そんな顔をされても。だって君を呼ぶ時に、なんて言えば良いか分からないしね」


院長は困ったように笑う。

名前どころか自分の年も分からないし、別にどう呼んでも構わない。

と思っていたが、名を呼ばれること自体が懐かしく感じる。

何故だろう。

誰かに親しく呼ばれていた名前があった気がする。


「マルク。今日から君はマルクだ」

「……?」

「うーん、やっぱり変な感じがするかな? でも大丈夫。直にしっくりくる様になるさ」


違和感しかなかったが、反論する意味もないので、それを受け入れる。

この奇妙な感情は、名前で呼ばれることがなかったせいだろう。

そう考え、俺はマルクとして生きることになった。


暫くして、俺は孤児院の中で日常生活を送れるようになった。

まだ人が恐ろしいという感覚があり、周囲からも孤立気味だったが、それ以上に悪いことはなかった。

話せない同級生がいない訳でもなく、割と皆が親密だったので、毎日が苦にならない。

それだけでも、大分違う。

死にたいと思う感情も、いつの間にか無くなっていた。


ただ、最近になって奇妙なことが起きるようになる。

深夜になって皆が寝静まる頃、誰かが俺を呼ぶのだ。

それはあの暴力的な家から逃げ出した際に聞こえた声と同じ。

俺を見つけ、歓喜に打ち震えるものだった。


「見つけた……!」


頻度は徐々に多くなってきている。

何か悪いことが起きるんじゃないか、そんな予感があった。

夜に怯え始め、孤児院の大人も流石に勘付く。


「マルク? どうしたんだい?」

「声が聞こえる。俺を呼ぶ声が……」


嘘偽りなく伝える。

悪い夢でも見たのだろうと思われても仕方のない、脈略のない発言だった。

すると大人は、安心させるような優しい声で話しかける。


「大丈夫だ。君を連れ戻す人達は来ない」


どんな根拠があるのかと思ったが、続けてこう言った。


「いつ言おうかと迷っていたけど、今言おう。君を怖がらせていた人達は、最近捕まったんだ。酒に酔って起こした暴力事件でね」

「……!」

「暫くは外には出てこれない。仮に出てこれたとしても、君が大人になってからの話だ。だからもう、何も心配しなくても良いんだよ」


どうやら、俺が両親の影に苛まれていると思ったのだろう。

だが、違う。

これは彼らのものではない、全く別の声。

俺を誘い出し、捕えようとする獣の声だ。

しかし、それ以上は何も言えなかった。

言ってしまえば、俺の居場所がなくなるのではないかと思ったからだ。


幸い、今の所実害はない。

他の人が聞いたという話もなく、本当に俺が両親を恐れているからこそ聞こえる幻聴なのかもしれない。

そう思い聞かせ、もう一度布団を被る。

暫くして声は聞こえなくなった。

心境の変化のせいか、それからは日に日にその頻度も減っていた。

そういう事にしておいた。


「悪いね。本の整理なんて」

「いえ、この位は別に」


ある日、俺は孤児院にある本棚を整理する係となった。

別に何の変哲もない、軽い掃除をするだけの作業。

その中で俺は、不意にある本を見つける。


「これは……?」

「あぁ、孤児院に暮らしていた子供たちの記録さ。もう何十年も前から、こうやって名前やその子の個性を書き残しているんだ」


少々古めかしい記録だ。

それなりに昔の書物であることが分かる。

興味本位でパラパラと広げていくと、多くの名前が一斉に並んでいた。

当然、知る筈のない者の名ばかり。

だが次の瞬間、とある名前が目に映り、俺は手を止めた。


「コレット……ポードヴォール……」

「ん? どうかしたのかい?」


付き添いの先生がそう言ったが、ハッキリとしたことは言えなかった。

この名前を見た直後、得体の知れない胸騒ぎが起きた。

忘れかけていたものが、思い出せそうな気がする。

ただ、それも一瞬。

微かな靄は、即座に何処かに吹き飛ばされていった。

この名前の人物が何者なのかなんて分からないし、偶然目に留まっただけだ。

やはり、何の心当たりもない。


「いえ、何でもないです……」


そう言って、俺は本を閉じた。




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