壱
雨の音が聞こえる。
さあーっというやわらかな音。
布団の中から障子をみれば外が明るい。白雨だろう。
熱っぽい体を起こして障子を開けると白い空から雨が落ち、深い緑を濡らしていた。
「………」
いつもなら、放し飼いにされているシェパードが顔を見せてくれるのだが今日は姿がなかった。庭のどこかで雨をしのいでいるのだろう。
聞こえるのは静かな雨音だけ。
雨でけぶった林は薄暗く、ところどころ赤や青のアジサイが灯火のようにぼうっと浮かんで見える。
昼なのか夜なのかさだかでなくなるような感覚。
ぼんやり眺めていると、暗い木々の間から白いものが飛んできた。
彼女が立っている廊下からほんの先、ふわりと舞い降りたのは白鷺だった。
「…わあ…きれい…」
こんな東京のど真ん中に白鷺がいるなんて珍しい。
どこかから迷い込んできたのだろうか?
純白の羽毛に落ちた雨粒は、はじかれてビーズのようにころころと転がり落ちていく。
静々とたたずむ優雅な姿を見つめ、彼女はそっとサッシを開けた。
ひんやりとした風が雨に濡れた緑の香とともに入ってくる。
白鷺は逃げもせず、雨の中、じっとこちらを見ているだけだった。
「…ねえ、濡れるよ。屋根の下に入りなよ」
ごく小さな声で言ってみた。
鳥は少し首を傾げ、ゆっくりと歩いて屋根の下に入ってきた。
サッシを閉めるのもためらわれ、廊下にしゃがみこんで美しい来訪者にしばらく見惚れる。
「どこからきたの……?」
囁くような問い掛けは雨に吸い込まれ、消えていく。
しとしと
しとしと
霞むような静寂があたりを包んで心地よい。
ぼうっと空間に身をゆだねていると、いきなり鋭い声が飛んできた。
「弥月っ! 何してるんだ!」
彼女がビクッと体を竦ませたと同時、白鷺は翼をひろげて林の中へと逃げて行った。
「あっ…」
白鷺が飛んで行った方に目を向け、がっくりと肩を落とした。
「あ…すまない。鳥がいたのか」
低い男の声に顔をあげると、秀麗なおもてに気まずそうな表情を浮かべた天原上総が立っていた。
「……。いえ…」
弥月は立ち上がり、部屋へ引っ込もうとした。傘の下から伸びてきた手が彼女の腕を捕らえる。
「――やっぱり、こんなに冷えてるじゃないか」
上総は形のいい眉を曇らせ、片手で傘をたたむと廊下から部屋へ上がった。
「…熱が上がってる」
指で額に触れ、彼はますます眉根を寄せた。
「すみません……」
ぽつりと呟いた弥月を抱きかかえるようにして布団に入らせる。
弥月はここ数日、原因不明の発熱に悩まされていた。
病院に行っても異常はないと言われ、最初は仕事をしていたのだが、3日前、とうとう上総の執務室でばったり倒れてしまったのだ。
咳もくしゃみもない。喉も痛くない。ただ熱ばかりで、退屈していたことは否めない。
布団の中でこっそりと嘆息して目を閉じる。
ふいに冷たい感触が額に落ちてきた。
「氷水だ。何で下がらないかな…薬も効かないし……。おまえ、何か妙なモノ食べてないだろうね?」
その口調には、母屋で食事をとらない彼女への軽い批難が含まれている。
居そうろうの分際で屋敷の若様と一緒に食事するなどおこがましいというのが弥月の言い分であり、自活したいという彼女の言を尊重してくれはしたが、やっぱり気に入らないらしい。
「―――。食べてません。納豆も味噌もちゃんと賞味期限内です」
枕元、胡座に頬杖をついて自分を覗き込んでくる上総に反論するが、こんな状態ではうっかり言質をとられかねない。弥月は話題をそらすために別のことを口にした。
「上総様。林の中のお墓はどなたのですか? 池のほとりの…」
「ん。――ああ、母だ。…おまえ、行ったのか」
「え、あ……はい。掃除のときに」
ほんのかすかに、咎めるような口調だった。失言をさとり、弥月は思わず視線を反らす。
しばらく上総は黙ったままだった。
「―――。あそこへは、行くな」
やがて低く、強い口調で言うと弥月をまっすぐ見据えた。
「いいな?」
「……はい」
何故、とも訊けず、弥月は神妙に頷いた。
その夜はひどく風が強く、雨が窓ガラスを叩いていた。
その音を聞きながらベッドから暗い天井を見上げていた上総は、ふと起き上がり、庭に面した窓に掛かっていたレースのカーテンをそっと開けた。
弥月のいる離れが見える。電気がついていないところを見るとすでに眠りについているのだろう。
ほっと溜息をついてカーテンを戻そうとしたとき、木々の間を飛ぶ白い影が見えた。
「――?」
それは風の抵抗などまったく受ける様子もなく、ふうわりと離れのそばに舞い降りる。
(鳥……?)
上総が目を凝らすと、ほどなくして人影があらわれた。
強い風にパジャマの裾がなびいたが、たちまち雨に濡れて体に纏いつく。細い影は傘もささず裸足のまま、ふらふらと白い小さな影に近寄っていった。
鳥は翼を広げ、林の奥へと飛び立つ。
「みつきっ!」
上総は思わず声をあげ、上着を引っつかんで部屋を飛び出した。
強風に雨がたたきつけられる。
上総の寝間着もたちまちびしょぬれになり、重く体に貼りついた。
庭の林の中は木々のおかげで風雨は遮られたが、いかんせん真っ暗闇だ。何度か木の根や枝に手足をとられた。
荒い息を吐きながら、やっと池の辺に辿り着いた彼が見たものは――。
池の中央は蛍が群れているような光が浮かび、その周りを白鷺が舞っている。
雨も風もそこだけ避けて通っているかのようだ。
光の群れがふるふると揺れ、中から白く干からびた手がすうっと現れた。そして、ゆっくりと手招きする。
ふらふらと木々の間を歩いてきた弥月は、まるで誘われるように池の方へと近づいていく。
「だめだ、弥月っ!」
上総は駆けより、彼女の手を掴んで引き戻した。ガクリとくずおれる彼女を慌てて支える。
「弥月!」
頬を軽くはたいてみるが、目は固く閉ざされ反応がない。上総はそっと耳を胸に当ててみた。
とくん、とくんという心臓の音にホッと一息つく。そのまま、彼は濡れそぼって冷えきった弥月の体を掻き抱いた。
パシャン!
水音にはっとして顔を上げたとき、池の向こうに消える女の横顔が目に映った。
「―――っ!」
横殴りの強風が駆け抜け、彼は思わず目を閉じる。
再び池に目をやった時には女の姿は跡形もなく消え失せ、池のほとりの小さな社が黒く、ひっそりと佇んでいるのが見えた。
白い横顔――
己とよく似たその面差しは、彼の遠い記憶にあるチリチリするような感情を呼び起こす。
「………母上……」
上総は吐息とともに呟いた。
※
ふと気がついた時、自分がどこにいるのか把握できなかった。
(―――?)
それに胸のあたりが重い。
視線をずらすと自分のものではない腕が横たわっている。その腕をたどっていくと見知った顔があった。
「…………」
茶色っぽい髪が秀麗なおもてを縁どり、切れ長の目は閉じられ、睫毛の長さが強調されている。
見事としかいいようのない造形美だったが、初めて彼に会った時、弥月が強烈に惹かれたのは彼の目だった。
黒い水晶のような瞳に浮かびあがる強い光――彼女はその目が好きで、そして、恐ろしかった。
彼の内に秘められたものが何であるのかは知らない。知ろうとは思わない。だが、強靭な意志の光を放つその目に心を奪われたのは確かだった。
―――そんなことを彼に告げるつもりはないのだけれど。絶対に。
「………」
思わず苦笑をもらし、弥月はそっと体をずらすとそこから抜け出そうとした。
「…っ!」
思わぬ力に阻まれ、振り向く。
「―――。昨日の不可解な行動の理由を聞きたいね」
あの強い光で自分を見据える目があった。
「――夢で、あの白鷺を見たことは覚えてますけど……それで、私はここで寝てるんですか?」
弥月は昨晩、自分がどうしたのかまったく覚えていなかった。上総は一部始終を彼女に話してやった。ただ、一つを除いて。
弥月は驚き、しばし声もなかった。ようやっと口を開いたときは、
「申し訳ございません」
としか言えなかった。
――あの白鷺は夢ではなかったのだ。誰かに呼ばれていたような気がするのだが、上総だったのだろうか?
いや、それよりも。
「…私……自分に夢遊病の気があるとは知りませんでした……」
「いや、それは違う!」
ぽつりと洩らしてしまった呟きに、だが、思いがけず強い否定の言葉が返ってくる。
「え、だって…」
「違うんだ……」
上総の困ったような、泣き出しそうな表情が視界に入ったのも一瞬。彼は弥月を押さえていた腕を羽布団ごと巻き込むように引き寄せた。
「か、かず…」
仰天してもがく弥月の耳元で、掠れた苦しげな声がした。
「…夢遊病じゃない……。……あれは、母だ……」




