第5話:ヒロインの空白
最近、予定表が静かだ。
生徒会室の掲示板には、かつて整然と並んでいた行事名の代わりに、
「水やり当番」「支柱設置」「間引き予定」といった文字が増えている。
セレスティーヌは、その前で立ち止まった。
(……物語は、どこへ行ったのだろう)
自分はヒロインのはずだった。
努力して、選ばれて、王子と距離を縮め、
そして悪役令嬢と対立して――
そういう筋書きが、あったはずだ。
けれど今、王子は花壇にいる。
悪役令嬢は、土を撫でている。
誰も泣いていない。
誰も怒っていない。
進行していない。
「……わたし、何をすればいいの」
思わず、声が漏れた。
返事はない。
代わりに、土の匂いがある。
中庭では、レディアナが苗の様子を見ている。
王子は支柱を立て直している。
エルマーは無言で雑草を抜く。
それぞれの作業が、静かに続いている。
セレスティーヌは、そっと花壇の端にしゃがんだ。
自分の区画。
例の、増えすぎたミントの隣。
三十センチの距離。
守られている。
(わたしの役割は、何?)
王子を支えること?
物語を進めること?
断罪を成立させること?
どれも、今は必要とされていない。
胸の奥に、ぽっかりと空白がある。
それは寂しさに似ている。
けれど、痛みはない。
ただ、広い。
指先で土をつつく。
柔らかい。
春よりも、ずっと。
そのとき。
ほんの小さな違和感。
「……あ」
土の表面に、細い裂け目がある。
昨日まではなかった。
近づいて、息を止める。
土が、わずかに持ち上がる。
緑の先端が、顔を出す。
芽。
小さい。
頼りない。
けれど確かに、そこにある。
セレスティーヌの胸が、ふっと温かくなる。
「出た……」
思わず、両手で口を覆う。
誰も見ていない。
それが、少し嬉しい。
王子に報告しなくてもいい。
物語の転機にならなくていい。
ただ、自分が見つけた。
それだけで、十分だと思えた。
レディアナが、いつの間にか隣に立っている。
「良い芽ですわね」
静かな声。
「……進みませんね」
セレスティーヌは、正直に言う。
「何も、起きません」
レディアナは首を傾げる。
「起きておりますわ」
芽を指さす。
「ほら」
セレスティーヌは笑ってしまう。
小さく。
「これは……物語ではありません」
「ええ」
レディアナも笑う。
「植物ですもの」
風が吹く。
芽が揺れる。
それを見ていると、不思議と焦りが消えていく。
物語が進まなくても、
芽は出る。
誰かに選ばれなくても、
伸びる。
「……わたし」
セレスティーヌは、土に触れたまま言う。
「急いでいたのかもしれません」
レディアナは何も言わない。
ただ、隣にしゃがむ。
二人の距離は、三十センチより少し近い。
けれど、窮屈ではない。
王子が遠くで支柱を打ち直している。
以前のように、こちらを気にしていない。
それが、少し寂しくて、
少し楽だ。
空白は、消えない。
けれどその中に、芽がある。
セレスティーヌは小さく息を吐く。
「……わたし、もう少し見ていてもいいですか」
「もちろん」
レディアナは頷く。
「芽は、急がせると弱りますわ」
その言葉に、セレスティーヌは微笑む。
物語は進んでいない。
けれど、何かは確実に伸びている。
空白は、空虚ではない。
そこには、種がある。
芽は、ゆっくりと、光に向かっていた。




