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作者: あい太郎


 その市民プールは、今年から夜間営業を始めた。

 ライトアップされた水面、照明の反射で青白く浮かぶ人工の楽園。

 「大人のナイト・プール」なんて謳い文句だが、実際には学生や若者が多く、ビール片手に浮き輪で遊ぶグループばかりだった。


 僕はそんな騒がしさから離れたくて、裏手の静かなエリアで一人泳いでいた。

 流れるプールの終端。水音と照明のざわめきだけが支配する、人気のない一角。


 そのときだった。


 「こんばんは」


 不意に女の声がした。振り返ると、そこに誰かが立っていた。


 ビキニ姿の女だった。

 年齢は僕と同じくらいか、少し上かもしれない。褐色の肌に黒髪が濡れて張りつき、まるで夜の水そのもののような気配をまとう。


 「……こんばんは」


 僕は戸惑いながらも挨拶を返した。


 「一人で泳いでたの? 珍しいね」


 女はするりと水に入った。音も立てず、まるで水が彼女を歓迎しているようだった。


 「名前、聞いてもいい?」


 「ええと……橘です。あなたは?」


 「名乗っても、忘れるでしょ?」


 女は笑った。でもその笑みは目に届いていなかった。


 「今日は……静かね」


 「ええ、この時間帯はいつも人が少ないです」


 「あなた、よく来るの?」


 「仕事帰りに……まあ、気が向いたときに」


 「ふうん」


 それ以上、会話は続かなかった。女はそのままプールの中を漂い、僕は気まずくなって上がろうとした。


 すると彼女が言った。


 「ねえ、見た?」


 「え?」


 「ニュース。昨日の殺人事件」


 「……いえ、見てないです」


 「首を切られて、殺されたんだって。女の人。郊外の団地で」


 唐突だった。僕は思わず距離を取った。


 「なんでも、犯人はまだ捕まってないんだって」


 女の口調は、妙に楽しそうだった。

 水の中で、彼女の動きはまるで人魚のように滑らかで、だがどこかおかしかった。


 「知ってる? 人間ってね、水の中で簡単に殺せるのよ」


 「……?」


 「首を絞めたり、押し込んだりしなくても。ねじれたら、簡単に気管がつぶれるの。とくに驚いて息を吸ったときなんて、最高に脆い」


 僕は笑ってごまかそうとしたが、声がうまく出なかった。


 「ごめんね。変な話しちゃった」


 女は僕の方に、ゆっくりと近づいてきた。


 「でも、聞いてほしかったの」


 「な、なんで……」


 「だって、あなた、最初から一人だったから。ね?」


 それは──どういう意味だった?


 「あなた、一人で来たでしょ。荷物も、更衣室も、誰にも見られてない。誰も、あなたがここに来たって、知らない」


 心臓がドクンと跳ねた。


 彼女はすでに目の前だった。目が合う。笑っていない。瞳孔が開いている。


 「やめ──」


 その瞬間、水の中から、腕が飛んできた。


 僕は水中に引きずり込まれた。冷たくて、苦しくて、彼女の顔が揺れて見えた。


 押さえつけられる。蹴っても、掴んでも、びくともしない。


 何より、彼女は一言も発しない。ただ、沈めようとする。


 ──誰か、見てるはずだ。

 ──ライトがある。スタッフがいる。客だって──


 そのとき、僕は一つ気づいてしまった。


 ここは、監視カメラの死角だった。


 裏手のこのエリアには監視員も巡回しない。プールを囲む柵の向こうには道路が走っているが、ここまで視線は届かない。


 この場所は、完全な「無音地帯」だったのだ。


 彼女は、水中でにやりと笑った。


 ──助からない。


 肺が焼けるように苦しい。視界が暗く、遠くなる。

 思考が鈍り、四肢が力を失う。

 その瞬間、頭の中で誰かが囁いた。


 「ここで死んでも、誰にも見つけてもらえない」



 目が覚めたのは、病院だった。


 僕は奇跡的に一命をとりとめたらしい。

 通報したのは、プールの裏手を歩いていた男性客で、夜風に当たろうと移動したらしい。彼が僕の溺れているのを見つけて、非常ボタンを押したという。


 女は──いなかった。


 「そんな女性、いませんでしたよ」と、スタッフは言った。

 「監視カメラにも映ってないんです」


 だが、僕は見た。確かに、あの目を。あの顔を。



 一週間後。

 テレビで流れるニュースに、僕は凍りついた。


 「連続殺人事件の容疑者、ついに逮捕」

 画面には、逮捕される若い女の姿があった。

 濡れた黒髪、無表情な横顔。褐色の肌。


 ──彼女だった。


 場所は遠く離れた県外。

 彼女が逃走中に別人になりすまし、何日も潜伏していたと報じられていた。


 水の中で、あれほど動けたのも。

 沈める力が異常だったのも。


 理由はただ一つ。

 ──あの女は、何人も殺してきた、“本物”だったのだ。



 それ以来、僕はプールに行けなくなった。

 水の中でふいに、あの女の顔が浮かぶからだ。


 どこかで、まだ誰かが、

 静かな場所で、殺せる相手を探している──そんな気がしてならない。

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