黄昏の柱
かつて、世界には七本の「柱」があった。
それは天地を繋ぎ、鬼と人の境を保つ“楔”であり、同時に、最も残酷な選択を迫る装置でもあった。
選ばれし者――“器”となった者は、柱の前で「名」を選ばされる。
人の名か、鬼の名か。
どちらかを選び、どちらかを捨てることでしか、生き残ることはできない。
これは、
かつて一度“鬼”となり、
それでもなお“人として在りたい”と願った少女・椿の物語。
過去の罪と忘却、
仲間との絆と裏切り、
七つの柱を巡る旅の果てに、彼女が手にするものは――希望か、破滅か。
誰かを守るために、誰かを差し出した日。
その痛みを胸に、少女はもう一度、名を選ぶ。
「鬼になった同士」
選ばれた彼らが辿る、再生と決断の幻想譚。
どうか、最後まで見届けてください。
黄昏の柱(前編)
「柱のある場所は、夕陽が沈まぬと言われる地だ」
鋼次がそう言ったのは、道中、山を越える最中だった。
風は吹かず、木々も囁かない。まるで時間そのものが止まったかのような土地に、椿は足を踏み入れていた。
「それは……赤月が満ちているせい?」
「……いや、“柱”の力だ」
蓮の答えは短く、冷ややかだった。
彼はすでに何かを知っているようだった。椿はその横顔から、声をかけるタイミングを失う。
三人は言葉少なに進み、やがて“それ”が見えた。
黄昏の柱――
それは、空を裂くように聳え立つ、一本の“石”だった。
だが石にしては柔らかく、どこか呼吸しているようでもあった。
周囲に生える木々は枯れ果て、根だけが地を這っていた。
鳥の声も、虫の気配もない。
世界がそこだけ“終わっている”。
「これが……柱……?」
椿がそう呟くと、蓮が剣の柄に手を添えた。
その瞬間、柱の根元がぐらりと揺れ、音もなく何かが現れた。
「――鬼か」
鋼次が呟いた。
だが、その鬼は動かなかった。
それは人の姿をしていた。
女だった。白い装束。仮面。まるで人形のように微動だにせず、目も口も動いていない。
椿がその女に近づこうとした時、蓮が鋭く止めた。
「やめろ、あれは“柱喰らい”だ」
「柱喰らい……?」
「柱を守る鬼……いや、柱そのものと一体化した存在だ」
鋼次の声も低くなっていた。
「普通の鬼とは違う。理性も言葉もある。――だが、お前の“記憶”を喰う」
椿は足を止めた。
だが、その瞬間にはもう遅かった。
仮面の女が、音もなく顔を上げたのだ。
目が、椿を見た。
「来たか、“器”よ」
その言葉が、椿の内側にずしりと響いた。
「……なぜ、それを?」
「柱は見ていた。お前が“選ばれる”瞬間を」
蓮と鋼次が同時に剣を抜くが、仮面の女は動じない。
「ここから先は、彼女一人で進むしかない」
「何を――」
「彼女にしか“名”は選べぬ。柱は、それを待っているのだ」
椿は、心臓を強く握られたような痛みに襲われた。
「名……?」
仮面の女は微笑んだ。
「思い出せ、椿。お前がかつて、何者だったか――そして、何者になろうとするのかを」
視界が揺れた。
空が赤に染まり、時間が歪んでいく。
蓮と鋼次の声も、遠ざかっていく。
そして椿は、ひとり、黄昏の柱の“内部”へと踏み出した。
⸻
黄昏の柱(後編)
暗い――
だがそれは闇ではなく、“思い出の濃さ”だった。
椿の足が触れるたび、地面に無数の“過去”が浮かび上がる。
それは彼女が生きたものではなかった。
生きたはずだったもの。
もし別の選択をしていたなら辿り着いた、幾千の未来だった。
〈鬼として仲間を殺めた椿〉
〈人として死に、名を遺した椿〉
〈蓮に斬られ、鋼次に祈られ、忘れられた椿〉
記憶の柱がそれを見せつける。
「これが……私の“可能性”……?」
空間が螺旋に歪む。
一歩進むごとに、椿の記憶が剥がれていく。
蓮の笑み。
鋼次の手の温もり。
それすらも消えかけていた。
「――忘れたくない!」
叫びとともに、光が走った。
彼女の前に、仮面の女が現れる。
「その声が、“名”を選ぶ鍵となる」
女が指を鳴らすと、空に文字が浮かんだ。
《椿》
《無名》
《鬼椿》
《ヒトナシ》
《赤月ノ子》
《七柱ノ器》
そして――《ユエ》
それは椿自身が知らない名だった。
「それぞれの名には意味がある。選べば、お前はその“型”になる。
椿としての生を捨てるか、あるいは“誰にもならず”に抗うか」
椿は、ふと母の幻を見た。
炎に呑まれながら、名を呼んでいた母の姿。
「お前には、もう“生”は残っていない。選んだ時点で、お前は新しい存在になる」
仮面の女が手を伸ばした。
白い指先が、椿の胸元に触れる。
そのとき――
「触るなッ!」
声とともに、斬撃が走った。
鋼次が柱の奥へ突入してきた。
その肩には、血を流した蓮がいる。
「てめぇ、何が“選べ”だ。こいつはこいつのままで、十分だろうが……!」
「……来てくれたの?」
椿の声が震える。
鋼次はいつものように笑って見せた。
「お前が“選ばない”って言うなら、その選択を守る。
たとえ世界中の柱が壊れてもな!」
蓮が息を荒げながら、立ち上がった。
「椿。お前が“自分”の名を名乗れ。誰にも与えられず、誰にも奪われず……
お前が、お前を選べ!」
椿の中に、光が差した。
選ぶ、ではない。
“名乗る”――
私は、椿。
それ以上でも、それ以下でもない。
椿が両手を広げた瞬間、すべての名が砕け散った。
空に浮かぶ楔は、音もなく溶けていく。
「私は、椿。
誰にも染まらない、私の名だ」
仮面の女が、初めて微笑んだ。
「……そうか。ならば柱もまた、“砕ける”しかあるまい」
次の瞬間、空間が激しく崩れた。
柱が軋み、根本から裂ける。
鬼の声。人の呻き。幾千の名が叫びながら、消えていく。
椿は一歩も動かず、ただその崩壊を見つめた。
その背に、蓮と鋼次が並んで立っていた。
柱が砕け、空に“夜”が戻った。
──黄昏が終わり、真の夜が来る。
「これが……一つ目、なんだね」
椿の声に、誰も何も返さなかった。
けれどその静けさが、彼女にとっては救いだった。
彼女はもう、ひとりではなかった。
⸻
次
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
『鬼になった同士』は、
「選択」と「赦し」――
この二つのテーマを核に描いた物語です。
過去に犯した罪を“忘れる”ことで生き延びた少女・椿が、
再びその罪と向き合い、“自分自身の名”を名乗る。
それは、ただ生きるための戦いではなく、
“どう生きるか”を問う旅でもありました。
柱を巡る旅の中で、
鬼であること、人であること、その境界が曖昧になっていく世界で、
それでも「自分で在ろう」とする彼女の姿が、
読んでくださった方の心に、何かを残せたなら嬉しい限りです。
物語は一つの節目を迎えましたが、
椿・鋼次・蓮たちの旅は、まだ続きます。
彼らが最後に選ぶ“終わり”が、どうか皆様の記憶に刻まれますように。
また次の物語でお会いできることを、心から願っています。
――作者