第九十二章 音がやまぬその先へ
東京湾岸。
風は静かだった。けれど、誰もが心に音を聴いていた。
披露式典から数日が経ち、「SoundGarden」は正式に開園した。
一歩踏み入れると、人々は思いがけない“音の記憶”に出会う。
歩みとともに変わる旋律。
重ねられた過去の風景。
訪れた者たちは、都市の奥底に眠る記憶と対話していた。
それは建築が初めて“聴かれた”瞬間だった。
司郎は、開園翌朝の園内を、無言で歩いていた。
どこか満ち足りて、けれど次を見据える顔。
あやのは、その数歩後ろでそっと彼を見ていた。
足音も立てず、風のように。
彼女の髪はすでに腰に届き、淡く光る真珠色が朝の光に揺れていた。
梶原は中央広場のスピーカーに触れ、微細な共振を確かめていた。
その顔は、建物そのものと語り合っているようだった。
「これで一応の“完成”だな」
と、司郎がぽつりと言った。
誰にということもなく。
「でも、音は止まらないんだな」
と、あやのが静かに答えた。
風が吹き抜け、スピーカーのひとつがわずかに歌う。
彼らの創ったこの空間は、都市と人と過去と未来を、確かに響かせ始めていた。
ヘイリーはすでに帰国していたが、ニューヨークから新たなプロジェクトの打診が届いていた。
そして南米からは、「音の祭りを建築で包みたい」という誘い。
ヨーロッパの歴史的遺構を“音のアーカイブ”として蘇らせる国際チームも、司郎デザインに参加を要請してきていた。
世界が、「音を聴く建築」に耳を傾け始めていたのだ。
その夜、「出るビル」の屋上にて。
あやのはひとり星を見上げていた。
静かに、空気の底から音が立ちのぼる。
世界が、新たな調律を始めていた。
彼女は知っている。
この響きは、どこへでも行ける。
過去へも、未来へも。
音は橋であり、建築はその舟であると。
背後で扉が開き、司郎が顔を覗かせた。
「おーい。そろそろパスポート出しときなさいよ」
あやのは笑わず、ただ頷いた。
遠く、まだ見ぬ音を聴きながら。
風が吹き抜ける。
それは、新たな世界からの呼び声だった。




