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星眼の魔女  作者: しろ
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第八章(続) 沈黙の中の設計図

一夜明けて、建物の空気に、少しずつ自分の体温が馴染んでいくのを、あやのは感じていた。


階段はきしみ、天井は低く、窓は割れていた。

にもかかわらず、どこかに息吹があった。

それは人の声ではない。図面の端から漂ってくる微細な気配。鉛筆が走る音、定規が紙を押さえるときの重み、換気扇のリズム。

ここでは、道具そのものが呼吸していた。


司郎正臣は、口数が少なかった。


「おい、そこの紙、濡らすんじゃないよ」

「メシは十一時半に作るの。それまで口に入れるな」

「そこの墨壺、アタシのだ。触るな」


命令でも説教でもない。

彼の言葉は、石のように落ちて、ただそこに転がった。

しかし不思議なことに、それが嫌ではなかった。

むしろ、そこにこそ「あやのの居場所」があるようにさえ感じられた。


昼前、厨房代わりの小部屋にあやのが入ると、司郎がフライパンを握っていた。


火力は高すぎ、野菜の切り方は乱暴、盛り付けも無造作――なのに、そこには確かな「手」があった。

料理に詳しくない人間が作るには、妙に筋の通った雑さだった。


「あんた、包丁使えるの?」


司郎がふと問いかける。


あやのは、うなずいて黙って立ち位置を変えた。

司郎は邪魔だとも手伝えとも言わなかった。

ただ、横にいた。


まな板に音が返ってくる。

野菜の繊維を断つ音、火に油が跳ねる音。

そのなかに、ほんの短い沈黙が混じる。


「…名前は?」


あやのは手を止めずに答えた。


「真木あやの」


「ふうん。ふざけた名前ね。男か女かもわかりゃしない」


「よく言われます」


その言葉に、司郎は鼻を鳴らして、冷蔵庫の扉を足で閉めた。


「気に入った。好きにしな。食いたきゃ食う、寝たきゃ寝る、帰りたきゃ帰れ。

ただし仕事の手は抜くな。それだけ守りゃ、ここは天国よ」


そしてその言葉どおり、司郎はあやのに何も聞かなかった。

年齢も、素性も、過去も。

それが逆に、あやのの心をほどいていった。


その夜、寝床がわりに与えられた図面室の片隅で、あやのはようやく深く眠った。


夢を見なかった。


遠野でも、函館でも、いつも夜には誰かが追ってきた。

だがこの夜だけは、何も来なかった。

世界が、自分を静かに放っておいてくれた。


それがどれほどありがたいことか、あやのは初めて知った。

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