第八十六章 風の通路、響きの庭
海風が吹きぬける東京湾岸。かつて倉庫だった一角に、仮設ながらも美しい回廊が姿を見せていた。
建築というより、巨大な楽器のようだった。
天井の高さを変え、材質ごとに異なる反響を持たせた「音の通路」。
床には細かい傾斜が施され、人が歩くと、音が生まれ、回廊内を導かれていく。
プレオープン当日。
司郎は紺色の作業着姿のまま、肩にハンマーを担ぎながら来場者を見回していた。
あやのとヘイリーは、入口の「調律ゲート」の前で最終確認をしている。
「このゲートを通ると、靴裏に小さなICチップが貼られる。足音が個別の“楽器”になるの」
ヘイリーが微笑む。
「……でもその楽器を、演奏してるって本人たちは気づかないまま、通り過ぎていく」
あやのの目がきらりと輝く。
「いいじゃない。都市が演奏する音楽。街が目を覚ますのよ」
開場と同時に、都庁の関係者や建築業界の専門家、一般の親子連れなど、さまざまな人が「音の回廊」に足を踏み入れていった。
──歩く音、走る音、立ち止まる音、囁き声。
天井の木のスリットに反響して、旋律が生まれる。
誰かが立ち止まると、壁面のレゾナンスボードが震え、遠く離れた別の区画に微かな風鈴のような音が伝わっていく。
「うわ……なにこれ、音がついてくる……!」
子どもの声が響く。
「空間と音が一体になってる……こんなの初めてだ」
関係者の建築家が驚いたように呟く。
司郎は腕を組んでその様子を見つめながら、口元に笑みを浮かべた。
「この程度は前菜だ。本番はまだだぞ」
そのとき。
ヘイリーがサックスを手に取り、あやのがそっと口ずさみ始めた。
回廊内の全音響センサーが起動する。
──即興セッションが始まった。
あやのの声が風とともに回廊をめぐり、ヘイリーのサックスが空間の反響を裂いて飛ぶ。
即座にフィードバックされた音が、壁のレゾナンスに反応して、別の旋律をつくる。
建築が演奏に参加していた。
それは、都市が奏でる即興の交響曲だった。
会場の外、少し離れたベンチにひとりの男が腰かけていた。
甲斐大和。白いシャツの袖をまくり、サングラス越しに回廊の中の様子を見つめていた。
「また……変なもんを作ってるな、あいつは」
ぼそりと呟きながら、微笑を浮かべた。




