第八十五章 響きの迷路、都市の鼓動
東京湾岸、再開発エリア仮囲い内。
朝霧が立ちこめる中、真木あやのは硬質のスケッチブックを開いていた。風の流れに色鉛筆を走らせて音の動線を描いていく。
梶原が現場で職人たちに指示を出しながら近づいてくる。
「“音が回る導線”って、つまり風と人の流れを同時に読まなきゃならない。……これは難易度高いぞ」
「だからこそ、やる意味があるのです」
あやのが笑った。
現場に到着した司郎は、設計模型を抱えてきていた。
それは回廊状の構造が幾層にもねじれ、途中に「音の小部屋」が点在する、不思議な構成だった。
「この“音室”は、特定の周波数で共鳴するようになってる。歩くと、足音が部屋を“演奏”する。外からじゃわからない仕掛けだ」
ヘイリーがスマホを取り出し、あやののハミング音源と環境収音を重ね合わせたものを再生する。
──波音に重なるささやき、通り過ぎる風音に包まれる旋律。
「この構造が完成したら、あの音源がリアルタイムで再現されるってこと?」
「いや、それ以上だ」
司郎が断言した。
「建築そのものが演奏者になる。利用者がそれに無自覚なまま、音と空間に参加する。これが“都市の交響曲”だ」
澤井教授も現場に到着し、硬い表情で図面を見ながら一言。
「この回廊が完成すれば、世界の建築音響史に一石を投じることになる。……本当にやるつもりか?」
司郎は答えず、あやのとヘイリーに目配せする。
二人は無言でうなずいた。
「やるわよ教授。世界中の音が、ここで目を覚ますの」
設計図面が最終段階へと進む中、「出る事務所」では徹夜が続いた。
あやのが新たな旋律をキーボードで起こし、ヘイリーが即興演奏を音源に差し込む。
梶原は風洞シミュレーションを繰り返し、司郎は全体の構造バランスをチェックし続ける。
やがて模型の中で「音の小部屋」同士がつながり、ひとつの音の回廊ネットワークが生まれる。
──“歩くことでしか聴こえない音楽”。
それが、SoundGardenの中核を成す構想だった。




